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試練

2023年9月10日 (日)

主を信頼し主に委ねよ

詩篇 37篇5節  2017新改訳

 あなたの道をにゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

 クリスチャンには、なぜか期待する平安や祝福どころでなく、試練や困難が続くことが多い。私の身近に聞く話でも、教会を支えるような篤信な信徒の家庭に、結婚式直後数日で新郎が事故死したケースや、牧師を支えて教会を再出発しようとした直後、息子が車に轢かれて即死したケースがあります。タイミングといい、若かった私には「どうしてこんなことが許されるのか?」と嘆息せざるを得ませんでした。

 その根底には「天知万物を創造された全知全能の神に守られて、恵まれ祝福された人生のはずなのに、なぜ?」という思いがありました。「神にはこれらの不幸を防ぐ力はないのか」とも思ってしまいました。幸いこのことで不信仰になることはなかったのですが、疑問は当分続きました。
 しかしそのような、世的には<不幸>としか思えないようなことが、やがて私にも訪れ、直面する事態が来ました。十数年も続いたこの試練、困難の期間を通じて、私の人格、人生設計など、家族の破壊を通して何もかも大きく悪い方向に変わりました。
 祈っても祈っても、全然願いが叶わない。「こんな病気や不幸を与え続けるような神は、神じゃない!」とまで思うこともあり、危うく信仰まで失いそうになりました。

 しかしこの試練や困難が許され、通されたのは、私が自分自身に死ぬためには、絶対に必要であって、どうしても通らなければならない道だったのです。みなさん、自分に対して死ぬ、ということは、どんなに頑張っての努力や精進では不可能だということをご存知でしょうか。しかし「死ななければ、身を結ぶことができない」という御言葉もまた真実です。この唯一の突破口が神からの試練・困難なのです。それは、恐ろしいまでの自分の罪深さを気づかされ、無価値さに絶望することでした。

 それゆえ、私たちの教会の今直面している大きな困難<教会員が半減した、会堂を出て行かなければならない>に対しても、私は次の神の大きな計画が控えていることがわかるので、Restart だと確信しているのです。これを御言葉通り「このうえもない喜びと」(ヤコブ1:2)思いましょう。「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか(ヘブル10:23)。

2022年1月30日 (日)

金よりも高価で尊い

Ⅰペテロ 1章7節   2017新改訳

試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。

 神を知ることは人の意志や努力である程度可能でしょう。しかし知り得た知識や情報だけでは、本当に信じる(クリスチャンになる)ことは不可能です。なぜなら信仰は人知を越えたものだからです。例えば、イエス・キリストが処女から生まれたという出生の奇跡。湖の上を歩き、嵐を静め、二匹の魚と五つのパンだけで五千人の人々に食べさせ、かつ相当余った奇跡。また中風や足萎えの人、生まれつき盲目の人を瞬時に癒やした癒やしの奇跡。死んで四日も経ってしまい、腐敗の臭いの中、ラザロという人物を蘇らせ(他にも二人)た奇跡。極めつきは十字架で葬られたはずなのに、三日目に御霊のからだという、血肉のからだを超えた驚くべき姿で現れたことでしょうか。これらあり得ない理解を超えた多くのキリストのワザを奇蹟を、実際に起こったと信じなければならないからです。これらは人の常識や理解の限度を超えていますので、信じることを信仰と呼びます。逆に言えば奇跡が踏み石になって、私もバプテスマを受けたものの、三十年もクリスチャンと称しながら、不信仰な世界を漂流していたのです。

 人が信仰を持つには、自分の常識、知る力、判断力などを捨てなければならないことは明白ですが、それは人の力ではできないことで、これを「自分に死ぬ」と申します。ではなぜ信仰を持てるのか?それは神による「試練」に耐え、自分の罪を徹底的に知らされ、自分に希望を失い、そのどん底の中で自分の命をはるかに優った神の愛を、聖霊によって知らされたからに他なりません。神によって絶望的な罪人状態であることを知らされることは、逆に神の驚くべき圧倒的な愛の価値に自分を遷移することができます。これが神による試練の実態です。この試練の恵は、全知全能なる神だからできることであって、人の高ぶりや我慢の限界、限度を本人よりも見極めておられる神でしかできないことです。

 この試練はその人の価値観、人生観、生きる目的を180度変えます。変えられていなければ、それは神から来た試練ではありません。試練の結果は明白です。自分のいのちは神のものであり、神の栄光のために残りの余命があります。そして目は永遠なる神に向けられ、それを仰ぎ続けて、神の御心にすべて従います。この地上の何ものも、以前のように自分を楽しませることは無くなったのです。

 人の命は、金以上に素晴らしいものです。しかし金以上に、はるかに高い価値を信仰者は天に見出して歩む、もはや地上の何ものもそれを奪うことはできません。これは聖霊の油そそぎと満たし、あるいは聖霊のバプテスマとほぼ同義語であって、生きながらにして神の絶大な栄光に与るものです。それを導き開く扉が「試練」であるのです。ですから「試練が来たら喜ぼう」なのです。

2020年12月20日 (日)

サタンの基本戦略

エペソ 6章 11節    新約聖書2017

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。

 聖書では明瞭なのに、サタンや悪霊が存在することを認めていないクリスチャンがいます。また認めてはいても、悪霊はどこか外にいて自分を攻撃するものであって、自分の内に見い出す方も少いのではないでしょうか。これらはすべて誤った認識をしています。確かに外から来る場合もありますが、先ず自分自身が生まれながらの罪人であったこと、その結果、これら悪しき存在から解放されなければならなかったことを忘れています。サタン、悪霊は自分自身の内に、根罪深い罪の性質の内に、巧妙に巣くっているのです。「自分を良い存在に」「自分の成長の為に」とか、「ことさら自分を引き上げよう」とする動機のすべては罪の性質であって、悪霊的です。

 イエス・キリストは私たちのこの罪のために十字架に架かり、身代わりとなって罪を贖ってくださいました。ですから信じた者には罪から解放されました、そのはずですが、実際にはクリスチャンとなっても、自分の罪に苦しむことが多いのです。福音は無効なのでしょうか? いえ、そうではありません。自分に死んでいないからです。
 マタイ12章43-45節に、追い出された悪霊が、戻ってみると部屋はきれいに掃除されており、そこで七つの悪霊を連れて来たので、その人は前より悪くなった話があります。クリスチャンは悪霊を追い出す権威を持っていますが、追い出した心の王座に聖霊様が代わりに住んでくださらないと、悪霊が戻って来て前より悪くなるという警告なのです。ですからイエス・キリストを信じるということは、自分を捨て、心の王座に神様を置く(つまり自分は神に従う僕)ことです。そこが中途半端で、自分という肉が残っていると、その肉が悪霊の攻撃を受け、支配もされてしまうことになるのです。

 私たちはこの敵の攻撃の特徴を知る必要があります。彼らの基本は「人に自分の真の姿をわからせず、正体を隠して住み続ける(支配する)」ことにあります。そこでのキーワードは<支配>であり、<だます>です。彼らは貪欲にこの二つの特徴を基本である正体を隠しつつ実行します。たまにそれを見破ったクリスチャンが警告しても、彼らは自分自身を守るために、愛を持って忠告してくれた人や教会を攻撃するのです。教会はキリストの御体であり、クリスチャンはその肢体の一部として、神と教会に仕え、問題があっても建設的な提案をするのが当然であり、使命でもあります。しかし悪霊に支配された人の特徴は、そのような人を攻撃して教会を混乱させ、神の使命を奪うことです。私たちはサタンの基本戦略を知り、御心の対応することで、常に神の使命と御心を全うして行き続けなければなりません。satannno 

2020年3月22日 (日)

試練

エステル記 4章16節   【新改訳2017】
「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」

 私たちは血肉の命のある間に、誰でも、またどうしても、信仰の真価を試される試練の時があるようです。またそれが許されるのは、その人が御心の人である印です。

 このような信仰の試練とは、相変わらずに己を主・神としているのか、本当に神を信じているのか?という「信じている」中身の実際を問われる事です。ですから教会生活をどんなに長年続けようが、口先でどんなに信仰的なことばを続けようが、その真実が明らかにされることになります。もっと具体的に言えば、血肉の命なのか、それとも命に代えてでも神を選ぶのか?という実際の場面にあう事です。もちろん信仰とは後者のことを指します。

 試練は、キリストが王である千年王国でも、その終わりにはサタンか解き放たれます。神を信じる者は、どんな時代にあっても,どんな境遇にあっても、それがたとえ王妃であろうと試練に遭うのです。確かに実際に直面するかどうかは召命と主の御心次第ですが、人それぞれに、多様な形で必ずあることは確かでしょう。ですから私たちは常にその備えをし、祈り続けて行かなければならないのです。
 ただ、このような事を踏まえながら、私たちはカルトと呼ばれる攻撃にも正しく対処して行きたいのです。一人静まり、突き詰めて自分の信仰を問い、悔い改めるならば、それは一人一人にとって大切な機会となるでしょう。しかしそれを他の人に強要するような事があってはなりません。全体に煽るようなことがあっては、カルトと見なされてもしかたないのです。

 パンデミックな伝染病は別として、一人一人に全て異なる試練が来るように、これはまったく個人の神との関わりの問題です。神から迫られ、神に応答し、神の助けを得ながら、自分のいのちを持って祈り求めて行くなら、大きな価値観の転換が起こり、真の自分からの解放と御霊の実を結ぶ、平安と喜びが与えられて行くのです。神に期待しましょう。 

2019年3月10日 (日)

真実な神

Ⅰコリント 10章13節     【新改訳2017】

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

あなたがたが経験した試練は、みな人の知らない試練ではありません」と聞いて、反発される方が多いでしょう。自分の受けた試練は過酷で、特別だと思いたいのが人の常でしょう。しかしこの言葉から、神は個々人に与えている試練をすべてご存知であり、神の手の中で許容されていることがわかります。全知全能の神はすべてをご存じなのです。

「神は真実な方です」とは本日のテーマです。私が試練のどん底にいた時、神がひょっとして私を「弄んでいる」「いたぶっている」のではないかと疑ったことがあります。後に大変後悔し悔い改めましたが、神には決してそのようなことができません。私は血迷って思ったのです。その時、私以上に神も苦しんでくださっていたのです。これは後になって神が私に触れてくださった時に、一気に氷解してわかったことです。

「あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません」全知全能の神の手の平の中での試練です。必ず解決があると安心し、過度に患わないようにしましょう。耐えられる保証を神がしてくださっているのですから。その上で、試練のその先に私たちをこの道を通してでないと得られない祝福があるのです。神に期待しましょう。ただ感謝です。

「むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます」とは、今直面している困難に何か抜け道やバイパスを見つけると考えるより、困難に耐える力を神が与えてくださると解する見方があるようです。が、私は両方ともあるのではないかと思っています。いずれにしても脱出の鍵は神の言葉と感謝の信仰です。

パウロはビリピでは神が起こされた地震によって助け出されました。しかしいつも必ず助け出されたわけではなく、鞭打たれたり、石打ちにあったりと何度も死にそうな目に遭いました。それでもパウロは、神への忠実と信仰を失うことはありませんでした。ですから、今くじけそうな重荷や試練にあえいでいる方、失敗だらけで、まるで自分が不良品のように思えて「自己否定」したり、希望を失いかけている方、その方に申し上げます。それは神を悲しませることです。陶器師である神は、あなたを失敗作として世に送り出したのでしょうか?そんなことはあり得ません。それは世的な見方で自分を見ているからです。神の見方ではありません。神は真実な方で、神にあっては失敗作は存在しません。

 だいたいこの罪深い自分のために、世界の創造主である神ご自身が、あなたの罪のために十字架に架かって下さった。この愛に勝る価値、奇跡は計り知れない恵みです。帳消しにされ赦された自分の罪の深さが、まだ十分には分かっておられないのかも知れません。

2018年10月28日 (日)

恐れるな

マタイ 10章31節     【新改訳2017】

ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。

昨日の聖書箇所マタイ10章に三度出てくる「恐れてはいけません」の言葉は創15:1や46:3、士6:23に出てくる「do not be afraid」と同じで、「恐れるな」とも訳していい言葉です。そしてこの度、この箇所が三度出てくる10章に導きを感じました。
 26節の「ですから彼らを恐れてはいけません」の<彼ら>とは、私たち神を信じる者を迫害する世の人々、世の力です。彼らの前に引くことなく証し続けなさいと言う意味です。

 28節の「恐れてはいけません」は、真に恐れる相手を教えています。サタンやサタンの側の世は、確かにクリスチャンを迫害し、第1の死である血肉の命を奪うことができるかも知れませんが、彼らにできるのはそこまでです。しかし神はその次の永遠の死である第2の死、ゲヘナで滅ぼすことがおできになります。真に恐れる相手は、ただ神だけです。

 31節では、クリスチャンに許される困難や殉教は、決して神が無関心であったとか、沈黙していたからではないとを告げています。600~700円ぐらいで売られている1羽の雀の命さえ、神の許しなしにその命がなくなることはないのです。雀よりはるかに価値の高い私たちに許されることには、神の深い計画があり、神の栄光になることなのです。

 さて、これらの「恐れるな」がなぜ三度も語られるのでしょうか。迫害が近づいているからです。この箇所は元々弟子たちを派遣する前の、その心構えを語られているのですが、読んでいると実は患難時代を前にしての私たちに語られているような気がしてきました。そしてその核心は「血肉の命を失ってでも、主イエスの御名を否むな」と言うことに尽きると思われます。なぜならクリスチャンを否定するならば天国に行けないことと、逆に命を失ってでも「イエス・キリストの神こそ私の主です」と告白するならば、主イエスが天国で喜んで迎えてくださる事が約束されています。似た事がこれから起こる黙示録での「獣の刻印を受ける」こととして聖書に記述されています。
 黙示録では獣の刻印を受けるならば、ゲヘナに落とされる、とはっきり書いてあります。しかし一部の人たちに「そんなことは形式的なことだから受けても大丈夫。信仰は心の中のものだから」という人たちがいます。しかしそれはとんでもない間違いです。

 ただ自分の力で転ばない、大丈夫だと思わないでください。血肉の体を持つ私たちの弱さをご存知の主イエスの愛とあわれみに頼りましょう。また日頃から深く神と交わって、強い信頼を築いておくことも大切です。神の前に悔い改め、神を呼び求め続けることが最も大切なことでしょう。

2018年10月14日 (日)

試練

黙示録 3章10節     【新改訳2017】
あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。

 聖書日課に黙示録の終わりが近づいていますが、何となく腑に落ちない点というのがあります。それはキリストの再臨時、反キリストや偽キリストはゲヘナに落とされるのに、その首領のサタンは千年王国の終わりまで閉じ込められ、最後の最後にまたサタンを解き放って人々を惑わせることです。「神さま、あんまりじゃございませんか」とまでは思いませんが、「どうしてでしょうか?」と思うわけです。

それで、つれづれ祈り導かれながら諭されてたことに、神の陣営は聖であるということです。聖なる存在は、神に背く働き、つまり人々を惑わしたりすることができないのです。それでサタンを残し用いるのです。千年王国の時代はちょうど今とあべこべで、キリストが王の王となり、キリストに従って復活したクリスチャンが地上の支配者となる千年間です。そうなると、よほど反抗的な人以外の、地上のほとんどの人がクリスチャンになることでしょう。しかし本当に心から信じているかどうかは、今と逆の時代だからこそどうしても今以上に、試練という試しが無ければならないのだと示されたのです。

ではどういうことになるでしょうか。どんな時代であっても、試練は必ずあるということです。なぜなら、血肉の体を持つ私たちの今の使命は、証人としてです。このことはルカ24:48 使徒1:8、1:22、32などに明記されています。その証人が試練の時に、自分の血肉の命を惜しみ、御名を否んで獣の像を拝んだのでは証人としての使命の放棄であり、かえって人をつまずかせることになります。そのような者は皆ゲヘナへ落とされる黙示録19:20、20:4と聖書でははっきり書かれています。

使徒1:8 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」
黙示録3:8 のフィラデルフィア教会でのわたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった」ことに対してです。

結論として私たちは弱い存在ですから、高木仙右衛門のように、弱さを自覚し、証人としての使命を全うできるよう神に祈り求め続けましょう。神だけが希望であり、頼りです。「主よ、私は弱い者です。ですから主よ、その時、あなたの名を否まない力を主が与えてください」と。そしてこの祈りは必ず聞き届けられると私は信じます。

2018年5月13日 (日)

試練とみ言葉

使徒10節13節
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

  本日はⅠコリ10章13節の後半の<脱出の道>を示されました。では試練に、どんな脱出の道があるのでしょうか。

試練はたとえ辛くても、天の喜びです。つぎのみ言葉があります 「もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子(実子)ではありません。(へブル12:8)」 つまり、神の子としてくださっていることの証明なのです。

とは言え、確かにその渦中にある時はこんな余裕はない。私自身にも経験から言っても、鞭打たれているその痛みに「う、うれしいですーっ」とは、言えるものではありません。
脱出の道とは「どうしてこの苦しみが自分に許されて、この終わりがいつ来るか」、という理由がわかり、希望があることです。多くの試練はただ一つのことを目的としています。それは「自分の罪がわかって悔い改める」ことです。深刻な自分の罪がわからなければ、人は心から悔い改めることができません。十字架がまさしく自分の罪のためであったと100%受け取れなければ、十字架の神の愛もわからないし、聞き従ってみこころを行おうとは思わないことでしょう。けれども問題が一つ、理由とかいつまでは神様に聞くしかないことです。ですから熱心に主に期待して祈ってください。神は真実な方ですから、必ず答えてくださいます。

さて昨夜三本松牧師のお父様の話が紹介されました。退職後、野菜作りを始められたお父様は、野菜作りを勉強され、理想的な土作りから毎日の水やりまで、それは丹精込めて育てられたそうです。しかし結果は、虫がつきまとい、根腐れを起こし、収獲しても味がイマイチだったそうです。そこで野菜作りの先輩に教えを請うと、甘やかして大事にし過ぎだったと。そこで肥料は最低限にし、水やりは枯れそうな寸前まで控える。すると野菜は「これじゃいかん」と頑張りだし、虫を寄せ付けず、わずかな水をしっかりと取り込み、せめて子孫だけは残そうと、自分の身を捨てても次代に託すように熟成した実をならせるのだそうです。

人間も同様です。神は私たちの限界をご存知ですから、必ず護ってくださいます。枯れることはありません。私たちを通してすばらしい実をつけさせようと鍛えてくださっているのです。神を信頼しましょう。

2018年2月18日 (日)

弱さを誇る

Ⅱコリント 11章30節
もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
 
 神様に用いられることは、多くのクリスチャンの願いです。しかしことは神が選んでくださることなのです。私のこれまでの体験から、この群れに集められた人全員が主が用いられる器だと思っています。なぜなら、この群れ、真の信仰の教会ですが、召されたみ心の人以外はなかなか留まり続けることができていないからです。
 
さて、私(たち)は罪を犯し続ける罪人です。このような者がどうやって主に用いられるのでしょうか。はっきりしていることは、主の訓練を経、主が建て上げてくださったのでなければ、かえって呪いを招いてしまうことです。自分自身の高慢という罪、これを除くことは自分の手ではできないのです。これが不十分なまま仮に用いられてしまうと、ほんのわずかでも神の栄光を自分の手柄にし、誇ってしまう恐れがあります。そんなことになる位なら、かえって用いられない方が良いのです。金持ちの門の前に置かれていたラザロの方がずっと良いのです。
 
しかし主をほむべきかな。神は人の心を変えるマジック・・・・・試練をお持ちです。聖書を見るなら、神は用いられるすべての器を例外なく試練を通されるのです。アブラハムは父の中途半端な聞き従いを見、75歳という分別盛りにして徹底して主に聞き従い続ける道を選びました。彼は約束の子、イサクさえ惜しまなかったのです。ヤコブやヨセフ、モーセ、ダビデに至っては、何を申しましょうか。一つだけ言えるとしたら、すべての人が異なった試練の道を通され、結果として祝福されたということです。人の親なら困難から我が子を守り切れなかったりするでしょうが、神にはそれがなく、間違いや失敗がないことです。つまり主の手にあっては神は、最善をなされるのです。
 
この試練がなければ、人は神を知り、その絶大な愛の前に自分を捨て、肉の心を捨て、主を第一にしてすべてを神の栄光に帰することができないのです。第Ⅱコリント12章9節で「私の力は弱さの内に完全に現れる」とあります。試練の中で人は弱くされますが、弱くされたならば人は神に頼ります。神はその時ご自分の力を現されて、その人を覆い、守られるので、かえって人はその時最強とされる(第Ⅱコリ12:9)のです。私たちは弱い時、主を呼び求めますから、逆に強いのです。この群れは聖書の信仰を受け取っていますから、試練を感謝し、喜ぶ信仰が与えられているのです。 
アーメンでしょうか。 

2017年1月22日 (日)

人は心で(霊)で生きる

箴言 3章11~12節
11節 わが子よ。の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。
12節 父がかわいがる子をしかるように、は愛する者をしかる。

 人はこころで生きています。肉体にたとえ命があったとしても、心が常に心配や不安、憎しみ、恐れに支配されていたとしたら、その人は十分に生きているとはいえません。またその霊的な状態は、必ず体にも反映されていきます。
 
 素人の経験からですが、心の病の人はその病名がどうであれ、また本人が意識しているかどうかに関わりなく、セルフイメージ(自己像)に大きなずれがあるように見受けられます。例えば自己否定の態度のように見えても、それは高過ぎるレベルの自分を自分だと思っていたためだったりします。自分の思った通りの、描いた通りの自分にならない・・・・現状の弱く低次の自分を許せないからこそ激しい心の戦いがあるようです。
 孫子の兵法に「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」という言葉がありますが、この正しくありのままの自分を知る,受け入れるということが最も困難なことです。人はどうしたらそれができるようになるのでしょうか。
 
 昔、イスラエルにダビデという王様がいました。ベツレヘムという田舎に生まれ、羊飼いという貧しい家の少年でした。ダビデはやがて神の油注ぎを受け、勇者として名をはせます。やがて王として全イスラエルを統一し、都をエルサレムに定め、イスラエルを比類なき大きな国にすることができました。その功成り絶頂期にダビデは次のように言っています。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので・・・・(このように私を絶大に引き上げてくださるのでしょうか)・・・・私は取るに足りない者でした」と。ダビデのこの謙遜さこそ、代々のイスラエルの王家の血筋となり、イエス・キリストの家系ともなりました。自分の本当の姿、正しい姿に立ってこそ、神との正しい関係を築き、祝福を受ける土台です。
 
 このことを逆に言えば、クリスチャンが正しいセルフイメージを持って神の前に出れば、神から祝福を受けられる可能性が高いことを意味します。むろん神さまもそのことをお望みですから、試練というものを許され、試練で自己を砕かれることで、正しいセルフイメージを持てるよう導いてくださっているわけです。クリスチャンへの試練は神の愛であり、我が子として取り扱ってくださっているのです。ですから主の懲らしめをないがしろにするのではなく、感謝し正しい自己認識をして、み心に聞き従ってください。そうするなら、その試練は止むことでしょう。
 
 神は私たちを愛してくださっています。試練は人それぞれですが、神の愛は決して変わらず、死も命もどのような敵もこれを奪うことができず、永遠へと続きます。神が導かれた真の自分の姿をもって、神さまとの関係をさらに引き上げていただきましょう。