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試練

2017年1月22日 (日)

人は心で(霊)で生きる

箴言 3章11~12節
11節 わが子よ。の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。
12節 父がかわいがる子をしかるように、は愛する者をしかる。

 人はこころで生きています。肉体にたとえ命があったとしても、心が常に心配や不安、憎しみ、恐れに支配されていたとしたら、その人は十分に生きているとはいえません。またその霊的な状態は、必ず体にも反映されていきます。
 
 素人の経験からですが、心の病の人はその病名がどうであれ、また本人が意識しているかどうかに関わりなく、セルフイメージ(自己像)に大きなずれがあるように見受けられます。例えば自己否定の態度のように見えても、それは高過ぎるレベルの自分を自分だと思っていたためだったりします。自分の思った通りの、描いた通りの自分にならない・・・・現状の弱く低次の自分を許せないからこそ激しい心の戦いがあるようです。
 孫子の兵法に「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」という言葉がありますが、この正しくありのままの自分を知る,受け入れるということが最も困難なことです。人はどうしたらそれができるようになるのでしょうか。
 
 昔、イスラエルにダビデという王様がいました。ベツレヘムという田舎に生まれ、羊飼いという貧しい家の少年でした。ダビデはやがて神の油注ぎを受け、勇者として名をはせます。やがて王として全イスラエルを統一し、都をエルサレムに定め、イスラエルを比類なき大きな国にすることができました。その功成り絶頂期にダビデは次のように言っています。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので・・・・(このように私を絶大に引き上げてくださるのでしょうか)・・・・私は取るに足りない者でした」と。ダビデのこの謙遜さこそ、代々のイスラエルの王家の血筋となり、イエス・キリストの家系ともなりました。自分の本当の姿、正しい姿に立ってこそ、神との正しい関係を築き、祝福を受ける土台です。
 
 このことを逆に言えば、クリスチャンが正しいセルフイメージを持って神の前に出れば、神から祝福を受けられる可能性が高いことを意味します。むろん神さまもそのことをお望みですから、試練というものを許され、試練で自己を砕かれることで、正しいセルフイメージを持てるよう導いてくださっているわけです。クリスチャンへの試練は神の愛であり、我が子として取り扱ってくださっているのです。ですから主の懲らしめをないがしろにするのではなく、感謝し正しい自己認識をして、み心に聞き従ってください。そうするなら、その試練は止むことでしょう。
 
 神は私たちを愛してくださっています。試練は人それぞれですが、神の愛は決して変わらず、死も命もどのような敵もこれを奪うことができず、永遠へと続きます。神が導かれた真の自分の姿をもって、神さまとの関係をさらに引き上げていただきましょう。

2017年1月15日 (日)

私はあきらめない

ローマ10章11節
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

 困難と試練とは異なります。神を信じていない時のものが困難で、クリスチャンになってからは試練と分けています。私たちは本来傲慢なので、困難があるからこそ神に救いを求めるようになるのです。クリスチャンになってからの試練には、神の計画があり、信仰を引き上げ、使命を果たせるようにする訓練プログラムの一環という面があります。試練によって謙遜を得、聞き従うこと、感謝する願いを起こさせていただくことができるようになるのです。
 
 試練は一度来るだけではありません。Gif_4 何度も繰り返すようでいて、そこに成長と深化があって、スパイラルに、段階的に私たちは引き上げられていきます。それには神の教育法とでもいうべきものがあって、三つの過程をスパイラルに繰り返されて引き上げられていくと思っています。これを「きよめ」とか「聖化」と言い、ある段階まで来ると主の器として用いられていきます。
 
 神のプログラムの中で特に試練は、私たちの願いとは、別に残念ながら肉体がこの世にある限り終わることはないようです。なぜなら、肉体は滅ぶべきものであって、地に属するものです。同じく滅ぶサタンからの攻撃を受ける引っかけ口みたいなものでしょう。だから私たちは脱肉体というか、天を待ち望むのです。もともとクリスチャンは天に属しており、天はクリスチャンの故郷ですし、誘惑や試練はないからです。
 
 世においての私たちに対する神様の目的は、祝福です。ただし、この世で得られると思ってはなりません。信仰の父アブラハムも、マクペラの洞窟以外は世においての所有物はありませんでした。この世では、神様の御栄光が褒め称えられることが唯一の目標であって、私たちにとっては、天国においてのご褒美こそ祝福です。
 世においては神に聞き従って神の器となり、すべての栄光を神に帰しましょう。天の御国において祝福されることになります。そのために、熱心に自分を捧げられるよう祈りましょう。試練はその答えであり、 はじめの第一歩です。hallelujah!

2016年4月24日 (日)

マラ(苦い水)は何のためか

出エジプト 15章23節
彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。
 今日はイスラエルの試練を通して、試練の意味、どうして感謝するのかということを、学んでみたいと思います。
モーセはエジプトの王家一員として、 40才まで育ち、後の40年はシナイとアラビアで羊飼いでした。これはファラオとの交渉やその後民を導く者最適です。
「イスラエルの民の脱出ルート図解」                                          Exodus    
元王族ですから、ファラオを対決するのに一歩も臆することもありませんでした。この成功がただ神の力100%に依ったことを最もよく知っていたのでした。
 その契機となったエジプトの長子がみな殺される出来事ですが、イスラエル人は皆守られました。神が命じられた命令を守ったからです。それは一匹の傷のない一歳の雄の子羊を犠牲にし、その血をイスラエルの家の二本の門柱とかもいに塗ることでした。血で塗られた家だけが神のさばきを受けずに過ぎ去った、これは、イエス・キリストの犠牲という予表でした。
 
 脱出した後、イスラエルの三百万以上の民にとって、水が緊急課題でした。最初にたどりついたオアシス、マラには水があっても苦く、飲める水ではありませんでした。落胆し怒る民はモーセに詰め寄りました。このようなことは、この後幾度も繰り返されます。続くシンの荒野では食糧が尽きてパンと肉を求めました。その次のレフィデムでは同じように水を。その都度民は、「荒野で飢え死ぬより、エジプトで奴隷の方がよかった」と呟くのでした。
 マラで苦い水に木を投げ入れました。これも一つの予表です。一片の木を取ってそれを苦い水、つまり不信仰の民、または罪の底に沈めて、水は清められ甘くなった。その木とは十字架の木です。十字架という贖いによって罪が赦される予表でなのです。
 イスラエルの数々の困難試練は、見えるモーセにではなく、モーセを通して見えない神に救いを得る者となるためであり、またイスラエルの民を通してキリストの現れを示すためでもあったのです。みなさんの今の困難は、良い結果を期待しての結果、苦い水であったかも知れません。しかし固く信じて下さい。苦い水を通し、真に神の購いの恵みを受けるようにしておられるのです。決してあきらめてはなりません。  
聖書はこう言っています。 
「彼に 信頼する者は、失望させられることがない。」 ローマ 10章11節

2015年12月 6日 (日)

クリスチャンのさばき

Ⅰコリント 3章13節

 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とと もに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。 

 非常に大ざっぱに言えば、神を信じない人にも、信じる者にも、一度だけ大きな判定があって、これを聖書では(死者の)さばきといい、第二の死とも言う。もちろんさばきは神がされる。これは恣意的なものではなく、その人が生前に行った膨大な記録による。そうなると人の死後は決まっていて、全員が有罪となり、例外なく地獄行きである。多少の善行があろうとも、芥川の「蜘蛛の糸」とは異なって、人には原罪があり、自己中心なので第二の死(地獄=火の池)行きは避けられない。

 ではどうしたら天国へ行けるのだろうか。イエス・キリストの十字架を信じる道しか人類には残されていない。天地万物を造られた神ご自身が、自分の罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったことを信じ、告白することである。十字架は全ての罪を帳消しにするスーパーカードのようなもので、天国とは正しい人が入るというより、罪人が赦された恵みで入れる所である。

 ところで神を信じた人にもさばきがある。そう言うと「エエッ」と驚かれるクリスチャンも多いことだろう。これはさばきというより「報い」というべきものである(1コリ3:10-15)。クリスチャンには第二の死はありえないので、確かに約束通り天国には行ける。ただし天国は、諸国の民が住む所と、天から降りて来る神の都エルサレム(黙示録21章)とがあって、気になるのはそのどちらに住めるのか?ということである。おそらくは神の都のエルサレム内に住める人とは、千年王国の時代、キリストとともに王となるような殉教者か、または携挙されるような信仰者(聖徒)だと私は見ている。このような方々が聖所の柱となられるのである。

 私はこの都に住むことを、皆さんと同じように熱望している。なぜならまず第一に神の近くに一時でも長く居て、賛美を捧げ続けたいと願うからだ。また神からの天上での新たな使命や任務もあることだろう。また次のような美しい都に住むことは、何という喜び、平安であろうか。天の都の中央には「光る命の川」と両岸には命の木(どんな木だろうか!)と毎月実のなる十二種の木があって、ここには諸国の民も来れるらしく「木の葉がいやした」とある(黙22章)。これが天国の実体なのだ。ここには悪や一切の呪いがないうえ、永遠の世界なのだ。想像するだけでも胸が熱くなるではないか。この都に住むには、神を第一とし、この血肉の体を神に惜しまずに捧げ、用いられることである。
 ただし誰ひとり例外なく、試練や困難、場合によっては殉教という、都に住むためのテストに合格しなければならない。逆に言えば厳しい人生のテストに出会うことは、神の子とされ、エルサレムに住まう恵みにあずかるチャンスである。心から賛美し神の愛をどこまでも信じ、感謝したい。

2015年10月18日 (日)

クリスチャンの訓練

へブル書 12章5節
わが子よ。主からの懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。
 対局から見れば、これからの終末の時代には患難時代と呼ばれる非常な困難な時代が来ます。それは驚くべき天変地異、天候不順による飢え、人間同士の醜い争いが続き、人の心が荒廃する時代でもあるのです。そして人々はますます罪の深みにはまり、反キリストにつくか、それとも唯一の神に救いを求めるかの究極的な選択を迫られるようになります。リバイバルはこうして始まるのです。
 しかしそのような時代になってからでは、必要とされる多くの導き手、牧師や伝道師を養成することは、たとえて言えば「泥棒を捕らえて縄を綯う」ようなものです。それでリバイバル前の今の時代に、なんとカリスマ派の教会に導かれた皆さん、おわかりでしょうか? みなさんはリバイバルの救いのため、多くの人々を漁る使命がある、言わば召された人々なのです。
 それで個人お一人お一人について言えば、大勢の人々は皆違うように、皆さん自身も異なった場所、育ち、人柄から成り立っています。しかし共通していることがあります。神を信じて救われ、天国へ行けると祝福されたはずなのに、現実はかえってつらい目に遭っているクリスチャンであるということです。それで「これでは話が、約束が違う!」と怒りまくっている人もいると思います。
 かつて私自身もそうであったのですが、今、ちょっと落ち着いて、静まって聞いていただきたいのです。そんなあなたは神に実の子として愛されているからなのだ、と言うことです。訓練には必ず目的があります。なければそれはいじめであり、残酷なものです。しかし神はそのようなお方ではありません。愛なるお方で、そのようなことはしようとしてもおできにはなれません。ではなぜですか? ですからこれはあなたにとってどうしても必要な「神の訓練」であり、またその渦中にあるということです。本日の御言葉から言えば、主は愛する子には必ず試練を許され、例外なくむちを加えられるのです。ですから試練がないということは、逆に言えば、残念ながら神の子どもではなかった、と言うことにもなるのです。
 また兵隊になって、何の訓練も受けずに戦場に出されたとしたら役に立たないどころか、すぐに死体になってしまうことでしょう。ですから訓練と言えども、時には死ぬほどの厳しい訓練が新兵にはあります。私たちの戦いは、人間の力をはるかに超えた、暗闇の支配者に対してなのです。これに勝利するために訓練は、絶対必要なのです。
 そういうわけで試練にあっている方は喜んでください。訓練の結果は明白です。自分の人生は自分のものと考えたり、世のあらゆる肉欲に支配されることなく、聖霊に満たされた御心を第一に行う者となって、神の使命を全うする者となるからです。

2014年11月23日 (日)

苦難の意味

✝ ヨブ記 42章5-6節

 ヨブには七人の息子と三人の娘、羊七千にラクダ三千頭など、非常に多くのしもべを持つ、族長的な存在でした。アブラハムのように神に忠実でもありました。ところが神のご自慢のヨブが、一時的にせよサタンに渡され、苦難のただ中に落とされたのです。全財産すべての子どもまで奪われました。

 ところが、これほど失ってもヨブの信仰は衰えませんでしたが、ヨブの全身を皮膚病で打たれると、サタンの目論見通り、ヨブもさすがに苦しみました。その上、三人の友がやってきて、慰めるどころかヨブを責めるのでした。

 これらの災いはヨブに原因があり、それを悔い改めるよう説得します。しかしヨブは負けずに言い返します。ヨブは自分が正しいと思っていた(32:1)からです。彼ら三人は、「災いは悪いことをしたから罰せられる」という、御心ではなく、一般的な枠から一歩も出ていなかったからです。みなさん、災いについてこれが一般の、そしてクリスチャンである私たちも陥りやすい捉え方です。ヨブは原因が自分にないと己を義とし、神を責めんばかりの状態になります。これもクリスチャンが災いを通された時、ついついやってしまうことです。

 しかしそうではありません。仏教用語ですが因果応報に欠けているもの、ヨブに欠けているもの、それは「感謝」です。「主は与え、主は取られる」から一歩出て、主は災いを通して、なくてならないものを知らせ、戻らせ、かえって「すべてのことを働かせて益としてくださる」ことを、今私たちは知っています。

 ヨブをはじめ一同はこのことを、それまで黙って聞いていたエリフから一喝されることになります。続いて神は同じことを語られます。こうしてヨブは、自分を義とし、全能者と争ったことを悔い改め、元の倍の祝福を受けることになります。しかしみなさん、結果としてヨブへの報いは財産が二倍になり、前よりももっと良い子どもが与えられたことにだけ目を留めないでください。もっとも大きな祝福は、ヨブの信仰が一段階さらに引き上げられたことです。それは「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた」ことからもわかるのです。自分を見舞いに来たはずなのに、かえって罪を指摘し、言いたてた友人をヨブが許しを請うた時、祈った時に祝福されたのです。

 みなさんの人生の中で、どうしてこのように困難が、苦難が多いのかと思っておられる方がいるかもしれません。またヨブは、サタンへの自慢のために落とされたと思われるかもしれません。しかしそうではありません。苦難なくして人は、神の愛を知り、その信仰を引き上げられることがないのです。神の知恵と愛は、計り知ることができません。神は愛する者を試練にあわせ、引き上げられるのです。それは神の愛です。祝福です。感謝し、喜び踊りましょう。

2014年3月30日 (日)

試練は祝福の源

 マタイ 10章34節  

 クリスチャンとして歩んでいて疑問に感じたことに、なぜ熱心というか、篤実というか、神の前に忠実な模範的な方々に、どうしてこうも試練が大きいのかということでした。ある人は一人娘の結婚式の三日後、婿がはじめて仕事に出かけたその朝、トラック同士の正面衝突の事故で召されました。別なある人の長男は、小さな子が生まれたばかりの日、自宅前、自分の車から降り立った直後、ドアと追い越し車に挟まれて召されました。ある神学生の妻は、生まれたばかりの初子を残し、神学生宿舎から飛び降りて召されました。感謝の器マーリンさんも息子さんが天に召されました。

 どうしてこうもみ心の人に、取り返しのつかないような試練が多いのでしょうか?そしてまた私にもそのような試練がふりかかってきた時、その渦中では「神よ、この私がいったい何をしたというのですか!」という自分の叫びが止むことはなかったのです。

 皆さんにお聞きします。あなたは神からの祝福を何と思っていらっしゃるでしょうか?ヤベツは確かに地境を拡げていただく祝福を受けました。しかし私は彼はその祝福を永遠の天に持って行くことはできなかったと思っています。神が与えてくださる真の祝福とは何でしょうか?自分がこの世において成功し、出世し、良い妻と子どもたちに恵まれ、安楽を得ることでしょうか?
 もちろんそれを否定するわけではありません。 クリスチャンでありながら試練もなく、世で成功し、地位と富と力を得ているとしたら、その人は本当に神に愛されているのか、少し疑っても良いでしょう。実子ならば、父からの懲らしめを受けるはずだからです。

 鉄の原料である鉄鉱石は、普通に見ればただの石にしか見えません。しかしこれをコークスと一緒に溶鉱炉の高い火で炙りますと、中の鉄分だけが溶け出して溶鉱炉の底に溜まります。こうして溶岩のように鉄を取り出せるのです。これと同じように本来神の作品である私たちの内側に、分かちがたく肉と罪が混ざっており、それは試練という溶鉱炉の火で溶かされなければ、分別できないものです。肉のまま、つまり鉄鉱石のままでは役に立たないのですから、火の苦しみではあっても、試練なしには私たちは神のものになれないのです。そしてこれはすばらしい天での祝福なのです。神が私たちを真実愛してくださっている証印なのです。

 ですから心から、本当に喜んでください。マリヤに天使が伝えた言葉(ルカ1:28)「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」は、今試練の中にあるあなたのものであります。マリヤもはじめ戸惑ったのですが、あなたも今戸惑っておられるかも知れません。マリヤにとってもそれは、不義密通として石打ちの刑にあっても仕方のない祝福でした。試練にあっている方よ、恐れることはありません、必ず守られ、子とされる喜びが待っているのです。ハレルヤ。

2013年8月18日 (日)

試練という神の愛

ヤコブ 1章2節
 今夏の秀作映画の「終戦のエンペラー」「風立ちぬ」に、共通して男女の愛が描かれていました。出会いがあり、いつしか恋になり、困難を乗り越えて互いに結ばれていく・・・・というパターンは昔から変わっていません。
 若いみなさんにとっても、これは他人事ではないかも知れません。映画では上等な恋愛を見せてくれますが、多くの場合、相手を愛しているつもりでも、自分の夢を相手にかぶせているだけで、本当に相手を見て愛したとは言えないケースが多いのではないでしょうか。夫婦の隙間や不一致、こんなはずではなかった、家庭内離婚は、相手そのものを見ようともしなかった自分の方にも原因があるのではないでしょうか?また人はまことに不完全なものです。自己中心で、どうにもならないのが自分なのではないでしょうか。

 ですが、イエス・キリストという本当の神を信じてください。この方は真実、人間を愛し、究極の愛、十字架にかかってくださいました。人間をそこまで愛してくださる神は他にいません。天地を造り今も生きておられ、人間に語りかけ愛していてくださっている神、この方を信じることによって最善の道を歩むことができるのです。ただ多くの人の場合、信じること、それは自分の考えよりも神の導きを選ぶことなのですが、その自分を捨てきれていないのです。Cgg17
 しかし安心してください。できないからこそ、試練があり、そこに神の矯正プログラムがあって、試練の先に祝福を受けるものとされていく・・・・・・試練を感謝する土台がこれです。

 その結果はどうでしょうか?試練の激しい炎は、肉なる自分を焼き、どうにもならない自我を完全にでは有りませんが、それ以上に神の御心の方が勝りたるものとして選べるようになるのです。ちょうど「製鉄所」の溶鉱炉が、鉄鉱石といって、石の中に混ざり込んでいる鉄分を石炭を蒸し焼きにしたコークスと一緒に激しい炎で焼きますと、石の中の鉄分が溶けてドロドロになって出てくるようなものです。真っ赤に燃えて鉄が抽出されるように、試練という溶鉱炉が人を純粋な鉄分、聞き従いのできるものへと変えてくれるのです。これは祝福の土台ではありませんか? また神が試練を通されるのは、不従順な者を用い、高慢になり、却って地に落とされることを考えましょう。試練によってでしか神中心に新生することはできません。まさに試練こそ神からの愛であり、この上ない喜びとなるものです。

2013年5月26日 (日)

ヨブに見る神の祝福

 ヨブ記42章12

 ヨブは義人であったのに、大変な試練を受けた人として有名ですが、誤解もあるようです。
Job
 まず誤解を招くところですが、サタンによってヨブは財産はもちろん、十人の子どもを失いました。子どもを失う・・・・これに多くの方が拒否反応をされます。もし自分の愛する子がそうなったら・・・・・その事実すら受け入れ難い上、生涯の心の傷となる方もいうことでしょう。たとえその後に新しく、同じ十人の子を与えられたとしても、親の気持ちというものは部品の入れ替えのようなわけにはいかないでしょう。確かに思い入れのあった子どもたちを失う、それを二番煎じでは取り返しがつかないという気もしないではありません。もっともなことですが、しかし聖書には理解する幾つかのキーワードが聖書にあります。

 ヨブは先の十人の子に対しては、機会あるごとに必ず全焼のいけにえを捧げていました。これは子どもたちが、「あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない(1:5)」と、どうしても罪の疑いを取り除けない、そんな子どもたちだったからです。
 しかし後の新しく与えられた子どもたちに関しては、その記述が一切ないことから、おそらくは罪を犯す心配のない、信仰的に善良で忠実な子どもたちであったことが分かります。さらに先では全く記述のなかった三人の娘に関しても名前を挙げた上で、「ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった(42:15)」と賞賛すらしてあるのです。飲み食いの宴会を常としていた先の子どもたちに比べ、後の子どもたちは異なり、宴会より先ず神を中心にした生活を営んでいたのでしょう。

  こうして見れば同じヨブの子どもでも、先の子どもたちにはおそらくは裁かれても仕方のない罪を犯していた可能性が高く、その後に与えられた子どもたちは全く異なる祝福された子どもたちであるとうかがい知れるのです。

 さらに「二番煎じ」という決めつけもどうでしょうか。私は先の妻を病で失い、結婚を二回しましたが、後の結婚を二番煎じだとはまったく思っておりません。一番目の結婚があったからこそ、二番目のすばらしさ、神のあわれみと慈しみが骨身に浸みてようく分かるのです。ヨブも同様ではないでしょうか。

 ヨブは試練によってその心は一新されました。「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています(42:6)」。もともとヨブは義人でしたが、さらに神と親しく交わる者、神を知る者が得る真の謙遜な者とされているのです。おおよそあらゆる祝福の中で、しかもキリスト以前の時代の人として、これ以上の祝福はありません。ヨブこそ、試練によってもっとも祝福された人物なのです。ヨブ記はそのことを教えてくれる記録なのです。

2013年5月12日 (日)

神とサタン

ヤコブ4章7節

 「知らないと損をする」ということは、ままあることです。船橋と高円寺駅間の交通費が620だと思い込んでいましたが、メトロの東西線を間に挟めば560円で行けます。昨日さらに経由切符で450円で行けることが分かりました。これは1/3近い差額でして、知らないと相当損失を受けてしまいます。
 同じように、もっと重大な、取り返しのつかない損失というものがあります。死後、天国と地獄という世界があるということを知らずに死んだなら、これはもう、想像をはるかに超えた重大な、取り返しのつかない損失なのです。それほどではありませんが、クリスチャンになっていても聖霊のバプテスマを知らなかったとすれば、これもかなりの損失でしょう。あんパンを食べているつもりなのに、実はあんパンを知らず、違うパンをあんパンだと思い続けていたようなものです。実際のパン屋ではそんなことは起こりませんが、クリスチャンに限って言えば、聖霊のバプテスマについては知らない人が多いという現実は、明確に聖書に記述されていSatan_27る(マル1:8、使徒1:5・8:14-17・19:1-7)だけに、これはどういうことでしょうか?実は私こそ31年も聖霊のバプテスマを知らずに過ごしていたのです。今でこそすべてを益に変えられて感謝をしておりますが、はじめはその長い年月をまるで「大損をした」ように感じていたものでした。

 さて孫子の兵法に「敵を知り己を知らば百選危うからず」という言葉があります。神様については相当語られてきておりますので、今日はサタンについても知る必要があるのです。サタンは悪魔とか(赤い)竜・(古い)ヘビと呼ばれています。サタン軍団の長であり、下には反キリストとか偽メシアなどの幹部クラス、その他大勢の悪霊たちを従えている神に背く霊的な大組織のリーダーです。彼は聖書に出ているミカエルやガブリエルと並ぶ大天使の一人であり、一説によるとルシファーと呼ばれていました。彼は「神のようになろう(エゼ28:2、イザ14:13-14)」として堕天した出自を持ちます。ですので配下の悪霊たちというのは、その時のもと天使たちだったと考えられるのです。
 サタンの性質ですが、「神に敵対する者」「高慢」「偽り」「誘惑者」が特徴です。彼らの運命は定まっていますが、ちょうど人が死ぬことが定まっていてもその瞬間まではそれを考えずに生きるように、火と硫黄の永遠の火の池に投げ込まれて滅ぼされるその瞬間まで、決して悔い改めることなく逆らい続ける存在です。
 かつて私は「神様はどうしてサタンの奴めを、自由に放しておられるのだろうか?罪に陥り苦しむ者、それで地獄へ行く者が増えてもお気になさらないのだろうか?」と思いました。しかしそれは神様のご性質への無知なためでした。神は聖にしてきよく、善なるお方です。エバ以来、罪人の私たちは、このままでは決して触れることも交わることもできない存在なのです。しかし罪を悔い改め新生し、聖霊のバプテスマが注がれます。その時世にありながら、神の国が一人一人の中に実現していきます。言わば私たちの罪をあぶり出し、悔い改めさせるためにサタンは用いられるのです。神の国ができるまでは、サタンはその産婆役をさせられているのです。
 クリスチャンとは福音と証を通し、サタンに囚われている人々の目を開いて、暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせる(使徒26:18)使命があります。ただし、自分の力でするのではなく、神に従って、そしてサタンに立ち向かって(ヤコ4:7)この使命を果たすのです。

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