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試練

2018年10月28日 (日)

恐れるな

マタイ 10章31節     【新改訳2017】

ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。

昨日の聖書箇所マタイ10章に三度出てくる「恐れてはいけません」の言葉は創15:1や46:3、士6:23に出てくる「do not be afraid」と同じで、「恐れるな」とも訳していい言葉です。そしてこの度、この箇所が三度出てくる10章に導きを感じました。
 26節の「ですから彼らを恐れてはいけません」の<彼ら>とは、私たち神を信じる者を迫害する世の人々、世の力です。彼らの前に引くことなく証し続けなさいと言う意味です。

 28節の「恐れてはいけません」は、真に恐れる相手を教えています。サタンやサタンの側の世は、確かにクリスチャンを迫害し、第1の死である血肉の命を奪うことができるかも知れませんが、彼らにできるのはそこまでです。しかし神はその次の永遠の死である第2の死、ゲヘナで滅ぼすことがおできになります。真に恐れる相手は、ただ神だけです。

 31節では、クリスチャンに許される困難や殉教は、決して神が無関心であったとか、沈黙していたからではないとを告げています。600~700円ぐらいで売られている1羽の雀の命さえ、神の許しなしにその命がなくなることはないのです。雀よりはるかに価値の高い私たちに許されることには、神の深い計画があり、神の栄光になることなのです。

 さて、これらの「恐れるな」がなぜ三度も語られるのでしょうか。迫害が近づいているからです。この箇所は元々弟子たちを派遣する前の、その心構えを語られているのですが、読んでいると実は患難時代を前にしての私たちに語られているような気がしてきました。そしてその核心は「血肉の命を失ってでも、主イエスの御名を否むな」と言うことに尽きると思われます。なぜならクリスチャンを否定するならば天国に行けないことと、逆に命を失ってでも「イエス・キリストの神こそ私の主です」と告白するならば、主イエスが天国で喜んで迎えてくださる事が約束されています。似た事がこれから起こる黙示録での「獣の刻印を受ける」こととして聖書に記述されています。
 黙示録では獣の刻印を受けるならば、ゲヘナに落とされる、とはっきり書いてあります。しかし一部の人たちに「そんなことは形式的なことだから受けても大丈夫。信仰は心の中のものだから」という人たちがいます。しかしそれはとんでもない間違いです。

 ただ自分の力で転ばない、大丈夫だと思わないでください。血肉の体を持つ私たちの弱さをご存知の主イエスの愛とあわれみに頼りましょう。また日頃から深く神と交わって、強い信頼を築いておくことも大切です。神の前に悔い改め、神を呼び求め続けることが最も大切なことでしょう。

2018年10月14日 (日)

試練

黙示録 3章10節     【新改訳2017】
あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。

 聖書日課に黙示録の終わりが近づいていますが、何となく腑に落ちない点というのがあります。それはキリストの再臨時、反キリストや偽キリストはゲヘナに落とされるのに、その首領のサタンは千年王国の終わりまで閉じ込められ、最後の最後にまたサタンを解き放って人々を惑わせることです。「神さま、あんまりじゃございませんか」とまでは思いませんが、「どうしてでしょうか?」と思うわけです。

それで、つれづれ祈り導かれながら諭されてたことに、神の陣営は聖であるということです。聖なる存在は、神に背く働き、つまり人々を惑わしたりすることができないのです。それでサタンを残し用いるのです。千年王国の時代はちょうど今とあべこべで、キリストが王の王となり、キリストに従って復活したクリスチャンが地上の支配者となる千年間です。そうなると、よほど反抗的な人以外の、地上のほとんどの人がクリスチャンになることでしょう。しかし本当に心から信じているかどうかは、今と逆の時代だからこそどうしても今以上に、試練という試しが無ければならないのだと示されたのです。

ではどういうことになるでしょうか。どんな時代であっても、試練は必ずあるということです。なぜなら、血肉の体を持つ私たちの今の使命は、証人としてです。このことはルカ24:48 使徒1:8、1:22、32などに明記されています。その証人が試練の時に、自分の血肉の命を惜しみ、御名を否んで獣の像を拝んだのでは証人としての使命の放棄であり、かえって人をつまずかせることになります。そのような者は皆ゲヘナへ落とされる黙示録19:20、20:4と聖書でははっきり書かれています。

使徒1:8 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」
黙示録3:8 のフィラデルフィア教会でのわたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった」ことに対してです。

結論として私たちは弱い存在ですから、高木仙右衛門のように、弱さを自覚し、証人としての使命を全うできるよう神に祈り求め続けましょう。神だけが希望であり、頼りです。「主よ、私は弱い者です。ですから主よ、その時、あなたの名を否まない力を主が与えてください」と。そしてこの祈りは必ず聞き届けられると私は信じます。

2018年5月13日 (日)

試練とみ言葉

使徒10節13節
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

  本日はⅠコリ10章13節の後半の<脱出の道>を示されました。では試練に、どんな脱出の道があるのでしょうか。

試練はたとえ辛くても、天の喜びです。つぎのみ言葉があります 「もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子(実子)ではありません。(へブル12:8)」 つまり、神の子としてくださっていることの証明なのです。

とは言え、確かにその渦中にある時はこんな余裕はない。私自身にも経験から言っても、鞭打たれているその痛みに「う、うれしいですーっ」とは、言えるものではありません。
脱出の道とは「どうしてこの苦しみが自分に許されて、この終わりがいつ来るか」、という理由がわかり、希望があることです。多くの試練はただ一つのことを目的としています。それは「自分の罪がわかって悔い改める」ことです。深刻な自分の罪がわからなければ、人は心から悔い改めることができません。十字架がまさしく自分の罪のためであったと100%受け取れなければ、十字架の神の愛もわからないし、聞き従ってみこころを行おうとは思わないことでしょう。けれども問題が一つ、理由とかいつまでは神様に聞くしかないことです。ですから熱心に主に期待して祈ってください。神は真実な方ですから、必ず答えてくださいます。

さて昨夜三本松牧師のお父様の話が紹介されました。退職後、野菜作りを始められたお父様は、野菜作りを勉強され、理想的な土作りから毎日の水やりまで、それは丹精込めて育てられたそうです。しかし結果は、虫がつきまとい、根腐れを起こし、収獲しても味がイマイチだったそうです。そこで野菜作りの先輩に教えを請うと、甘やかして大事にし過ぎだったと。そこで肥料は最低限にし、水やりは枯れそうな寸前まで控える。すると野菜は「これじゃいかん」と頑張りだし、虫を寄せ付けず、わずかな水をしっかりと取り込み、せめて子孫だけは残そうと、自分の身を捨てても次代に託すように熟成した実をならせるのだそうです。

人間も同様です。神は私たちの限界をご存知ですから、必ず護ってくださいます。枯れることはありません。私たちを通してすばらしい実をつけさせようと鍛えてくださっているのです。神を信頼しましょう。

2018年2月18日 (日)

弱さを誇る

Ⅱコリント 11章30節
もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
 
 神様に用いられることは、多くのクリスチャンの願いです。しかしことは神が選んでくださることなのです。私のこれまでの体験から、この群れに集められた人全員が主が用いられる器だと思っています。なぜなら、この群れ、真の信仰の教会ですが、召されたみ心の人以外はなかなか留まり続けることができていないからです。
 
さて、私(たち)は罪を犯し続ける罪人です。このような者がどうやって主に用いられるのでしょうか。はっきりしていることは、主の訓練を経、主が建て上げてくださったのでなければ、かえって呪いを招いてしまうことです。自分自身の高慢という罪、これを除くことは自分の手ではできないのです。これが不十分なまま仮に用いられてしまうと、ほんのわずかでも神の栄光を自分の手柄にし、誇ってしまう恐れがあります。そんなことになる位なら、かえって用いられない方が良いのです。金持ちの門の前に置かれていたラザロの方がずっと良いのです。
 
しかし主をほむべきかな。神は人の心を変えるマジック・・・・・試練をお持ちです。聖書を見るなら、神は用いられるすべての器を例外なく試練を通されるのです。アブラハムは父の中途半端な聞き従いを見、75歳という分別盛りにして徹底して主に聞き従い続ける道を選びました。彼は約束の子、イサクさえ惜しまなかったのです。ヤコブやヨセフ、モーセ、ダビデに至っては、何を申しましょうか。一つだけ言えるとしたら、すべての人が異なった試練の道を通され、結果として祝福されたということです。人の親なら困難から我が子を守り切れなかったりするでしょうが、神にはそれがなく、間違いや失敗がないことです。つまり主の手にあっては神は、最善をなされるのです。
 
この試練がなければ、人は神を知り、その絶大な愛の前に自分を捨て、肉の心を捨て、主を第一にしてすべてを神の栄光に帰することができないのです。第Ⅱコリント12章9節で「私の力は弱さの内に完全に現れる」とあります。試練の中で人は弱くされますが、弱くされたならば人は神に頼ります。神はその時ご自分の力を現されて、その人を覆い、守られるので、かえって人はその時最強とされる(第Ⅱコリ12:9)のです。私たちは弱い時、主を呼び求めますから、逆に強いのです。この群れは聖書の信仰を受け取っていますから、試練を感謝し、喜ぶ信仰が与えられているのです。 
アーメンでしょうか。 

2017年1月22日 (日)

人は心で(霊)で生きる

箴言 3章11~12節
11節 わが子よ。の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。
12節 父がかわいがる子をしかるように、は愛する者をしかる。

 人はこころで生きています。肉体にたとえ命があったとしても、心が常に心配や不安、憎しみ、恐れに支配されていたとしたら、その人は十分に生きているとはいえません。またその霊的な状態は、必ず体にも反映されていきます。
 
 素人の経験からですが、心の病の人はその病名がどうであれ、また本人が意識しているかどうかに関わりなく、セルフイメージ(自己像)に大きなずれがあるように見受けられます。例えば自己否定の態度のように見えても、それは高過ぎるレベルの自分を自分だと思っていたためだったりします。自分の思った通りの、描いた通りの自分にならない・・・・現状の弱く低次の自分を許せないからこそ激しい心の戦いがあるようです。
 孫子の兵法に「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」という言葉がありますが、この正しくありのままの自分を知る,受け入れるということが最も困難なことです。人はどうしたらそれができるようになるのでしょうか。
 
 昔、イスラエルにダビデという王様がいました。ベツレヘムという田舎に生まれ、羊飼いという貧しい家の少年でした。ダビデはやがて神の油注ぎを受け、勇者として名をはせます。やがて王として全イスラエルを統一し、都をエルサレムに定め、イスラエルを比類なき大きな国にすることができました。その功成り絶頂期にダビデは次のように言っています。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので・・・・(このように私を絶大に引き上げてくださるのでしょうか)・・・・私は取るに足りない者でした」と。ダビデのこの謙遜さこそ、代々のイスラエルの王家の血筋となり、イエス・キリストの家系ともなりました。自分の本当の姿、正しい姿に立ってこそ、神との正しい関係を築き、祝福を受ける土台です。
 
 このことを逆に言えば、クリスチャンが正しいセルフイメージを持って神の前に出れば、神から祝福を受けられる可能性が高いことを意味します。むろん神さまもそのことをお望みですから、試練というものを許され、試練で自己を砕かれることで、正しいセルフイメージを持てるよう導いてくださっているわけです。クリスチャンへの試練は神の愛であり、我が子として取り扱ってくださっているのです。ですから主の懲らしめをないがしろにするのではなく、感謝し正しい自己認識をして、み心に聞き従ってください。そうするなら、その試練は止むことでしょう。
 
 神は私たちを愛してくださっています。試練は人それぞれですが、神の愛は決して変わらず、死も命もどのような敵もこれを奪うことができず、永遠へと続きます。神が導かれた真の自分の姿をもって、神さまとの関係をさらに引き上げていただきましょう。

2017年1月15日 (日)

私はあきらめない

ローマ10章11節
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

 困難と試練とは異なります。神を信じていない時のものが困難で、クリスチャンになってからは試練と分けています。私たちは本来傲慢なので、困難があるからこそ神に救いを求めるようになるのです。クリスチャンになってからの試練には、神の計画があり、信仰を引き上げ、使命を果たせるようにする訓練プログラムの一環という面があります。試練によって謙遜を得、聞き従うこと、感謝する願いを起こさせていただくことができるようになるのです。
 
 試練は一度来るだけではありません。Gif_4 何度も繰り返すようでいて、そこに成長と深化があって、スパイラルに、段階的に私たちは引き上げられていきます。それには神の教育法とでもいうべきものがあって、三つの過程をスパイラルに繰り返されて引き上げられていくと思っています。これを「きよめ」とか「聖化」と言い、ある段階まで来ると主の器として用いられていきます。
 
 神のプログラムの中で特に試練は、私たちの願いとは、別に残念ながら肉体がこの世にある限り終わることはないようです。なぜなら、肉体は滅ぶべきものであって、地に属するものです。同じく滅ぶサタンからの攻撃を受ける引っかけ口みたいなものでしょう。だから私たちは脱肉体というか、天を待ち望むのです。もともとクリスチャンは天に属しており、天はクリスチャンの故郷ですし、誘惑や試練はないからです。
 
 世においての私たちに対する神様の目的は、祝福です。ただし、この世で得られると思ってはなりません。信仰の父アブラハムも、マクペラの洞窟以外は世においての所有物はありませんでした。この世では、神様の御栄光が褒め称えられることが唯一の目標であって、私たちにとっては、天国においてのご褒美こそ祝福です。
 世においては神に聞き従って神の器となり、すべての栄光を神に帰しましょう。天の御国において祝福されることになります。そのために、熱心に自分を捧げられるよう祈りましょう。試練はその答えであり、 はじめの第一歩です。hallelujah!

2016年4月24日 (日)

マラ(苦い水)は何のためか

出エジプト 15章23節
彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。
 今日はイスラエルの試練を通して、試練の意味、どうして感謝するのかということを、学んでみたいと思います。
モーセはエジプトの王家一員として、 40才まで育ち、後の40年はシナイとアラビアで羊飼いでした。これはファラオとの交渉やその後民を導く者最適です。
「イスラエルの民の脱出ルート図解」                                          Exodus    
元王族ですから、ファラオを対決するのに一歩も臆することもありませんでした。この成功がただ神の力100%に依ったことを最もよく知っていたのでした。
 その契機となったエジプトの長子がみな殺される出来事ですが、イスラエル人は皆守られました。神が命じられた命令を守ったからです。それは一匹の傷のない一歳の雄の子羊を犠牲にし、その血をイスラエルの家の二本の門柱とかもいに塗ることでした。血で塗られた家だけが神のさばきを受けずに過ぎ去った、これは、イエス・キリストの犠牲という予表でした。
 
 脱出した後、イスラエルの三百万以上の民にとって、水が緊急課題でした。最初にたどりついたオアシス、マラには水があっても苦く、飲める水ではありませんでした。落胆し怒る民はモーセに詰め寄りました。このようなことは、この後幾度も繰り返されます。続くシンの荒野では食糧が尽きてパンと肉を求めました。その次のレフィデムでは同じように水を。その都度民は、「荒野で飢え死ぬより、エジプトで奴隷の方がよかった」と呟くのでした。
 マラで苦い水に木を投げ入れました。これも一つの予表です。一片の木を取ってそれを苦い水、つまり不信仰の民、または罪の底に沈めて、水は清められ甘くなった。その木とは十字架の木です。十字架という贖いによって罪が赦される予表でなのです。
 イスラエルの数々の困難試練は、見えるモーセにではなく、モーセを通して見えない神に救いを得る者となるためであり、またイスラエルの民を通してキリストの現れを示すためでもあったのです。みなさんの今の困難は、良い結果を期待しての結果、苦い水であったかも知れません。しかし固く信じて下さい。苦い水を通し、真に神の購いの恵みを受けるようにしておられるのです。決してあきらめてはなりません。  
聖書はこう言っています。 
「彼に 信頼する者は、失望させられることがない。」 ローマ 10章11節

2015年12月 6日 (日)

クリスチャンのさばき

Ⅰコリント 3章13節

 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とと もに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。 

 非常に大ざっぱに言えば、神を信じない人にも、信じる者にも、一度だけ大きな判定があって、これを聖書では(死者の)さばきといい、第二の死とも言う。もちろんさばきは神がされる。これは恣意的なものではなく、その人が生前に行った膨大な記録による。そうなると人の死後は決まっていて、全員が有罪となり、例外なく地獄行きである。多少の善行があろうとも、芥川の「蜘蛛の糸」とは異なって、人には原罪があり、自己中心なので第二の死(地獄=火の池)行きは避けられない。

 ではどうしたら天国へ行けるのだろうか。イエス・キリストの十字架を信じる道しか人類には残されていない。天地万物を造られた神ご自身が、自分の罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったことを信じ、告白することである。十字架は全ての罪を帳消しにするスーパーカードのようなもので、天国とは正しい人が入るというより、罪人が赦された恵みで入れる所である。

 ところで神を信じた人にもさばきがある。そう言うと「エエッ」と驚かれるクリスチャンも多いことだろう。これはさばきというより「報い」というべきものである(1コリ3:10-15)。クリスチャンには第二の死はありえないので、確かに約束通り天国には行ける。ただし天国は、諸国の民が住む所と、天から降りて来る神の都エルサレム(黙示録21章)とがあって、気になるのはそのどちらに住めるのか?ということである。おそらくは神の都のエルサレム内に住める人とは、千年王国の時代、キリストとともに王となるような殉教者か、または携挙されるような信仰者(聖徒)だと私は見ている。このような方々が聖所の柱となられるのである。

 私はこの都に住むことを、皆さんと同じように熱望している。なぜならまず第一に神の近くに一時でも長く居て、賛美を捧げ続けたいと願うからだ。また神からの天上での新たな使命や任務もあることだろう。また次のような美しい都に住むことは、何という喜び、平安であろうか。天の都の中央には「光る命の川」と両岸には命の木(どんな木だろうか!)と毎月実のなる十二種の木があって、ここには諸国の民も来れるらしく「木の葉がいやした」とある(黙22章)。これが天国の実体なのだ。ここには悪や一切の呪いがないうえ、永遠の世界なのだ。想像するだけでも胸が熱くなるではないか。この都に住むには、神を第一とし、この血肉の体を神に惜しまずに捧げ、用いられることである。
 ただし誰ひとり例外なく、試練や困難、場合によっては殉教という、都に住むためのテストに合格しなければならない。逆に言えば厳しい人生のテストに出会うことは、神の子とされ、エルサレムに住まう恵みにあずかるチャンスである。心から賛美し神の愛をどこまでも信じ、感謝したい。

2015年10月18日 (日)

クリスチャンの訓練

へブル書 12章5節
わが子よ。主からの懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。
 対局から見れば、これからの終末の時代には患難時代と呼ばれる非常な困難な時代が来ます。それは驚くべき天変地異、天候不順による飢え、人間同士の醜い争いが続き、人の心が荒廃する時代でもあるのです。そして人々はますます罪の深みにはまり、反キリストにつくか、それとも唯一の神に救いを求めるかの究極的な選択を迫られるようになります。リバイバルはこうして始まるのです。
 しかしそのような時代になってからでは、必要とされる多くの導き手、牧師や伝道師を養成することは、たとえて言えば「泥棒を捕らえて縄を綯う」ようなものです。それでリバイバル前の今の時代に、なんとカリスマ派の教会に導かれた皆さん、おわかりでしょうか? みなさんはリバイバルの救いのため、多くの人々を漁る使命がある、言わば召された人々なのです。
 それで個人お一人お一人について言えば、大勢の人々は皆違うように、皆さん自身も異なった場所、育ち、人柄から成り立っています。しかし共通していることがあります。神を信じて救われ、天国へ行けると祝福されたはずなのに、現実はかえってつらい目に遭っているクリスチャンであるということです。それで「これでは話が、約束が違う!」と怒りまくっている人もいると思います。
 かつて私自身もそうであったのですが、今、ちょっと落ち着いて、静まって聞いていただきたいのです。そんなあなたは神に実の子として愛されているからなのだ、と言うことです。訓練には必ず目的があります。なければそれはいじめであり、残酷なものです。しかし神はそのようなお方ではありません。愛なるお方で、そのようなことはしようとしてもおできにはなれません。ではなぜですか? ですからこれはあなたにとってどうしても必要な「神の訓練」であり、またその渦中にあるということです。本日の御言葉から言えば、主は愛する子には必ず試練を許され、例外なくむちを加えられるのです。ですから試練がないということは、逆に言えば、残念ながら神の子どもではなかった、と言うことにもなるのです。
 また兵隊になって、何の訓練も受けずに戦場に出されたとしたら役に立たないどころか、すぐに死体になってしまうことでしょう。ですから訓練と言えども、時には死ぬほどの厳しい訓練が新兵にはあります。私たちの戦いは、人間の力をはるかに超えた、暗闇の支配者に対してなのです。これに勝利するために訓練は、絶対必要なのです。
 そういうわけで試練にあっている方は喜んでください。訓練の結果は明白です。自分の人生は自分のものと考えたり、世のあらゆる肉欲に支配されることなく、聖霊に満たされた御心を第一に行う者となって、神の使命を全うする者となるからです。

2014年11月23日 (日)

苦難の意味

✝ ヨブ記 42章5-6節

 ヨブには七人の息子と三人の娘、羊七千にラクダ三千頭など、非常に多くのしもべを持つ、族長的な存在でした。アブラハムのように神に忠実でもありました。ところが神のご自慢のヨブが、一時的にせよサタンに渡され、苦難のただ中に落とされたのです。全財産すべての子どもまで奪われました。

 ところが、これほど失ってもヨブの信仰は衰えませんでしたが、ヨブの全身を皮膚病で打たれると、サタンの目論見通り、ヨブもさすがに苦しみました。その上、三人の友がやってきて、慰めるどころかヨブを責めるのでした。

 これらの災いはヨブに原因があり、それを悔い改めるよう説得します。しかしヨブは負けずに言い返します。ヨブは自分が正しいと思っていた(32:1)からです。彼ら三人は、「災いは悪いことをしたから罰せられる」という、御心ではなく、一般的な枠から一歩も出ていなかったからです。みなさん、災いについてこれが一般の、そしてクリスチャンである私たちも陥りやすい捉え方です。ヨブは原因が自分にないと己を義とし、神を責めんばかりの状態になります。これもクリスチャンが災いを通された時、ついついやってしまうことです。

 しかしそうではありません。仏教用語ですが因果応報に欠けているもの、ヨブに欠けているもの、それは「感謝」です。「主は与え、主は取られる」から一歩出て、主は災いを通して、なくてならないものを知らせ、戻らせ、かえって「すべてのことを働かせて益としてくださる」ことを、今私たちは知っています。

 ヨブをはじめ一同はこのことを、それまで黙って聞いていたエリフから一喝されることになります。続いて神は同じことを語られます。こうしてヨブは、自分を義とし、全能者と争ったことを悔い改め、元の倍の祝福を受けることになります。しかしみなさん、結果としてヨブへの報いは財産が二倍になり、前よりももっと良い子どもが与えられたことにだけ目を留めないでください。もっとも大きな祝福は、ヨブの信仰が一段階さらに引き上げられたことです。それは「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた」ことからもわかるのです。自分を見舞いに来たはずなのに、かえって罪を指摘し、言いたてた友人をヨブが許しを請うた時、祈った時に祝福されたのです。

 みなさんの人生の中で、どうしてこのように困難が、苦難が多いのかと思っておられる方がいるかもしれません。またヨブは、サタンへの自慢のために落とされたと思われるかもしれません。しかしそうではありません。苦難なくして人は、神の愛を知り、その信仰を引き上げられることがないのです。神の知恵と愛は、計り知ることができません。神は愛する者を試練にあわせ、引き上げられるのです。それは神の愛です。祝福です。感謝し、喜び踊りましょう。

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