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十字架

2022年2月 6日 (日)

負い目のある者

ローマ 1章14節   2017新改訳

私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。

このローマ書1章14節の意味は、一見難解である。どうしてパウロが負い目を負わなければならないのだろうか。

 ここで用いられている「負い目」という言葉は先の第三版では「返さなければならない負債を負って」とある。この方がKJBのdebt(返さなければならない借金)に近い訳語では無いかと思う。つまりパウロにとってローマで福音を語ることは、神への返済義務を負っている借金の一つなのだ。
 そのような視点で見て行くならば、これは一人パウロだけでなく、福音に与って恵みを得たすべての者は、キリストへの返済義務を負っていることになる。神はその命をもって私たちの罪をあがなってくださり、そしてその贖いの十字架を信じて罪赦され、救われたのが私たちである。いわば私たちは神に買い戻された僕なのだ。
 例えば戦いに負け、降伏したならば捕虜となる。昔の捕虜はその場で殺されるか、奴隷になるか、あるいは次の戦いの最前線に出されて、死ぬまで戦わなければならない。事実日本軍は捕虜になるより、自決を求めていた。キリストの捕虜となったあなたが、高潔な精神で教会での奉仕を行っていると、もし自分を見るならば、それは勘違いである。あなたは十字架によって代価を払って買い取られた存在なのだ。言わば神にその命をもって仕えるために、その命を用いなければならない。したがって奉仕をするのは、滅びから生かされて、返済義務を果たしているという、その当然のことをしているだけなのだ。

 神は人間を滅びから救って永遠のいのちを与えようと、我が子キリストを世に贈ってくださった。(ヨハネ3:16)このキリストを信じる者は、肉の自分は死に、神の宮が内にあり、もはや神によって生きている。神によって生きる者は神の御心を行うはずで、それがここで言う「返済義務」であり「負い目」であるのだ。パウロはローマ人に対して、福音を語り義務を果たしたいと願っていることがよく分かる。
 ではパウロだけでなく、同じように死んだ状態からいのちを救われた私たちは、受けた恵みの返済義務をきちんと果たしているのだろうか?それを土の中に埋めたり、そうでなくても、無償で高潔な奉仕をしているかのような誤った認識に陥っていたりしてはいないだろうか。

2022年1月16日 (日)

御霊のからだのリアル

Ⅰコリント15章44節   2017新改訳

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

 土で造られた私たちの祖先であるアダムは罪を犯したため、私たちの体は、土に還るものとなりました。もしも罪を犯さなかったなら、彼らは永遠に生き、私たちも存在していなかったことでしょう。しかし測り知れぬ神の予知と計画によって、今日の私たちになったのです。

 今から2千年前、罪のない方が世に現れ、神であるわざとしるしと言葉を残され、罪を赦すための十字架で死なれました。驚くべき事に、その方は御霊の体で復活されたのです。御霊のからだとは、単に霊的な存在ではなく、超物質的な存在です。壁を通り抜け、どんな所にも瞬時に移動でき、飢えも渇きも無いだけでなく、永遠で朽ちることはありません。御霊のからだはその霊と同体であり、個性と自主性を維持しつつ、神の子として神のみこころを行ない続ける存在なのです。

 十字架の神の御子を信じたなら、罪が赦されて聖霊の内住が可能になります。さらに自分に死んで神のものとなるなら、聖霊が支配される存在、いわば天が降り立った者となります。キリストの初穂のからだと同じように、キリストにあって死んだ者が、時が来た時にキリストと同様、御霊の体にしてよみがえるのです。しかし時が来た時、神のご意志の実行役に用いてくださるがこの1コリント15章44節で語られている御霊のからだです。

 このことは、次のことを暗示します。土で造られた者は土の性質を現し、天に属する者は、天の性質を現すと言うことです。クリスチャンと称していても、いつまでも土の性質であるこの世の欲望や不安や恐れに支配されていては、御霊のからだになれる保証はありません。
 つまり、種は死ななければ発芽せず、多くの身を結ばないように、自分に死ななければ新生しないのです。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます ヨハネⅠ2:24
血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちる者は朽ちないものを相続できません。Ⅰコリ15:50

 血肉のからだで蒔かれたものは、地上だけのもので、卑しく朽ちて行く弱い存在です。天上のからだとは朽ちることなく、強く、永遠に栄光ある存在です。そのような人は、自分の命をこの世でどのように使うのか、神からの召しを受けています。それゆえ天への喜びがが満ち溢れており、自分を偽り隠すことがないのです。

2021年8月 1日 (日)

その血によって

黙示録 1章5節   2017新改訳

また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち

 愛することは、愛されることよりも大きな喜びがある。しかし愛されることに欠乏を感じて育った人にとって、生涯「愛される」ことを求め続けます。しかしそれは、来受けるべき相手であった親から受けるべき時期を逸しており、その親だって愛を受けずに親になっている事が多く、実際には受けることがほとんど不可能です。よく結婚する相手に求めようとするのですが、それもイコールパートナ-の点から無理なのです。離婚って、だいたいそんな理由から生じています。

 話を戻しまして、レビ記17章14節に「すべての肉のいのちは、その血そのもの』とあり、これを元に輸血を拒否する自称キリスト教の人々がいます。しかしこれは罪の贖いに動物の血をもってするメシア以前の不十分なものでした。ヘブル書10章10節には、「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされ」とあり、もはや血の犠牲は不要です。
ですから旧約の「血」の理解に基づく輸血拒否の見解は、キリストの神性を否定する十字架の理解から来る誤りであることが分かります。
 さて、キリストが十字架の上で流された血潮は、私たちの罪を赦し、解放するものです。神の愛はこの十字架の贖いの血に最も端的に表れています。それゆえ自分の罪を真に知らされた者は、十字架を愛しますし、その血を我が事、私のためであることがわかります。ですからこの罪の赦しを得させるキリストの血は、どんなに慕わしく麗しいものでしょうか。永遠のいのちそのものであり、神がそのいのちを持ってあがなってくださった恵みです。ですからそれを受けた私たちも、自分の命をもって神を愛し、捧げるのは当然ではないでしょうか。私たちは神が十字架の血潮を持って買い取られたのですから、もはや神のものです。別に聖書にあるように命令されなくても、私たち神を愛する者は、兄弟姉妹を自然に、心から愛します。その愛で教会は満ちるのです。

 もし教会の中で愛のない行動を、たとえば兄弟姉妹を妬んだり、陰口をたたいたり、中傷したりするならば、冒頭で述べましたように、たとえバプテスマを受けていようと、その人は肉の人であって、冒頭に述べたように人の愛を求め続けてさまよっている人であって、奉仕し、愛する教会にあって、自分の肉のためにただ奪って得ようとし、人を躓かせようとサタンに用いられているのです。
 私は信じますが、そのような人も自分の真の罪が分かり、悔い改めれば、親から得られなかった愛を、キリストの中に無尽蔵に受けて癒やされ、変えられるのです。絶望した自分からキリストの愛に触れるならば、個人的な奇跡が起こるのです。神に触れられること、そして聖霊のバプテスマを受け、一新されるのです。神は愛する者を必ず試練や困難を通して訓練されます。ハレルヤ、その人は根本から変えられます。ですから試練や困難が来たら喜んでください。

2020年10月18日 (日)

血の契約

✝ ヘブル 9章12節    【新改訳2017】

また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の願いを成し遂げられました。

 本日の題は、これまでの神殿で罪の贖いとしての動物の犠牲ではなく、新たにキリストが「ご自分の血によって(つまり十字架によって)罪の贖いを成し遂げられた」というへブル9章12節からとっている。しかもキリストの罪を贖う犠牲は一度だけで完全であり、永遠のものであることが述べられている。

 世界と人間を造られた聖なる神ご自身が、その造られた被造物に過ぎない肉なる人間のために、神が肉の形となって人間の一切の罪を引き受けられ、清算された、これに何の不足があるだろうか?たとえ人が何億兆人居ようとも、キリストの犠牲からはおつりの山が出ることだろう。神の愛はイエス・キリストを通して完成している。これを信じる者は確実に救われるのだ。

 ところでこの恵みを「信じる」と言うことをみても、言葉は一つであっても本当に信じるまでの信じ方は実に濃淡(グラディエーション)があることに気づく。
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ロマ 10:9)
聖書に「信じるなら救われる」とこのようにあるのだが、どのように心で信じている程度は、外部の人には窺い知れない。あるいは当人自身にすら測り知れない面もあるだろう。ただ神だけがご存知である。

 「縁無き衆生は度し難し」と言う仏教の言葉があるが、自分の罪を自覚できない人は、神の選びからは遠いと言える。救われなければならない自分の罪に気づくことが、十字架の第一歩だ。自分の永遠のいのちを救うために神を信じながら、自分自身に死ななければならない、これが「自分を捨て」とキリストが私たちに説いた神の言葉である。神を真に信じた人には、聖霊によって揺るがされない「確信」が与えられる。信じた喜びが溢れ、主日礼拝を欠かさないだろうし、情緒面も肯定的に積極的になる。
 また良心が咎められて、父のみこころを損なうことに痛みが生じるのも特徴だ。また神の子として天への確信を堅く握っている、これらが本当に信じている「血の契約」の「実」であって、さらに聖霊のバプテスマを受ける土台でもある。

2020年8月23日 (日)

キリストのために生きる

Ⅱコリ 5章15節   新改約2017

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

 1863年、南北戦争の最大の激戦地ゲティスバーグで、信仰者でもあったリンカーンはこの戦いが、平等の理念を問うた尊い犠牲であったことを強調し、有名な「人民の、人民による、人民のための政治」を演説しました。この思想は現日本国憲法にも生かされています。そして今私は示されて、「キリストの、キリストによる、キリストのためのいのちと教会」を目指す教会の目標として掲げたいと思います。すべての人のために死んでくださったキリスト、キリストの十字架によって与えられた新しいいのち、それは神の栄光とそのみ体である教会のためにのみ用いられるべきものであると信じるからです。

 イエス・キリストを信じた者は、自分の体がすでに自分のものではなく、神のものとなっています。なぜなら聖書1コリ3:16や2コリ6:16で明らかなように、私たちの体は十字架によって贖われ、買い取られているからです。しかし私たちの霊・たましい・心はそうではありません。これは私たち自身のものです。そうでなければ神を主と告白する信仰に何の意味があり、審きがどうしてあるのでしょうか。

 霊・たましいが自分のものであれば、私たちはどうすれば良いのでしょうか。与えられたその意思を持って、神に自分を捧げること、み心を行いたいと願い祈ることですが、最も大切なことはそれらが神を愛する心から発していることです。主イエスは言われました。
「第一の戒めは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(マルコ12:30)でしたし、「兄弟たち、あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。・・・中略・・・愛を持って互いに仕え合いなさい」(ガラ5:13)

 そこで私たちは最初に述べた「キリストの、キリストによる、キリストのためのいのちと教会」を具体化するために、より一層神を愛して、そのすべてが神によって推し進められるよう祈って参りましょう。神に不可能はないのです。

2020年2月 9日 (日)

十字架を負う

✝ルカ 14章28・33節   【新改訳2017】
あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。
そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。

 ルカ14章28-33節は、塔を建てるのにあらかじめ費用を計算しないで基礎だけで終わる愚を説いています。またどんな王でも、国の命がかかっている他の王と戦いの前に、勝敗を決する彼我の兵力を計算せずにはいられません。そのような「計算し見通す」ことを言いながら、引き続いて「そういうわけで」と「自分の財産すべてを捨てなければ(中略)弟子になることはできない」となるのか、理解がすんなりとできるところではありません。

 大事なことは聖書の前後と文脈を捉えることです。するとこの前節(25−27)では、ご自身に付き従っている大勢の群衆への警告がされています。なぜなら、イエスに従っている人々は全く別のメシア像を描き、現世の栄光と利を求めている人々だったからです。彼らの多くが望んでいたのは、驚くべきイエスの神の力をもってローマから自分たちを解放してくれるメシアでした。そのような栄光のメシアでなく、自分は受難のメシアであること、それはこの世のすべてを、命さえも捧げて従う道でした。そこを勘違いしないようにと警告されたのでした。

 つまり、それに引き続くこの箇所は、「キリストの受難と共にする弟子たる決心あり覚悟がありますか?」という問いかけになり、その上で、その決心をするならば、「自分の財産すべてを捨てなさい、そうでなければ無理です」と語られていることになります。

 しかしこれに引き続いての塩の話(34−35)は、当然この延長です。塩をクリスチャンと捉えるのが一般的かもしれませんが、私はクリスチャンの中でも「召し」を受けた人・・・つまり、牧師とかそのような指導的な立場の方のことであると私は理解します。全てのクリスチャンがここで語られているような、弟子的な信仰を持っているわけではありません。しかし神から召しを受けた献身者は別です。そのような献身者がその召しを失ったら、どうなるか、役に立たず、ただ投げ捨てられる存在になるだけなのです。そうならないように、召しは神によって十分に準備され、整えられて与えられることを私は知っています。神の導きは時にかなって最善なのです。人間的な思いを断ち切って、完全に全てを委ねて従い切りましょう。

2016年12月18日 (日)

復活

使徒の働き 17章31節
なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。
古今東西の宗教で、教祖があまりにも残酷な公開処刑である十字架で死に、しかも三日目によみがえった・・・なんてものはありません。またキリスト教を特徴づけるものに奇蹟があります。湖の上を歩き、嵐を沈め、あらゆる病を癒やし、死人を何人も生き返らせるなどです。旧約時代にも奇蹟はありましたが、新約のイエスとその弟子たちほど、わずかな時間、広範囲にたくさんの奇蹟を現されたことはありません。
 
 少し前のクリスチャン映画三部作では、「復活(原題Risen)」がありました。日本語では「復活」ですが、英語ではRisen=よみがえったとResurrection=(教義的なキリストの)復活の違いを使い分けています。映画ではローマ百人隊長クラヴィアスが、部下の不始末を受け、遺体となっているはずのキリストを徹底捜索の結果、生きているキリストに出会うことになります。この段階では彼はよみがえったことの証人ですので、原題がRisenであるわけです。しかしこのrisenは生き返っただけで、いつかは死にます。Resurrectionとなると永遠に不死であり、さらに新しい肉体をも伴っているのです。
 
 よみがえりから復活へと。実はこれが異邦人には最も信じがたいところです。聖書のこの箇所では知性を代表するアテネ人は、復活の話になると使徒17:32「あざ笑い」、また「またいつか聞くことに」と相手にしなくなったとあります。これは今の日本人にも全く当てはまることで、十字架ならまだしも、復活を聞くと心の中では「あざ笑う」者が続出することでしょう。
しかし常識有る人々が到底信じられない復活なかりせば、キリスト教信仰は空しいのです。十字架の罪の赦しは、復活のためです。死後、霊魂の不滅、天国と地獄を説く宗教はあまたあっても、その体がさらに良いものによみがえり、天の国において永遠に生き続けるなどと説く宗教は世界で唯一、キリスト教だけです。到底信じられないことを全く信じる、これがキリスト教であり、信仰と申します。ペテロの信仰告白を受けられたイエス様が、十字架と復活のことを教え始められたのは当然のことです。付け加えてですが、このことは代々の聖徒の信仰告白「使徒信条」にはっきりと述べられています。
 クリスチャンであっても、復活の信仰が単に知識として留まっており、確信がないというか現実感のない方が多いと思われます。そういう方は非常に大切なことですから是非、熱心に祈り求めていただきたいと思います。
 
復活信仰のポイント
①(霊的面)死の恐れから解放してくださり、永遠のいのちを与えられた実証であり、死の恐れを打ち滅ぼしてくださった。天国(天の都エルサレム)に住まう確信を得ること。
②(肉体面)その体は、キリストの復活と同様、御霊の体と呼ばれる、今の血肉の体の制約を超えた別次元の永遠の体である。キリストはこの約束の成就と見本となられた。

2016年6月 5日 (日)

まったき愛

ヨハネ 12章25節
 自分のいのちを愛するものはそれを失い、この世でそのいのちを憎むものはそれを保って、永遠のいのちに至るのです。
 神学校の授業で、ある女子校で「地上で誰か一人でも自分を本当に愛してくれる人がいたらその人は幸せです。しかし孤児院の子どもたちにはいなかったのです」と話したら、涙を出す生徒がいたとのことでした。この日本で、モノは満たされていても、誰からも愛されていない、そのような精神的な孤児の子どもが結構いるのではないかな、と思わさせられました。
 
 しかしまた、逆に過度に依存してしまって、愛してくれる人がこの世を去ってしまった瞬間から、生きていく目標も気力も失ってしまって腑抜けのようになる、そんな方もいるのです。これも真実の愛、まことの愛というものが子どもに伝わっていなかったのではないかと、私は思うのです。ではまことの愛とは、いったいどいういうものでしょうか?。どなたかお答えになってくださるでしょうか。それは、人間には答えることも見せることも難しいものに思えます。しかしここに、私はまことの愛とはどういうものかを、はっきりとお見せできる恵みをいただいております。それは、この世に生まれる前からお一人お一人に注がれていた、永遠の「神の愛」以外にはございません。
 
 職場の人間関係での上司とか同僚のような、避けることや逃げることができない中で、何故か自分を憎悪し続けてくる相手に対し、私たちはどう対処するればよいのでしょうか? 以前「半沢直樹」というテレビドラマで「やられたらやり返す。倍返しだ!」というセリフが流行りました。憎しみを力にしてさらに憎み返し、憎しみを思いっきり相手に叩きつける痛快さがあったようでした。しかしそれは痛快ではない、見ていて背筋がぞっとするようなおそろしいサタンの支配を感じました。いわば相手だけでなく、仕返することが悪霊との契約、その虜になって可能に思えました。
 
 では聖霊に満たされ、新生したクリスチャンであればどうすればよいのでしょうか。憎しみを憎しみで仕返しできたからと言って、いったい何の得があるでしょうか。一番大切な自分自身をサタンに売り渡し、最大の損失、滅びる世界に捨て去ることほど愚かなことではありませんか。聖書のルカ伝ではイエスさまは何度も言っています。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい」と。
 
 ですから私たちがそのような時にするのは、神がこのことを許されたのには必ず大きな最善の計画があるのですから、感謝します。そして憎しみではなく、聖書の通りに、憎んで来る相手を、逆に愛せるように祈ることです。愛は神から来ます。自分がどれほど神に赦されて来たことかを思い出すなら、相手の憎悪を受け入れ許すことぐらい、それほど大したことではないのです。さらに自分の貧弱の愛ではなく、神からの愛をもって、心から相手を愛することができるよう、熱心に祈るようにいたしましょう。御心ですから、神は必ず私たちの心を取り扱ってくださり、憎しみ怒りにではなく、なんと愛の心に変えてくださるのです。

2015年8月30日 (日)

神の和解を受け入れなさい

2コリント 5章20節
 私たちというものは、信じるまでは世の罪にとらわれている奴隷でした。そのことすら、神を信じ、罪から解放されるまではわかりませんでした。それまで普通のことだと思っていた世は、よりすぐれたもの、すぐれた人に価値をつけ、値を払います。誰もが他者よりすぐれた能力を得ようと、我が子を有名私学に入れようとし、競争から競争へと走っています。そのレースに勝てば人はおごり高ぶり、負ければ落ち込むかねたむ世界です。プロ野球でも実社会でも、高い能力を身につけ、成績をあげるならば、そのような優れた人間に対して高い賞賛と報酬が与えられるのは、世の習いです。こうして、他より優れていなければならない、そのような価値観、人間観にとらわれていたのです。  

 ところが一方で人はみな平等であり、その命に貴賤はないとは言われています。しかし平凡な自分しか発見できない人にとって、自分の存在に十分な価値を見出すことができないのではないでしょうか。と言うことは、ほとんどの人が失望の谷底にあえいでいるのがこの世の常なのです。世の人は夢も希望もない・・・・これが世の現実なのでしょう。  罪についても同様なことが言えます。私たちは良心に従って良いことをしたいのですが、それを行う力が私たちにはほとんどありません。律法によれば、このような私たちは誰ひとり例外なく罪に定められ、裁かれる存在です。世とそれに属するものに、夢も希望もなく、ついには皆死によって永遠の裁きに遭うのです。

 本日の聖書箇所、「神の和解を受け入れなさい」の「和解」だけを聞けば、まるで双方が互いに「ごめんなさい」と謝り合うことのように聞こえますが、ここで和解という言葉には、「神が罪人の私たちのために、御子(イエス・キリストは神の子ですから、罪を犯されることはありませんでした)を身代わりにして死に(十字架に)渡されたので、それを信じる者は罪なき者にされるという素晴らしい意味があります。

 十字架によって私たちは罪の縄目から解放され、自由が与えられるのです。例えば少し前、二千円あまり入っていたナナコカードをセブンでなくし、すぐさま使われてしまいました。しかし私たちは千円を公園で見つけても、自分のものにはしませんでした。良心の力は信じる前とあまり変わっていないのですが、行う力が異なっているのです。信じる者には聖霊の神の力が働き、罪の力から解放されているからです。   幟旗を立て、熱心に人々に伝道して町々を回ることも素晴らしいのですが、先ず世と罪とから解放された、その証し人として立てられているのです。神からの和解を受け入れ、大胆に恐れずに、主イエスによる自由と解放、永遠への希望を証ししましょう。

2014年2月16日 (日)

十字架の愛

コリント 1章18節
 金曜日のTV「ごちそうさん」で、地下室にたくわえた闇物資を前に、夫婦で語り合うシーンがありました。
「(闇物資を隠匿する)こんなこと、やったらあかんのでしょうかねえ?ふるまうべきなんですかねえ」と。それに対して夫はこう言います。
「自分の命を捨ててまで、他人を助けようという気持ちがないのにやっても続かないし、もらう人だって、他人の命までもらおうとは思ってないでしょう」と。

 私は十代のころから、似たような究極の選択を考えていました。乗っていた船が難破して、タイタニック号のようにみな海に放り出されました。そして自分一人だけの浮き輪を見つけた時、今にも沈みそうな人を見つけた。自分はその人を助けて自分が死ねるか?という選択です。そしてその答えはいつも、理想などと言ってはいても、本当の自分とは何と浅ましいものかという結論でした。

 しかしこのような一皮むけば自己保存本能そのままの浅ましいというか、本当の人間の姿、こんな人間に対して驚くべき愛が示されました。それは十字架です。このような私たちをあわれんでくださった神は、私たちのために身代わりの犠牲になってくださったのです。
 「誰も頼んでもいないのに・・・・」という声が聞こえるかも知れませんが、天の国は聖いのです。もし今の罪深いままで行ける国があるとすれば、それは間違いなく地獄でしょう。しかしその閉ざされた扉を十字架は開けるのです。なぜなら神が身代わりになってくださったからです。これ以上の身代わりがあるでしょうか?

 考えてもみてください。私たちは神の被造物です。もともとは清く造られたのですが、堕落してしまい、このようになりました。そして自分の力では不可能なのですが、神があわれんでくださり、神と等しい独り子イエス・キリストを身代わりにしてくださいました。これは天皇陛下と一介の国民の差をはるかに超える違いです。私の罪をカバーして十分などころか、ゆうに全人類をカバーしているのです。十字架を信じることで、私の罪が完全に赦されるのです。

「十字架のことばは、滅びに至る人には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。」という聖書の言葉がありますが、昨日までこの意味がよくわかっておりませんでした。なにかこう、「十字架のことば」という深遠な神学があるかのように思っていたのです。しかしみなさん、これは単純に<私の罪のためにキリストが十字架にかかってくださった>という意味なのです。これ以上でも、これ以下でもありません。信じる者には神の力であり、信じない者には無用な、愚かに思えることなのです。
 それでは皆さんで十字架、その恵みを心から感謝しましょう!

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