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神の愛

2026年6月 7日 (日)

神は愛

✝ヤコブ 4章4-5節  2017新改訳
 
節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。
それとも、聖書は意味もなく語っていると思いますか。「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。
 私たちのキリスト教は人が作ったもの、いわゆる宗教ではありません。万物の創造者である神が、被造物にしてその目的であるである私たち人間に、ご自身を現されたものであり、その教えです。一神教はあらゆる宗教とは異なって、ただ一つの神からなる啓示宗教です。
 この神は人を愛し、人のために宇宙と全世界を創造され、被造物に過ぎない、人と人格的に交わろうとされる神です。人は神に準じて造られ、肉とともに霊をも注がれた特別な存在として造られました。しかしイブとアダムによって堕落した人間の救済の為に、ご自身の子さえ惜しまれなかったのです。罪のよって神と遮断された人類のために、その壁となっている罪を十字架によって打ち砕き、再び交われる道を開いてくださいました。ですからこの尊いすばらしい道を選ばない人は、その選びにふさわしいところに行くのです。
 この愛なる神は、本当に私たちを愛してくださっているので、これに応える私たち人間も全力でその愛に応えて行くのです。本日の聖書箇所(ヤコブ4章5節)には「ねたむ」とありますが、たとえば夫婦において、浮気を肯定することはあり得ません。互いに唯一無二の関係であらねばならないのです。神もそのように私たちを愛してくださいました。ですから神は、ご自分を唯一無二の相手とするよう求められます。これは愛の裏返しです。ですからこれは大変嬉しいことなのです。ねたまれるほど、唯一の存在として私(たち)は愛されています。私たち神を信じ、愛する者を神は真剣に、心から妬むほどに愛してくださっています。
 ところで私の証ですが、私は自分の信仰の歩みの中に、神の足跡をはっきり見ることができます。カルヴァンの予定説を信じていませんが、信じる者にとってはそうなのです。全ての人にこの神の道が用意されているのですが、信じるか信じないかの分かれ目は自己を肯定し高ぶるか、あるいは罪を認め悔改めて救いを求めるかにあると言うしかありません。二十歳でクリスチャンになって間もない時「私よりもすばらしい友や人がいるのに、どうして私のような取り柄のない者が救われたのか」と涙を流して選びに抗議したことを覚えています。伝道しても、周囲の誰一人として教会に来ようとしなかったからです。世が終わった時、きっと彼らは、どうして中村だけが‥‥と羨むに違いないのです。
 しかし神はほむべきかな、高校時代に学んだ聖書を学んではいた私でしたが、学生運動でアジっていた私が挫折し、いかに愚かであったかと思い知りました。それで神を信じる者になったのですが、それから三十年後、さらに伴侶の病とその困難を通して、神の哀れみと愛を知る者にしてくださいました。神の本質は愛です、それも妬まれるほど愛してくださる愛です。

2026年1月 4日 (日)

多くを愛した

✝ルカ 7章47節   2017新改訳

ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。

 真のクリスチャンは自分よりも主を愛してますし、それは自分の命すら惜しまないほどです。どうしてそこまで主なる神を愛するのでしょうか。仮に「信仰を捨てないと命はないぞ」と脅迫されても、実際はともかく、死を恐れないことでしょう。なぜそれほど神を愛するのでしょうか。
 本日の聖書箇所では、罪深い女が全身全霊でもってイエスを愛し、その愛ゆえに罪が赦されたことを教えています。彼女は涙で主の足を濡らし‥‥そんなに多量の涙が出るのかと疑わないでください、私は自身で体験しています。次に大切な髪の毛で汚れを拭い、口づけし、身を削って稼いだ香油を惜しげもなく足に注ぎました。イエスはシモンのように「けがわらしい」と避けるどころか、おそらくは彼女のなすがままに身を委ね、霊と心でその愛を受け止め、受け入れられたのです。罪の深い悔い改めを、赦しの愛に主は変えられました。

このことから、罪を心から悔い改めるなら、その罪が赦されるだけでなく神から愛されることがわかります。ですから己の罪が分かるなら、神を信じない人には自殺願望に置かれ、しかしクリスチャンには真逆で天に最も近い祝福された人になります。罪とは神を信じず、神から離れていることです。ですから神を信じない人は皆、罪人だと言えますが、その当人たちには身が分からず、滅びに向かっています。しかしクリスチャンも元罪人ですが、信仰によって罪が赦され、罪無き神と交われる特権を得ています。しかし一つだけ問題があります。クリスチャンは罪を認め、悔い改め、神に赦されているはずですが、多くのクリスチャンが、「一粒の麦、もし落ちて死なずば」にあるように、自分に死んでいないことです。神様よりも自分の命を愛しているのです。私も五十歳になるまでそのようなクリスチャンで、「主よ、主よ」と言いながら自分が主であることに気づけませんでした。パリサイ人シモンと同じだったのです。

 私は恵みによって試練を受け、自分の真の罪が分かって悔い改める事が出来ました。そして自分に死ぬことがわかったのです。永遠のいのちと肉の命は両方とも握れるものではありません。どちらか一方しかありません。この国では肉の命を最高最大の価値基準にしています。「命以上に大切なものがあります」と言うと誤解されそうですが、人は自分の命以上の目的を見出し、そのために生きることが動物と異なって真の人間らしい生き方ではないだろうか、と思っています。それでこそ生きている意味がわかり、人間としての生きる喜びを伴う、本当の生き方なのです。そうでなければ命は生存本能のままに使用され、結局は滅びの世界に落ちて行くだけです。みなさん、クリスチャンで本当に良かったです。せっかくですからこの命を神様に使ってもらいましょう。神様からの使命に用いられて生きるのです。そのためには、自分に死んで神様からすべての罪が赦され、清くされ、聖霊様に聞き従って歩んで参りましょう。

2025年11月16日 (日)

羊は声を聞き分ける

✝ヨハネ 10章27~28節   2017新改訳

わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。

 みなさんはクリスチャンですが、どうして自分が神を信じるようになったのか、ノンクリスチャンに聞かれたら即答がおできになるでしょうか。母が、兄が、でしょうか。それとも近くに教会があってとか、ある人から伝道されたからなのでしょうか。
 牧師夫人はクリスチャン三姉妹なのですが、クリスチャンホームではなかったものの、近所では伝道的な教会学校が開かれて参加していたり、通っていた幼稚園がプロテスタント系でした。街中に出れば教会がたくさんある街でした。これと対極にあるのが私だと言っていいでしょう。田舎の小さな町というだけでなく、浄土真宗の二大拠点、安芸門徒の中心的な町でした。ですからキリスト教会は、我が家の半径20km以内には一つもありません。ですから古い田舎町で育った私には、キリスト教に触れ、伝道されるチャンスはまったく無かったのです。しかし神は、ご自分が救おう、子にしようと意図されれば不可能はありません。わたしは13歳になりかけの頃に読んだ、「狭き門」という一冊の文庫本で、キリスト教こそが真の神だと分かったのでした。まさに「羊は自分の飼い主の声を聞き分ける」です。それから教会に行きたくて、聖書を読みたくて、それがどこにあるのか2年も探し続けました。

 全能の神はその人に合わせて最善最高の導かれ方をされますので、その結果は十人十色です。しかしそこにはただ一つの共通点があります。それは人が神を選んだのではなく、神が選んでくださった、という事です。ですからクリスチャンであることを誇ることはできません。ただ「主に感謝し、崇め、褒め称える」のです。さらに主は選んだ子に対しては特別な試練を用意され、深刻な罪を自覚させて自分を捨てさせ、聖霊を受ける素晴らしい恵みをくださることです。その人は真の父を知り、自分のいのち以上に父なる神を愛する神の嗣子となるのです。

 私たちクリスチャンは多くの場合、聖書の御言葉で神を信じますが、霊・たましいの入っていない知的で形式的な信仰に苦しみます。しかしその逆に、数は少ないでしょうが、奇跡や癒やし、預言などの不思議だけを求めて教会に来られる方もおられます。このような方々の中には、聖霊のバプテスマを受けることなく、すぐに信仰が冷めてしまう方々もおられます。私たちはこの両者のどちらかに属しているか自己吟味をしつつ、両方併せた信仰に立ち、神の声を聞き分けて従うのです。聖書の教えを深く学び続け、同時に聖霊様と常に親しく交わり、生きた神の導きに立ち続けましょう。こうして生きた神の証し人になろうではありませんか。

2024年9月22日 (日)

神の愛の光によって

✝Ⅰテサロニケ 5章5節   2017新改訳

あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。

 クリスチャンの究極の目標は「エデンの園」の復活とか再来、そういうものではないかと最近は思っています。つまり愛してくださっている神さまと、さらに親し交われる天国行きが人生最大で最高の目標です。よく自分は「殉教の覚悟をしています」と勇壮に語る人がいますが、殉教とは強い意思とか決断でするものではなく、愛の選択の結果だと私は思うのです。
 数日前義兄の葬儀がありましたが、送った私も二歳違いですし、死はいっそう身近なものになりました。生きている者は必ず死ななければなりませんが、老化はそれが近づいていることを教えてくれるナビゲーターです。もし、死後の希望を抱いていなければ、死はどんなにか恐ろしいものでしょうか。それも当たり前です。クリスチャンでない限りゲヘナに行くのですから。
 地上での生活もカウントダウンとまでは行かないまでも、高齢者となって第四コーナーを回ってゴールが先に見えてくるようになると、この世では終活と言われますが、実はそれ終活の最大ポイントは死後の行き先のことではないでしょうか。神を信じる、これこそ真の終活です。

 私の若い頃は、見える物が全てで、霊とか天国とか言ったら呆れられる時代がありました。霊で通じるのは、キョンシーとかゴーストバスターズ留まりであって、真顔で霊のことが伝えられないのです。しか今は明らかに異なって来ています。死んだら一切終わり、なんて言う方が少なくなっています。ところがサタンは、この国に巧妙にキリストの名を語る熱心な異端者たちを使って、全国津々浦々にまでキリスト教は【怪しい、警戒すべき】との周知に成功しました。
 だからこそ今この時代、地上より天国に生きる真の信仰者として歩む証しが重要です。リバイバルの時が来た時、神が私たちを通して行われるあらゆる不思議とわざとが、一気にこの不信仰な国と民を変えることでしょう。その時、訓練を受け、神のオーダーを忠実に果たす者とされ、すべてを神の栄光に帰す天国人となっておかなければならないのです。

 葬儀には親族が集まりますが、そんな時、こたつに座っている私の上にちょこんと5、6歳の女の子が座ってくれました。その子を膝の上にして、私は大変いとおしくかわいく思いました。ある方が73歳の私でも、神さまにとっては5、6歳の子どものようなものだと言っていました。5、6歳の子どもは全く遠慮がなく、天衣無縫と言っても良いでしょう。聞きたいことを聞き、したいことをします。それでいて親が付いていないと不安で、まだ未知の世界での一人歩きは難しいのです。この年齢の子どものように、父なる神を信頼し、愛してくださる子として、父に聞き従って忠実な歩みをしたい、と痛切に感じさせられました。

2024年9月15日 (日)

愛によって働く信仰だけが

✝ガラテヤ 5章6節   2017新改訳

キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。

 神さまは無論「愛なるお方です」が、しばしば危険がまだよく分からないわたしたちが、好き勝手に行こうとすることを心配してくださいます。「そこから先は危ないよ」と注意し、導いてくださいます。そしてこうすれば安全だと、道を教えてくださっています。皆さん、ご存知でしょうが、確認しておきましょう。
 まず第一に、父なる神を愛し、信頼することです。これは優先順位(プライオリティー)の問題です。この世には一見、大切なものがたくさんあります。妻や子、肉親や兄弟、社会的な地位とか権威、中には血筋とか名誉だと思う人もいることでしょう。でも、おそらく誰にとっても一番大切なものは、自分の命ではないでしょうか。

 しかし聖書が証しする父なる神によれば、一番大切なもの、それはこの世のものではありません。イエス様は言われました。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。‥‥わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」(マタイ10:37)と。
 これは一見過酷なものに見えますが、それは神を知らない人が思うだけのことです。先ほどの一番大切なはずの自分の命に絞って述べますが、私たちは神によってまず霊が創造され、その霊は選ばれた父母を通して、肉体を携えてこの世に「出生」として送り出されました。霊には滅びがなく、永遠ですが、肉は世において滅びます。人は肉体の命がある間に、自らの自由意志による選択によって、霊の行き先、天と地のどちらかを選択することになります。そしてその選択は永遠に変わることのない選択になります。これは天の神の国において新しい体で、神の栄光を賛美し、神と共に生きるエデンの園の再現になります。逆に地に落とされると、体に痛みを感じ続け、その苦しみで霊と心が滅びそうな暗黒の世界で、それでもなお死ぬことができない暮らしも永遠に続きます。

 神は人を愛され、人を自由意志のない天使や機械的なロボットのようにはお造りになりませんでした。人が天使よりも高くされる理由はここにあります。
 神は愛です。ですから神に従う者、神の子とされる者は、被造物である世の何ものよりも、子として父を愛し、自由意志で父を第一にする者であるはずです。永遠と滅びるものを見分け、その優先順位を揺るぎないものにできるのは、神と交わり、子とされているからに他なりません。子は神を愛し、すでに世のものではなく、天に生きる幸せに生きています。

2024年7月21日 (日)

罪人を招く神

✝マタイ 9章13節   2017新改訳

『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。

 イエス様はカペナウムに着くと、取税所に座っていたマタイ(レビと同一人物)を弟子にし、そのマタイが催す食卓につかれました。その食卓には当然、多くの取税人や罪人が連なっていました。この様子を見た律法学者やパリサイ人は、「なぜ?」と理解できません。それに対してイエス様は当時の人々にとって理解不可能な言葉を語られます。
 マタイ9章10−13節『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、いって学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
 「罪人を招くために来た」これはイエス様が世に来られた目的で、非常に重要なことです。この段階でははっきり言われませんが、バプテスマのヨハネが「悔い改め」を述べても、パリサイ人たち国の主だった人たちは応じませんでした。律法学者やパリサイ人は、自分たちこそ、神(律法)に忠実な義人だとしていたからです。実際イスラエルの歴史を見ても、この時代ほど宗教的に熱心な時代はありませんでした。現代のイスラエルもユダヤ教国家として熱心に見えますが、実は超正統派から世俗の人々まで全く多種多様で、この時代ほど一枚岩ではありません。イエス様の時代は、全員が厳格に律法を守っていたかつてない時代だったのです。

 しかしその反面、律法を守っていると言いながら、偽善も最高潮に達していたのです。コルバン(ささげ物ーマルコ7:11)などは良い例です。神様はある意味、罪人も悔い改めれば寛容な面がありますが、どうも高慢と偽善には我慢がならないようです。そしてこの時代にイエス様が降臨くださったのです。そして十字架の直前になって、偽善の指摘は容赦ないものになっていきました。
 マタイの23章での「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人」を連発されているのを見ますと、どれほど神が心を痛めておられたのかが如実に伝わってきます。神の御心とはどういうものか、それは<真実の愛、いけにえではない>が切々と伝わってくるのではないでしょうか。また私は真実の愛で思い出すことがあります。イエス様がパリサイ人の家で食卓についておられる時、一人の罪深い女が涙でイエス様の足もとを濡らし、髪の毛でぬぐい、口づけして香油を塗った話です(ルカ7:36〜)。罪を多く赦されたものが多く神を愛するのです。

 自分を義とする者がどうして神を愛せるでしょうか。多くの罪を自覚し、赦された人だけが神を真に愛するのです。罪人こそ、神の愛を受け、愛する特権を持っているのです。

2024年6月 2日 (日)

主は今生きておられる

✝Ⅰコリント 6章19節   2017新改訳
あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません

 早天でいつも祈っていることがありました。それは「どうか主よ、もっとあなたと霊的に交わらせてください。あなたのことばを親しく聞き、豊かな交わりがしたいです。でもそうしてくださらない時は、悔い改めが足りないのでしょうか」と。その朝はその残念な気持ちで祈りを終わろうとしていると、こんな声が聞こえてきたのです。
 「あなたは思い違いをしている。あなたはいつもまだ朝焼けの空や、黙想の中で私の呼び声を待っていますが、私があなたの中にいることを忘れています」と。【そうだった!】 

 確かに私たちは<聖霊の内住>といって、神が信じた人の一人一人の中に住まわれるということは理解しています。しかしそれは多くのクリスチャンにとって、過去の私を含めてですが、単なる知識で終わっていたのです。それも当然、実体験がないのですから、単に知識なのです。プロテスタントの多くの教会では、信じた時に聖霊が内住され、聖霊のバプテスマも同時に受けたと教えます。するともう、聖霊のバプテスマを求めることはしません。
 聖霊の内住は聖霊のバプテスマと同一ではありません。水のバプテスマが聖霊のバプテスマではないことは、最近も二つの聖書箇所、ピリポのサマリヤ伝道、エペソでのアポロの伝道で幾度も申し上げている通りです。
 今や当時の教会が危惧した通り、水のバプテスマしか知らないクリスチャンが圧倒的になりました。水のバプテスマでは内住の神が主ではなく、聞き従えない者には沈黙されます。十年ぐらい前、スコセッシ監督のハリウッド映画「沈黙ーサイレンスー」がありました。映画では海の中で殉教する村人たちを前に、救出の奇跡を祈るロドリゴ司祭に対し神はただ、沈黙されていました。内住の神をないがしろにし、自分を主とするクリスチャンに、神が応答されることはありえません。神のことばを無視する罪を上塗りすることになるからです。ただ沈黙されるのです。

 私は恵みによって聖霊のバプテスマを経験し、神の沈黙の理由がわかりました。神との霊的な交わりがどれほど素晴らしいか、言葉では難しいです。それまで内住されるだけだった聖霊様との交わりの恵みは、肉の命を捨ててはじめて「真のいのち」を得たと言えるのです。
 神の声を聞き、神の召命に応じる者に注がれる素晴らしい祝福は、第一に喜んで世のもの一切を捨てることができます。はるかに神と共に生きる方が良いからです。次に天国は私たちのものという確信が伴います。以後信仰の不安は一切、消え去ります。
 人は自分以上の生きる目標を持つことで、なんのために生きるのか、人生の価値を見出します。十字架にかかってまで罪深い私たちの神の愛に応えて歩む時、自分自身から解放され、罪から自由とされ、真に命を輝かせることができるのです。

2023年8月20日 (日)

刈り込まれた者

✝ヘブル 12章6節   2017新改訳

主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。
 
神は愛する者を刈り込まれる。その刈り込みとは何か?
 家の庭が、伸び放題の木や高い雑草で覆われていたら、その家は空き家に見えます。もしそれが自宅だったら恥ずかしく思うだろう。自然のまま放っておけば、必ずそうなるものだ。そこで刈り込んで手入れする。樹木には痛いことであろうが、結果として美しくなり、風通しが良く、病害虫も防いで生長も良くなる。手入れされることは美しく快適で、持ち主の庭への愛を感じる。

 これは神と人との関係に同じことが言える。天地万物を造られた神は、人をその管理者として置かれた。しかし人もまた神の被造物であって、自然のままでなく刈り込みを受け、整えられなければ野性のままである。刈り込みを受ける人は、神に愛されているのである。
 私たちクリスチャンへの刈り込みとは、真に神を「主」とするための試練困難のことである。肉のクリスチャンはいつまでも自分が主であり、逆に神をしもべとしていることに気付かない。人間の努力や力では、真に神を主とすることは困難なのだ。そこで神は愛する者に刈り込みをされるのである。神からの刈り込みによって、自分自身の誇りや高ぶりが打ち砕かれ、人ははじめてへりくだって自分の人生を神に明け渡し、神を文字通り主とすることができる。

 イエス・キリストは弟子たちに重ねて次のように教えた。(ヨハネ 12章24~25)
 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

 刈り込まれた者は、父の愛を知り、父を愛し、慕う。喜んで自分を神に捧げ、「主」として聞き従うようになる。自分がどんなに肉の人間であったかを知って、心から悔い改める。そして初めて平安を得る。刈り込みを恐れてはならない。それは神を信頼していないことになる。アブラハムに神が「子イサクを燔祭として捧げよ」と言われた時、神はアブラハムが実際に捧げる信仰があるのを確信していたと私は信じる。できないことを神は試されたり、困難に陥れられない。全知全能の神に失敗はなく、すべては愛する者をより愛そうと、愛から発しているのだから。

 私たち人間は刈り込まれることによって、真に神との正しい関係に入り、神の愛の内に憩い、喜び、御心を何としてでも行いたい熱意を持つ。肉の果てる命に優る永遠の霊のいのちは、その人の中で宮となり、栄光の神の計画と共に歩む。刈り込まれた者は、世では惨めで呪われた者に映るかも知れないが、実際には素晴らしい恵みであり祝福された人のことである。

2023年8月13日 (日)

Restart (再出発)

✝申命記 6章4~5節   2017新改訳

聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 本日はちょうど13年前の15日(日)、船橋に着任後、勤労市民センターセンターで初めての礼拝を持った日になります。その時の出席者は牧師夫妻にK姉、つまり今日のメンバーそのままでした。そしてなんということでしょうか、あらゆる面で、再びここから14年目に向けて原点に戻っての再出発をすることになりました。「原点に戻って」とは、それまでいた教会員が主日礼拝直前に、創設時のメンバーにまで減らされ戻されたということです。
 こんな偶然があるものでしょうか。私は心中不安覚えて(※三つの無い)祈っていたものの、具体的は何らそのことにお応えや指示はなく、脱会通告が一斉に来てはじめてことの成り行きを知りました。SNSを同時に閉鎖されたので遺留のための対応は不可能でした。ですからちょうど14年目の出発というタイミングで、最終的に残されたメンバーが最初の三人であったことなど、これが神のみこころであり、「ここから再出発をせよ」の指示であることをはっきりと受け取るのです。

 ひとことだけここで確認しておきたいことがあります。出られた姉妹が退会理由として、TLEAのことを異端であり、カルトだと断定されました。これはまったく誤った判断です。こんな一方的な思い込みによる自分の判断と主張をし、それに対する相手の言葉は一切聞かないというのは、取り返しのつかない過ちをされている恐れがあります。
 異端とはキリスト教と称していても、使徒信条で特に触れられている神であるイエス・キリストを認めない教団・教会を指します。三位一体を前提とするキリスト教から逸脱しているわけです。エホバの証人や旧統一原理などがこれに当たります。
 次にカルトというのは、カリスマ的指導者を中心とするマインドコントロール中心の集まりを指し、現在では犯罪行為を犯すような反社会的な宗教団体を指して言います。確かにTLEAは偏見を持ち外見だけを見るのであれば、一見そのように見間違う人がいるかも知れません。しかし別にマインドコントロールがあるわけではなく、信仰と聖霊にもとづく歩みが実体なのです。ですから私たちはカルト教団ではありません。実際いつでも退会は自由です。そしてカリスマ派、ペンテコステ派など、全ての聖霊派の教会に言えることですが、どうしてもリーダーにはカリスマ的傾向はあるのですが、問題はそこに神の臨在があるのかという点であり、各人に与えられた賜物が正しく運用されているかどうかです。

 本日からこの船橋キリスト教会は14年目の働きに入ります。神はこの地に私たちを立てさせ、ご自分の証人として用い、日本のリバイバルに用いると語っておられます。したがってこれまでの13年間は、霊的にですが、イスラエルの民がシナイの荒野で訓練を受け、約束の地を獲ち取る戦士にされたような期間であったと考えましょう。さあ、Restartの賛美に載せて、この約束の地を占領しましょう。

2023年4月30日 (日)

まことのブドウの木 Part2

✝ヨハネ 15章1節  2017新改訳

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。

 イエス様は、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」(ヨハネ15章1節)と言われました。この「まことの」とは英語でtrueになり、真実の、本当のと言う意味であることは先週お話ししました。

 ご承知のとおり、ぶどうの実は大地を通し、幹と枝を通しての豊かな滋養を受けなければ実ることはできません。大地を耕やし豊かにされているのは農夫である神、その大地の栄養はぶどうという木であるイエス様を通し聖霊として吸い上げられ、幹から枝を通してぶどうの房への養分として注がれて行く。では実とは何でしょう?聖霊様の働きによる<愛>では無いでしょうか。ぶどうの一粒一粒の実とは、その愛の現れだと言えます。
 つまり誰であっても神とイエス様を通してでなければ、また聖霊様を通してでなければ誰一人、証しとなる実、またその実がもたらす永遠のいのちと言う<実>を得ることはできないのです。Img_1194_20230506204901

 そして今回特に示されたのは、大粒の実を実らすための刈り込みを<行うのは誰か?>ということです。

「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」 (ヨハネの福音書 15章2節)

 神です。考えてもみてください。ヨブに考えられないほどの困難を許されたのは神です。全知全能の神にしか許可を与えることはできないのです。逆に言えば、刈り込みは直接神が選ばれた、愛された人であって、その結果も完全に見通された絶対的なものだと言うことです。ですから刈り込みにあった人は、そのことに甘んじ、感謝し、下記の(ヨブ記 1章21節)のように告白しましょう。

そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

 

 

 

 

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