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聖霊

2022年9月18日 (日)

闇はない

Ⅰヨハネ 1章5節   2017新改訳

私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです

私はいつも失敗した書類を身近に置いています。交通違反した青い反則キップ、仕事で失敗した始末書など。これらを時々見ると、自分の失敗を思い出します。自虐的な趣味からではなく、高慢になり易い自分を改めて認識し、今後同じ過ちを繰り返さ図に済むよう、神に助けを求めて祈っています。その時いつも私は神さまの愛を覚えるのです。こんな私をも神が愛して下さっていることを。
 ところがクリスチャンであっても聖霊の注ぎを受ける前までは、このようではありませんでした。そんなマイナスな書類は即刻処分し、無かったことのようにして忘れることにしていました。つまりマイナスな自分を受け入れられないわけで、これは前向きな姿勢ではありませんでした。実際、そのつけのように、カメラのフラッシュライトを浴びたように、過去の失敗を時々思い出すのでした。
 それが度重なり、始終来るようになると、本当の自分がわからなくなってしまうようです。いわゆる解離性障害の入り口に立つのです。真の自分に目を背けるなら、その偽りはサタンにつけ入れられる闇となります。最近、仕事の関係で「解離性障害」に関心を持っています。「自分を守る」心の働きが、結局、自分自身を最も傷つけてしまう病です。(参:マタイ12:43−45)

 霊的に見るなら、弱く罪深い自分をありのままに受け入れられない心の機制が、悪霊の虜にされてしまう。このことからの解放は、すべての罪を赦す十字架無しに解決は不可能です。人は弱く、罪深いのですが、それをも赦し、愛してくださる存在があって、人ははじめて自分のありのままを受け入れることができるのです。
 父なる神に罪を悔い改めて告白し、赦され続けている者に、闇はありません。神は一切の闇を明るくする光なのです。実際天のエルサレムが降りてくる時、聖所からの光は神であり、そこには夜がありません。ですから真のクリスチャンは光の子であり、闇がないのです。
 一番大切なことは神の愛を知識として知っているのではなく、個人的な実際の体験として知っているかどうかということです。神の愛は私を私と和解させてくれます。守るべき自分は、取るに足りないこと、完全に溶け去ってなくなてしまうからです。自分よりも、もっと大切なものを見つけたからです。
 神様が触れてくださるカリスマ体験以降、頭でっかちクリスチャンだった私は、自分の失敗や不出来さを隠したり、逃げたりすることが無くなりました。こんな愚かな私まで愛して、十字架に架かってくださったイエス様を心から愛します。ですから違反キップを次の新しいものになるまで(笑い)、宝物とはいきませんが、振り返るためにもずっと持っています。隠す闇はないのです。

2022年8月14日 (日)

癒やしとしるしと不思議

✝ 使徒 4章30節  2017新改訳

  また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。

 ペテロとヨハネが留置された夜から教会は二人のことを一晩中祈っていましたので、恐れずに証した報告と祈りを聞くと(31節)「集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した」のでした。二回目のペンテコステのような出来事が起こったのです。
 信者が自分の財産一切を差し出して共有したエルサレム教会の有り様は、このような聖霊に満たしによって起こったのです。聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)は、単に異言が出る表面的な現象を指すのではなく、その人の価値観が救いの恵みと喜びに溢れ、現世的な思考が払拭され、新生していなければ不可能です。御心一番、御霊に生きる者に変えられた姿です。

 このように聖霊の満たしによる<癒やしとしるしと不思議>は福音を大きく前進させます。人間的な伝道の努力をはるかに凌駕する神の働きです。これから始まる終末のリバイバルでは、私たちは「後の雨」として再びこの<癒やしとしるしと不思議>が大規模に現れることを知っています。大勢の人々がこれによって、救われて行くことも分かっています。しかしその時には、導火線のような証し人、信仰者が要るのです。私たちの教会はその使命を負っている教会です。ですから私たちはこの<癒やしとしるしと不思議>を祈り求めるのです。

 ところで<癒やしとしるしと不思議>をオールインワンでもたらす決定打があります。それは<死者のよみがえり>です。聖書には七つのよみがえりが記述されていますが、その中でも使徒ペテロを通しての奇蹟、ドルカスのよみがえりについて触れて参ります。

 七つのよみがえりの中でもペテロが「タビタ、起きなさい」と言葉によってよみがえらせたのは特別です。ペテロはヨッファの信徒たちに「よみがえりの奇蹟」を依頼されて、おそらく神に指示されてドルカスの所に来ました。ドルカスをよみがえらせたペテロは使徒の中でもさらに強められ、直後のコルネリウスとの出来事を通して、異邦人伝道を大きく開く最初の突破口となりました。
 実はこの教会にドルカスという洗礼名の婦人がいますが、聖書のドルカス少し似ているところがあります。ドルカスがペテロを通してよみがえりましたが、実はこのドルカスもペテロと結婚することによって、自分らしい自分に、生きかえったようになったのです。この結婚のために、バルナバのように、すべてを捨てることに躊躇しませんでした。そして見知らぬ地に来て、多少の苦労はしていますが、喜んでおり、後悔をしていません。なにしろ本来の自分に戻れて歩んでいるのですから。このドルカスという洗礼名がもたらされたエピソードや確認事項もあるのですが、それは長くなるので省かせていただきます。考えてみれば、実に大きな私的な奇蹟です。

 

 

 

 

 

 

2022年7月31日 (日)

もう一人の助け主

ヨハネ 14章16節   2017新改訳

そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。

 ヨハネによる福音書は、四つの福音書の中でも特別な福音書です。共観福音書と呼ばれる他の福音書と比べ、最もイエス様に愛され、いつも近かった使徒ヨハネの福音書です。内容も濃密で、中でも13章から17章はヨハネだからこそ理解し、書き留められた主の御心のことば集です。私たちイエス様を愛する者がこれを聞いて、激しく心を揺り動かされないではいられません。

 本日は新しい戒めー「愛し合いなさい」という意味、ぶどうに例えられた実をつけ、実らせる意味、最後に「何でも求めなさい」‥‥この三つの事柄が、実はもう一人の助け主=聖霊を送られることによって一つに融合され、意味がわかるものであることを、解き明かそうとするものです。

 結論から言いますと、十字架によって約束のもう一人の助け主、つまり聖霊様が私たちに来られることが可能になりました。罪の難関が突破されたからです。しかし多くのクリスチャンと称される方は、聖霊様を自分のしもべに貶めています。つまり、「何でも祈り求めてよいのです」を盾に、自分の必要を満たす祈りをしているからです。
 確かに乳飲み児の場合は良いでしょう。しかし少し成長するなら、自分の父や主人に、そんな要求をする子やしもべがいるでしょうか。ただし、御心の祈りであれば、すべて叶えられて行くのは当然です。

 神が私たちを愛してくださったので、私たちは神を「愛する」ようになりました。特に聖霊のバプテスマを受ければ、神の御心を知る者となり、神の愛とあわれみの深い恵みのゆえに、もはや自分は死んで新生し、、ひたすら神の御心を行いたい一心になります。何でも祈り求めて良い、にすでに我が身のことは入りません。「互いに愛し合いなさい」の戒めが、自分という肉の力ではできませんでしたが、聖霊様からの力、愛の注ぎによって変えられて行くのでした。

 このことをイエス様は農夫とぶどうの木、それとぶどうの実にたとえて教えてくださいました。もちろん私たちはぶどうの実です。不可能が可能になった時、神の力を知り、決して幹から離れては何もできないこと、神を崇め、一層の謙遜にされるのです。

2022年6月 5日 (日)

ペンテコステ

使徒 2章1~4節   2017新改訳
 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。  

 ペンテコステは聖霊降臨祭であり、キリスト教会が誕生した日と言われる。イエスが昇天されてこの日までの十日ほど、使徒たちや主だった信者たち120人は一つ心になって、イエスが召天される前に約束された成就を祈っていたはずです。
 実際、別れる前にイエス様は弟子たちに「私が去って行くことは、<《助け主》・《聖霊》が来るので>あなたがたの益になる」と語られていたからです。

 さてこの時の状況を今一度確認しましょう。信仰の力はまだ乏しく、集まってただひたすらこのことを祈っていたはずです。けれども十字架と復活を見た彼らは、罪からきよめられていました。そこに時が来て、凄まじい風と音を伴って聖霊が現れ、一人ひとりの上にとどまったのです。この「このとどまった」と言う言葉に注意しなければなりません。「とどまっ」たのであって、人一人ひとりの意志に従う所有物になったのではありません。聖霊なる神は自由であり、束縛することはできません。とどまられたのであって、サウル王のようにいつか去って行かれるケースも多いのです。

 いずれにしろペンテコステの日、聖霊の注ぎのフラッシュ現象とでもいうようなことが起こった。旧約の預言者や王という特定の人々へにではなく、多くの人に臨まれる新時代が来るという、ヨエルの預言が十字架と復活のみわざによって成就したのです。

 この聖霊の著しい働き、聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)を受けた人々によって、教会ができました。教会とは単に十字架と復活を信じた会衆ではなく、聖霊の満たしを受けた人々の集まりからスタートした、これは教会とはそもそも何かを考える上で非常に重要なことです。
 さて聖霊のバプテスマを受けた時、最初に異言が現れたのですが、異言は諸国の言語であり、その内容は「神の大きなみわざを語る」(使徒2:11)ものでした。ですから異言とは、ただラーラーと繰り返し呟くようなものではなく、異言語であってそれが理解できなかったとしても、神の意思を伝えるメッセージ性を持っていることに注意し、真に神からのものか聞き分けて行きましょう。
 聖霊のバプテスマを受けた人々には威厳よりもっと確かなしるしがありました。それは根本的な価値観が変わった人々であったということです。彼らは自分の財産を売り払うことに躊躇せず、むしろ喜んでしました。一切のものを共有し、日々教会に集って祈りました。なぜでしょうか?それは現世より天にはるかに大きな価値を見出し彼らにとって、この世はふさわしいところではなかったからです。それはイエス様が弟子になりたいと願った人々に対して、例外なく一切のものを捨てて従って来なさいと語られたことと同じです。この世と神の国と両方とも大切ということはありえません。聖霊のバプテスマを真に受けるなら、新生という実が実っているからです。

2021年12月19日 (日)

預言-神から受けて語る

Ⅱペテロ 1章21節   2017新改訳

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。

 神に用いられる人物は必ず大きな試練を受けている。聖書中の偉大な人物は例外なく。アブラハムは75才で行先を知れず旅立ちました。モーセは王族の育ちと身分であったのに、自分こそがイスラエルを救えると高慢さのゆえに、80歳になるまでの40年間、ミディアンの地で雇われ牧者として過ごしました。この希望の無い惨めな逃亡生活こそ、神が与えられた試練です。ダビデもサウル王から理不尽な仕打ちを受け続け、荒野の中、あるいは敵国へと辛い逃亡生活を送りました。パウロに至っては<2コリ11:23-27>にある通りです。
これは徹底的に自我を砕き、肉なき魂に変えられない、ご自分のものとされるためでした。そうでなければ、返って大きな災いに置かれるのです。

 聖霊の恵を受けても、それは永久的に自分の内に住まうと思ってはなりません。ダビデを殺そうと執念を燃やしたサウル王は王になる時、偉大な主の器サムエルから油注がれ、聖霊を受け、預言を語りました。しかし彼は試練を受けていませんでした。このサウルが後年、神の言葉に対して聞き従いができず、肥えた家畜をぶんどってしまい、主は王にしたことを悔やまれたのです。またエルサレム 教会の指導者ヤコブは、ペテロのような主からの訓練を受けてはいませんでした。ひょっとして主の兄弟という肉の力でなったのであって、彼らは公生涯を送られる主イエスの迫害に近かったのです。エルサレム教会は割礼問題でパウロたちを苦しめ、最終的にはローマによって滅ぼされる教会となりました。

 このように、サウル王などにあるように、いかに訓練が大切かを私たちは教えられるのです。それゆえ私は現在試練や困難を受けている方に申し上げるのです。「オメデトウ、主に愛された人よ」と。

 預言は基本、言いたくない類の言葉であり、言えば自分がまずい立場に陥りそうで、実際語る時には喉がカラカラに乾いたようになり、非常に勇気がいるものです。忠実に聞き従って神の言葉を語るためには、自我が残っていてはなりません。自分の努力では自我を無くすなんてことはできません。ただ、ただ一つ、神から来る試練困難だけがそれを可能にするのです。ですからかつて、耐え難い試練や困難から無私となり、神に自分を捧げて聖霊を注がれた身ならば、試練困難こそ何ものにも替えられない宝であって、それは神の愛であることを、はっきりと証するのです

2021年8月15日 (日)

新たなスタート

使徒 16章9節   2017新改訳

彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは彼らに血を飲ませられました。彼らにはそれがふさわしいからです。

 さて先週の礼拝でお証ししたように、私たちの教会には明白に主のみ心があります。「結腸癌の疑い」からの牧会への主の召し、群れ全体への「マケドニアの叫び」に応じた実質唯一人の牧師。この牧師は<日本のリバイバル>に召された牧師ですから、教会もそうなのです。

 その召された教会がカリスマであることに大きな主の計画があります。牧師だけがこの召しを受け、ついてきなさい、ではなく、個々の教会員のレベルにおいても聖霊様から同様の召しを受けほしいのです。牧師が言うからではなく、一致して同じ召しであれば、どれほど強力なスクラムになり、主の召しを確かに行える教会であることでしょうか。

 さてそのためには、私たちの教会員の多くが聖霊のバプテスマを受け、主にみ心を聞く者でなければ話になりません。ヨハネ12章24では、「一粒の麦は、地に落ちて死なずば、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」とあるように、肉の自分が死ななければ、聖霊様がその人の内で<主>になることができません。なぜならその人の罪深い肉が主であれば聖霊様は内住されていも、しもべとしてなので、しもべが主人に教え語ることも、諭すこともできないからです。

本当に自分の罪がわかり、悔い改めて聖霊のバプテスマを受けることで、賜物として聖霊を受ける内容のことが使徒2章8,38節にあります。ところが自分に死のうとどんなに努力や修行をしたところで、それは実現不可能です。私たちは自身が一番自分を知っているように思っていますが、とんでもない、あなたの造り主である神が一番あなたをご存知なのです。ですから事は神によるのです。

「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(ヨハネ3:8)
それゆえ一切を神に委ね、信仰をもって祈り求めましょう。聖霊を求めることはみ心なのですから。神はパンを求める子に石を、魚を求める子に蛇を渡したりはされません。真に求め、祈られるならば、必ず与えられるのです。ただし、その時まで信仰による忍耐が試されます。熱心に待ち望みましょう。

2021年7月25日 (日)

主と交わる

✝使徒 1章8節   新改訳2017

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

 今回はいつものようにキャンプ明けは聖会のダイジェストメッセージになります。
「わたしの証人となり」と使徒1章8節にあります。ここで証人になるとは知って、交わって、特別な互いの関係になっていることを前提にしていると言われました。確かに「証人となる」には、実際証する相手を知っていなければ語りようが無いのです。神との交わりが無ければ偽証ですし、その人は神にさばかれることになるでしょう。それ故、聖霊のバプテスマを受けることは大きな祝福です。まだ神様を知っていない人は、聖霊のバプテスマが受けられるように祈りましょう。

 私も聖霊のバプテスマを受けるまでは肉のクリスチャンでしたから、信仰の力は無く、肉に従う自分に、毎日空しさを感じておりました。天国が希望でしたが、その確信が無かったのは当然です。聖霊様が自分の主ではなく、主は私自身であったからです。 

 この後秋元牧師は、実際に聖会に参加することは、主に触れる恵まれた機会であることを力説されました。確かに礼拝でも、オンラインやYouTubeで観ることは観ないよりは良いことです。しかし教会に行き、礼拝に出席し、顔と顔を合わせてリアルに礼拝することに優る礼拝へのベストな参加はあり得ません。その他はすべて擬似的でやむを得ないものです。秋元牧師はこれを<臨在>の違いであり、<主に触れる>恵みの重要なポイントだと言われました。

 その上、「主はどこにおられますか?」と主を求めるアプローチの誤りを指摘されました。主はハナから私たちと「触れ合おう、交わろう」として手ぐすねを引いておられるのです。赦しを求めている人の「罪を赦してやろう」としておられるのです。ここを勘違いしないよう念を押されていました。その上で私も、一つだけ付け加えさせていただきます。
 それは神は愛なる方ですが、それは義にして聖なる諸点を無視して発揮されることは無いことです。主の十字架によって愛を受け、罪を悔い改め、新しくされた者であることです。そうでなければ主はあなたのその罪深さに、ドアを開けることがおできになれないのです。この点をパスしないでいただきたいのです。

2021年5月23日 (日)

神様のお人2-御霊の人-

ガラテヤ 6章1節   2017新改訳

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。


ペンテコステは一般には教会ができた日として祝われています。しかしこの日はクリスマスや復活祭よりも祝われるべき日だと思えます。なぜならメシアが世に来た最終目的が、ペンテコステにあると見ているからです。十字架によって罪なき者とすることにより、その人に聖い御霊様が臨在の主としてお住みになれるようになり、かつその満たしによってみこころを行う者となるからです。聖霊の満たし、聖霊のバプテスマが聖書で繰り返されて語られる「証印」という、天への確信を与えうるものであるのはこのためです。

 繰り返しますが本日の聖書箇所、「御霊の人」とは「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証(エペソ1:14)」です。ハッキリ申し上げて<御霊、あるいは聖霊>の人とは、その満たし、聖霊のバプテスマを体験している人以外にはわからないものです。その真の体験もなく、情報だけで論じている人が、多くの混乱を実際に招いているのです。それはちょうど真札を知らない人が偽札を見抜くことがないのと同じです。

 また私たちがどんなに神のみ心を行いたいと願っても、<聖霊だけが神のみ心のすべてを知っている(1コリント2:11)>なのですから、まず聖霊の満たし、バプテスマを受けていくことが先決なのです。しかしこれは人の思いや働きによるものではなく、一切が神のみ心によるのですから、どんなに熱心に祈り求めたとしても、ことは神の時によるしかありません。自分が神の御手にあり、完全な所属となるようどこまでも委ね、最善のタイミングで注がれると信じましょう。忍耐と信仰が試されるのです。

 聖霊様を体験するなら、聖潔と呼ばれるきよめや聖霊の賜物と呼ばれる異言、預言、癒やしなどの賜物は、実は単に聖霊の力の現れに過ぎないことを知ります。神は御心に従って必要な時に、必要な人に与えられるのであって、「これこれが無ければいけない」と人に過ぎないものがあれこれ注文をつける類いのものではないはずです。それはちょうど、我が子をお店へのお使いに行かせる時、お金を持たせず、また何を買って良いのかわからないまま行かせる事がないのと同じです。

 聖霊様を体験するなら、その体験のシチュエーションや多少の違いがあっても、人々は同じようなコアな体験を持ちます。それは神の愛です。神の愛を知って、私たちは根本から変えられて行くからです。自らの力ではなく、新しい人になるのです。自分をすべて神に捧げてしもべとなること、そして神のみ心を行ってその愛に応えて行きたいこと、など激しい渇望をもって望むようになります。本日このペンテコステの日に当たり、この聖霊様についてさらに祈り求めて行きましょう。

2021年5月16日 (日)

神様のお人柄1-ねたむ-

コリントⅡ 5章18-19節   新改訳2017

万軍の【主】はこう言われる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、激しい憤りをもってこれをねたむ。

 今回のテーマに「神様のお人柄」という言葉を使いました。人格という言葉があるように、神格と言いたいところでした。ところが神格という言葉には別の意味がありますので、このような表現をしています。メッセージは数回、この「神様のお人柄」シリーズを続けます。今日は神様が「ねたむ」というテーマです。

 「ねたむ」と言う言葉はあまり良い意味では使われません。ところが聖書では「ねたむ」という動詞と、「ねたみ」という名詞形とは、使い分けられているようです。単に「ねたみ」と言う言葉なら、一般的な肉の心の言葉として扱われています。ですから神様が「ねたむ」と聞いて、えーっ、そんなことがあるだろうか、と思われるのは当然です。しかし神が「ねたむ」と語られる時、そのような意味ではなく、本来の正統な関係を拒む子に対して、愛の表現であるとさえ言えるのです。真の父である自分との関係をないがしろにする、我が子への熱い想いです。

 「ねたむ」がどうしてそうなるのでしょうか。本日は神の愛を「ねたむ」ということばの意味を問うことによって見ていきたいと思います。先ず子と父の関係で考えてみましょう。父からたっぷり愛されている子が、隣家の子どもの父をうらやみ、「僕の父親には、あんな人だったら良いのに」と思わず言ったとします。これを父は平静な気持ちで聞くことができるでしょうか。当然息子に対してがっかりするか、「親の気持ちをあまりにも無視して」と怒るのではないでしょうか。もし、そのように言われて、何の感情も湧かないとすれば、それは関係のないお互いでしかありません。
 ですからその父の「ねたむ」感情は、不正なものであるかというと決してそんなことでない、正しいのです。私たちの父は天地万物を創造された方であり、私たちはひどい放蕩息子であるにもかかわらず、十字架に架かってまで私たちを愛してくださった方です。もし仮に、そのようなねたむ気持ちが湧かない父がいるとすれば、それは真の父ではないと言えます。ですから神が私たちを「ねたむ」という表現は、血肉の父に優っての真の父との関係において、まことに正しく、希望の持てる深い愛の意味になります。

 神様は誰もが肯定するように、愛なるお方です。しかしその愛を表すのに「ねたむ」ほどに私たちを愛してくださるという、神の愛を表すことばには深い意味があります。あるべき関係において、通じない愛の口惜しさを込めて、神は私たちをねたんでくださるのです。ねたんでくださる私たちは、本当に祝福されているのです。

2021年4月11日 (日)

聖霊のバプテスマ

 ✝ 使徒 1章8節     2017新約聖書

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

 聖霊のバプテスマほど、キリスト教誕生当初から多くの誤解を受けてきたものはないかも知れません。この定義としては、聖霊の満たしの最初の現象を聖霊のバプテスマと申しますが、満たしであって、一度満たされたら永久不滅のものではありません。満たされ続ける必要があるのです。
 その例ですが、アブラハムは神から「預言者」とされていますので、もちろん聖霊の満たしは受けていたことでしょう。しかしその彼も妻を妹と称してゲゼル王に召し出されても、抵抗をした跡が見られません。また、モーセの姉や兄のミリアムやアロンも預言者でしたが、あるとき、自分達も弟のように用いられても良いのではないかと文句を言った時、手が雪のように真っ白になりました。この事からも、たとえ預言者ではあっても、常に神の霊を受け、神の言葉を取り次いでいたとは言えないことは明らかです。聖霊のバプテスマを受けたとしても、私たちは絶えず聖霊を求め、満たされ続けていく必要があるのです。Photo_20210419124401

聖霊のバプテスマの現われとして、癒やしや預言などの聖霊の賜物も、さらに多くの誤解を招いて来ました。預言はギリシャ語で「プロフェーティヤ」と言い、神の言葉を全面的に預かって話すという神からの賜物ですが、これらは神の使命を果たすための一時的な付与に過ぎません。間違っても自分は神からの特別な霊能者だと誤解してはいけません。ただひたすら謙遜に、取るに足らない者として神に栄光を帰し、神を褒め称えるだけです。すべての賜物は神から来ていますので、御心ならば誰にでもそれは与えられるものです。およそ聖霊の満たしを受ける人とは、神の愛を分かち合うにふさわしい、愛に満ちた人です。同時にまことに弱く小さな人々に仕える謙遜な人でもあります。

 また明らかに終末の時代に向けて歩を進めている時代となっていますが、これからますますその加速度は強まる事でしょう。確かにヨエルの預言の後半部分が顕著になって来ることと思われます。やがて来る主との再会を見据えて、血肉の命のある今、さらに熱心に祈り、霊に燃えて聖霊の注ぎを求めて参りましょう。私たちの希望は、「よくやった、忠実な僕よ」と主のお褒めの言葉に預かる事です。