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聖霊

2021年12月19日 (日)

預言-神から受けて語る

Ⅱペテロ 1章21節   2017新改訳

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。

 神に用いられる人物は必ず大きな試練を受けている。聖書中の偉大な人物は例外なく。アブラハムは75才で行先を知れず旅立ちました。モーセは王族の育ちと身分であったのに、自分こそがイスラエルを救えると高慢さのゆえに、80歳になるまでの40年間、ミディアンの地で雇われ牧者として過ごしました。この希望の無い惨めな逃亡生活こそ、神が与えられた試練です。ダビデもサウル王から理不尽な仕打ちを受け続け、荒野の中、あるいは敵国へと辛い逃亡生活を送りました。パウロに至っては<2コリ11:23-27>にある通りです。
これは徹底的に自我を砕き、肉なき魂に変えられない、ご自分のものとされるためでした。そうでなければ、返って大きな災いに置かれるのです。

 聖霊の恵を受けても、それは永久的に自分の内に住まうと思ってはなりません。ダビデを殺そうと執念を燃やしたサウル王は王になる時、偉大な主の器サムエルから油注がれ、聖霊を受け、預言を語りました。しかし彼は試練を受けていませんでした。このサウルが後年、神の言葉に対して聞き従いができず、肥えた家畜をぶんどってしまい、主は王にしたことを悔やまれたのです。またエルサレム 教会の指導者ヤコブは、ペテロのような主からの訓練を受けてはいませんでした。ひょっとして主の兄弟という肉の力でなったのであって、彼らは公生涯を送られる主イエスの迫害に近かったのです。エルサレム教会は割礼問題でパウロたちを苦しめ、最終的にはローマによって滅ぼされる教会となりました。

 このように、サウル王などにあるように、いかに訓練が大切かを私たちは教えられるのです。それゆえ私は現在試練や困難を受けている方に申し上げるのです。「オメデトウ、主に愛された人よ」と。

 預言は基本、言いたくない類の言葉であり、言えば自分がまずい立場に陥りそうで、実際語る時には喉がカラカラに乾いたようになり、非常に勇気がいるものです。忠実に聞き従って神の言葉を語るためには、自我が残っていてはなりません。自分の努力では自我を無くすなんてことはできません。ただ、ただ一つ、神から来る試練困難だけがそれを可能にするのです。ですからかつて、耐え難い試練や困難から無私となり、神に自分を捧げて聖霊を注がれた身ならば、試練困難こそ何ものにも替えられない宝であって、それは神の愛であることを、はっきりと証するのです

2021年8月15日 (日)

新たなスタート

使徒 16章9節   2017新改訳

彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは彼らに血を飲ませられました。彼らにはそれがふさわしいからです。

 さて先週の礼拝でお証ししたように、私たちの教会には明白に主のみ心があります。「結腸癌の疑い」からの牧会への主の召し、群れ全体への「マケドニアの叫び」に応じた実質唯一人の牧師。この牧師は<日本のリバイバル>に召された牧師ですから、教会もそうなのです。

 その召された教会がカリスマであることに大きな主の計画があります。牧師だけがこの召しを受け、ついてきなさい、ではなく、個々の教会員のレベルにおいても聖霊様から同様の召しを受けほしいのです。牧師が言うからではなく、一致して同じ召しであれば、どれほど強力なスクラムになり、主の召しを確かに行える教会であることでしょうか。

 さてそのためには、私たちの教会員の多くが聖霊のバプテスマを受け、主にみ心を聞く者でなければ話になりません。ヨハネ12章24では、「一粒の麦は、地に落ちて死なずば、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」とあるように、肉の自分が死ななければ、聖霊様がその人の内で<主>になることができません。なぜならその人の罪深い肉が主であれば聖霊様は内住されていも、しもべとしてなので、しもべが主人に教え語ることも、諭すこともできないからです。

本当に自分の罪がわかり、悔い改めて聖霊のバプテスマを受けることで、賜物として聖霊を受ける内容のことが使徒2章8,38節にあります。ところが自分に死のうとどんなに努力や修行をしたところで、それは実現不可能です。私たちは自身が一番自分を知っているように思っていますが、とんでもない、あなたの造り主である神が一番あなたをご存知なのです。ですから事は神によるのです。

「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(ヨハネ3:8)
それゆえ一切を神に委ね、信仰をもって祈り求めましょう。聖霊を求めることはみ心なのですから。神はパンを求める子に石を、魚を求める子に蛇を渡したりはされません。真に求め、祈られるならば、必ず与えられるのです。ただし、その時まで信仰による忍耐が試されます。熱心に待ち望みましょう。

2021年7月25日 (日)

主と交わる

✝使徒 1章8節   新改訳2017

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

 今回はいつものようにキャンプ明けは聖会のダイジェストメッセージになります。
「わたしの証人となり」と使徒1章8節にあります。ここで証人になるとは知って、交わって、特別な互いの関係になっていることを前提にしていると言われました。確かに「証人となる」には、実際証する相手を知っていなければ語りようが無いのです。神との交わりが無ければ偽証ですし、その人は神にさばかれることになるでしょう。それ故、聖霊のバプテスマを受けることは大きな祝福です。まだ神様を知っていない人は、聖霊のバプテスマが受けられるように祈りましょう。

 私も聖霊のバプテスマを受けるまでは肉のクリスチャンでしたから、信仰の力は無く、肉に従う自分に、毎日空しさを感じておりました。天国が希望でしたが、その確信が無かったのは当然です。聖霊様が自分の主ではなく、主は私自身であったからです。 

 この後秋元牧師は、実際に聖会に参加することは、主に触れる恵まれた機会であることを力説されました。確かに礼拝でも、オンラインやYouTubeで観ることは観ないよりは良いことです。しかし教会に行き、礼拝に出席し、顔と顔を合わせてリアルに礼拝することに優る礼拝へのベストな参加はあり得ません。その他はすべて擬似的でやむを得ないものです。秋元牧師はこれを<臨在>の違いであり、<主に触れる>恵みの重要なポイントだと言われました。

 その上、「主はどこにおられますか?」と主を求めるアプローチの誤りを指摘されました。主はハナから私たちと「触れ合おう、交わろう」として手ぐすねを引いておられるのです。赦しを求めている人の「罪を赦してやろう」としておられるのです。ここを勘違いしないよう念を押されていました。その上で私も、一つだけ付け加えさせていただきます。
 それは神は愛なる方ですが、それは義にして聖なる諸点を無視して発揮されることは無いことです。主の十字架によって愛を受け、罪を悔い改め、新しくされた者であることです。そうでなければ主はあなたのその罪深さに、ドアを開けることがおできになれないのです。この点をパスしないでいただきたいのです。

2021年5月23日 (日)

神様のお人2-御霊の人-

ガラテヤ 6章1節   2017新改訳

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。


ペンテコステは一般には教会ができた日として祝われています。しかしこの日はクリスマスや復活祭よりも祝われるべき日だと思えます。なぜならメシアが世に来た最終目的が、ペンテコステにあると見ているからです。十字架によって罪なき者とすることにより、その人に聖い御霊様が臨在の主としてお住みになれるようになり、かつその満たしによってみこころを行う者となるからです。聖霊の満たし、聖霊のバプテスマが聖書で繰り返されて語られる「証印」という、天への確信を与えうるものであるのはこのためです。

 繰り返しますが本日の聖書箇所、「御霊の人」とは「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証(エペソ1:14)」です。ハッキリ申し上げて<御霊、あるいは聖霊>の人とは、その満たし、聖霊のバプテスマを体験している人以外にはわからないものです。その真の体験もなく、情報だけで論じている人が、多くの混乱を実際に招いているのです。それはちょうど真札を知らない人が偽札を見抜くことがないのと同じです。

 また私たちがどんなに神のみ心を行いたいと願っても、<聖霊だけが神のみ心のすべてを知っている(1コリント2:11)>なのですから、まず聖霊の満たし、バプテスマを受けていくことが先決なのです。しかしこれは人の思いや働きによるものではなく、一切が神のみ心によるのですから、どんなに熱心に祈り求めたとしても、ことは神の時によるしかありません。自分が神の御手にあり、完全な所属となるようどこまでも委ね、最善のタイミングで注がれると信じましょう。忍耐と信仰が試されるのです。

 聖霊様を体験するなら、聖潔と呼ばれるきよめや聖霊の賜物と呼ばれる異言、預言、癒やしなどの賜物は、実は単に聖霊の力の現れに過ぎないことを知ります。神は御心に従って必要な時に、必要な人に与えられるのであって、「これこれが無ければいけない」と人に過ぎないものがあれこれ注文をつける類いのものではないはずです。それはちょうど、我が子をお店へのお使いに行かせる時、お金を持たせず、また何を買って良いのかわからないまま行かせる事がないのと同じです。

 聖霊様を体験するなら、その体験のシチュエーションや多少の違いがあっても、人々は同じようなコアな体験を持ちます。それは神の愛です。神の愛を知って、私たちは根本から変えられて行くからです。自らの力ではなく、新しい人になるのです。自分をすべて神に捧げてしもべとなること、そして神のみ心を行ってその愛に応えて行きたいこと、など激しい渇望をもって望むようになります。本日このペンテコステの日に当たり、この聖霊様についてさらに祈り求めて行きましょう。

2021年5月16日 (日)

神様のお人柄1-ねたむ-

コリントⅡ 5章18-19節   新改訳2017

万軍の【主】はこう言われる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、激しい憤りをもってこれをねたむ。

 今回のテーマに「神様のお人柄」という言葉を使いました。人格という言葉があるように、神格と言いたいところでした。ところが神格という言葉には別の意味がありますので、このような表現をしています。メッセージは数回、この「神様のお人柄」シリーズを続けます。今日は神様が「ねたむ」というテーマです。

 「ねたむ」と言う言葉はあまり良い意味では使われません。ところが聖書では「ねたむ」という動詞と、「ねたみ」という名詞形とは、使い分けられているようです。単に「ねたみ」と言う言葉なら、一般的な肉の心の言葉として扱われています。ですから神様が「ねたむ」と聞いて、えーっ、そんなことがあるだろうか、と思われるのは当然です。しかし神が「ねたむ」と語られる時、そのような意味ではなく、本来の正統な関係を拒む子に対して、愛の表現であるとさえ言えるのです。真の父である自分との関係をないがしろにする、我が子への熱い想いです。

 「ねたむ」がどうしてそうなるのでしょうか。本日は神の愛を「ねたむ」ということばの意味を問うことによって見ていきたいと思います。先ず子と父の関係で考えてみましょう。父からたっぷり愛されている子が、隣家の子どもの父をうらやみ、「僕の父親には、あんな人だったら良いのに」と思わず言ったとします。これを父は平静な気持ちで聞くことができるでしょうか。当然息子に対してがっかりするか、「親の気持ちをあまりにも無視して」と怒るのではないでしょうか。もし、そのように言われて、何の感情も湧かないとすれば、それは関係のないお互いでしかありません。
 ですからその父の「ねたむ」感情は、不正なものであるかというと決してそんなことでない、正しいのです。私たちの父は天地万物を創造された方であり、私たちはひどい放蕩息子であるにもかかわらず、十字架に架かってまで私たちを愛してくださった方です。もし仮に、そのようなねたむ気持ちが湧かない父がいるとすれば、それは真の父ではないと言えます。ですから神が私たちを「ねたむ」という表現は、血肉の父に優っての真の父との関係において、まことに正しく、希望の持てる深い愛の意味になります。

 神様は誰もが肯定するように、愛なるお方です。しかしその愛を表すのに「ねたむ」ほどに私たちを愛してくださるという、神の愛を表すことばには深い意味があります。あるべき関係において、通じない愛の口惜しさを込めて、神は私たちをねたんでくださるのです。ねたんでくださる私たちは、本当に祝福されているのです。

2021年4月11日 (日)

聖霊のバプテスマ

 ✝ 使徒 1章8節     2017新約聖書

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

 聖霊のバプテスマほど、キリスト教誕生当初から多くの誤解を受けてきたものはないかも知れません。この定義としては、聖霊の満たしの最初の現象を聖霊のバプテスマと申しますが、満たしであって、一度満たされたら永久不滅のものではありません。満たされ続ける必要があるのです。
 その例ですが、アブラハムは神から「預言者」とされていますので、もちろん聖霊の満たしは受けていたことでしょう。しかしその彼も妻を妹と称してゲゼル王に召し出されても、抵抗をした跡が見られません。また、モーセの姉や兄のミリアムやアロンも預言者でしたが、あるとき、自分達も弟のように用いられても良いのではないかと文句を言った時、手が雪のように真っ白になりました。この事からも、たとえ預言者ではあっても、常に神の霊を受け、神の言葉を取り次いでいたとは言えないことは明らかです。聖霊のバプテスマを受けたとしても、私たちは絶えず聖霊を求め、満たされ続けていく必要があるのです。Photo_20210419124401

聖霊のバプテスマの現われとして、癒やしや預言などの聖霊の賜物も、さらに多くの誤解を招いて来ました。預言はギリシャ語で「プロフェーティヤ」と言い、神の言葉を全面的に預かって話すという神からの賜物ですが、これらは神の使命を果たすための一時的な付与に過ぎません。間違っても自分は神からの特別な霊能者だと誤解してはいけません。ただひたすら謙遜に、取るに足らない者として神に栄光を帰し、神を褒め称えるだけです。すべての賜物は神から来ていますので、御心ならば誰にでもそれは与えられるものです。およそ聖霊の満たしを受ける人とは、神の愛を分かち合うにふさわしい、愛に満ちた人です。同時にまことに弱く小さな人々に仕える謙遜な人でもあります。

 また明らかに終末の時代に向けて歩を進めている時代となっていますが、これからますますその加速度は強まる事でしょう。確かにヨエルの預言の後半部分が顕著になって来ることと思われます。やがて来る主との再会を見据えて、血肉の命のある今、さらに熱心に祈り、霊に燃えて聖霊の注ぎを求めて参りましょう。私たちの希望は、「よくやった、忠実な僕よ」と主のお褒めの言葉に預かる事です。

2020年10月11日 (日)

御霊に導かれる

✝ ローマ 8章14節   【新改訳2017】

 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

 本日の聖書箇所は「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです」ですが、これには注意が必要です。これを「クリスチャンはみな神の子ども」と解する人が多いのですが、その前提である「神の御霊に導かれる人は」を無視してしまいがちであることです。つまりバプテスマを受けていても、その人が御霊に導かれ(続け)ていなければ、神の子と言えるかどうかわかりませんよ」という風にも理解できるのです。

 多くのキリスト教会では三位一体の神と子なるキリストは強調しますが、聖霊なる神についてはそうではありません。勿論否定はしませんが、聖霊派やカリスマの教会ほどではありません。しかしこの聖書箇所から見れば、御霊つまり聖霊なる神との親しい交わりを抜きにして、神の子というクリスチャンの特権は怪しいものなのです。

 この前節の13節に「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます」とありますが、御霊に生きる人には明確なしるしがあります。それは御霊によって、あるいは依り頼んで肉の行いを殺していることです。そのような人は神の子どもなのです。

 からだの行いって何でしょうか? 妬み、怒り、人を恐れ人を憎んでいる、要するに世の人と何ら変わらぬ人であって、いつも自分を守ることに汲汲としています。そのような自分に疑問を感じませんし、たとえ変えようと思って努力し、牧師に祈ってもらったとしても無理です。普通の人なら自殺するか世捨て人になるしかない罪の深さは、到底受け入れることは困難です。しかし神のあわれみと愛が聖霊様を通して注がれれば別です。自分の罪深さを知れば自分自身に対する希望を捨て、十字架が自分の罪のためであったはっきりわかります。これは聖霊の力であり、選ばれた人であるしるしです。他の人にない、ちょうど主がたどられたように、受難の道を通らされた道の結果でもあります。

 神の子は例外なく、聖霊の油注ぎを受けています。そのような人は、自分が価値があると思っていた一切が、まるで<糞土>のように思える変革が起こした経験を持っています。神の子は、それ以後、聖霊の力に導かれ支えられ、己の肉なる思いに戦いを挑み続けることになります。それまでの自分を騙してきた憎き肉なる思い、世の力、それから生じる行ないに勝利を得ようとし、実際に真の解放と天的な喜び、恵みを体験します。このようなクリスチャンはからだはたとえ世に在っても、天にある父の子の一人として父のみこころの道を歩むのです。
 どうかお一人おひとりがそのように神様に祈り、求めて行っていただきたいと思います。

2020年8月30日 (日)

ゲッセマネのように

✝ 詩篇34篇18節   新改約2017

【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる

  日本の多くの教会は2030年問題と言って、今や死を待つホスピス状態のようです。十年後には教会員がこれまでの1/3に減少、会堂も朽ち、多くが消滅します。伝道はおろか、我が子ですらそっぽを向かれ、ただただ高齢化して来た教会の現実です。
 私は何十年も福音派の教会におりましたので、このことが分かります。神を信じ、聖書も大体は神の言葉として受け入れ、しっかり学んでいるのですが、何が足りないかと言えば聖霊の力です。三位一体の聖霊がごっぽり抜け落ちているのです。教会は聖霊の降臨(ペンテコステ)によって発足し、聖霊の力強い働きによって、今日のキリスト教となったのです。この聖霊抜きに、教会と福音の力はなく、教会は生ける屍なのです。

 聖霊なる神について、すでに四週以上にわたって語っていますので、今回は省きますが、聖霊の油注ぎ、満たし、バプテスマほどないがしろにされてきたことはありません。あれほど聖書にはっきりと書かれていることを、必要ないと否定した当然の報いです。自分たちの信仰にどうして「力」がないのか分からず、ただ万策尽きているのが現状です。逆に聖霊派、カリスマ派である私たちの恵みを痛感します。

 ゲッセマネはイエス様が最後の時間、神への祈りの時を過ごされた所で、今もオリーブ園があります。ヘブル語では「オリーブプレス」、つまり収獲したオリープの実をすりつぶし袋に入れて圧搾する、オリープの油絞り機があったゲッセマネです。すりつぶし、大きな圧をかけてオリーブオイルがにする…受難を目前にされたイエス様が、最後の場所として過ごされた所として何とふさわしい所でしょうか。全く罪の無い聖なる神ご自身が苦しみの果てに、十字架によって全人類への愛と赦しの油を見事に現された姿を場所でした。

 私たちはキリストに自分のすべてを捧げて従い、キリストに倣(なら)う者です。キリストが耐え忍ばれたような苦難を受けるのは、従う者に当然なことです。ヤベツの祈りはすでに苦難を受けた者の祈りだと思います。私たちの教会では、既婚者は全員が伴侶との死別を経験しています。実際これは神により頼むための恵みでした。キリストに倣う者としてふさわしいことだったのです。

 ヨセフもダビデも、パウロもそうでしたが、苦しむことなく、神に用いられることはありません。とすればゲッセマネの苦しみなしには開かれることのない、勝利の、恵みの世界が在るのです。私たちはそれを体験しており、知っています。聖霊様が私たちと共におられ、私たちの人生を通して、神は生きて働かれていることを、私たちは証します。

2020年8月 9日 (日)

主と交わる

Ⅰコリント 6章17節   【新改訳2017】

 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。

 むかし、クリスチャンの集まりで「聖霊様が・・・」と、つい私が夢中になって話題にすると、大抵が困った顔をされるか、いぶかしんだ表情をされるのがおちでした。私自身も信仰を持って二十年以上そうだったので気持ちはよくわかるのですが、それでも触れないわけにはいきません。なぜなら聖書が教える神に喜ばれること、義はみ心を行うことはひとり、聖霊様に拠っているからです。

 イエス様は聖霊様を私たち一人ひとりに送るために十字架に架かられました(ヨハネ16:7)。十字架以外に人間の罪の赦しは不可能です。また聖霊だけが、神のみ心を知っておられ、私たちに真理を解き明かしてくださるのです。真理とは罪について、義について、さばきについて(ヨハネ16:8-11)です。み心を行うには、聖霊様に聞くしかないのです。
 また聖霊様が来られることによって教会が誕生し(使徒2章)、教会はこれを送ってくださったキリストの霊で満ちている所(エペ1:23)です。聖霊なる神はもう終わったという奇妙な説は誤っています。三位一体の神は不変であり永遠です(へブル13:8)。

 ですから私たちクリスチャンは、聖霊様と共に歩むのでなければ、ただの力のない存在であって(使徒1:8)、み心を行って義とされ、神の栄光を現すことはできません。ではどうやって? 答えは簡単です。聖霊なる神と交わり、一つになる(1コリ6:17)のです。その土台は自分を無とされる徹底した罪の告白と悔い改めにあります。自分の義が少しでも残っていたならば、聖霊に満たされることは不可能です。しかし人は、自分が神に捧げきれていない所には自分で気づけません。内住される聖霊様だけがすべてをご存知ですから、神の愛を信じ、心から願い続け、必ず報いてくださることを信じるのです。

 なかなか聖霊の満たしやバプテスマが与えられないことを「聖霊は風、だれもその気ままさはわからない」と言う方がいます。これは神の御意思を尊重したようであっても、とんでもない思い違いをしています。第一に神は私たちを愛しておられます。第二に最善は私たち人間には分からず、神は最善しかおできになりません。第三に神は私たちの自由意志すら尊重してくださる全能のお方なのです。

 主と交わり、神のすばらしさを知って私たちは完全に変えられます。神のみ心を何が何でも行ないたいと願うようになるからです。祈りが自分の願い事から、神のみ心を行えるようにと強く変えられます。キリストがそうであったように、私たち人に過ぎない存在が、父の思いを知って、子として自ら進んで行おうとする者に変えられて行くのです。

2020年8月 2日 (日)

聖霊と教会

イザヤ55章8- 9節   新改訳2017

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

 本日のメッセージは、これまで二回にわたって聖霊なる神の学びを振り返りかつ、欠けていた教会との在り方追加するのが目的です。

(1)聖霊は三位一体の神であること。従って神を知り、神に聞き従おうとするなら、自分の内に住まう聖霊に頼るということが一番になります。〈✝1コリ2:11〉
(2)聖霊様はたぐい稀な人格をお持ちであること。知恵・意思・感情をお持ちの助け主、癒やし主。聖霊様は、神の愛の体現者です。〈✝ヨハ14:16〉〈✝エペ4:30など〉
(3)聖霊は真理のみ霊であって、罪について、義について、さばきについて明らかにされる。〈✝ヨハ16:8-1〉
(4)本日の中心~教会が聖霊降臨によって誕生したように、教会の頭はキリストであり、そのキリストが十字架に架かられたのは聖霊を私たちに送られるためであったことが最大のポイントになります。従って聖霊の働きがない教会は、どんなに聖書信仰を標榜していたとしても、力のない働きしか出来ません。
 そのような教会は水のバプテスマと聖霊のバプテスマを同一視しています。教会誕生のペンテコステでは、その場にいた全員が神とイエス・キリストをすでに信じていた人々で、水のバプテスマを既に受けていた人たちと言えます。またピリポによるサマリヤ伝道〈✝使徒8:16〉、雄弁なアポロによるエペソ伝道 〈✝使徒19:2〉からも、教会の発足当初からすでに、聖霊のバプテスマが水のバプテスマとは別物であったという認識を示しています。

 聖霊の賜物は教会の徳を高めるために用いられるものです。特に預言は旧約の時代から神のものか人からのものかが問われるのですが、新約時代は聖書と聖霊の内住という強力な吟味の土台があるので、預言は受け取る方が必ず吟味の上、用いられます。また礼拝時や教会に関わる預言の吟味は、教会の霊的責任者である牧師に委ねられるべきです。要は一つの神が言葉をくださるのですから、そこに混乱や分裂があるはずがなく、一致したものであることが見分けのポイントになるでしょう。

 最後に申し上げておきたいことは、聖霊の賜物は与えられたとしても自分の所有物ではないことです。み心に従って用いるよう、一時的に神から預けられているもの、管に過ぎないと言うことです。謙虚にし、これを忘れてはなりません。