† Ⅰコリント 3章13節
各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とと もに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
非常に大ざっぱに言えば、神を信じない人にも、信じる者にも、一度だけ大きな判定があって、これを聖書では(死者の)さばきといい、第二の死とも言う。もちろんさばきは神がされる。これは恣意的なものではなく、その人が生前に行った膨大な記録による。そうなると人の死後は決まっていて、全員が有罪となり、例外なく地獄行きである。多少の善行があろうとも、芥川の「蜘蛛の糸」とは異なって、人には原罪があり、自己中心なので第二の死(地獄=火の池)行きは避けられない。
ではどうしたら天国へ行けるのだろうか。イエス・キリストの十字架を信じる道しか人類には残されていない。天地万物を造られた神ご自身が、自分の罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったことを信じ、告白することである。十字架は全ての罪を帳消しにするスーパーカードのようなもので、天国とは正しい人が入るというより、罪人が赦された恵みで入れる所である。
ところで神を信じた人にもさばきがある。そう言うと「エエッ」と驚かれるクリスチャンも多いことだろう。これはさばきというより「報い」というべきものである(1コリ3:10-15)。クリスチャンには第二の死はありえないので、確かに約束通り天国には行ける。ただし天国は、諸国の民が住む所と、天から降りて来る神の都エルサレム(黙示録21章)とがあって、気になるのはそのどちらに住めるのか?ということである。おそらくは神の都のエルサレム内に住める人とは、千年王国の時代、キリストとともに王となるような殉教者か、または携挙されるような信仰者(聖徒)だと私は見ている。このような方々が聖所の柱となられるのである。
私はこの都に住むことを、皆さんと同じように熱望している。なぜならまず第一に神の近くに一時でも長く居て、賛美を捧げ続けたいと願うからだ。また神からの天上での新たな使命や任務もあることだろう。また次のような美しい都に住むことは、何という喜び、平安であろうか。天の都の中央には「光る命の川」と両岸には命の木(どんな木だろうか!)と毎月実のなる十二種の木があって、ここには諸国の民も来れるらしく「木の葉がいやした」とある(黙22章)。これが天国の実体なのだ。ここには悪や一切の呪いがないうえ、永遠の世界なのだ。想像するだけでも胸が熱くなるではないか。この都に住むには、神を第一とし、この血肉の体を神に惜しまずに捧げ、用いられることである。
ただし誰ひとり例外なく、試練や困難、場合によっては殉教という、都に住むためのテストに合格しなければならない。逆に言えば厳しい人生のテストに出会うことは、神の子とされ、エルサレムに住まう恵みにあずかるチャンスである。心から賛美し神の愛をどこまでも信じ、感謝したい。
✝ ヨブ記 42章5-6節
ヨブには七人の息子と三人の娘、羊七千にラクダ三千頭など、非常に多くのしもべを持つ、族長的な存在でした。アブラハムのように神に忠実でもありました。ところが神のご自慢のヨブが、一時的にせよサタンに渡され、苦難のただ中に落とされたのです。全財産すべての子どもまで奪われました。
ところが、これほど失ってもヨブの信仰は衰えませんでしたが、ヨブの全身を皮膚病で打たれると、サタンの目論見通り、ヨブもさすがに苦しみました。その上、三人の友がやってきて、慰めるどころかヨブを責めるのでした。
これらの災いはヨブに原因があり、それを悔い改めるよう説得します。しかしヨブは負けずに言い返します。ヨブは自分が正しいと思っていた(32:1)からです。彼ら三人は、「災いは悪いことをしたから罰せられる」という、御心ではなく、一般的な枠から一歩も出ていなかったからです。みなさん、災いについてこれが一般の、そしてクリスチャンである私たちも陥りやすい捉え方です。ヨブは原因が自分にないと己を義とし、神を責めんばかりの状態になります。これもクリスチャンが災いを通された時、ついついやってしまうことです。
しかしそうではありません。仏教用語ですが因果応報に欠けているもの、ヨブに欠けているもの、それは「感謝」です。「主は与え、主は取られる」から一歩出て、主は災いを通して、なくてならないものを知らせ、戻らせ、かえって「すべてのことを働かせて益としてくださる」ことを、今私たちは知っています。
ヨブをはじめ一同はこのことを、それまで黙って聞いていたエリフから一喝されることになります。続いて神は同じことを語られます。こうしてヨブは、自分を義とし、全能者と争ったことを悔い改め、元の倍の祝福を受けることになります。しかしみなさん、結果としてヨブへの報いは財産が二倍になり、前よりももっと良い子どもが与えられたことにだけ目を留めないでください。もっとも大きな祝福は、ヨブの信仰が一段階さらに引き上げられたことです。それは「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた」ことからもわかるのです。自分を見舞いに来たはずなのに、かえって罪を指摘し、言いたてた友人をヨブが許しを請うた時、祈った時に祝福されたのです。
みなさんの人生の中で、どうしてこのように困難が、苦難が多いのかと思っておられる方がいるかもしれません。またヨブは、サタンへの自慢のために落とされたと思われるかもしれません。しかしそうではありません。苦難なくして人は、神の愛を知り、その信仰を引き上げられることがないのです。神の知恵と愛は、計り知ることができません。神は愛する者を試練にあわせ、引き上げられるのです。それは神の愛です。祝福です。感謝し、喜び踊りましょう。
† マタイ 10章34節
クリスチャンとして歩んでいて疑問に感じたことに、なぜ熱心というか、篤実というか、神の前に忠実な模範的な方々に、どうしてこうも試練が大きいのかということでした。ある人は一人娘の結婚式の三日後、婿がはじめて仕事に出かけたその朝、トラック同士の正面衝突の事故で召されました。別なある人の長男は、小さな子が生まれたばかりの日、自宅前、自分の車から降り立った直後、ドアと追い越し車に挟まれて召されました。ある神学生の妻は、生まれたばかりの初子を残し、神学生宿舎から飛び降りて召されました。感謝の器マーリンさんも息子さんが天に召されました。
どうしてこうもみ心の人に、取り返しのつかないような試練が多いのでしょうか?そしてまた私にもそのような試練がふりかかってきた時、その渦中では「神よ、この私がいったい何をしたというのですか!」という自分の叫びが止むことはなかったのです。
皆さんにお聞きします。あなたは神からの祝福を何と思っていらっしゃるでしょうか?ヤベツは確かに地境を拡げていただく祝福を受けました。しかし私は彼はその祝福を永遠の天に持って行くことはできなかったと思っています。神が与えてくださる真の祝福とは何でしょうか?自分がこの世において成功し、出世し、良い妻と子どもたちに恵まれ、安楽を得ることでしょうか?
もちろんそれを否定するわけではありません。 クリスチャンでありながら試練もなく、世で成功し、地位と富と力を得ているとしたら、その人は本当に神に愛されているのか、少し疑っても良いでしょう。実子ならば、父からの懲らしめを受けるはずだからです。
鉄の原料である鉄鉱石は、普通に見ればただの石にしか見えません。しかしこれをコークスと一緒に溶鉱炉の高い火で炙りますと、中の鉄分だけが溶け出して溶鉱炉の底に溜まります。こうして溶岩のように鉄を取り出せるのです。これと同じように本来神の作品である私たちの内側に、分かちがたく肉と罪が混ざっており、それは試練という溶鉱炉の火で溶かされなければ、分別できないものです。肉のまま、つまり鉄鉱石のままでは役に立たないのですから、火の苦しみではあっても、試練なしには私たちは神のものになれないのです。そしてこれはすばらしい天での祝福なのです。神が私たちを真実愛してくださっている証印なのです。
ですから心から、本当に喜んでください。マリヤに天使が伝えた言葉(ルカ1:28)「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」は、今試練の中にあるあなたのものであります。マリヤもはじめ戸惑ったのですが、あなたも今戸惑っておられるかも知れません。マリヤにとってもそれは、不義密通として石打ちの刑にあっても仕方のない祝福でした。試練にあっている方よ、恐れることはありません、必ず守られ、子とされる喜びが待っているのです。ハレルヤ。
† ヤコブ 1章2節
今夏の秀作映画の「終戦のエンペラー」「風立ちぬ」に、共通して男女の愛が描かれていました。出会いがあり、いつしか恋になり、困難を乗り越えて互いに結ばれていく・・・・というパターンは昔から変わっていません。
若いみなさんにとっても、これは他人事ではないかも知れません。映画では上等な恋愛を見せてくれますが、多くの場合、相手を愛しているつもりでも、自分の夢を相手にかぶせているだけで、本当に相手を見て愛したとは言えないケースが多いのではないでしょうか。夫婦の隙間や不一致、こんなはずではなかった、家庭内離婚は、相手そのものを見ようともしなかった自分の方にも原因があるのではないでしょうか?また人はまことに不完全なものです。自己中心で、どうにもならないのが自分なのではないでしょうか。
ですが、イエス・キリストという本当の神を信じてください。この方は真実、人間を愛し、究極の愛、十字架にかかってくださいました。人間をそこまで愛してくださる神は他にいません。天地を造り今も生きておられ、人間に語りかけ愛していてくださっている神、この方を信じることによって最善の道を歩むことができるのです。ただ多くの人の場合、信じること、それは自分の考えよりも神の導きを選ぶことなのですが、その自分を捨てきれていないのです。
しかし安心してください。できないからこそ、試練があり、そこに神の矯正プログラムがあって、試練の先に祝福を受けるものとされていく・・・・・・試練を感謝する土台がこれです。
その結果はどうでしょうか?試練の激しい炎は、肉なる自分を焼き、どうにもならない自我を完全にでは有りませんが、それ以上に神の御心の方が勝りたるものとして選べるようになるのです。ちょうど「製鉄所」の溶鉱炉が、鉄鉱石といって、石の中に混ざり込んでいる鉄分を石炭を蒸し焼きにしたコークスと一緒に激しい炎で焼きますと、石の中の鉄分が溶けてドロドロになって出てくるようなものです。真っ赤に燃えて鉄が抽出されるように、試練という溶鉱炉が人を純粋な鉄分、聞き従いのできるものへと変えてくれるのです。これは祝福の土台ではありませんか? また神が試練を通されるのは、不従順な者を用い、高慢になり、却って地に落とされることを考えましょう。試練によってでしか神中心に新生することはできません。まさに試練こそ神からの愛であり、この上ない喜びとなるものです。
† ヨブ記42章12節
ヨブは義人であったのに、大変な試練を受けた人として有名ですが、誤解もあるようです。
まず誤解を招くところですが、サタンによってヨブは財産はもちろん、十人の子どもを失いました。子どもを失う・・・・これに多くの方が拒否反応をされます。もし自分の愛する子がそうなったら・・・・・その事実すら受け入れ難い上、生涯の心の傷となる方もいうことでしょう。たとえその後に新しく、同じ十人の子を与えられたとしても、親の気持ちというものは部品の入れ替えのようなわけにはいかないでしょう。確かに思い入れのあった子どもたちを失う、それを二番煎じでは取り返しがつかないという気もしないではありません。もっともなことですが、しかし聖書には理解する幾つかのキーワードが聖書にあります。
ヨブは先の十人の子に対しては、機会あるごとに必ず全焼のいけにえを捧げていました。これは子どもたちが、「あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない(1:5)」と、どうしても罪の疑いを取り除けない、そんな子どもたちだったからです。
しかし後の新しく与えられた子どもたちに関しては、その記述が一切ないことから、おそらくは罪を犯す心配のない、信仰的に善良で忠実な子どもたちであったことが分かります。さらに先では全く記述のなかった三人の娘に関しても名前を挙げた上で、「ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった(42:15)」と賞賛すらしてあるのです。飲み食いの宴会を常としていた先の子どもたちに比べ、後の子どもたちは異なり、宴会より先ず神を中心にした生活を営んでいたのでしょう。
こうして見れば同じヨブの子どもでも、先の子どもたちにはおそらくは裁かれても仕方のない罪を犯していた可能性が高く、その後に与えられた子どもたちは全く異なる祝福された子どもたちであるとうかがい知れるのです。
さらに「二番煎じ」という決めつけもどうでしょうか。私は先の妻を病で失い、結婚を二回しましたが、後の結婚を二番煎じだとはまったく思っておりません。一番目の結婚があったからこそ、二番目のすばらしさ、神のあわれみと慈しみが骨身に浸みてようく分かるのです。ヨブも同様ではないでしょうか。
ヨブは試練によってその心は一新されました。「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています(42:6)」。もともとヨブは義人でしたが、さらに神と親しく交わる者、神を知る者が得る真の謙遜な者とされているのです。おおよそあらゆる祝福の中で、しかもキリスト以前の時代の人として、これ以上の祝福はありません。ヨブこそ、試練によってもっとも祝福された人物なのです。ヨブ記はそのことを教えてくれる記録なのです。