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聖霊

2017年7月16日 (日)

サタンに勝つ

Ⅱコリント 10章 3-4節
  私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。

 神が造られたこの世界には霊的な存在が三つある(右図)。神は天使以上に人間を愛された。そこで美の極み、知恵に満ちた存在であったサタンPhoto (エゼキ28章)が、人間に嫉妬して堕落したと言う説がある。確かなことはサタンが神の座に着こうとして(イザヤ14章)天から追放されたのである。従ってサタンは多くの堕天使を率い、何としてでも神を妨害する存在でもある。
 
 神の計画はご自分を信じ、従う人を通して為されて行くので、戦いは特にクリスチャンをめぐって激しいものとなる。ただしこの戦いは最初から勝敗が定まっている。神の勝利である。だからいわゆる<歩留まり>をめぐる戦いでもある。
 
 さて神>サタン>人という力の順があるので、人はサタンに対抗しても勝てない。それゆえ人が勝つためには神の力に依拠するしかない。信じる信仰が勝敗を分ける。対して巧妙に自分を隠し存在を偽るのがサタンの得意技なので、なんと神を信じるクリスチャンですらサタンの存在は認めない人が多い。戦う相手が分からなくては勝てないのが自明だ。
 
 多くの人はこの世の見方を自分に当てはめ、劣等感を抱かされている。精神を病んでいる人に多いのは、修正できないほど自己像がズレていることが多い。これは世を支配し偽らせるサタンにだまされているわけで、神に造られたありのままの自己像に立ち返ることで癒やされるだろう。神はすべての人を愛し、傑作として世に送り出してくださっている。偽りの自己像から解放されるためには、神を信じ、その愛に自分を捧げ、サタンから手出しができない断固とした神の領分に自分を置かなければならない。
 
 精神の病の人だけではない。クリスチャンは常にサタンとの戦いの最前線に置かれている。神の器であればあるほどそうだ。したがって精神の病の人にはみ心があって、サタンとの激しいぶんどり合戦の最中にあると言える。神の言葉と祈りによって神に己を捧げ依り頼むならば、その信仰によって必ず勝利する。この血肉の命が世にある限り私たちは戦いの最前線におり、安息できるのは天の故郷に帰った時ではないだろうか。

2017年3月19日 (日)

霊とともにあるように

Ⅰコリント 13章13節
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

 人の話において、大切なことは一番最後に語られることが多い。パウロの書簡で最近気がついたことに、パウロの特長として、一番最後はBenediction(ベネディクション:祝祷,感謝の祈り)で終わることがほとんどです。それにも多少の違いがありますが、だいたい「主イエス・キリストの恵みが、あなたの霊とともにありますように」の言葉で締めくくられています。これはつまり、パウロは<聖霊との霊的な交わりが、すべての恵みの土台なのですよ>と常に忘れず私たちに念を押していると言えます。
 
 先週のメッセージでは、終末では「背教者が出る」と語りましたが、背教とは「神との関係を断つ」ことです。では逆に信仰とは何か? それは「神さまとの霊的な交わり」ということではないでしょうか。
 信仰は「感謝する」「喜ぶ」「聞き従う」「受けたと信じる」「踏み出す」などいろいろな言葉で語られます。確かにその通りですが、「私はあなたに従う力がありません。主よ、私を助け、み心を行わせてください」(み声に聞き従うp90)」とあるように、信仰を行う力は畢竟、上より来るのであって、ポイントは聖書と祈り、祈りにおける霊的な神との交わりです。二人のパウロが言っていることは一致しています。
 
 さてここからワンポイント、本日の中心です。神との関係、祈りと交わりにおいて主導権というか、決定権というか、それが人と神とのどちらにあるでしょうか? もちろん、それは神にあります。私は皆さんに、個人的にですが、聖霊のバプテスマについて、明確な体験を受けるようお奨めしています。もちろん神さまの方でも、その願いはみ心ですから100%叶えてくださると信じます。しかし、です。祈り求めても、長く聖霊のバプテスマが注がれない場合もあることでしょう。その人は他の人と比べたりして理不尽に思ったり、苛立ったり、諦めたりするかも知れません。ここが重要だと思うのですが、聖霊はよく風に例えられるように、人の思惑を凌駕します。なぜなら人は、その原因が自分にあることがわからないし、どうすればよいか自分ではわからない上、最善のタイミング、時というものもわからないのです。イライラしたりしてはいけません。それは自分の計画が神より優先しています。救いが神から来るように、ただ神だけが最善をご存知なのです。
 
 「貧しき者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」です。真に自分の心の貧しさを知る者となった時、聖霊の親しき交わりも近いことでしょう。熱心に祈り求めることとは、ただ静まって神の時を待つ聞き従う忍耐と共にあります。

2017年2月19日 (日)

もう一人の助け主

 ヨハネ 14章16節
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
 
 聖霊について、実はよく分からないという方が結構クリスチャンに居られます。聖書に聖霊の内住だと分かる箇所があります。16節「そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになり・・・・その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられる」ところです。助け主とは聖霊なる神です。この方を私たちに送られるためにキリストはこの世に来られ、十字架にかかってまで私たちを愛してくださいました。ですからイエス・キリストを主と信じるならば、聖霊さまは私たちの内に住んでくださるのです。しかし多くの場合頭だけであって、実際には分からないようです。
聖霊なる神はこの章の26節以降ですが、三つの現れがあります。一に教え、思い起こさせてくださる。二に、平安を与えてくださる。三に孤児にはせず、助けてくださる、と。
この意味です。神は皆さんの人生の始まりから私たちを子として特別に養護し、育てていてくださっているのです。時が来た時にですが、子ども時代の写真アルバムをめくるように、御手の内にあった数々の出来事を神は思い起こさせてくださいます。実際私も、神さまを知るまでのこと、信仰告白をしても、神に従おうとしなかった放蕩息子の時代のことなど、本当にくまなく見せて教えてくださりました。いかに神さまが忍耐強いか。どんなに私の心が神さまに向くのを待っていてくださったかが分かりました。神は私たちを愛しておられ、私たちの心が神に向くことをお望みなのです。

次に神は平安そのものであることです。確かに時に注意を受けたりしますが、それは「叱られる・叱責」というより、「よくぞ叱ってくださった」と「注意されて愛を感じる」性質のものです。ましてそこに恐れを感じることは決してありません。

 もしそれがホンの少しでもあれば、断言しますが、それは神ではありえません。平安の反対は、巧妙なだまし屋サタンの手口です。Beach699435_960_720_2すぐさま問答無用に遮断し、追い出してください。神はこのような、私たちがどんなに惨めで罪深い者だとしても、決して見捨てず、呼べば助けてくださるお方です。

     この神さまと私たちとの関係は有名な、「砂の上の足跡」からもよく分かります。
本日はこれを紹介して終わりにいたします。
 

2017年2月12日 (日)

信仰

ガラテヤ 5章16節
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

今から数十年前のことになりますが、私たちの群れが中国に聖書を持ち込んだ際、二十年以上の獄中生活を送られた方々に会いました。その人たちに、さぞ辛かったでしょうと獄中生活をねぎらうと、「Never!」と答えが返ったそうです。「イエス様の十字架を負うと、イエス様の愛がよく分かった」とも。獄中生活は、それはそれは神さまと一緒の素晴らしい時であったのでした。迫害のような恐れる事柄に対し、この事は多くの示唆を与えます。神に従う者に聖霊の力が注がれることを忘れてはなりません。聖霊の力とは聖霊のバプテスマ、聖霊の満たしを受けてのものです。
 
 クリスチャンは各自、はっきりと聖霊のバプテスマをImages_2 受けた体験を持つ必要があります。聞き従いは、神を知り、その確信に立っています。ですからはっきりと分かる聖霊のバプテスマを祈り求めてください。聖霊を知らずしてどうして「神に聞き従う」ことができるでしょうか。明確な聖霊のバプテスマを受けることが全ての始まりです。
 少しオーバーに言えば、このように聖霊様を求め得られなければ、クリスチャンとしてこのまま地上で生きていてもしょうがない、とまでの飢え渇きが湧くのが自然です。自分が中心である肉のクリスチャンには、このような祈りや渇きはありません。
 
 聖霊のバプテスマを受けると何が起こるでしょうか。神さまが分かるのです。神さまとはどのような方なのか、それこそ「御霊の実」そのものであることが分かります。その絶大な価値の故に、それまでの自分自身がまったく無であることに気づかされるのです。そして神に、自分を完全に捧げたいと心から願うようになります。神を愛し、聞き従いたいと願うようにもなります。また聖書がよく分かるようになります。聖書は聖霊によって書かれたものだからです。さらに聖霊は九つある聖霊の賜物を通して、私たちを証しの器としてお用いくださいます。このように聖霊のバプテスマはその人自身をまったく変えます。霊・魂が神との正しい立ち位置に戻ったので、肉体と心のあらゆる病がいやされていきます。
 
 ですからお奨めいたします。あれこれ日常のことを祈り求めるのも大切なことでしょう。しかし、まずもって聖霊のバプテスマと満たしを求め、期待し祈っていただきたいと思います。そうすれば日常のすべては、添えて与えられます

2017年1月29日 (日)

御霊によって歩む

ガラテヤ 5章16節
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
イエス・キリストは「聖霊を受けなさい(ヨハネ20:22)」と言われました。にも関わらず、クリスチャンでも、右の絵のような「聖霊の実」が現れていない方がおられます。つまりクリスチャンになっても「愛」も「喜び」も「平安」もなく、未信者時代とそれほど変わらない生活を送っておられるわけです。S
 血肉の体は御国を受け継ぐことができません(1コリ15:50)。同じように肉の心では聖霊の満たしを受けることができず、天に宝を積むことができません。聖霊なる神を通して、聞き従うことができないからです。永遠の天に比べれば、血肉のこの世はホンの一瞬です。このままでは取り返しのつかない、本当に痛恨の極みとなります。
 それで聖霊を求め祈るのですが、神は聖にして義なるお方です。肉の心(自分)が中心となっている限り、その人に主として入ることがおできになれません。人間は罪深く、信じても容易に自分を明け渡しません。愛する者に神は試練をお許しになります(へブ12:7)。ですから私たちは試練、困難を心から感謝するのです。
 私たちがどんなに罪深いか、一つだけ例をあげましょう。すごく自己否定的な方が居られたとします。一見謙遜にも見えます。しかしその自己否定が、実際の自分よりもはるかに高い自分を想定しているため、それに達し得ない自分を否定し受け入れられないのであれば、それは逆に高慢になりかねません。
 
 どうしたら具体的に聖霊のバプテスマ、聖霊の満たしを受けることができるのでしょうか。ペテロは使徒2:38で「悔い改める」ことと「イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける」ことだと言っています。チョー・ヨンギ牧師はクリスチャンに内在する「憎しみ」「恐れ」「劣等感」「咎め」を悔い改めることだと言っています。私自身の体験から申しあげるなら、それを受けるには
(1)絶対注がれるまでは諦めない熱心と、
(2)神が導かれた「深い悔い改め」の中で、神の時に注がれるとしか言い様がありません。
 
「あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちにどうして聖霊をくださらないことがありましょうか」(ルカ11:13)

2017年1月 8日 (日)

あなたの信じたとおりになる

マタイ 8章13節
それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。
                           
  人間は肉体という物質と物質でない霊との共存体(ハイブリッド)です。物質は見えますが、霊は物質でなく永遠に存続しますから、見えません。見えないものが、制限のある見えるものをコントロールしています。ですから次のことが言えます。霊的に健康な人は肉体的にも健康であり、その逆もまた真です。そのため私たちの群れにあって癒やしは、霊的な面の取り扱い(救い・信仰)が前提視されるわけです。
 
 この見えない霊には三つあり、神と神に属する天使たちがあり、サタンとサタンに属する悪霊どもがあります。三つ目に人の霊があります。その力は1に神、2にサタン、3に人間と強さが異なります。つまり、人間は神に拠らない限りサタンに勝てないという点が重要です。要するにクリスチャンは、神なしには何もできません。そこで今あなたは、どちらの霊に支配されておられるでしょうか?自分で吟味をなさってください。
 
 さてここまでは準備運動です。私たち神を信じる者の霊には四つのPhoto_2霊的要素があります。
  一つめは「考え」です。現状を肉の目で見るのか、それとも霊的な目で見るのか、と言う認識です。どちら側の立場に立って見るのか、ということでまったく異なった展開になります。昔、エリシャがドタンでアラムの軍勢に包囲された時、エリシャはしもべと全く異なった認識をしました。エリシャにはアラムの軍を逆に包囲している主の軍が見えていたからです。クリスチャンに関して悲観的・否定的な見方はサタン的です。しかし聖霊とその信仰に拠って見れば、神の力による前向きな結果、栄光を産みます。
 
 次に「神には不可能なことはない」という信仰の言葉と土台に立つことが重要になります。これには聖句を用いたり、これまでの経験を用いるべきです。
 三番目に、実際にそのことが成就することをイメージし、リアルに夢を描くことです。それを毎朝、鏡の前で自信が得られるまで告白したりすれば大きな力になります。
 
 最後にそのような肯定的・積極的・前向きな言葉を告白しましょう。口から出る言葉には裁き(審判の意味ではなく)が伴います。信仰の言葉を紡ぎ、告白しましょう。該当する聖句でも良いでしょう。み心に反するのでない限り、主の時にそれは必ず成就します。まさに「あなたの信じたとおりになる」のです。

2016年3月20日 (日)

御霊に満たされていなさい

ガラテヤ 5章16節
 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
エペソ 5章18節
また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

 これは他の命令、例えば「大宣教命令」や「絶えず感謝しなさい」よりも重要です。なぜなら、聖霊に満たされることがすべての土台であり、聖霊の働きによってそれらは実現するものだからです。これがコリント教会に語られたのではなく、当時最も霊的な教会であったエペソ教会に語られたことに、大きな意味があります。この聖霊に満たされて行くこと、成熟したクリスチャンになることが神の御心なのです。なぜなら、何のために神は御子キリストを世に遣わされたのでしょう。十字架の贖いは、聖霊様があなたの内住されるためではなかったのでしょうか?
 
 ただ信じることと、聖霊によって満たされることとには大きな違いがあります。聖霊によって満たされることなしには、自分の内にある罪に打ち勝つことができず(ガラテヤ 5:16)、力ある神の働きができない(使徒 1:8)からです。これは同じ神を信じているとはいえ、永遠の住まいである天でも地でも、実に大きな結果の違いになるのです。
 
 では聖霊の満たしを求めて熱心に祈り求めても、 Thedoor_3
その願いがかなわない人がいます。御心なのになぜでしょうか?これにはただ一つの理由しかありません。祈り求めているその人に罪があるからです。絵を見てください。確かに聖霊の満たしを求めてひざまづいて懇願してはいます。神も戸口に立って、入ろうとしてくださっています。にも関わらず、ずっとそのままです。なぜでしょう?そうです、ドアの鍵を開けていないのです。鍵は中にいる人が開けなくては開きません。サタンと違って神は押し入って入られない、謙遜な方です。あくまで自分で自分の心のドアを開けるまで、実に忍耐して待ってくださっているのです。ただ残念なことに、聖霊の満たしを求めている人は、いつまで経ってもそのことに気づかないでいるのです。これも罪がこの事態を気づかなくさせているのです。
 
 では罪とは何でしょうか。例えば自分は正しい、間違っていないという自己正当化です。被害者だと思い込んでいることもあるでしょう。だから許すことができません。他の人と比較して自分を位置づけており、神の目、聖書から自分を見ようとはしていません。どんなに自分が隣人を愛せないか、そのことにも気づきません。要するに高慢なのです。サタンも同じでした。不当にも自分で自分を義と認定しているのです。神に裁かれること、これが罪です。神の「あわれみ」がわからないことも罪の状態にあるということです。
 
 みなさん、神に自分の真の姿を探っていただきましょう。それが白日の下にさらされた時、どれほどの痛みが来ようと、それは真のいやしの涙です。じきに喜びがあなたを覆うことでしょう。
 そして罪と血を流してまで戦ってください。その先には神の勝利があります。聖霊の満たしのために、自分の真の姿を見る決心をするなら、必ずそれは訪れます。どうか神の前に進み出て、己の中に深く隠蔽された罪を探っていただき、アーメンと告白しましょう。聖霊の満たしの恵みは言葉に言い表せない祝福なのです。

2015年7月12日 (日)

私を新しくしてください

 詩篇 51篇10節
 唯一の真の神を信じるクリスチャンでありながら、なかなか「古い人」を脱ぎ捨てられない人がいます。意識するかしないかは別として、心の奥底ではきっとそのことで悩んでおられると推察します。これはそのような兄弟姉妹への一つのお奨めです。

 私たちが行く天の御国は、古い人のような肉的な人間の行くところではありません。もしそうであったなら、たぶんそこは思い描いていた所とは違うことでしょう。私たちの目標は神の国、天の都エルサレムに住まうことですから、これは取り返しのつかない失敗です。

 昨日の横浜カリスマ聖会で秋元牧師は<だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリ5:17)>をもとに、次のように仰いました。「それなのに、新しくなっていない」人がいます。どうすれば新しくなれるか、その方法として以下の二つのことを挙げられました。

1、<心の一新によって自分を変えなさい。(ロマ12:2)>を適用し、思索を自分でなく、信仰に立って一新すること。
2、隠れて粉を打っていたギデオンが、神に聞き従って勇者へと一変したように、「聞き従いをしない と変化は起こらない」ので、神に聞き従うこと。

 私はこれに補足の意味で少し付け加えをさせていただきます。

A:サタンはだましの名人です。他人をだますより、宿主であるその人の自分とは?という自己像を偽ってより高く認識させ、ために常に不安定な精神状態に陥れています。このサタンの策略を見抜き、ありのままの自分をキリストの愛によって受け入れる必要があります。嘘は現実の自分とのギャップをカバーしようとして、つまり自分を守ろうとして生まれ、自分を正当化するものです。サタンと決別する決心が、新しい人に踏み出す土台となることでしょう。自分に変わる力がなくてもよいのです。ただサタンから神へスイッチする選択だけが必要なのです。

B:新しくなる力は私たちの内にはありませんが、神にはそれができるのです。このことを信じ、神に祈り求め続ける、これが私たちの力です。

 ダビデはバテ・シェバとの罪を指摘され、自分の罪深さを心から悔い改めた結果、神によってきよい心と新しい霊が与えられることを切望しました。この徹底した罪の悔い改めの祈りこそ、新しくされる熱意の原動力です。あなたにはそれがありますか?

2015年6月28日 (日)

キリストの証人となる

使徒 1章 8節
 ここでのwitnessとは「知っている」という意味で、目撃者であり、それを証言する者と訳されます。重要なことは、何についての証人なのかということです。眠っている者の初穂として、御霊の体で復活されたキリストのことについて、見た事を証言する人という意味になります。

 直訳的な意味に限れば、二千年前にユダヤに生きていて、かつ復活したキリストを目撃した五百人以上の一人になっていなければなりません(1コリ15:6)。しかし使徒パウロは目撃者どころか、この時は迫害者でした。それなのに彼は、キリストの偉大な証人となりました。それはステパノを殺しに飽き足らず、国外のダマスコにまで迫害の手を伸ばした時、神がパウロに呼びかけ、自らを現されたからでした。つまり「証人」とは神を体験した人、体験した事実をもって証言する、これが証人という意味になるのです。

 クリスチャンであれば、聖霊は誰にでも内住されています。一部の人には信じたと同時に聖霊のバプテスマを受けた方もおられるでしょう。が、ほとんどの人には聖霊の内住と聖霊のバプテスマと間にタイムラグがあります。福音派に属していた私は、そもそも「聖霊のバプテスマ」すら知らず、求めず三十年近くを過ごしました。その時、どうして教会とこの信仰に力がないのかを嘆いておりました。

今ははっきりと理由が分かります。体験としての神を知らず、証人としての力がなかったからです。神様を伝聞・推定の中で語るなら、それは確信がなく、力がないのです。

 わたしの証人となります。(使徒1:8) ここで重要なのは、いかにして神を体験するか?ということです。これは全くもって人間の都合で得られるものではありません。風は思いのままに吹く・・・・100%神様側の主権で為されるものですが、一つ言えることは、神様を知りたい、とくに「聖霊のバプテスマを体験したい」と人間が願うことは、御心であると言うことです。ですから求め続けていくならば、試練を通されることもあるでしょうが、必ず与えられるという確信を持つ必要があります。他の人に祈ってもらうことも良いと思いますが、本人の求め、信仰、祈りが決定的に重要です。

 私たちは証人です。証人としての力を求め、また受け続けて参りましょう。

2014年4月13日 (日)

Walk in the Spirit

ガラテヤ 5章16節

 この言葉はクリスチャンである私たちへの命令形です。すでに当時にもその兆候が現れ、使徒時代の終焉とともにそれは、今に至までほとんどのクリスチャンに適用される命令となりました。しかし20世紀はじめから再び聖霊の注ぎが起こり、今現在「聖霊によって歩」んでいるはずのクリスチャンですら、これは重要な命令なのです。お一人お一人の良心にお聞きしますが、みなさんの心の中に「不品行」「汚れ」「好色」「偶像(個人)礼拝」「占い(魔術)」「敵意」「争い」「そねみ」「怒り(憤り)」「党派心」「分派」「ねたみ」「泥酔(酩酊)」「遊興」が、いっさい存在していないと言い切れるでしょうか?少なくともこの私にとっては、過去私を支配し、その縄目を解かれた今現在も、不断に戦っている相手であります。

 そんな私は二十歳でバプテスマを受け、それから30年以上、表向きには熱心に教会生活と奉仕を続け、天国に行く切符をゲットしていると思っていました。40才を過ぎて長い長い試練に、塗炭の苦しみにもがきました。50を過ぎて、神のあわれみによってそれまで可としていた自分の罪深さを、突然気づかされ、それから生涯でもっとも心に残る、深い悔い改めを三日間しました。三日目の朝、日曜日でしたが、教会に行こうとして神様が私に触れてくださったのです。
 

 誤解を恐れずに言いますと、聖霊様とは、私とはっきりと異なる人格です。その出会いは、心の中の異物的に存在する言葉への、晴天の霹靂的な気づきだと申し上げても良いでしょう。「この言葉は何!誰がこのような思いもしないことを言っているんだ?どうして私のことがぜーんぶわかってるんだ!」そんな感じです。逆に聖霊様が「自分とはまったく異なるものでない・・・違和感がない」なら、それはひょっとして聖霊様ではないのかも知れません。それはあなた自身の、単なる思いではないのか?と。それなら聖霊ではなく、自らの肉の思いかも知れません。
 

 どうすれば聖霊によって歩むことができるのでしょうか?私にもそうであったように、徹底的な悔い改めです。自分に何一つ善が無いことを知ることです。この点について私は妥協できません。肉なる自分のいっさいが空しく、ただ神のあわれみだけが私たちの希望なのです。よく信仰・信仰と言われますが、具体的には信仰とは神様と自分との間柄(関係)なのです。私は神様を何よりも愛しています。それは神様を知り、その愛がわかりました。そのすばらしい十字架の愛は、世の何ものを持っても代えることができないものです。ですから私は神様を信頼し、惜しみなく自分のすべてを捧げることに同意するのです。
 

 何事でもそうであるように信頼とは、実際によく知り、わかっていなければ無理です。聖霊のバプテスマに代表されるような実際の体験が不可欠です。英語のfaith=信仰とは信頼・誠実・忠実とも指す言葉です。個人的な関係なくしてその堅い信仰はあり得ません。この関係そのものが本日の「Walk in the Spirit」の意味であります。