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神の愛

2020年7月 5日 (日)

愛の苦しみ

詩篇 105篇17~19節   【新改訳2017】

主は一人の人を彼らに先駆けて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。
ヨセフの足は苦しみのかせをはめられその首は鉄のかせに入れられた。
彼のことばがそのとおりになるときまで【主】のことばは彼を錬った。

 先週お伝えした神との直接の出会い、それは自分が根本から変えられるもの・・・・つまり、聖霊の満たし、聖霊のバプテスマですが、そのことをあたかも結婚前の男女に見られるような「おのぼせ」に例えたりしました。しかしそれでは真実を伝えていない部分があり・・・・今回は、その後の少し熱が冷めて実際的な生活に入った部分をお伝えしなければならないと示されました。それで「愛の苦しみ」という題にしました。
  先週のケンピスの言葉に「キリストとともに生きたい人は、先ず自分の自分自身に死ぬことが必要である」(p126)がありました。そのすぐ続きに「おお、いつ神のみが私のすべてとなり、私のすべてが神と一つになれる日が来るのだろうか」と嘆いています。ケンピスですら難しいことなのです。実際、神と一つになるまでは、この世において私たちは完全な幸せにはなれないことも分かっています。

 ではどうすれば良いのでしょうか。それはキリストに従うこと、自分を棄てることに力を尽くすことしかりません。自分の肉が死ぬことには、痛みが伴います。それはちょうど結婚式を終え、落ち着きを取り戻した男女が直面していく、様々な問題にも似ています。決してバラ色ではありません。まさに神を愛するが故の苦しみが営まれて日々でもあります。残されている己の肉との絶え間ない戦い、葛藤がつきまとうのです。肉を完全に絶つことは困難ですが、だからといって妥協し、あきらめる道はあり得ません。
 例をあげてみましょう・・・・〇兄弟や世の人にも、その良くない点や過ちに耐え、悲しみ、より愛せるように祈る、〇隣人の良い模範や美徳を、我がことのように喜ぶ、〇食卓で、自分よりも他の人によりよいものを取り分ける、〇自分の好き嫌いを放棄する・・・・等。

 キリストを愛し、従うことはキリストがされたように、キリストがされるであろうように生きることです。私たちはキリストを愛するが故に、この血肉のいのちがある間中、戦い耐え続けて全うしていくのです。聖霊なる神が唯一の助け手です。
 「受けるより与える方が幸いである」(使徒20:34)とパウロが語ったように、パウロもまた、キリストを愛する苦しみ、その生涯実践しました。ヨセフは13年牢屋に入れられ、手枷足枷の中で忍耐し、最後にはエジプトの宰相になり、自分の家族への夢を実現させました。一方パウロは牢獄の中で処刑されて死にました。しかしパウロによってユダヤ教から新宗教キリスト教が誕生し、真の世界宗教へと脱皮させた、最大の功労者になりました。
 キリストに従った結果、世での栄誉を受けるか、刑場の露と消えるかは問題ではありません。ただキリストを愛し、神と一つになるれる希望をもって、そのためにどれだけ苦しんだか、そしてなお祈りかつ喜んだかが、天に生きる者のすべてなのです。

2020年2月23日 (日)

人を愛し尊重してくださる神

アモス 3章7節   【新改訳2017】
まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない。

 聖書の学び(His Story)でアブラハムに対し、神が「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」と考えられたのですが、今でもまったく同じことを神はされ続けています。たとえば私ですが、人生の重大な事に関して選ばされたり、この後の人生についてもだいたいの展開は聞いているからです。ですからこのアモス書にある「ご自分の計画をそのしもべにである預言者たちに示さずには、何事もなさらない」に私はアーメンと全き同意をいたします。

 なぜ神はこのように人に過ぎない存在に、あらかじめ語られるのでしょうか。それは、たとえ結果は同じになるにしても、後で聞くのと先に聞くのとでは大きな違いがあるからです。事の起こる前に聞いているならば、心の動揺はなく、神の偉大さ、信仰を堅くするだけではありません、「私は尊重され神に愛されている」心が湧くのであって、あいしてくださる神はそのことをご存じだからなのです。

 ぼくしである私にとって、教会形成の上で譲れないものがあるとしたらこの点です。全てとは行かないでしょうが、教会にとって大切な案件において、私は可能な限り教会員に諮って合意を得てからにしたいのです。なぜなら上位下達は権力の支配を現し、天的ではないのです。神は人を友とし子として尊重してくださる神であって、愛がその本質です。権力をもって人を支配する存在とは真逆の方です。私たちの教会には神の愛が満ちているだけでなく、牧師が主イエスへの愛を持って「わたしの小羊を飼いなさい」の戒めを受けているからです。

 最後に、神はなぜここまで人を愛され尊重してくださるのか、それを少し学びたいと思います。ご承知のように、人は血肉の体を持つ有限なる存在ですが、神は天使たちに、人に仕えるよう命じられました。ただし天使が仕える人とは、イエス・キリストを真に信じた人々です。その人達には聖霊が内住しています。一方、天使は霊的な存在なので、物質的な体を持っていません。ですから聞き従うだけの存在です。しかし人は血肉の戦いに、十字架によって勝利を取り、サタンの縄目から解放された存在なのです。それ故、時が来たら超物質的な体の上に霊を持つ、御霊の体をもって神に最も近い存在として下さいます。

 以上の事から神の形に似せて造られた人とは、神に近い存在であり、命令に従うだけの存在ではなく、多様な個性と進んでみこころを行おうとする意欲に満ちた、神と交われる存在として創造されたことがわかります。従うだけの存在ではなく、神から愛され、交わる存在として創造されたのが、私たち人なのです。

2020年1月 5日 (日)

赦され、愛する

ルカ 7章47節   【新改訳2017】
ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。

 私たちは癒やしの教会ですが、どんなに体が癒やされても、それが信仰に結びつかなければ何の意味もありません。癒やされてもそれは少し延命だけで、人は遅かれ早かれ必ず死ぬのです。真の癒やしは、永遠の存在である魂の癒やし、霊の回復です。イエス様はそのために地上に来られました。
 さて、多くの病いを癒やすだけでなく、多くの罪をイエス様は赦されました。罪の赦しとは霊・魂の癒やしになります。病いをただ癒やすだけでなく、その根本の霊を癒やす、それがイエス・キリストを信じることです。しかしそれができるのは神だけです。どれほどパリサイ人の反感と憎しみを買おうとも、イエス様は赦しの癒やしを止めることができませんでした。その為に来られたのですから。

 さて、本日の聖書でイエス様は「この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから」と言われました。逆に「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」とはっきり言われました。一方で神を愛する人がおり、また、どうしても愛することがわからない人もいます。愛するならば、例えば映画パッションでのイエスへの鞭打ちのリアルシーンを観て、あの鞭の痛みを我が事のように感じるはずです。

 そういうわけで、罪深い女だけでなく、長血に苦しめられた女、ゲラサ人の地で墓場に住んで、レギオンほどの悪霊に憑かれていた男など、赦され救われたこれらの方々は、イエス様を心から慕い愛する者に変えられたと私は信じます。罪深さはなんと全くの逆転、永遠のいのちと信仰、結果としてそれに見合う癒やしを得る恵みの道だったのです。

 「心の貧しき者は幸いである」とは以上のことを指しています。罪の意識は人を苦しめますが、十字架の赦しの道を見出したならば、祝福され、愛と自由の中、永遠の魂の安息を得ます。赦されなければ愛することができず、これら神の愛の恵みを十分には受け取ることができないからです。繰り返しますが、赦しと愛とは表裏一体なのです。自分を正当化し、赦されることの飢え渇きを感じない人は、不幸です。

 神は最善を私たちに与えようとしておられ、赦されることなしに神を知ることができません。偽りの祝福を与えることはおできになりません。私たちの魂を妬むほどに求めておられるのです。

2019年12月29日 (日)

神のお人柄

ヨハネ14章26節    【新改訳2017】
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 昔、各地のクリスチャンが集まって親しく話をする機会がありました。その時感じたのは、「神を信じる者が十人いたならば、それぞれ十人十色の信仰と神様観があるんだな」という感想でした。確かに神は人間の理解を超えた存在であって、「群盲象を評す」とその時は思ったものです。

 しかし、三位一体なる神は唯一であり、十人各々の異なる神がおられるわけではありません。多くの人の聖霊のバプテスマ体験を聞くなら、多少の相違はあっても、弱さを知り悔い改め、神に自分を明け渡す不思議な特徴があり、たましいの奥底を揺さぶられるその証しからは、間違いなく同じ神であることがわかるのです。

 さて、あるクリスチャンの神様観は「義なる神で、厳しい裁きをされる怖ーいお方である」であったとします。そのクリスチャンは神に聞き従う忠実な者となりましたが、どうしても神の懐に飛び込むことができないのでした。逆にあるクリスチャンは、神はサタンにすでに勝利されているので、サタンなんか恐れるに足りずと侮っていました。ところがその侮りが自分の力を過信したり、神に対しても聞き従いが弱くなる一面があったのです。

 では神様って、どんなお方なのでしょうか? それには人となって来てくださったイエス様を知ることです。私の神様観はルカ七章の「罪深い女」の話に出る、赦しの愛がピッタリします。罪深い女は、その土地の名士であるパリサイ人シモンとは真反対の対応をイエスにしました。当時、迎え入れた客人に対してする、足洗いの水さえ出さなかったシモンに対し、この女は涙でイエスの足を洗い、自分の髪の毛でぬぐい、その足に口づけをして香油を塗った(38節)のです。女の対応にイエスは【多く赦された者が、多く愛する】と言われたのです。多く赦された自分の罪がわかる、これが私の神観のポイントです。

罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました   (ローマ 5章20節)とあります。
神はなぜ、放蕩するとわかっていても弟息子に放蕩を許されたのでしょうか? 自分を知らせ、悔い改めさせ、真の父の愛を知らせるためでした。本当の心は、赦されなければならない心から生じるのです。自分の罪深さを知ることは、神の赦しと愛がわかり、神に喜んで自分を捧げるようになります。
 エデンの園の中央に、わざわざ置かれたのも、放蕩を許されたのも、すべては神が私たちの本当の心を得られようとしている証左です。そこまで神は私たちをお求めなのです。この愛に、私たちは真に生かされるのです。

2019年12月22日 (日)

自由意志

創世記 2章9節   【新改訳2017】
神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。

○罪~ 蛇に惑わされたと言っても、別に強制されたわけではありません。人は神の「食べると死ぬ」と言う戒めより、自分の見た目や、何より「神のように賢くなれる」欲を優先したのです。日頃あれほど親しく交わっていた神を信じず、従わず、自分の考えや判断を正しいものとしたのです。サタンと同じ、「神のようになる」という高慢が罪の正体なのです。

○疑問~ 一点だけ気になるのは、神はなぜ、どの木からも取って食べて良いと言われたにも関わらず、わざわざ中央に恐ろしい木を置かれたのでしょうか? 人間の親ならそんな危険なものを置いたりはしません。神は意地悪いお方なのでしょうか?
 そうではなく、放蕩息子のように、愛すればこそ、選択という自由を与えられたのです。さらに神には、イエス・キリストという救いの計画がありました。禁断の木の実は「神を信じ、従う」しるしでした。結局人は罪を犯しましたが、それは罪の只中から、自分たちが救われなければならない存在であることに気づかせるためです。悔い改め、二度と高ぶらせない計画が神にはお有りだったのです。
 十字架によって、アダムの罪は完全に贖われ、聖霊によって、人は真の自由を得て恐れることなく、御前で神と交わる、神との関係はこうして回復されて行くためでした。

○アダム~ このことをパウロは、最初のアダムと最後のアダムとして説明しています。最初のアダムは土で造られ土に帰りましたが、最後のアダムは天からのもので、乙女マリヤから生まれました。つまり最初のアダムは、最後のマダムであるキリストの雛形でした(ロマ5章中ほど)。天からのキリストによって、私たちは永遠の天の相続者となり、信じる者の霊は天に帰り、新たなからだを得るのです。
 キリストによって永遠のいのちを得たのであれば、たとえ何があってもこの恵みを失うわけにはいきません。「最後のアダムはいのちを与える御霊となりました」(1コリ15:45)

○交わり~ 真の交わりとは権威と秩序の下、一つの目的のために、互いの個性と感性から意見を出し合うことを言います。自由意思と個性を持った兄弟姉妹同士でなければ、そんな交わりにはなりません。私たちは神の子どもです。子どもならば恐れずに父のみ前で、自分の考えを言うでしょう。神は妬まれるほどに、そのような霊をお求めなのです。

 

 

2019年12月 1日 (日)

愛を追い求めなさい

 ✝1コリ14:1  [新改訳2018]
愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい

私たちの群れではこの聖句の後半《預言を熱心にもとめなさい》を土台として、主に関連する聖書箇所(中心はコリント第一)を元に預言を学び、セミナーや実践練習を積み重ねて来た。しかし最近は前半の《愛を追い求めなさい》にも光を当て、単に並列されて書き表されているだけでない、重要な預言の土台というものに再び光を当てている。 

図で表せば「愛」と「預言」の関係は右のようになる。つまり先ず愛が求められ、そのお器とか土台があっての後、預言することを熱心に求めるという順序というか、土台があっての預言ありきではないのかと言う点である。

<愛がなければ、騒がしいどらやうるさいシンバルと同じ><よりすぐれた賜物である愛がと20191201もなっていないのであれば、無に等しく>とあるように、このことは聖書にしっかりと押さえられていることなのではないだろうか。万が一この神の愛を受けずして、聖霊の賜物ばかりを求めるとしたら、サマリアで賜物を使徒たちから買おうとしたシモンの轍を踏むことになりはしないだろうか。

御霊の賜物はどうして与えられるのか、ということを考えるなら、それは「教会を成長させるため」である。それゆえに聖霊の賜物は教会のものであるし、その管理を受ける。教会の使命とは愛そのものの神の御からだであり、その信仰の継承と福音宣教が使命である。ここでも<愛>が中心である。賜物は教会のためにであって、自分のためには一切無いのである。

一般に「通り良き管」「神の器」とかいう言葉があるが、聖化に関しても私の思いでは、それはあったとしても管に付着する錆び、容器に染みつくシミみたいなものであって、それは決して管とか器が変えられてのものとは言い難い種類のものではないか、と。失礼ながら、時に剥がれ落ち、化けの皮が取れるような存在のものではないだとうか。私たちの本性は罪人であって、絶えず神に赦しを請い願い続け、聖霊さまに通っていただかなくては用を果たしているとは言えないはずだ。あえて言うなら管にも太り管と細い管とがあるだろうが、5タラントも2タラントも同じお褒めにあずかったように、それすらも御前で決して誇ることは出来ないものだと私は思える。徹底して悔い改め、謙遜、謙虚にこの血肉のいのちを全うして生きましょう。神の愛の組織である。

2019年10月27日 (日)

神を愛する人Ⅱ

  ✝ローマ 8章28節   【新改訳2017】
ロマ 8:28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

前回は神を愛した人として、モーセを例にとって述べました。けれども後で気がついたのです。モーセもですが、新約でもすごい人がいました。それを忘れてはいけないでしょう。それはパウロです。今日キリスト教はパウロ無しには存在しません。ちょうど荒野で神がイスラエルの民の頑なさを悔い、モーセから新たな民を起こそうとされたように、十二使徒からではなく、神はパリサイ派の将来を担うはずの若き逸材にして最大の迫害者サウルを召し出されました。律法を完成させ、そのくびきから解き放つためには最も律法に精通し、迫害の中心人物を召し出されるとは、何という驚くべき神の知恵でしょうか。

 

パウロがどれほど神を愛したかということですが、パウロの通らされた道は、常人では到底耐えられないほどの迫害に次ぐ迫害の道でした。そのことは2コリント11:22ー28にある通り、39のむち打ちが五度、ローマ式のむち打ちが三度。彼の背中はどんな背中になっていたのでしょうか。他にも数多くの難があり、死んだと思われるまで石で打たれたことさえあります。これらはほとんどが彼が愛する同胞ユダヤ人からのもので、まさにダマスコでアナニヤに語られた「彼が私の名のためにどんなに苦しまなければならないか」そのままの道でした。

そのパウロが本日の聖書箇所で何と言っているでしょうか。「神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、(神を愛する人たち=)私たちは知っています」と証しているのです。
さらにこの章の最後(ロマ8:39)でパウロは「(世の力による、どれほどの困難があろうと・・・・の意味で)私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と宣言しています。信じられないほどの迫害と困難さの中にあって苦しめられていても、パウロは神の愛の中に生きていました。そしてパウロは神をこころから愛し、愛によってすべてをささげ尽くし、生涯を全うしました。神の愛を知り、その愛の中で育った者は例外なく神を愛し、その愛の力は想像を絶するものであったことがわかります。
先ず神が私たちを十字架で愛してくださり、その愛を真に受けた者だけが神を愛するのです。この逆はありません。自分の罪がわかり、神のあわれみがわかること、これがスタートです。

2019年10月20日 (日)

神を愛する人

ローマ 8篇28節

「神を愛する人」     2019

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。


 ◎「神を愛する人」とは、すなわち「神に召された人」だと言っています。他には「聞き従う人」だとも言われていますが、聞き従う人の中には神を愛するだけでなく、恐れて従っている可能性もあるので完全イコールではないでしょう。では神を愛し、神の計画にしたがって召される人とは、どういう人なのでしょうか。このことがわかりやすい人物、モーセの生涯から理解してみましょう。

◎モーセはレビの正しい祭司の家系で、弾圧されてナイルに流されたことが、逆に王女によって子とされ、当時の世界の最高の教養を身につけることになりました。そのモーセが四十歳になった時、同胞を顧みる心が与えられ、自分の手によってエジプト人から同胞を救おうとしたのですが、受け入れられることなく、ミディアンの地に逃亡しました。チッポラとの出会いからモーセはミディアンの地で雇われ羊飼いとして四十年間生きましたが、羊飼いとはエジプト人からはさげすまれた職業であり、その雇われ羊飼いとなるともっとみじめな立場です。神はモーセを世界最高の王子の身分から、最低に近い身分に落とされました。そのモーセがある意味でみじめなまま、八十歳という人生の終わりが近い歳になった上で召されたのです。

 この時、エジプトの王子として成人した過去が用いられました。王と渡り合い、民を脱出させる困難なミッション成功には、モーセ以外では不可能でした。脱出しても荒野を知らないイスラエルの民を護り導く指導者としても、羊飼いで得た知識や土地勘も大いに役立ったことでしょう。まさに神が約束の成就のため、生まれる前から召していた逸材です。しかし何よりも神がされたのはモーセを自分の力の愚かさを知らせ、徹底して神に聞き従う人物に変えられたことです。モーセにとっての最高の恵みとは最悪な経験でした。これが無ければ、モーセは通りよき管として生まれ変わることは無かったことでしょう。神は人というものを、よくよくご存知なのです。

○○神を愛する人とは、神によって最悪な経験を与えられる人のことです。それによって自分の弱さと愚かしさ、罪深さを徹底的に知らされ、肉的な人生jへの希望を失って、ただ神にのみ依り頼む人へと新生させられる人のことです。このような人は自殺するか、さもなくば神に生きるしか希望が無くなります。そのため、「自分の十字架を負って」とか「自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになり」(ピリピ3:7)とは、このような神を愛する人の言葉になるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神を愛する人とは、神によって最悪な経験を与えられる人のことです。それによって自分の弱さと愚かしさ、罪深さを徹底的に知らされ、肉的な人生jへの希望を失って、ただ神にのみ依り頼む人へと新生させられる人のことです。このような人は自殺するか、さもなくば神に生きるしか希望が無くなります。そのため、「自分の十字架を負って」とか「自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになり」(ピリピ3:7)とは、このような神を愛する人の言葉になるのです。

2019年7月28日 (日)

愛に応える

申命記6章5節   

 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。   新改訳2017 

私たちの愛と神の愛とは同じではない。神の愛を知ることは、価値観と生き方を180度変えるものだ。

  ヘレン・ケラーとサリバン先生の感動的な話の1シーンに、ヘレンがwater(水)がわかった時の話があります。どんなに単語を単に覚えても、その言葉の意味を把握していなければ生きた使える言葉になりません。
 こんな例があります。有名なヘレン・ケラーとサリバン先生の1シーンです。ヘレンに水を教えるのに、サリバン先生はいろいろな水に触らせました。私の想像ですが、体を洗う湯、広大な湖、冬はひとかけら氷だったかも知れませんが、ヘレンに触れさせたのです。そのたびに「water」、これも「water」と教えました。1:1なら分かり易いのですが、水:いろいろな水となると、混乱を招きます。しかし本当に水を知り理解するために、サリバンはあきらめませんでした。ついにヘレンは、ある時「water」すべてに共通する特性に気づき、waterがわかったのでした。

  神様の私たちへの言葉と愛も、これに似たところがあります。神は私たちを御手で守りながらも、私たちの真実な姿、それは当初は受け入れること、直視することができない姿ですが、いろいろな問題や試練を通して教えてくださるのです。ただ、それを受け入れるには時があります。時が熟さないとかえって反発して「豚に真珠」となりかねません。放蕩息子のたとえのように、時が来ての悔い改めは、自分の姿を正しく知って、その事実の上に立った時にできることなのです。

 逆のケースを考えましょう。「神は愛なり」という言葉はクリスチャンならどなたでも知っている言葉です。しかし本当の愛は、最善を願う心です。クリスチャンの中でも、かなり自己目的実現の為に信じる、祈るという方が多く、自分を無にして、神の御心だけを願う祈りをする人は少ないのです。自分の願ったことが実現しないと、神は居るのだろうか?と問い続ける有様です。この状態でのクリスチャンに悔い改めは不可能です。

 神は私たちをあわれんでくださいますが、最善の神の計画で愛して下さっているのです。また最善の結果になるように、神は私たちが自分の計画を捨てることを、忍耐強く待っていてくださっています。真に私たちがへりくだって、主を主とし、自分はそのしもべであることに気づくためには、試練の道を通るしか方法はありません。ですから試練は神の愛です。自己中心を悔い改めて、神の御心一番に生きること、それは肉の命にまさる真のいのちを得させようとされる神の愛に答えることであって、人生最大の宝そのものです。

2019年5月19日 (日)

聞き従いのわけは

詩篇 40篇8節   新改訳2017

わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。
 
 クリスチャンにとって、神に聞き従うことは最も大切です。ですが聞き従いにも、恐れから従う人と、神を愛して従う人とがいます。恐れて従うのであれば、その場その場のものですが、愛して従う人は神に近づこうとし、従うことそのものが喜びなのです。

 P牧師が良く述懐しておられますが、教会の誰よりも熱心に教会に出席し、奉仕しても、そんな自分よりもなぜか神に愛され、祝福される人が居ると。聖書ではダビデが該当するタイプではないでしょうか。ダビデは歴史上、イスラエルを最大版図にした英雄であり、イスラエルの国旗にもなっている人物ですが、逆に彼ほど問題を起こした人物は少ないのです。姦淫し殺人までしたバテ・シェバの一件、息子アブサロムに反逆され、妻たちを残して都落ちを余儀なくされたこともあります。

 しかし彼には神を愛する真摯な心がありました。神をなんとかして喜ばせようとしたのです。ですからどんな失敗があっても、神は彼を忘れず、祝福し続けたのです。どうしてでしょうか。神もまたダビデを愛されたからです。愛には、愛を、の原則があるからです。

 私は小学校の担任を長く経験しましたが、児童たちに二つの傾向が見られました。それは恐れて従う子どもと、恐れずに進んで教師に近寄って来る子どもです。恐れて従う子どもたちは確かに従いはしますが、それは教室という私の管理下にある時だけのことでした。しかしもう一方の恐れない子どもは、休憩時間になると教師のところに来て、あれこれ言いたいことを言います。「先生、あれは難しかった」とかの評価をずけずけ言ったりもします。時に山積みになっている教師の机上のノートを整理を手伝ってくれたりもします。この子どもたちは先生を恐れてはいません。教師に興味があり、親しみを感じ、近づいて会話を楽しむのです。すると互いの心がわかり、育まれるものが生じます。信頼と愛の中で育まれる最も理想的な関係、聞き従いではないでしょうか。

 このように、同じ聞き従いでも、神との距離が大きなポイントになります。神は同じように私たちを愛したいと思っていらっしゃいますが、前述のどちらがより多くの恵みを受け取っているか、お分かりでしょう。神を愛したダビデは、契約の箱を都に迎える時には、王の威厳も何もなく、妻に軽蔑されようと、ただ子どものように喜んで裸で踊りました。全知の神は私たちの稚拙より、私たちの心を実に喜んでくださる神なのです。

 私たちも、恐れからではなく、私たちを多く愛してくださった神を愛し返しましょう。

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