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聖霊

2018年11月25日 (日)

聖霊の目的

ルカ11:5-13 (13節中心)   【新改訳2017】

 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 この聖書箇所はちょっと聖書を読んだ人なら、大抵は覚えておられる所でしょう。示された「神さまが私たち人に、最終目的として聖霊を与えてくださるのはなぜか?その目的とは?」に思いをはせる時、この箇所が浮かんできました。神さまとは、このようなお方なのだと・・・。

 ここでのポイントは「必死さ」です。同じく「必死さ」を見るなら、悪霊につかれた娘を持ったシドンの女の叫び、エルカナの妻ハンナの祈りも参考になるでしょう。神さまは私たち人を通してご自分の目的を果たされますし、御栄光を現されます。人を用いられる時、神様は人の「必死の願い」をかなえる形でお実現されるのです。もっとも、そのように導かれる面もあるわけですが。そういう意味で「求めなさい。そうすれば与えられます。」は「必死になって」が大切になります。が、人間がそうなろうとしても、なかなか難しいものです。

 今から四十年も前の私の経験ですが、長女が生後三十日ぐらいで、前妻が腰を痛めて突然寝たきり状態になり、その検査と治療のため入院するハプニングが起きました。当初、娘には粉ミルクで大丈夫だと思っていたのですが、実際にやってみると口の周りに発疹が出始め、診察してもらうと人工乳のせいだとわかりました。粉ミルクは飲ませられず、かといって母乳も新生児は病院に立ち入り禁止で飲ませられません。しかし時間が来れば乳児は乳が欲しくて「おぎゃあー」と泣き叫びはじめるのです。そしてところ構わず、私の胸にも吸い付き始めました。

 私はこの子におっぱいを飲ませてやりたくて、やりたくて、神経は正常ではなくなってしまいました。どうしたらよいか、気が狂うほどになりました。父の葬儀にも涙を見せなかった私が、生まれて初めて、赤ん坊を抱えて泣いてしまいました。

 罪深い人の親ですらこうなのですから、天のお父様は私たちの求めに、何としてでも応えてやろうとしてくださっており、お心を痛めてくださっていることは、痛いほど分かります。父に求める者に、父は今年の年間聖句のように、遂には30倍、60倍、100倍の結果を酬いてくださるお方なのです。

 話を戻します。この聖書箇所、ちょっと変に、唐突に思われませんか?13節「それならなおのこと、天の父は(最上の良いものとして)、ご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」の≪聖霊≫と言う言葉です。その前後に、この聖霊という言葉や、ニュアンスがまったくありません。こういうところに、つい、神さまの本音が出た、私はそう思うのです。そうです、「聖霊」こそ主がお奨めになる最上のもの(ヨハ20:22)であって、私たちが真に求める最善のものです。逆に「聖霊を冒涜する者は赦されない」(マル3:29ルカ12:10)ということにもなるわけです。
 復活についても、生ける神の確信、その交わImg_9519_2りがあってこその「御霊の体」を実感できることです。

 本題に入りましょう。「聖霊」という言葉を使いますが、これは聖霊のバプテスマの≪聖霊≫のことです。確かに十字架を信じバプテスマを受ければ聖霊様が内住されます。十字架によって告白した罪は完全に赦されています。しかしそのような内住される聖霊のことを言っているのではありません。

 私もそうでしたが、聖霊のバプテスマを受けていない人に、「聖霊のバプテスマとは」を語っても、それは体験であり、十人十色であって伝えることは本当に難しいことです。もし受けていないのであれば、ぜひあきらめずに求めて下さい。

 再度自分の話をします。クリスチャンになって30年近く経った40代の後半から50歳過ぎまで、私は何とかして聖霊のバプテスマを受けたたいと願うようになりました。癒やしを求めて長年居た教会を出て、癒やしを求める過程で聖霊のバプテスマがあることを知りました。そうなるとどうしてもほしくなり、東にベニー・ヒン来たればそのイベントへ走り、西にそのような霊的な教会があれば祈ってもらいに行くという何年かを過ごしました。その他、ネットでの掲示板やチャットでも、いろんな方にずいぶんお世話になりました。しかし結果として「聖霊のバプテスマ」は遠く、この燃えるような熱い望みは叶えられなかったのでした。

 叶えられたのは、その熱意を失いかけ、ほとんどあきらめた時でした。一時の情熱を失うと、やがてすさんで自暴自棄になっていきました。クリスチャンの堕落は悪霊たちにとっては大物で見物らしく、その瞬間を見ようとぞろぞろと私の頭上に集まって来ており、期待されて見守っているのがわかりました。それが分かったのは、今しも彼らのぶら下げた鈎針つきの獲物を私が飲み込もうとした瞬間だったのです。「自分が悪霊たちの見物になっている」、ハッとして私は目が覚め、自分の真の状態、本質的な罪に気づいたのです。問題の被害者に自分をし、自分を義としていた罪でした。

 私はあまりのことに三日三晩悔い改め、日曜日が来た時、この時が最初で最後ですが、「もう教会なんぞに汚れた自分は行けない」、そう思いました。しかし行けないと思っていたのに、なぜか車に乗り、入れないと思っていた教会が見えた時、神さまの方で私に触れてくださいました。罪人を愛してくださる神さまの愛がわかった瞬間でした。

 神に触れられた私は、恐れおののき、またそれまでの教会、神が居るか居ないかのようなような曖昧な信仰の教会には二度と行けないと思いました。神は確かに生きておられ、今も働いておられるのです。ですから主の十字架は、神さまが「私の御体は何処にあるのでしょうか?」と言う祈りに応えて導いてくださった教会です。また聖霊のバプテスマはその後、すぐに受けました。まるでアニメ「風の谷のナウシカ」でのラストシーンに近いオームのシーンのようだったのですが・・・。

 本題に入りましょう。聖霊のバプテスマは完全に神の主権に属するものですが、必死に求めるならば、神は与えてくださいます。しかしその下さり方は人それぞれであって、定まったものではないようです。私の場合も熱心に求めましたが「はい、どうぞ」というようなものではありませんでした。自分を徹底的に無とされてからのことでした。考えてみればこれは当然のことです。自分と聖霊様が一つの中に同時に主として住むことはできません。私という自己愛が滅ぶか、少なくとも首位の座を降りなければならないのです。「主よ、主よ」と呼んでいましたが、それは口先だけのもので、本当に主を主としてはいなかったのです。

 次にいよいよ本題そのものですが、十字架は何のため? それは罪を赦し永遠のいのちを下さるためです。復活はその具体的な天上の姿であり実質であって、神の栄光を現すものです。十字架と復活の五十日後、信じて待ち望んだ弟子たちには約束のもの≪聖霊(のバプテスマ)≫が注がれました。が、逆に言えば、十字架と復活は聖霊を送るためにあったということではないでしょうか。それほど聖霊のバプテスマは大切なもの、神が人に与えようとされている最善、最高のものなのです。聖霊によって、改めて十字架と復活が大切なものにもなるからです。これは神の目的なのです。

 大宣教命令も聖霊のバプテスマの力なくしては絵に描いた餅です。私は三十年近くのいわゆる福音派の教会でいやと言うほど体験しました。(※ルカ24:49「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。」)(※使1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」。しかし聖霊のバプテスマを受ければ分かることですが、十字架も復活も聖霊によって、リアリティーを持って我がこととわかり、待ち望むようになります。その意味で、殉教も恐れることがなくなっていくことでしょう。信仰が堅くされるこれらのことすら、ある意味、副次的な者ものに過ぎません。

 神が下さる聖霊のバプテスマの目的は、ずばり「交わり」だと今は思っています。考えても見てください。神は子として私たちを愛してくださっています。父としては子に、最善なものを与えたいと思っていらっしゃいます。そして「子ども(=私たち)が魚を求めているのに、魚の代わりに蛇」でなく、もっと素敵なもの、それは13節の「それならなおのこと、聖霊を」の「聖霊」なのです。聖霊を通して私たちは神さまと交わります。子としての実質が聖霊であり、子としての証印が聖霊なのです。

 聖霊を通して私たちは父と交わることができます。親は子と交わりたいのです。幼かろうと、出来そこないであろうとも、そうなのです。また子も、実の父を知りたい、父と交わりたいと願うのです。もしそうでないなら、それはもはや親子ではありません。せいぜい継子か、または私生児です。
 父は聖霊を通しての交わりによって、ご自分のみ言葉を解き明かしてくださり、祈りに応えてくださいます。また父の、声にならない声を聞きます。九つの聖霊の賜物も父から来るものであって、教会のものであり、わたしのものではありません。自分に与えられて得られるものだと誤解している人もいますが、父からの預かりものであって、聞き従って用いるだけのものです。

 何よりも、私たちは聖霊さまを通して日々交わり、神さまを深く知ることによって、この方を信頼し、深く愛するようになります。神の愛には到底及ばないものの、愛には愛をもって、ただ応えて行く。その結果として、自分よりも神さまを本当に愛するようになるのです。
 よく聞き従いと申しますが、その本質は神を愛するからだと思います。何とかして愛する方の思いと計画を実現したい、それがみ心を行いたいという願いとなり、主が用いて下さることになります。それも深く交わることによって、相手の考えていること、願っていることがかなりわかるようになるからです。
 聖霊のバプテスマを受けるまでは、「聞き従い」とは聖書に代表される神のことばや教えを逸脱せず、守る、従うかも知れませんが、聖霊のバプテスマを受けてからの聞き従いとは、「(自ら進んでの)どうぞ私をお用い下さい、させてください」なのだと思っています。神様は愛なるお方なので、命令を好まれません。この段階では神は、私たちの自由意志を尊重して下さるのです。これが神が私たちに聖霊を与えようとしてくださる目的だと思っています。繰り返しますが、神は私たちを使用人や兵隊のように、何事かを命令して用いようとしておられるのではなく、私たちの意思を尊重し、願いを生かすようにして私たちを用いようとしておられるのです。これって、素晴らしいことではありませんか。

2018年7月22日 (日)

聖霊を悲しませない

エペソ 4章30節  【新改訳2017】

 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

この聖書箇所は昨日の聖書通読箇所です。「聖霊を悲しませてはいけません」とありますが、読まれての感想がございますか。
「ああ、中村牧師がよく言っていた御言葉、ここだったのか!」と気づかれた方?はい、その通りです。私が再々触れる大切な御言葉の箇所はここなんです。どうして大切なのか、説明をしましょう。

 端的に言って、「悲しませたくない」とは、親子とか兄弟のような相手との切っても切れない関係で生じる言葉であって、情緒的な言葉でもあります。たとえばニュースで知っただけとか、通りすがりだけの人に対してはあり得ない感情でしょう。

 そうです、「神の聖霊を悲しませてはならない」とは、何ものにも代え難い大切な関わり、交わりがあるので、その方の意思を無駄にし、背いてはいけないという自制が働くのです。たとえば私ですが、私は子ども時代から空想のストーリー作りに耽る癖があります。しかしその主人公は大抵、肉的にすぐれた力を持っていた者であり、そのサクセスストーリーが常なのです。以前、自分でその誤りに気づき、聖霊様からも注意されていたこともあって、そちらの方に行かないよう、止めるよう心がけています。

 朝一番は「聖霊様、おはようございます」と神様へ挨拶し、その祈り、交わりに入ることが重要です。朝一番の時間を、神の前に捧げることは信仰生活のポイントです。しかし夢うつつの中、妄想に耽ってそれを怠っていますと、最中や終わった後、聖霊様がひどく悲しまれておられることがわかるので、私は「神様、あなたをないがしろにしてごめんなさい」とひどく後悔するのです。

肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。」(ガラテヤ5:17)    

とある通りです。ですから「御霊によって歩みなさい」(ガラ5:16)「御霊に満たされなさい」(エペ5:18)

と、肉の自分を断ち切って、愛する神様が喜んでくださるように自分を向けるのです。これは神が大切なのか、それとも愚かにも肉の自分を選んで、十字架の神の愛をないがしろにするのかの選びともなります。

 私は自分がどれほど罪深く、なおかつ、神が私をどれほど愛してくださったかを知っていますので、パウロが「私は神の恵みを無にはしません」(ガラ2:21)と言っている通り、二度と神様を悲しませたくないのです。

2018年5月 6日 (日)

聖霊のちから

使徒 1節8節
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

 久しぶりにテニスシューズを洗った時のことです。洗ったバケツの底にたくさんの砂が残っているではありませんか。砂場のようなコートで履いていたので、洗えばたくさんの砂が出るのは当然です。続けて二回、三回と洗いましたが、砂は少なくなっても出続けました。それから何度洗ったことでしょうか、減りはしても、砂は完全になくなりません。とうとう七度目ぐらいであきらめました。あきらめた瞬間、この砂とは私の罪のことである、と示されたのでした。

ローマ6章22節に聖潔(せいけつ:holiness)という言葉が出てきます。これは、聖化とも言い、神を信じる者が罪から離れ、徐々に聖別されていくことを指しています。しかし恵みによってたとえ清くなれたとしても、血肉の体の状態では生涯、罪と関わりを断つことができないという示しでもありました。

世にある限り人は罪から逃れられない、このことは天への希望をさらに抱かせますし、常に罪人として謙遜であるべきことを学ばせてくれます。もし自分がかつての罪から少しでも遠ざかることができていれば、それは100%自分の力ではなく、神のあわれみによって与えられた聖霊の力によるものです。私たちは自分ではなく、聖霊様を証するのです。清められたことを少しでも自分の努力の結果だとしたり、聖くなったと思い上がったりすると、そこにサタンが入ることを忘れてはなりません。第一回伝道旅行でのこと、リステラでゼウスの神々としてバルナバとパウロが崇められようとした時(使徒14章)、パウロたち二人が自分の衣を裂いて群衆の中に飛び込んで、「自分たちも同じ人間です」と言う叫んだのはこのためでした。
美わしの門でペテロたちが足の不自由な人に奇蹟を行いました。これは聖霊が二人に示し、不思議としるしを行わせのです。彼らは一見して「癒やされるのにふさわしい信仰がこの男にある」とはわかりませんでした。ただ神に示され、行ったのです。これは聖書には書いてはありません。しかしそのことが私に示されています。パウロたちもリステラで叫んだように、私たちは「聖霊の働き」の証人に過ぎません。

すべての栄光は神にあります。私たちはその証人として用いられるのです。証人が神の栄光を奪って自分の手柄にしてはいけません。どんな些細なことであってもです。私たちは罪人ではありますが、わずかでも良いこと、すぐれたところがあるならば、それは神からのもの、神の栄光に帰すことに喜びを感じるのです

2017年9月24日 (日)

心の一新によって

ローマ 12章2節
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 この12章の1節、「そういうわけで」とあるのは、前章にある、福音の恵みを本来受けるべきイスラエルの民がかたくなにされ、野生種のような異邦人が接ぎ木されて、すべての人々が十字架の恵みにあずかっていくことを指します。パウロはこの神の計り知れない知恵と計画のことを「神のあわれみのゆえに」と言い、続けて「あなたがたにお願いします」と懇願しています。懇願したように言いながら、最後は命令形で語られていますので、これは並の懇願ではなく、本当に心からの懇願であることが分かります。
 
 パウロの懇願とは何でしょう。この手紙の前半では教理的な信仰義認を述べましたが、後半のここでは信仰そのものを伝えたかったのです。ここで「心の一新」とか「(自分を)生きた供え物としてささげなさい」という言葉があります。大変あらましですが、これは要するに聖霊のバプテスマを受け、御霊に従って歩みなさいと言っているのです。
 
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」【ロマ12:1】の言葉によって、「よし、それではやってやるぞ」と頑張ってもみても、自己愛にたけた私たちの力では実行不可能です。同様に「心の一新によって自分を変えなさい」【ロマ12:2も実際には困難です。これらは神の計画によって自我が砕かれ、罪を心から悔い改めた神の時に実現するものです。ですから聖霊のバプテスマを受けたからと言って、誰も誇ることができません。もし誇ることが許されるなら、それはどんなに自分が神に逆らって罪深い者であったか、それにも関わらず神がどんなにあわれんで愛してくださったかを誇ることになるでしょう。
 
 被造物の最大の罪は<高ぶり>です。最上位の大天使であったサタンがサタンになったのはこのためでした。人間もエデンの園で罪を犯したのは、聞き従わず、自分の肉の判断を優先した高ぶりのためでした。この12章であえて無きが等しい私達を神が選ばれたのは、「誇らせない」ためであり、これが最大の祝福、私たちが天への祝福となりました。
 皆さんもどうぞ振り返っていただきたいと思います。なぜあなたは神を信じようと思ったのでしょう。あなたの優れた知恵と力とで、神が神であることを突き止め、信じたのでしょうか。かえって神が与えてくださった弱さ、力の無さ、その謙遜こそ、私たちにとって神を信じ従うという最大の恵みになったのではないでしょうか。
聖書でパウロは言います。「誇るなら主を誇れ」。 アーメンでしょうか。

2017年9月 3日 (日)

目からうろこが落ちる

使徒 22章10節
私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか』と尋ねると、主は私に、『起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる』と言われました。
本日の聖書箇所は使徒の22章ですが、ここでパウロはエルサレムの人々に最後の語りかけをしています。
改めてここを見てみますと、いくつか気づくことがあります。全体としてはこの「目から鱗が落ちる」とはアナニヤが手を置いて神からの言葉を祈った通り、聖霊に満たされること、それは真実を隠していたものが取り去られ、正しく見えるようになるということを「鱗が落ちる」と言い表しているのです。
そうです、世の霊に囚われいる間は、正しく見えているようでいて実は見えていないのです。それはあたかも、目に鱗がある状態なのです。それが聖霊のバプテスマという、神の霊に満たされるなら、それまでの自分が目に鱗状態だったことを思い知るようになるのです。
また同時にアナニヤが「あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる」とあるように、自分のいのちがどういう目的で生まれたのか、何の為にこのような人生を歩まされたのか、理解するだけでなく、はっきりと今後の目的意識を持つことになります。神にはすべてのことに目的があり、狂いなくそれは進むのです。
 
ですからみなさん、聖霊のバプテスマは信仰生活の基礎基本です。人は自分で自分を生んだのではありませんし、たとえ親であっても、どのような子にしようと、計画して造れるわけではありません。ただ子が与えられたのです。まして、神によって神を信じ、神の子とされた私達には、私達が容易には知り得ない神の計画があり、目的と使命があるのです。それを知り得るのはただ神だけであり、神に聞くしか方法はありません。聖霊と交わり、聖霊さまを通してでなければどうして人は自分への計画や使命を知り得ましょうか。
 
みなさん、生きている間に鱗、つまり自分が見ていること、自分が人生の決定権を持つ鱗を取り除かれ、正しい神の目で見る必要があります。パウロも神を熱心に信じる者でしたが鱗が取れるまでは、イエスの名に強硬に反対すべきだと(自分で)考え、実行し、外国に聞こえるほどクリスチャン迫害し殺害に加担しました。そればかりか捕らえた者に、神を汚すことまで言わせようとしたのです(使徒26:6~)。自我という鱗が取れるまでは、人は自分が良い、正しいと思うことをしますが、それはえてして恐ろしい間違いをすることが多いのです。一度しかない人生をそのように使ったとしたら、取り返しがつきません。
私はクリスチャンの試練困難は、パウロほど劇的ではないかも知れませんが、これは「目から鱗が取れる」過程だと思います。つらく、二度と嫌だと思われたとしても、これはその人が神に愛されているしるしなのであり、祝福なのです。またですからどんな試練困難であろうとも、徹底して感謝いたしましょう。神は次のように私達に求めておられます。
      
テサ5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

2017年7月16日 (日)

サタンに勝つ

Ⅱコリント 10章 3-4節
  私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。

 神が造られたこの世界には霊的な存在が三つある(右図)。神は天使以上に人間を愛された。そこで美の極み、知恵に満ちた存在であったサタンPhoto (エゼキ28章)が、人間に嫉妬して堕落したと言う説がある。確かなことはサタンが神の座に着こうとして(イザヤ14章)天から追放されたのである。従ってサタンは多くの堕天使を率い、何としてでも神を妨害する存在でもある。
 
 神の計画はご自分を信じ、従う人を通して為されて行くので、戦いは特にクリスチャンをめぐって激しいものとなる。ただしこの戦いは最初から勝敗が定まっている。神の勝利である。だからいわゆる<歩留まり>をめぐる戦いでもある。
 
 さて神>サタン>人という力の順があるので、人はサタンに対抗しても勝てない。それゆえ人が勝つためには神の力に依拠するしかない。信じる信仰が勝敗を分ける。対して巧妙に自分を隠し存在を偽るのがサタンの得意技なので、なんと神を信じるクリスチャンですらサタンの存在は認めない人が多い。戦う相手が分からなくては勝てないのが自明だ。
 
 多くの人はこの世の見方を自分に当てはめ、劣等感を抱かされている。精神を病んでいる人に多いのは、修正できないほど自己像がズレていることが多い。これは世を支配し偽らせるサタンにだまされているわけで、神に造られたありのままの自己像に立ち返ることで癒やされるだろう。神はすべての人を愛し、傑作として世に送り出してくださっている。偽りの自己像から解放されるためには、神を信じ、その愛に自分を捧げ、サタンから手出しができない断固とした神の領分に自分を置かなければならない。
 
 精神の病の人だけではない。クリスチャンは常にサタンとの戦いの最前線に置かれている。神の器であればあるほどそうだ。したがって精神の病の人にはみ心があって、サタンとの激しいぶんどり合戦の最中にあると言える。神の言葉と祈りによって神に己を捧げ依り頼むならば、その信仰によって必ず勝利する。この血肉の命が世にある限り私たちは戦いの最前線におり、安息できるのは天の故郷に帰った時ではないだろうか。

2017年3月19日 (日)

霊とともにあるように

Ⅰコリント 13章13節
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

 人の話において、大切なことは一番最後に語られることが多い。パウロの書簡で最近気がついたことに、パウロの特長として、一番最後はBenediction(ベネディクション:祝祷,感謝の祈り)で終わることがほとんどです。それにも多少の違いがありますが、だいたい「主イエス・キリストの恵みが、あなたの霊とともにありますように」の言葉で締めくくられています。これはつまり、パウロは<聖霊との霊的な交わりが、すべての恵みの土台なのですよ>と常に忘れず私たちに念を押していると言えます。
 
 先週のメッセージでは、終末では「背教者が出る」と語りましたが、背教とは「神との関係を断つ」ことです。では逆に信仰とは何か? それは「神さまとの霊的な交わり」ということではないでしょうか。
 信仰は「感謝する」「喜ぶ」「聞き従う」「受けたと信じる」「踏み出す」などいろいろな言葉で語られます。確かにその通りですが、「私はあなたに従う力がありません。主よ、私を助け、み心を行わせてください」(み声に聞き従うp90)」とあるように、信仰を行う力は畢竟、上より来るのであって、ポイントは聖書と祈り、祈りにおける霊的な神との交わりです。二人のパウロが言っていることは一致しています。
 
 さてここからワンポイント、本日の中心です。神との関係、祈りと交わりにおいて主導権というか、決定権というか、それが人と神とのどちらにあるでしょうか? もちろん、それは神にあります。私は皆さんに、個人的にですが、聖霊のバプテスマについて、明確な体験を受けるようお奨めしています。もちろん神さまの方でも、その願いはみ心ですから100%叶えてくださると信じます。しかし、です。祈り求めても、長く聖霊のバプテスマが注がれない場合もあることでしょう。その人は他の人と比べたりして理不尽に思ったり、苛立ったり、諦めたりするかも知れません。ここが重要だと思うのですが、聖霊はよく風に例えられるように、人の思惑を凌駕します。なぜなら人は、その原因が自分にあることがわからないし、どうすればよいか自分ではわからない上、最善のタイミング、時というものもわからないのです。イライラしたりしてはいけません。それは自分の計画が神より優先しています。救いが神から来るように、ただ神だけが最善をご存知なのです。
 
 「貧しき者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」です。真に自分の心の貧しさを知る者となった時、聖霊の親しき交わりも近いことでしょう。熱心に祈り求めることとは、ただ静まって神の時を待つ聞き従う忍耐と共にあります。

2017年2月19日 (日)

もう一人の助け主

 ヨハネ 14章16節
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
 
 聖霊について、実はよく分からないという方が結構クリスチャンに居られます。聖書に聖霊の内住だと分かる箇所があります。16節「そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになり・・・・その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられる」ところです。助け主とは聖霊なる神です。この方を私たちに送られるためにキリストはこの世に来られ、十字架にかかってまで私たちを愛してくださいました。ですからイエス・キリストを主と信じるならば、聖霊さまは私たちの内に住んでくださるのです。しかし多くの場合頭だけであって、実際には分からないようです。
聖霊なる神はこの章の26節以降ですが、三つの現れがあります。一に教え、思い起こさせてくださる。二に、平安を与えてくださる。三に孤児にはせず、助けてくださる、と。
この意味です。神は皆さんの人生の始まりから私たちを子として特別に養護し、育てていてくださっているのです。時が来た時にですが、子ども時代の写真アルバムをめくるように、御手の内にあった数々の出来事を神は思い起こさせてくださいます。実際私も、神さまを知るまでのこと、信仰告白をしても、神に従おうとしなかった放蕩息子の時代のことなど、本当にくまなく見せて教えてくださりました。いかに神さまが忍耐強いか。どんなに私の心が神さまに向くのを待っていてくださったかが分かりました。神は私たちを愛しておられ、私たちの心が神に向くことをお望みなのです。

次に神は平安そのものであることです。確かに時に注意を受けたりしますが、それは「叱られる・叱責」というより、「よくぞ叱ってくださった」と「注意されて愛を感じる」性質のものです。ましてそこに恐れを感じることは決してありません。

 もしそれがホンの少しでもあれば、断言しますが、それは神ではありえません。平安の反対は、巧妙なだまし屋サタンの手口です。Beach699435_960_720_2すぐさま問答無用に遮断し、追い出してください。神はこのような、私たちがどんなに惨めで罪深い者だとしても、決して見捨てず、呼べば助けてくださるお方です。

     この神さまと私たちとの関係は有名な、「砂の上の足跡」からもよく分かります。
本日はこれを紹介して終わりにいたします。
 

2017年2月12日 (日)

信仰

ガラテヤ 5章16節
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

今から数十年前のことになりますが、私たちの群れが中国に聖書を持ち込んだ際、二十年以上の獄中生活を送られた方々に会いました。その人たちに、さぞ辛かったでしょうと獄中生活をねぎらうと、「Never!」と答えが返ったそうです。「イエス様の十字架を負うと、イエス様の愛がよく分かった」とも。獄中生活は、それはそれは神さまと一緒の素晴らしい時であったのでした。迫害のような恐れる事柄に対し、この事は多くの示唆を与えます。神に従う者に聖霊の力が注がれることを忘れてはなりません。聖霊の力とは聖霊のバプテスマ、聖霊の満たしを受けてのものです。
 
 クリスチャンは各自、はっきりと聖霊のバプテスマをImages_2 受けた体験を持つ必要があります。聞き従いは、神を知り、その確信に立っています。ですからはっきりと分かる聖霊のバプテスマを祈り求めてください。聖霊を知らずしてどうして「神に聞き従う」ことができるでしょうか。明確な聖霊のバプテスマを受けることが全ての始まりです。
 少しオーバーに言えば、このように聖霊様を求め得られなければ、クリスチャンとしてこのまま地上で生きていてもしょうがない、とまでの飢え渇きが湧くのが自然です。自分が中心である肉のクリスチャンには、このような祈りや渇きはありません。
 
 聖霊のバプテスマを受けると何が起こるでしょうか。神さまが分かるのです。神さまとはどのような方なのか、それこそ「御霊の実」そのものであることが分かります。その絶大な価値の故に、それまでの自分自身がまったく無であることに気づかされるのです。そして神に、自分を完全に捧げたいと心から願うようになります。神を愛し、聞き従いたいと願うようにもなります。また聖書がよく分かるようになります。聖書は聖霊によって書かれたものだからです。さらに聖霊は九つある聖霊の賜物を通して、私たちを証しの器としてお用いくださいます。このように聖霊のバプテスマはその人自身をまったく変えます。霊・魂が神との正しい立ち位置に戻ったので、肉体と心のあらゆる病がいやされていきます。
 
 ですからお奨めいたします。あれこれ日常のことを祈り求めるのも大切なことでしょう。しかし、まずもって聖霊のバプテスマと満たしを求め、期待し祈っていただきたいと思います。そうすれば日常のすべては、添えて与えられます

2017年1月29日 (日)

御霊によって歩む

ガラテヤ 5章16節
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
イエス・キリストは「聖霊を受けなさい(ヨハネ20:22)」と言われました。にも関わらず、クリスチャンでも、右の絵のような「聖霊の実」が現れていない方がおられます。つまりクリスチャンになっても「愛」も「喜び」も「平安」もなく、未信者時代とそれほど変わらない生活を送っておられるわけです。S
 血肉の体は御国を受け継ぐことができません(1コリ15:50)。同じように肉の心では聖霊の満たしを受けることができず、天に宝を積むことができません。聖霊なる神を通して、聞き従うことができないからです。永遠の天に比べれば、血肉のこの世はホンの一瞬です。このままでは取り返しのつかない、本当に痛恨の極みとなります。
 それで聖霊を求め祈るのですが、神は聖にして義なるお方です。肉の心(自分)が中心となっている限り、その人に主として入ることがおできになれません。人間は罪深く、信じても容易に自分を明け渡しません。愛する者に神は試練をお許しになります(へブ12:7)。ですから私たちは試練、困難を心から感謝するのです。
 私たちがどんなに罪深いか、一つだけ例をあげましょう。すごく自己否定的な方が居られたとします。一見謙遜にも見えます。しかしその自己否定が、実際の自分よりもはるかに高い自分を想定しているため、それに達し得ない自分を否定し受け入れられないのであれば、それは逆に高慢になりかねません。
 
 どうしたら具体的に聖霊のバプテスマ、聖霊の満たしを受けることができるのでしょうか。ペテロは使徒2:38で「悔い改める」ことと「イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける」ことだと言っています。チョー・ヨンギ牧師はクリスチャンに内在する「憎しみ」「恐れ」「劣等感」「咎め」を悔い改めることだと言っています。私自身の体験から申しあげるなら、それを受けるには
(1)絶対注がれるまでは諦めない熱心と、
(2)神が導かれた「深い悔い改め」の中で、神の時に注がれるとしか言い様がありません。
 
「あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちにどうして聖霊をくださらないことがありましょうか」(ルカ11:13)