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聖霊

2020年10月11日 (日)

御霊に導かれる

✝ ローマ 8章14節   【新改訳2017】

 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

 本日の聖書箇所は「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです」ですが、これには注意が必要です。これを「クリスチャンはみな神の子ども」と解する人が多いのですが、その前提である「神の御霊に導かれる人は」を無視してしまいがちであることです。つまりバプテスマを受けていても、その人が御霊に導かれ(続け)ていなければ、神の子と言えるかどうかわかりませんよ」という風にも理解できるのです。

 多くのキリスト教会では三位一体の神と子なるキリストは強調しますが、聖霊なる神についてはそうではありません。勿論否定はしませんが、聖霊派やカリスマの教会ほどではありません。しかしこの聖書箇所から見れば、御霊つまり聖霊なる神との親しい交わりを抜きにして、神の子というクリスチャンの特権は怪しいものなのです。

 この前節の13節に「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます」とありますが、御霊に生きる人には明確なしるしがあります。それは御霊によって、あるいは依り頼んで肉の行いを殺していることです。そのような人は神の子どもなのです。

 からだの行いって何でしょうか? 妬み、怒り、人を恐れ人を憎んでいる、要するに世の人と何ら変わらぬ人であって、いつも自分を守ることに汲汲としています。そのような自分に疑問を感じませんし、たとえ変えようと思って努力し、牧師に祈ってもらったとしても無理です。普通の人なら自殺するか世捨て人になるしかない罪の深さは、到底受け入れることは困難です。しかし神のあわれみと愛が聖霊様を通して注がれれば別です。自分の罪深さを知れば自分自身に対する希望を捨て、十字架が自分の罪のためであったはっきりわかります。これは聖霊の力であり、選ばれた人であるしるしです。他の人にない、ちょうど主がたどられたように、受難の道を通らされた道の結果でもあります。

 神の子は例外なく、聖霊の油注ぎを受けています。そのような人は、自分が価値があると思っていた一切が、まるで<糞土>のように思える変革が起こした経験を持っています。神の子は、それ以後、聖霊の力に導かれ支えられ、己の肉なる思いに戦いを挑み続けることになります。それまでの自分を騙してきた憎き肉なる思い、世の力、それから生じる行ないに勝利を得ようとし、実際に真の解放と天的な喜び、恵みを体験します。このようなクリスチャンはからだはたとえ世に在っても、天にある父の子の一人として父のみこころの道を歩むのです。
 どうかお一人おひとりがそのように神様に祈り、求めて行っていただきたいと思います。

2020年8月30日 (日)

ゲッセマネのように

✝ 詩篇34篇18節   新改約2017

【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる

  日本の多くの教会は2030年問題と言って、今や死を待つホスピス状態のようです。十年後には教会員がこれまでの1/3に減少、会堂も朽ち、多くが消滅します。伝道はおろか、我が子ですらそっぽを向かれ、ただただ高齢化して来た教会の現実です。
 私は何十年も福音派の教会におりましたので、このことが分かります。神を信じ、聖書も大体は神の言葉として受け入れ、しっかり学んでいるのですが、何が足りないかと言えば聖霊の力です。三位一体の聖霊がごっぽり抜け落ちているのです。教会は聖霊の降臨(ペンテコステ)によって発足し、聖霊の力強い働きによって、今日のキリスト教となったのです。この聖霊抜きに、教会と福音の力はなく、教会は生ける屍なのです。

 聖霊なる神について、すでに四週以上にわたって語っていますので、今回は省きますが、聖霊の油注ぎ、満たし、バプテスマほどないがしろにされてきたことはありません。あれほど聖書にはっきりと書かれていることを、必要ないと否定した当然の報いです。自分たちの信仰にどうして「力」がないのか分からず、ただ万策尽きているのが現状です。逆に聖霊派、カリスマ派である私たちの恵みを痛感します。

 ゲッセマネはイエス様が最後の時間、神への祈りの時を過ごされた所で、今もオリーブ園があります。ヘブル語では「オリーブプレス」、つまり収獲したオリープの実をすりつぶし袋に入れて圧搾する、オリープの油絞り機があったゲッセマネです。すりつぶし、大きな圧をかけてオリーブオイルがにする…受難を目前にされたイエス様が、最後の場所として過ごされた所として何とふさわしい所でしょうか。全く罪の無い聖なる神ご自身が苦しみの果てに、十字架によって全人類への愛と赦しの油を見事に現された姿を場所でした。

 私たちはキリストに自分のすべてを捧げて従い、キリストに倣(なら)う者です。キリストが耐え忍ばれたような苦難を受けるのは、従う者に当然なことです。ヤベツの祈りはすでに苦難を受けた者の祈りだと思います。私たちの教会では、既婚者は全員が伴侶との死別を経験しています。実際これは神により頼むための恵みでした。キリストに倣う者としてふさわしいことだったのです。

 ヨセフもダビデも、パウロもそうでしたが、苦しむことなく、神に用いられることはありません。とすればゲッセマネの苦しみなしには開かれることのない、勝利の、恵みの世界が在るのです。私たちはそれを体験しており、知っています。聖霊様が私たちと共におられ、私たちの人生を通して、神は生きて働かれていることを、私たちは証します。

2020年8月 9日 (日)

主と交わる

Ⅰコリント 6章17節   【新改訳2017】

 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。

 むかし、クリスチャンの集まりで「聖霊様が・・・」と、つい私が夢中になって話題にすると、大抵が困った顔をされるか、いぶかしんだ表情をされるのがおちでした。私自身も信仰を持って二十年以上そうだったので気持ちはよくわかるのですが、それでも触れないわけにはいきません。なぜなら聖書が教える神に喜ばれること、義はみ心を行うことはひとり、聖霊様に拠っているからです。

 イエス様は聖霊様を私たち一人ひとりに送るために十字架に架かられました(ヨハネ16:7)。十字架以外に人間の罪の赦しは不可能です。また聖霊だけが、神のみ心を知っておられ、私たちに真理を解き明かしてくださるのです。真理とは罪について、義について、さばきについて(ヨハネ16:8-11)です。み心を行うには、聖霊様に聞くしかないのです。
 また聖霊様が来られることによって教会が誕生し(使徒2章)、教会はこれを送ってくださったキリストの霊で満ちている所(エペ1:23)です。聖霊なる神はもう終わったという奇妙な説は誤っています。三位一体の神は不変であり永遠です(へブル13:8)。

 ですから私たちクリスチャンは、聖霊様と共に歩むのでなければ、ただの力のない存在であって(使徒1:8)、み心を行って義とされ、神の栄光を現すことはできません。ではどうやって? 答えは簡単です。聖霊なる神と交わり、一つになる(1コリ6:17)のです。その土台は自分を無とされる徹底した罪の告白と悔い改めにあります。自分の義が少しでも残っていたならば、聖霊に満たされることは不可能です。しかし人は、自分が神に捧げきれていない所には自分で気づけません。内住される聖霊様だけがすべてをご存知ですから、神の愛を信じ、心から願い続け、必ず報いてくださることを信じるのです。

 なかなか聖霊の満たしやバプテスマが与えられないことを「聖霊は風、だれもその気ままさはわからない」と言う方がいます。これは神の御意思を尊重したようであっても、とんでもない思い違いをしています。第一に神は私たちを愛しておられます。第二に最善は私たち人間には分からず、神は最善しかおできになりません。第三に神は私たちの自由意志すら尊重してくださる全能のお方なのです。

 主と交わり、神のすばらしさを知って私たちは完全に変えられます。神のみ心を何が何でも行ないたいと願うようになるからです。祈りが自分の願い事から、神のみ心を行えるようにと強く変えられます。キリストがそうであったように、私たち人に過ぎない存在が、父の思いを知って、子として自ら進んで行おうとする者に変えられて行くのです。

2020年8月 2日 (日)

聖霊と教会

イザヤ55章8- 9節   新改訳2017

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

 本日のメッセージは、これまで二回にわたって聖霊なる神の学びを振り返りかつ、欠けていた教会との在り方追加するのが目的です。

(1)聖霊は三位一体の神であること。従って神を知り、神に聞き従おうとするなら、自分の内に住まう聖霊に頼るということが一番になります。〈✝1コリ2:11〉
(2)聖霊様はたぐい稀な人格をお持ちであること。知恵・意思・感情をお持ちの助け主、癒やし主。聖霊様は、神の愛の体現者です。〈✝ヨハ14:16〉〈✝エペ4:30など〉
(3)聖霊は真理のみ霊であって、罪について、義について、さばきについて明らかにされる。〈✝ヨハ16:8-1〉
(4)本日の中心~教会が聖霊降臨によって誕生したように、教会の頭はキリストであり、そのキリストが十字架に架かられたのは聖霊を私たちに送られるためであったことが最大のポイントになります。従って聖霊の働きがない教会は、どんなに聖書信仰を標榜していたとしても、力のない働きしか出来ません。
 そのような教会は水のバプテスマと聖霊のバプテスマを同一視しています。教会誕生のペンテコステでは、その場にいた全員が神とイエス・キリストをすでに信じていた人々で、水のバプテスマを既に受けていた人たちと言えます。またピリポによるサマリヤ伝道〈✝使徒8:16〉、雄弁なアポロによるエペソ伝道 〈✝使徒19:2〉からも、教会の発足当初からすでに、聖霊のバプテスマが水のバプテスマとは別物であったという認識を示しています。

 聖霊の賜物は教会の徳を高めるために用いられるものです。特に預言は旧約の時代から神のものか人からのものかが問われるのですが、新約時代は聖書と聖霊の内住という強力な吟味の土台があるので、預言は受け取る方が必ず吟味の上、用いられます。また礼拝時や教会に関わる預言の吟味は、教会の霊的責任者である牧師に委ねられるべきです。要は一つの神が言葉をくださるのですから、そこに混乱や分裂があるはずがなく、一致したものであることが見分けのポイントになるでしょう。

 最後に申し上げておきたいことは、聖霊の賜物は与えられたとしても自分の所有物ではないことです。み心に従って用いるよう、一時的に神から預けられているもの、管に過ぎないと言うことです。謙虚にし、これを忘れてはなりません。

 

2020年7月26日 (日)

聖霊とは

 ✝ ヨハネ 16章7- 8節   【新改訳2017】

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

 イエス・キリスト様の公生涯を通じて、弟子たちはイエス様が共にいてくだされば絶対的な安心を得ていました。嵐が来ようと、どんな病人や障害がある人が来ようと、何千人の人が食する必要があろうと、さらに権威や権力に頼る人々が悪知恵やたくらみをしかけて来ようと、これらのすべての結果は、驚嘆と神への賛辞に終わったのでした。しかし三度目の過ぎ越しを迎え、そのイエス様が自ら居なくなると予告されはじめられ、従っていた弟子たちに不安が生じるのは当然でした。

 しかし主は「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になる(ヨハ16:7)」と約束されたのです。その当座は理解できませんでしたが、実際そうだったのです。主はパラクレイトス(パラ=ご自分と同等の/クレイトス=助け主、慰め主)と呼ばれるもう一人の神、聖霊様を私たちに送って下さるために世に来られたのです。この神は三位一体の神ですが、私たちの内に住まわれることがおできになるのです。しかし神は」聖ですから、罪ある人には入れません。そこで神ご自身による購い、十字架の罪の赦しが必須だったのです。
 ここでハッキリしなければいけないことですが、罪とは何でしょう。人は本来善なる者として創造されましたが、一人の人、アダムによって、全人類が罪人となりました。皆さんは誰一人例外なく罪人であって、滅びの子なのです。しかしひとりの人の十字架を信じることによって、罪が赦され、聖霊様が住まわれる道が開かれたのです。つまり罪とはイエス・キリストを信じないこと、これが罪なのです。

 この聖霊なる神様とはどんなお方なのでしょうか。心しなければならないことは(神格と書けば誤解されますので)人格をお持ちであると言うことです。私たちが助けを求めて聖霊様に祈ったり、交わろうとするのも、もし人格をお持ちでなかったら機械や物に向かってすることになり、それこそ笑い話です。逆に人格をお持ちになるからこそ、人格の特徴である次の三つのこと…1聖霊の賜物を誰に賦与するかを決める(使徒15:28・16:6-7※しかしあくまでオーナーは聖霊様です)、2聖霊様は神のみ心を完全に知っておられる(1コリ2:10-11)ので、み心を教えてくださる、3さらに感情をもお持ちなので、私たち一人ひとりに悲しんでくださったり痛んだりしてくださる…・を忘れてはならないと思います。
 聖霊なる神は私たち一人ひとりの霊・たましいに親しく交わってくださり、決して見放されず、愛し尽くしてくださる驚くべき神です。何という恵みでしょうか。私たちはこの方と共に世に在って生きるのです。

2020年7月19日 (日)

聖霊

  民数記 11章29節   【新改訳2017】

モーセは彼に言った。「あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。【主】の民がみな、預言者となり、【主】が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」

 モーセが民を導いた荒野の四十年は過酷な道でした。出エジプトの栄光はどこにあったのかと思われるほど、イスラエルの民は主なものだけでも十数度、数え切れないほど神とモーセに不平不満と反逆を繰り返しました。モーセは塗炭の苦しみを味わったのです。遂にモ-セは「主の民がみな預言者となり、主がかれらの上にご自分の霊を与えられると良いのに」と言いました。この時分け与えられたのは民の長老七十人でしたが、千五百年後に、このモーセの言葉は現実になりました。神の子イエス・キリストを信じる者は、そのすべての罪が十字架によって赦されたからです。
 大事なことは、十字架で罪が赦されたのは、聖霊を受けるためであったと言う事です。聖霊は罪ある中に住むことは不可能です。義にして聖なる存在だからです。信じる者に内住される聖霊は神であり、真理の御霊であり、パラクレイトスと呼ばれる助け主、慰め主です。真理の御霊は罪について、義について、さばきについて私たちに解き明かしてくださるのです。

 さて、御霊の満たしと聖霊のバプテスマとは混同される面がありますが、聖書では聖霊のバプテスマを受けているはずのパウロが、「聖霊に満たされ」て魔術師バルイエスをにらみつけ、しばらく盲目になるわざを行っています。これらから聖霊のバプテスマと言う明確な個人的な体験後にも、聖霊による満たしは適宜起っているのです。私たちの群れでは「聖霊のバプテスマとは聖霊の満たしの最初の現れ」と定義しています。聖霊の満たしによって起こることは、もちろん神の働きであり、顕著な神の栄光と実りをもたらすものです。神に不可能はないからです。逆に聖霊に満たされた働きでありながら、何だか訳の分からないものになったということはあり得ません。それは神からのものではありません。

 さて聖霊は真理の御霊、光ですから、隠れた人の罪を明らかにします。その結果、自分の真の姿=罪そのものの自分が明らかになり、己ではなく神に全ての希望を見出すようになります。つまり自分を捨て、神に自分を委ね、神に聞き従うための献身という強い動機をもたらします。聖霊のバプテスマや満たしを受けたと言いながら、この真理の御霊の働きが実として現れないことはなく、その場合は今一度、強く求め続けるスタートラインに戻る必要があるでしょう。聖霊の満たしは、それほど熱心に強く求める値打ちのあるものです。

2020年6月14日 (日)

一つになりたい-may be one-

ヨハネ 17章22-23節        【新改訳2017】

またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

  先ほど特別讃美曲「通り良き管として」で「あなたと一つになりたい」という歌詞がありました。英語ではmay be oneです。ちょっと驚きました。直訳調で言えば「一つになるため」ではなく「一つになれるかも知れない」って、期待的なんですね。
 この章はイエス様がこれから十字架に架かり、その先の復活もペンテコステも未だという段階です。世を去るにあたって、イエス様が最も心しておられたことは「弟子たちが一つになる」ことでした。何と一つになることでしょうか。それは弟子たちが団結して一つになることではなく、聖霊の神の支配によって、一つの御霊のものとなることだったはずです。なぜならそのためにこそ、これから十字架の御業を成し遂げ、復活とペンテコステによって最終的に「一つになる」ことが完成するからです。

 見逃せない点は、ペンテコステが信じた者における聖霊のバプテスマであったことです。つまり聖霊のバプテスマを受けていなければ、どんなに神を信じていようと、一つにはなれないのです。今日の教会のほとんどの問題が、この一点にあると言って良いでしょう。かつてキャサリン・クールマンはそのミッションスタッフについて、聖霊のバプテスマを受けていないスタッフとは、共に仕事をすることは出来ないと明言しました。それは当然なことであり、今も同じです。

 ですから私たちは主イエスが祈ってくださったように、聖霊の内住に留まらず、聖霊のバプテスマを求めましょう。問題は聖霊のバプテスマの認定です。明確な体験があることが目安になります。自分が受けたかどうか分からないような聖霊のバプテスマがあるでしょうか? また神さまとの体験をされた方で、はっきりしない方、その方は祈り求めてください。may beですが、必ず与えられるはずです。

 聖霊のバプテスマは、九つある聖霊の賜物以前に新生を伴い、その聖霊の実を実らせます。私は賜物よりも実の方を重く見ます。祈りましょう。受けた人はますます注がれ続けられるように、受けていない人は荒野でマナを求めるように、あきらめず熱心に祈り求めましょう。神はあわれみ深い方なのですから。

2020年2月16日 (日)

霊的存在について

1ヨハネ 4章4節   【新改訳2017】
子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。

 霊的存在には神・天使・人と三つありますが、天使については堕天使という存在もあります。堕天使にはサタンとか悪魔とか呼ばれている元大天使と、その配下であった数多くの悪霊たち(元天使)がいます。サタンは神に造られた被造物の一つで有限な存在です。ですから、神のように多くの事を一度に処理できません。サタン的な多くの事柄は手下の悪霊どもの仕業になります。

 天使たちは神に忠実であって、御心を行おうとする人にも仕える霊(ヘブル1:14)ですが、サタンたちは逆に何とかして神の計画を妨害し、大勢の人の霊を自分たちの行く所に道連れにしたいのです。ですから彼らにとっては、特にクリスチャンを惑わし引きづり落とすことが彼らの最大の目標です。クリスチャンに迫害や困難が多いのは事実で、「神に従い、悪魔に対抗」して戦う(1コリ4:7)ことがクリスチャンに課せられているのです。十字架がサタンの勝利から一変して神の大勝利になったように、私たちは神によって、神の栄光を現していきます。このことは本日の聖書箇所である1ヨハネ4:4に明らかです。

 さて〈悪霊に憑かれること〉と、〈悪霊の攻撃を受けること〉はまったく異なる事です。クリスチャンが悪霊に憑かれることは基本的にほとんどありません。クリスチャンには聖霊が内住していますので、悪霊との同居は出来ないからです。ヤコブ 3章11~12節に
"泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。"とある通りです。

 ですからもしクリスチャンが悪霊に憑かれたとするならば、次のようなケースでしょう。 一つは精神の病いになったケースです。これは過去の深い傷などから引き起こされるもので、最終的には悔い改め、信仰の強さ、神の勝利の栄光を現す事になります。
 もう一つは最初から信じていなかったケースです。敵が播いた毒麦は当初は判別が困難ですが、実りの時期にわかり、収穫の時期に神が選別し裁かれるのです。

 悪霊の特徴はなんといっても人を惑わす(だます)ことに執念を持っていることです。イブの時代から同じです。人の向上意欲を悪霊は巧みに利用し、地位、名誉、物の所有、権力などの果てしない欲望の追求に駆り立てるのです。要するに誇れる事はサタン的です。
 古今多くの戦争はこの類が原因となったように、自分を守ろうとすることでも、サタンは過剰な反応をさせて働きます。また悪霊は自分の正体がバレてはだますことなどできませんから、彼らは見事な詐欺師集団です。これと戦うためには、聖書と祈り、聖霊の実際的な助けによらなければなりません。

2020年1月12日 (日)

流されないで確信に立つ

ヘブル 2章3-4節   【新改約訳2017】
私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、
そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。

 最近私たちの群れでYouTuberが募集され、この呼びかけにすぐさまいく人かによって作られました。た中に、「カルトかどうかはてめえが決めろ!」がありました。タイトルこそ刺激的ですが、要はネットなどでの批判や中傷に対し、風評や単なる決めつけではなく、自分の目と耳で「本当にカルトなのかどうか」確かめて判断して欲しいということでした。
 確かに、そうでなければ、ただ無責任に付和雷同しているだけです。このようなネットでの無責任な書き込みが、今や社会問題になっています。しかもこのような事が、真の信仰の道を求める人たちを惑わしたとすれば、その報いは考えるのも恐ろしいほどです。

 私自身、三十年間福音派のクリスチャンでした。その経験から言えることは、彼らが聖霊について無知であるということです。聖霊の助けなしには新生もなく、聖書も核心部分が理解できません。ですから見えない人が見える人を裁いているのが現実なのです。実際、カリスマの私たちの方が聖書に忠実であり、生ける神の聖霊が働く、真の教会なのです。
 私たちには荘厳で立派な会堂はありません。世で成功し、社会的な地位がある人の割合は少ないことでしょう。しかし教会とは建物や人の外見ではなく、信仰こそが全てです。
"教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです"(エペソ人への手紙 1章23)ここで「満たす」とは聖霊なのです。

 ところでルカによる福音書7章18-23節に、洗礼者ヨハネが弟子の二人をイエスのもとに遣わし「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」と問い合わせています。イエス様はその二人の弟子とヨハネに対し、今この瞬間にも起こっている見聞きした事実だけを伝えるよう語られました。
「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」これはメシア預言の成就を確証させるものでした(イザヤ53章他)。その他のメシアであることを証しとしては、ダビデの子孫であること、ミカ書で預言されていたベツレヘムでの生誕とか、聖書全体がそうであることを物語っています。

 私たちは見るもの、聞くものによって押し流されないで、ただキリストの証人として堅く立つのです。その力は神を体験として知っているからです。つまり聖霊の満たし、聖霊のバプテスマです。私たちは世人よりも、神の御心を選び、従う生きた証人なのですから。

2019年11月 3日 (日)

召命

使徒26:16-18   【新改訳2017】
16 起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
17 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。
18 それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。』

本日の聖書箇所はパウロが神からの召命を受けた箇所です。召命とは使徒26章17節に神から「わたしは、なたをこの民と異邦人のなかから救い出し、彼等の所に遣わす」とあるように、神がダマスコ途上でパウロを救い出し(deliver=解放し)たのは、迫害の先頭に立っていた者こそ、もっともその誤りを是正でき、頑な民に対する適任者として、パウロを遣わす (send=送り出す)というためでした。

このような例はたくさんります。かつて学生運動の先頭に立っていたリーダーの学生が、なんと政治的には真反対の新聞社に入社したことがありました。私は三十年近く、聖書中心主義を標榜しながら、聖霊の働きと奇蹟を否定する、いわゆる福音派の教会のただ中にいました。世的な方法の術を用いながら、どうして教会がこれほど力が無く、信仰が無いのか、いつも憂い続けていたのす。しかし周到な神の計画によって、私は忌避していたカリスマの教会の牧師になりました。それはちょどパウロがどのような迫害を受けようと、ユダヤ人の救いを心から願い続けたように、私もまた福音派の問題をことさら指摘するのは、彼等が真の神と出会えるよう心から願っているためなのです。

さて召命とは使徒9章17節にもありますように、「聖霊に満たされる」ことが土台になります。第一、パウロのような大きな出来事でも無い限り、神の声は聖霊のバプテスマなど聖霊様との交わりが開通していなければ聞こえないことでしょう。また、神は用いられる人個人についても、用意周到に準備されます。モーセはパロの家で育てられました。パウロは当代随一のラビ、ガマリエル門下で律法の専門家となっていました。それとどうようなことが召される人、お一人お一人にあるはずです。ですから召命を受けたその瞬間に、その通らされた道から、自分の人生はこのための人生であったことが大方、悟るはずなのです。
また聖霊の賜物についても、私には次のように示されています。神は、召命に伴って必要な力、預言者には預言の賜物を、伝道者には奇蹟の賜物をなど、それぞれに必要な神の賜物を与えてくださるのです。したがって聖霊の賜物は各人がほしいと思うようなものを願って与えられるものでなく、神の計画、使命を遂行していくために与えられる性質のものなのです。勘違いをしてはいけないと思うのです。

最後に「神の賜物と召命は、取り消されることがない(ローマ11:29)」のですから、与えられた確実な使命は、この世での命が尽きるまで、離さず全うできるようにしましょう。