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聖霊

2024年5月19日 (日)

教会の誕生

使徒 2章1~4節   2017新改訳

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

 本日はペンテコステ、キリスト教会の誕生日です。使徒の働きの2章にもありますように、聖霊を受けたのは、イエス・キリストに従った信者であり、その約束を信じて集まり、おそらく祈っていた人たちでした。その信者の上に聖霊が下って異言や預言を語るようになりました。これは聖霊のバプテスマと呼ばれる現象であり、その賜物が現れた現象を物語っています。そのことから二つのことがわかります。聖霊のバプテスマは信じると同時に受けるものではなく、待ち望んでいた信仰の堅い人たちの上に下ったこと。そしてこの日が教会の誕生日と言われるように、聖霊のバプテスマを受けた人びとの上に教会が建てられたということです。

 イエス・キリストを信じるなら罪が赦され、神との障壁が取り除かれます。しかし問題は口先でどんなに「主よ」と呼んでも、自分が相変わらず自分の主であって、神がドラえもんのポケットのように便利な存在では、神と交わる正しい関係にならないことです。 人はどんなに努力しても「一粒の麦、落ちて死なずば」にあるように、自分に死ぬことができないので、聖霊の実を結ぶことができないのです。神である聖霊と交わらなければ、肉の思いであり、御心を行えないのです。そしてこれが今現在の多くのクリスチャンと教会の現状です。

 自分に死ぬとは新生することです。新生と呼ばれる聖霊のバプテスマは自分の力の及ばないものであるとすれば、これは神に選ばれ、愛されたクリスチャンだけが通される道であり、産みの苦しみの果てに与えられる特別な恵みです。そして神は、この聖霊のバプテスマの上に教会を建てられたのです。聖霊のバプテスマによって教会が誕生し、すでにその役目は終わった過去のものだと福音派は説きますが、それならなぜ今から100年前、ロスのシーモア牧師によって聖霊のバプテスマが大きく用いられるようになったのでしょうか。また聖書には、新生を伴う聖霊のバプテスマが終わったなどとは書いてありません。聖霊のバプテスマを受けていないことは、ピリポがサマリヤで多くの信者を得た時に、エルサレム教会がペテロとヨハネを派遣したこと。エペソでアポロによる信者にパウロが会った時のことなどの記事で、当初から懸念されたことでした。それが現在では多数派、主流派になっているだけのことです。

 神様はギデオンに命じてイスラエルの民が誇らないよう、戦う者の数を300という、イスラエル自身では到底不可能な数まで減らされました。今まさにそのように私たちは少ないのですが選ばれた戦士です。神の命によって残されている、そして神の御名が崇められるために、私たちの力を超えてリバイバルという勝利を主は得られのです。

 

2024年4月28日 (日)

獅子の口から義の栄光へ

テモテ 2章11節   2017新改訳

次のことばは真実です。「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。

 第二テモテとは、パウロが死の直前、我が子同然の愛するテモテに送った最後の手紙です。書かれた年代は、64年のネロの大迫害(クリスチャンがローマ大火の犯人とされた)以降、数年内に処刑されたはずです。すでに処刑が決まって、執行待ちの状態からの手紙なので、遺書的な性格もありますが、牧会指導と言うだけでなく、パウロの心情が吐露された内容になっています。

 この手紙には、アジアで大規模なパウロ離れが起こり、ほとんどの教会がパウロから去っていったことを心配する内容が目立ちます。多分それは濡れ衣を着せられ、大迫害を防げなかったパウロへの落胆や、大火に連座することを恐れてのことであったと思われます。そこでパウロはアジアの中心的なエペソ教会の監督テモテに対して、今の自分の心境を語り、身の上を案じるテモテを励ましたかったようです。エルサレムでの騒動以降、裁判を皇帝に上訴し、カイザリヤやローマで長い期間囚人として過ごしてきたパウロでした。一時期はかなり自由に活動できたものの、処刑が決まってからは身近にはルカだけしか居らず、寒さにも困っていましたが、その心には義の栄冠を受ける喜びで、一点の曇りもなく晴れた天を仰いでいたのです。

 たとえクリスチャンであっても、死んで天国に行くと言うことは同じでも、神に哀れみを受けたままで死んで行くのと、栄光を受けて死ぬのとでは大違いです。
 そのことを「(アジアにいる)私の子よ、イエスの恵みによって<聖霊によって守り(1:14)>強くなりなさい」と教え、く聖霊によって守られ、自分については、福音のために苦しみを受けているのだから私は耐え忍ぶ(2:9ー10)と来る殉教の決意を語り、それだからあなたも「恥じることのない働き人として、自分を神に捧げるように(2:15)」とパウロが心から勧めています。

 私やドルカスの両親はすでに亡くなっていますが、次は高齢者となった私たち世代の番だと思っています。日本にリバイバルが起こされますが、その時私たちは聖霊の賜物によって大きな働きをすることになっています。しかし聖霊の実が実っていないのに、そのような油が注がれることは無いことでしょう。アブラハムは75、モーセは80歳で用いられました。今から遅くはありません、熱心に祈り、信頼し、主と交わり、そのみこころがわかるようになっておきましょう。そのみこころを行うことで迫害されるならば、素晴らしい神の栄光を受ける約束になります。それゆえ、なんとしてでも、九つある御霊の実を一つでも二つでも多く、実らせて参りましょう。

2024年1月21日 (日)

御霊の実と賜物

Ⅰコリント 12章31節   2017新改訳

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。
 私たちはカリスマの教会で、異言や預言、癒やしなどに熱心な教会です。九つあると言われる御霊の賜物(Ⅰコリ12章)を用いて、世における神の計画の進展を願っているのです。
 しかし聖書には同時に御霊の実(ガラテヤ5章22~23)ということばが存在します。賜物と実、これを今までは横並びで理解していたのですが、最近になって「順序があるのではないか」と思うようになりました。つまり「御霊の賜物の前に、先ず実ありき」ではないかと。そこで聖書を詳しく調べてみたところ、以下のことがわかりました。賜物については、A信仰、救いと理解されるべきものと、B癒やしや預言などの九つの特別な賜物と理解すべき二つがありました。

 実については、「悔い改めて身を結ばねば火に」と迫るものや、聖霊の働きによって神の品性を表すような九つの実が併記されていますが、基本、愛が中心となるものでした。これら実も賜物も、自分が死んでいない肉的な人に現れることはあり得ません。働きがその人自身のように見えても、その中身、働きは聖霊である神です。ですから、通り良き管となっている人の思うがままに使えているわけでも、自分の意思で用いているわけでもありません。

 これがよくわかる話に、七人の執事の一人、ピリポの話があります。彼はステパノ以後の迫害によってエルサレムを追われ、遣わされたサマリアで伝道をします。そこでは聖霊の賜物が大いに用いられ、バプテスマを多くの人が受けました。現地で評判の高かった魔術師のシモンまで本物のしるしと不思議に、ピリポに付き従うようになります。ところがピリポには、聖霊のバプテスマまでは授けられなかったので、エルサレム教会のペテロとヨハネが遣わされ、聖霊のバプテスマを施しました。「シモンは、使徒たちが手を置くことで御霊が与えられるのを見て、使徒たちのところに金を持って来て」(使徒 8章18節)それを二人から買おうとします。

 シモンは金で得ようとしたので「悪事」と呼ばれました。シモンのように金を持って来ないまでも、聖霊のバプテスマを<受けたい>と願う人は多いことでしょう。しかし勘違いしてはいけません。肉が死んでいないのに求めるなら、それは自分の栄誉のためであって、シモンと同じ「悪事」に他なりません。

 先ず、聖霊のバプテスマを求めましょう。これこそ御霊の賜物と実の土台であって、聖霊ご自身が分与され注がれるものです。自分に死に、完全に明け渡していなければ聖霊のバプテスマはありえません。悪霊や肉の霊と神が同居されることはあり得ません。また自分に死ぬことは自分の力でできません。悔い改め、心から神に自分が捧げられるよう祈ることしかありません。道のりを歩き、時が来たら与えられるでしょう。また貸与であって、サウル王のように、従えなくなれば取り去られます。結局、神が人を通して働かれる外面的なものが「賜物」であり、神の実質を見る内面的なものが「実」です。その土台は「聖霊のバプテスマ」です。

2023年11月12日 (日)

どんな罪も癒やされるが

マルコ 3章28節   2017新改訳

まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
 十字架を真に信じているなら、どんな罪も赦していただけます。その赦しの程度も、たとえ神を冒涜するようなことを言ったとしても、赦していただけるのです。「すごい」と思われませんか?しかし、続いて「聖霊を冒涜する者は、だれでも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます」とあるではありませんか。これって、気になりませんか?私は大いに気になりました。

 すべての罪は赦されます。これは十字架を信じる人々への神の言葉です。ですからクリスチャンの罪は、罪を告白し、心からそれを悔い改めるならばすべて赦され、あたかも罪を犯さなかったかのように、完全に忘れてくださる恵みにあずかります。ですから、クリスチャンと称していても、生きるのがしんどいとばかりに暗い顔をしていたり、過去の重い罪を背負っている風な人は、基本おかしいのです。ひょっとして十字架の赦しと神の愛を、本当には信じておられないのかも知れません。クリスチャンは明るく前向きで、秘めた喜びを隠しきれないような顔をするはずです。
 ただし、過去にあったことではなく、今現在、聖霊様に示されてはじめて気づいたような過ちとか、知らず知らずのうちに人を見下したり、さばいていたりとか、つい小さな嘘を言ってしまったような罪に対しては、ただちに告白し、赦されて行かなければなりません。ですから神に向かうとき、私は胸を叩き、告白し、悔い改める姿勢から祈りを始めるのが常です。

 私が感じるのは、高ぶる意識はない方でも、自分はちゃんと生きていて、まっとうに生きていると認識している人、いわば普通の人に聖霊を感じることはまずありません。罪意識の乏しさが共通しています。しかし真に謙遜な人にはそれを感じました。それは性悪説とかいろいろ言い方はありますが、原罪を認識している人、つまり救いを必要としているところに共通点があります。
 ところで本題の聖霊を冒涜することについては、明快な答えがあることに気づくようになりました。自殺者は天国に行けないと聞くことがありますが、死んでしまっては、自分の侵した罪(自分の命も神から預かったもの)を赦される道が無いわけですから、これは理解できます。

 では聖霊様に対してはどうでしょうか。三位一体の神様にあって、聖霊様の役割は神と人とを直接繋ぐパイプのような働きをされます。したがって、聖霊なる神を冒涜することは、神の働きの断ち切りになります。これではそのひとは救われる可能性が全くのゼロになります。人は原罪があり、そのままでは永遠に滅びに至ります。人は聖霊なしには誰も「イエスは主」と言えないわけですから、聖霊を冒涜する=信仰へのパイプを失い、信じることが出来ないので永遠の罪に定められることになるのです。

2023年9月17日 (日)

大切なものと、こと

ピリピ 1章10-11節   2017新改訳

あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。

 たった一つのものを除いて、すべては滅んでいきます。また、たった一つのものを除いて、自分のものは存在しません。あらゆるものの内で、大切なものは一つしかありません。多くの人は知らず、また知っていても自分のものにできず、結局は失って行く。そのことを皆さんはご存知でしょうか。
 謎解きをしているのではありません。私たちが自分のものだと思っている自分の体も実は自分のものではありません。体は神から私たちが預かったもので、その管理者として私たちに委ねられたものです。
 しかし多くの人はそうは思っていませんし、やがて命が尽き腐って滅ぶ体と共に自分も滅ぶのだと思っています。しがみついています。体以上の価値のあるものを知らないのです。滅ばないものこそ、真実の価値があります。

 それは霊です。霊は滅ぶことがありません。なぜなら私たちは、黙示録で千年王国の時代の終わりに、すべての人の霊がよみがえり、神に裁かれること(最後の審判)を知っています。霊だけが肉体の時代にあったことを問われ、神に裁かれます。つまり霊だけが永遠であり、問われるたった一つのものだと聖書は記しています。

 その霊には三つあります。神と神に属するもの、人に属するもの、サタンに属するものの三つです。天使は霊的な存在ですが、神に従う霊であって、神に属するものです。同様に悪霊はサタンに従い、属する霊です。この両者にあって、人だけが中間的な存在です。けれども人は皆罪を背負っています(原罪)ので、十字架を信じなければ全ての人は皆、地に落とされる存在です。
 この原罪がわかっているかどうかが、福音を聞いて信仰の道に入るかどうかの非常に大きな違いを生むことになります。罪性に苦しむことは一見不幸なようですが、後に莫大な天の恵みを受け継ぐ土台になるのです。

 最後の審判時にすべての人がよみがえって、新しい体を着せられますが、天の国に迎えられた者は素晴らしい<御霊のからだ>を着、ゲヘナに行く多くの人々もまた、いわば永遠に苦しむための、滅ばない体を与えられるれます。
 このような人間の霊の裁きを見るなら、肉体の命がある私たちが今、何を思い、何をすべきなのかは明らかです。神と交わり、神の子として、父の御心を常に知り、その御心が行える者として歩まなければなりません。
 大切なもの、また大切なことは次のように明らかです。私たち人の体に住まう霊であり、聖霊と共に歩むことであります。他に何の大切なことがあるでしょうか?無いのです。

 

2023年8月 7日 (月)

聖霊と悪霊

エペソ6章12節   2017

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 精神の病は、代表的な統合失調症であれ、私がそばで見続けた摂食障害であれ、重症化すれば病識がないのが特徴である。この病識がないことで陽性症状と陰性症状を繰り返し、次第に重症化する。重症化すると深夜、自分に呼びかける声が聞こえたり、本人とは全く別な人格が見え隠れするのが特徴と言える。
 医学では重症化すると患者を隔離病棟に入院させ、寛解(完治ではない)に向けて治療を行う。しかし退院すると再発率高く、完全治癒はあり得ない前提である。病の原因がわからず、対症療法であるためだと私は思う。

 以上は精神科医が概略述べてくれたことだが、牧師としてこのような病状を聞くと、これは悪霊の働きだと見ることができる。悪霊に対し、神の霊でなければ追い出す事は不可能であって、治癒の可能性があるのがキリス教だけである。神の霊である聖霊のみが、取り憑いだ悪霊を追い出すことができ、精神の病を完全に癒やすことができるのだ。

 聖書によると、今から2千年前のシドンで、イエス・キリストは「悪霊に憑かれた娘」を癒やされた。本人には病識がないので、この場合は母が信仰によってイエス様のもとへ来た。イエス様がイスラエルで起こされた癒やし、悪霊の追放は隣国にも聞こえていた。堅い信仰を持っていた異邦人の女は、イエス様から拒まれたり、小犬だと娘ともども貶められようと、全く怯まなかった。信仰による癒やしの確信があったからである。それゆえ女は、イスラエル人が聞いたこともないほどの最上級のほめことばにあずかり、望みの癒やしを受けることになった(マタイ15:28)。
 次にマグダラのマリヤは、「七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人」(マルコ16:9)であるが、癒された後には、イエスら使徒の群れを実質的に支える働きをしていたが、十字架の死の証人となり、最初に復活のイエスに会い、最初に声をかけていただく栄誉にあずかった女になった。

 このように精神の病には世人に対し、悪霊の存在を明らかにし、悪霊をも用いて神の計画と栄光を明らかにされる。精神の病だからこそ、その原因である悪霊の追い出しによって、神の栄光と力の証人とされたのである。このことを主イエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」と言い表したのである(ヨハネ9:3)。

2023年5月28日 (日)

ペンテコステ

使徒 2章1~4節  2017新改訳

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

✝使徒 2章1~4節
「ペンテコステ」
ペンテコステはどのようなものであったかを使徒2章は記しています。イエス・キリスト復活の日からちょうど50日目のことでした。その時、エルサレムで120人全員が聖霊に満たされ、直ぐに異言を語り出したと聖書は記しています。聖霊のバプテスマを受けたかどうかは、異言がバロメーターだと言われます。しかし、異言はれっきとした外国語でありました。「ラーラーラー」とかの意味の通らない繰り返しではなく、その聞く人が聞けば通じるのが異言です。聖書がそう言っています。

 次にいくつか聖霊のバプテスマについて誤解がありますので、それをはっきりさせておきましょう。まず「エルサレムから離れないで」という指示があったのに、どうして弟子たちはガリラヤ湖周辺に行ったのか、と言うことです。これは単にこの指示が復活のイエス様が40日間居られた最後の頃に言われた指示だったはずで、何の問題もありません。
 次に水と聖霊のバプテスマ問題ですが、これはイエス様も言及された「あなたがたは間もなく、(水ではなく)聖霊によるバプテスマを授けられる(使徒1章5節)」の約束の成就です。聖なる聖霊様は罪と同居ができません。それを可能にするために罪を赦す十字架を負われたのです。全ては聖霊のバプテスマを受けさせるためのものだったとも言えるでしょう。事実、ペテロたちはそれまででもイエスを信じていました。しかし聖霊のバプテスマは受けていなかったのです。そして教会は、聖霊のバプテスマを受けて誕生したのです。聖霊のバプテスマが教会の土台なのです。
 熱心な伝道者でアポロがいましたが、彼は聖霊のバプテスマを受けていませんでした。従って彼が導いた人々も、パウロが会ってみると水のバプテスマしか受けていませんでした(使徒19章2~6節)。今日、水のバプテスマだけのクリスチャンが圧倒的な多数派になりました。しかし本来、教会は聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンの集まりです。多くの教会で、水のバプテスマと聖霊のバプテスマは同じであるようなことを言っていますが、これは知らないからで別物です。

 以上聖霊のバプテスマについて述べてきましたが、私自身の体験から申しますと、40歳の時、「聖霊のバプテスマ」という言葉を知って、天啓のように私は「これだ!」とわかり、狂ったように何としてでも受けようと、求め続けました。しかしどんな求めて探しても受けることができませんでした。10年経つとさすがに諦めるようになり、自暴自棄になり、罪100%に陥りかけました。惨めに信仰を失おうとしたある朝、突然に神のあわれみが降ったのです。
 みなさん、自分の力では自分に死ぬことはできません。聖霊のバプテスマも神様の御心次第です。今あの十年は、神さまが肉的な私を刈り込んでくださった、産みと整えの苦しみの時であったことがわかります。それが絶対に必要だったことも、感謝を持ってわかります。みなさん、どうか諦めずに熱心に求めてください。しかし努力や熱心でも不可能です。神は求める者をご存知ですし、あなた以上にあなたを知られる神は、神の時タイミングでそれを与えてくださいます。

 

 

 

2023年4月16日 (日)

わたしを愛してる人

ヨハネ 14章21節   2017新改訳

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。

 ここでいう戒めとは、イエス様が答えられた「主を愛し隣人を愛する」ことに他ならない。特に隣人を愛することは具体的な事項であって、教会内おいてまず実践されていなければならないはずだ。しかし時たま、このイエス様の戒めと逆の場面を目撃するのはなぜだろうか? それは信じている土台に、聖霊の有無があるかどうかの違いだと私は思える。
 聖書のすぐ後には次のようにある。 わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。(ヨハネ14章16節)
 この助け主に依らないでは、私たちはこの世の人々となんら変わらない存在である。主イエスを主と告白しても、側の人間には判別できなくとも、神はその人の心をその人以上に知っておられる。神の判別は聖霊の付与となって明確だ。それは実とも呼べるものである。

 それに関連して、次のような誤解が聖句に関連して多くある。
 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。(ヨハネ15章7節)
 このような聖句から、神はあたかもドラえもんのポケットのように、何でもお望み通り願いを叶えてくれる存在のように受け取られるかもしれない。確かに神に願い求めることは大切なことであるが、ただし、条件が一つ付けられていることを忘れてはならない。それは<わたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら>である。
 ここで«とどまっている»という意味の理解が重要である。これはぶどうの木で喩えられているように、実を結ばせるもの、つまり神からの聖霊を指しているとわたしは理解する。ここでも信じる者への聖霊の付与がポイントになっている。

 使徒時代は、信者が聖霊の注ぎを受けていることは特別なことではなくて、むしろ前提だったと言っていい。したがってマルコ伝16章の「信じる人々には」が「悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、蛇をつかみ、毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば癒やされる」のは、常に聖霊に聞き従って、御心通りに語るからであることがわかる。しかし聖霊が多くの場合失われてしまっている現代では、それが橋脚が脱落した橋のようになってしまっているのが現状なのだ。

 繰り返すが、本日のヨハネ14章21節も全く同様に、神を愛し、戒めを保って守り、その人を通してあたかも神が顕現されるよう なクリスチャンとは、聖霊が注がれているかどうかが決定的な前提であることを理解したい。

2023年3月12日 (日)

御霊に満たされなさい

✝ エペソ 5章18節   2017新改訳 

また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。

 酒は世の楽しみを意味し、一時のものであって、醒めた後は空しいものです。また酔ったが故に失敗することがどれほど多くあることでしょうか。そのようなものに頼るのは滅び行く人たちの業です。確かに聖書では飲酒を全面的に否定してはいません。しかこのエペソ5章18にあるように、基本酔うことを戒めています。この点我が国では酒は酔うために飲むのです。飲酒の背景がまったく異なるのです。御言葉の「そこに放蕩がある」とは酔うことを指しているのです。半砂漠地帯で乾期が長く続くこのパレスチナの地では生水が腐りやすく、葡萄酒が保存飲用として必用な事情もあるのです。
 特に個人的な体験から言いますと、かつて「酔うために」飲んでいた酒が、御霊に満たされること、つまり聖霊に触れられ信仰を増された時、酒を必用としない体に変えられ、いつの間にか数ヶ月も経っていたという経験をしました。御霊は、酒に酔うことをお嫌いなのです。御霊を受けた信者に酒は無縁のものです。逆に言うと、酒を必用としている限り、その人は御霊に満たされていないのです。

 さてこの御言葉、「御霊に満たされる」ということは、聖霊によるバプテスマを受けると言うことと同義です。確かにペンテコステの際、弟子たちは昼間から酔っているかのように誤解されました。確かに私たち人間というものは、すぐに醒める酒に空しさを感じます。最近発売されたマーリンさんの「獄中からの讃美」にもとづいた漫画「PRISON to PRAISE」が出版されたのを機に、その元本の方を読んで、この聖霊に満たされる有様に深く感動しました。ではこれからはその4章を中心に語らせていただきます。

  ここでは「今、信じなければ手遅れになる」という神からの一方的な語りかけに、マーリンは神の実在に震え、応じます。これは母や祖母の祈りが叶えられたとも、神の計画の御手が動いたとも読めます。マーリンが信じた時、御言葉が生きて語りかけたりし、牧師への道を歩むことになります。しかしクリスチャンの落とし穴とでも言うべきものにマーリンは陥ってしまいます。つまり動機は人助けしたいという純粋なものであれ、聖潔への道を自分の努力で掴もうとしたのです。

 しかし結論から言えば、それはまったく逆行するものでした。信仰の奥義とは、キリストが私たちの内に住んでくださり、内側から私たちを変えてくださることです。内住される神を信頼し歩んでいくなら、当然ながらその神と私たちが似たような者になるのです。

さらに神はへりくだられて、「わたしを用いてほしい」と仰っておられるのです。

 

 

 

 

2022年11月 6日 (日)

大能のちから

エペソ 6章 10節   2017新改訳

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

 ここでの「大能の力」とはなんでしょうか? それは同じ言葉が出ているエペソ書1章17節以降によると、次のように説明されています。「信じる者に働く神のすぐれた力」であると。私の理解ではそれは<聖霊の賜物>のことであって、信じられないほど偉大なものであるとパウロは述べているのです。もちろん私も全く同感します。ところがこの賜物に関して、多くのキリスト教徒は信仰の告白やバプテスマと同義語と見做し、神の「信じられないほど偉大」なこの恵みに与っていないのです。神の力を知らない、これは神と人にとって由々しき事です。その上現代では聖霊を知らない信者が圧倒的多数となり、聖霊の賜物について「熱狂的、狂信的」とか「カルト」視されている時代でもあるのです。しかし神にある者は、人から動かされることはありません。

 「大能の力」を求める者には、すべての栄光を神に帰す者になるべく、個々人に相応の道(神に己を明け渡す試練の過程)を通されることでしょう。したがって、神は人の心をご存じなので、神に対し、ご利益的な求めの段階の方は決して受ける事ができません。しかしそうでない方にも、もし不思議なわざが現されるとしたら、その方は悪霊に用いられている可能性が高いのです。
 大能の力は神である聖霊の力であり、人への賜物を通して現されるものです。それは決して聖書の範囲を超えるものではなく、個々への具体的な適用として用いられます。そうでないと、サウル王のように神が悔やまれることになりますし、終末が近い今となっては、神が悔やまれるケースはまず起こり得ないはずです。

 私たちの教会のアイデンティティは、まさに「大能の力」です。これを牧師である私は、一般のプロテスタント教会の誤解を解き、生ける神を崇める聖書信仰の上に、「聖霊の賜物」を用いる教会であるというイメージを追求し過ぎていたと反省させられています。それは年度末のタイミングで、かつて私が所属していた同じ教団の教会を訪れ、そこで痛切に感じさせられたのです。「お前はどこから出てきたのか?」と。

 ああ、みなさん、この群れの看板に偽りがなければ、私たちは「大能の力」ある教会なのです。立派な会堂も墓地もくつろげるスペースも、ついでに宗教法人資格も、世的なものは何もないかも知れませんが、主なる神が、聖霊なる神が居られ住まわれておられる教会なのです。神が主任牧師であり、神が聖霊を通して直接導かれる神の教会なのです。これ以上の大切なアイデンテティが他にあるでしょうか。そしてこのアイデンティティに堅く立たなければならないのです。
 ですから私は言います。賜物の代表である「癒やし」と「預言」をこの教会のこれからの看板にします。私たちは「癒やし」と「預言」の教会、これをこれからはあからさまに積極的に押し進めて参ります。

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