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神の愛

2017年8月20日 (日)

父の愛

ルカ 15章24節
この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
(死んでいたのに生き返り~放蕩息子の話)
 放蕩した弟息子の方が、兄よりはまだ見どころがある人間だったと私は思います。弟を「あなたの息子」と突き放して言い、「遊女に溺れて」と放蕩を具体的に指摘したのは、本当は自分も人一倍したかったことに違いない人間であったことを思わせます。兄には弟のように真の自分に気づき、悔い改めて立ち返る機会が遠いことでしょう。
 
父は自分の身代を食い潰すことがわかっていも、何も言わずに弟息子の要求通りに生前贈与を呑みました。さぞ苦いものだったと思いますが、そうすることしかできなかったのです。真の愛は束縛したり、まして支配するものではありません。それはサタンのすることです。父は悲しみながら離れ、去って行くことを受け入れました。私たち人間社会に起こる様々な問題、争いとか戦争、不幸はすべてこの視点から見ていく必要があると私は思われるのです。
 
弟息子は結局、相続をすべてお金に換え、遠くの異国の地で、おそらくは短期間に財産を使い果たします。遊女へはもちろんですが、この人なら恩義を感じてくれるだろうという人からも、忌み嫌われる「豚の世話人」をあてがわれるような薄情さでした。そして飢えに苦しんで豚の餌をも食べたいと思うほどの苦しみの最中、「我にかえった」のです。それはいかなる我でしょうか?大勢のしもべを従えた財産家の子息としてプライドがあったはずの弟息子でしたが、父の雇い人の一人になることを願って帰ることの決断でした。英語のKJVでは雇い人を「hired servant」とあります。これは日雇い奴隷のことです。家の奴隷は家族の内であり、食いっぱぐれることはありません。しかし日雇いはその保障はなく、最も惨めな最下層の労働者です。かつて主人であった弟息子が、それを覚悟して帰郷するということは、恥も外聞も捨て、一切のプライドを捨てて帰ると言うことです。最下層の奴隷の一人として、過去の栄光をうち捨てて、父のあわれみにすがるためでした。一言で言うと、「あわれまれるべき自分」でした。神の元に帰る私たちとは、あわれまれなければならない、惨めな我を知ることに尽きます。世的な自我が死んで、私たちは初めて自分の真の姿に気づくのです。
 
この弟息子を父は毎日毎日地境まででかけては、「まだかまだか」と案じつつ帰還を待っておりました。そして帰ってくることを信じて、指輪や良い服、履き物まで用意させておきました。そして誰よりも真っ先に見つけ、駆け寄り、ユダヤ人にとって最も忌むべき豚の臭いふんぷんの乞食姿の息子を抱き寄せ、接吻しました。それはまさに、狂ったように喜んだのです。弟息子が悔い改めの言葉を聞くか聞かないかの内に、父は指輪をはめさせて息子としての権利を与え、服を着させ、自由人としての履き物をはかせました。これが父の愛、私たちの天のお父様の真の姿です。なぜなら死んでいた息子が生き返ったのだから。
 
それで今、この世では生きていますが、神に愛されているのにその愛を受け入れていないという、死んでいるみなさん、この天の父の元に帰ろうではありませんか。神は愛です。この父の愛を受け入れ、立ち返りましょう。

2017年8月13日 (日)

永遠のいのちと御霊のからだ

ヨハネ 3章15-16節
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
「永遠のいのち」は「御霊のからだ」とセットです。この御霊のからだは神が与えてくださる最良の体です。幽霊のようなものではなく、実体をともなったからだです。イエス様が疑うトマスに自らの傷穴に指を入れてみなさいとか、弟子たちと一緒に食事をされたことから、実のあるからだであることは明らかです。私は永遠に年を取らず、行動が自由なこの御霊のからだになることを心待ちにしています。
 
 さて、私たち人間を愛される神はこの永遠のいのちを与えるために、イエス・キリストを世に送られました。本日の聖書のみ言葉通り、十字架において贖いのわざは完了し、成就しました。今は信じる者すべてに永遠のいのちが与えられる恵みの時代です。
 ただ、注意しなければならないものがあります。それはイエス様も常に注意されていた律法的な対応です。つまり、世では当たり前の「得るために自分の力で頑張ること」です。これでは自分の力で得たものになり、どんなに信仰的な言葉や行いをしたとしても、神とは関わりない、永遠のいのちとはほど遠いものです。ただし世的なやり方にどっぷりと漬かっている本人には、なかなかそれに気づくことが難しいのです。キーワードは「自分に死んでいるか」です。
 
 一例を富める若人に見てみましょう。イエスさまのところに訪ねて来たある若く富める役人がいました。この若人の問いは「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして得る」ことができるかでした。彼はそのために律法を忠実に守って来たのですが、形骸化している律法では、それが難しいと直感していたようです。
 
 イエス様は彼に対しては「完全になりたいなら」世の富を捨て、イエスに従う道を教えられました。若人は悲しみながら、イエスの前を去って行きました。彼は永遠のいのちより、世の富の方を選んだのです。当時裕福な者は神に祝福されている者として見られていた上、律法をきちんと守っていた人が行けないなんて・・・・それでは誰が神の国へ行けるののだろうか・・と皆思いました。
 
 するとイエス様は、「ラクダが針の穴を通る」ほど、人間の力では絶対的に不可能なことであっても「神にはできる」と語られたのです。それは十字架によって開かれた神の力に依り頼む道でした。十字架によって罪を赦すという、神の愛の力と恵みを受けることでした。その前には、律法的な個人はすでに死んでいるのです。自分に死んで十字架の神の愛と恵みによって新たに生きる、これが永遠のいのちなのです。
 

2017年8月 6日 (日)

父なる神の愛

ルカ 15章21節
『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

人によっては、神は高い所から見下ろし、罪人の私たちを裁かれる恐い存在と思っている方もいますが、神の本質は愛です。意外にも神さまを理解するポイントは「支配」だと私は思います。
 
サタンの狙いは神が愛されている人間を一人でも多く支配し、自分が行かなければならないゲヘナ(永遠の地獄)へ道連れにすることです。彼らは神の計画を妨害する存在ですので、特にクリスチャンをゲットすることは大戦果です。ですから特に注意が必要です。
 
右図を参考にしてください。S
サタンは神のもの、つまり信じる者を奪おうとしますが、それに対し神は穏やかで慎み深く、私たちにズカズカと入られたりはしません。サタンは恐れや不安で人に侵入し、支配しようとします。ただ神がそれを許されるのは、私たちが真に悔い改めて、心から父のものになりたいと自由意志で願うことです。真に私たちを得たいと忍耐して待っておられるのです。
 
ルカ伝15章の放蕩息子の話は、この神の愛がよくわかるよう書いてあります。生前贈与など良からぬ意図を持って願う弟息子に、通常はあり得ないことですが、天の父は許されます。結局、放蕩の限りを尽くし、ユダヤ人にとって死にも値する豚の世話をし、その餌さえも食おうとするまで堕ちた息子が、ハッと我に返ったのです。「もう父の子でなくていい(それほど自分は父を裏切った)。これほどの恥辱は無いが、それでもただの使用人としてでも父の所に帰ろう」。この瞬間、父は愛する息子を真に得ることができたのです。人は自分のみじめさを知らなければ、真に悔い改めることができないと私は思います。すべてはそのために、あえて放蕩を父は許されるのです。
 
しかしまた父は、「早く帰ってこい」と地境をいつも見回ていたほど心を痛め、待ち続けていた存在でもありました。それだけで無く、息子が帰ってくることを固く信じ、指輪、長服などすべて用意していました。神は全能であり全知ですが、私たち子を、人間をはるかに超える愛で愛してくださっているのです。このお方を私たちは愛するのです。また同時にサタンをはるかに超える力ある神にあっては、たとえ放蕩を許されても、神の許しなしにサタンは私たちに手出しができません。絶対的な護りが、私たち子にあることを覚えておきましょう。

2017年7月23日 (日)

三位一体の神

Ⅰヨハネ 14章16節
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
キリスト教の神は三位一体の神です。私たちの群れでは「父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神は唯一であり神である」と定義しますが、 それぞれ名称を持ち独立した存在である神が、唯一の存在であるとは、それ自体が一見して矛盾に満ちた定義に見えPhotoます。けれどもこれは、だれも自分の持っている小さなコップに太平洋の海を入れられるとは思わないようなもので、人に過ぎない存在が神を全部は理解できるはずもない。
 
 とは言っても、神ご自身が聖書で三位一体についてかなりの説明をしてくださっている。旧約聖書では創世3:23で「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして」とあるように、何カ所かで神自身のことを複数形で語られています。さらに新約ではイエス自身がヨハネ14章で以下のように述べておられます。
ヨハネ14:9「わたしを見た者は、父を見たのです。」 ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
これらの御言葉やイエスの洗礼時の様子や、諸手紙におけるベネディクションからも、三位一体の教理は真理であることがわかる。
 
 ところでなぜ神が三位一体という、人間にとって難解な存在なのだろうか?これに当然推測の域を出ないが、本日の聖書「神は愛である」点から、愛と交わりのためだと見ることができる。ヨハネ3:16によれば、神は永遠のいのちを信じる者のために与えようとイエス・キリストを十字架にお架けになった。それは十字架によって信じる者の罪を赦し罪なき者とされ、かつてエデンの園の時のように、聖であるご自分との交わりを回復させられた。仕上げは聖霊である。神は聖霊を人の中に住まわせることによって、かつてエデンで途絶えた交わりを完全に回復させられたと言えるのではないだろうか。イエス・キリスト以降は、聖霊の宮が信じる者の中にあり、神の国が成就している恵みの年である。
 
 三位一体の神は、人への愛とその愛を具現化する交わりの神であることを心から感謝しよう。この交わりのうちに私たち人も、知れば知るほど神を愛し、なんとしても神のみ心を行いたいと心から願い、献身する者へと変えられていく。神を愛さない献身はあり得ないのです。

2017年4月23日 (日)

神の愛

Ⅰヨハネ 4章19節
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
 
 主イエスやペテロやヨハネは皆、同じことを言っています。神は愛であること、そして信じる者は神を愛することです。なぜ神を愛するのでしょうか。神がまず愛してくださったからです。その絶大な愛に、信頼し、悔い改めて応答する者となるからです。
 
 もう一つ、詳しく神を愛することを見るなら、それは≪本来地獄行きの己の罪が(十字架の贖いによって)赦され、その負債を免除され(救われ)たどころか、子として永遠の命を与えられた≫からです。
 
 この赦されることについて、私はどうしてもルカ7章後半にある、罪深い女の話を思い出します。この女は通常であれば、イエス様に近づくことすらできなかった存在でした。しかしイエス様を招きながら、試そうとしたために見逃されました。女はイエス様の背後から近づき、その足を自分の涙で濡らし(どれほど多くの涙が出たことでしょう!)、自分の髪で汚れを拭き、御足に接吻した上で、おそらくは自分が一番大切にしていた最大の財産、御足を香油で塗りました。
 
辺りで知らぬ者のいない罪深い女。もう十分に辱められ、見下された罪深い女。しかし当時の社会では、女が働いて生きる仕事は他になかったのです。この世で自分の命にも等しいような香油を捧げた女は、イエス様の神性が分からなかった宗教の専門家パリサイ人に対し、それをはるかに理解していただけでなく、卑しめられたこの世ではなく、赦されて神の国への希望と信仰が圧倒的にあったのです。
 
 女のなすがままにされていることをいぶかしんでいるシモンに、ついにイエス様は言われます。金貸しから借金を全部許してもらった(そんなことはあり得ないことですが)二人のうち、一人は現代で言えば50万円、もう一人は500万円相当でしたが、「どちらが多く金貸しを愛するようになるか」と。
 
深刻な罪意識を持つことは、十字架の主イエスのところに行くことによって、多く赦され、多く愛するようになる恵みの道でした。神を愛する者は、多く赦されなければならない者でしたし、神の子とされた今となっては、かつて罪深い自分であったことが宝となりました。神を愛することは、すべての罪をおおうだけでなく、何があって奪われることのない天の宝です。
 このことは「愛のない者に、神はわかりません(1ヨハ4:8)」とあるとおりで、神を愛する者は兄弟をも愛するのです。

2017年3月26日 (日)

キリストと共に死ぬ恵み

ガラテヤ 2章20節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 
 この火曜日のブログで私は母との思い出を書きました。書いていて思い出したことは、「人は自分が誰かに必要とされ、それで生きていける」ということでした。その間の詳しい事情をすべて省きますが、五十歳にして家族を失い、やむなく母のアルツハイマー症の介護を兼ねて実家に帰った私の心はボロボロでした。しかしそれも数年経つと、病の進行で母は施設に入ることになりました。
 
 すると、誰も居なくなった実家に、自分一人がポツンと居ることになりまして・・・そのような経験がお有りでしょうか? あればご理解いただけるでしょう。誰も私を必要としない、されていない状況に置かれ、虚しさ、淋しさに私は本当におかしくなってしまったのです。仕事はありましたが、私が居なくてもすぐに代替者が来ます。しかし家族の代替者は居ません。家族を失い世話をしていた肉親まで・・・私の喪失感は極まったのです。
 
 私はクリスチャンですので自殺できず、自棄(やけ)になって自分をダメにしたい衝動に駆られるようになりました。そんな人生の最大の危機的な時、どん底の闇の中の私に、神のあわれみが注がれ、光が射す時が来たのです。
「私はあなたをずっと愛していた・・・」神の語りかけは突然でした。そしてその言葉は、私を瞬間的にいっさいがっさい、完全に変えたのです。誰からも必要とされなかったのでは無かったのです。神がこのウジ虫のような罪人の私を愛し、私のために十字架に架かってくださった・・・こんな愛ってあるでしょうか。この愛は、たとえこの世で命を失おうとも、失われることがない永遠の愛です。恐れ多いことですが、天地万物を造られた神から、私は必要とされ愛されていたのです。
 
 このことはへブル2:14でキリストが十字架で死の力、死の恐怖、サタンの縄目から私たちを解放してくださったと書かれてあるように、本当でした。それまで三十年もクリスチャンでしたが、それを自分のこととして受け取れていませんでした。
 
 それ故真に神を信じる私たちは告白しましょう
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちにいきておられるのです」と。
 
 こうして私は新しく生きる者となり、虚しさとサタンから解放され、真に生きる喜びを覚える者とされました。みなさん、これがほんとうに生きていると言うことです。誰も、死をもこれを奪うことができません。永遠の愛です。苦しめられた者は幸いです。神の愛を知るからです。神のあわれみに感謝しましょう。

2016年12月25日 (日)

受肉された神

ルカの福音書 1章37節 
神にとって不可能なことは一つもありません
  私たちの神とはどのようなお方なのでしょうか?また、どのようにして私たちは神さまと交われるのしょうか?

 キリスト教など一神教には、偶像がありません。神のすべては、この聖書に不足なく明らかにされています。ですからクリスチャンで神さまのことを知りたい方は、まず神さまのどこを知りたいかを心を尽くし、祈りをもって聖書を読んでいただきたいと思います。求める者に神は必ず答えてくださいます。または、あなたの教会の牧師に聞きましょう。使徒8:31でカンダケに神がピリポを遣わされたような助けが、あなたにもたらされるかも知れません。
 付け加えますと、このことにちゃんと神は備えてくださいました。それは人となられた神、イエス・キリストです。今から二千年前、人となってくださった神を見ればよいのです。
 
 今日は12月25日。諸人こぞりてキリストの生誕をお祝いする日です。イエス・キリストは処女マリヤからお生まれになりました。天使ガブリエルからこのことを聞いて、あり得ないと思ったマリヤに対して天使ガブリエルが言った言葉が「神に不可能はない」と言うことばでした。全能の神にとって、聖霊によって処女マリヤから生まれることなど、簡単なことでしょう。しかし神は霊でした。その霊なる方が次元の低い不自由な肉の体をお持ちになった、このことに示された神の愛と計画が、処女云々より人間の理解を超えた、恵みの真の大奇跡でした。
 
 イエス・キリストという人となり、また為されたことがらについて、四つもの福音書で詳しく述べられています。嵐を静め、湖の水の上を歩き、五千人と六千人の給食を二匹の魚と五つのパンから為された。あらゆる病や精神の病をいやされ、罪人を赦し、弟子たちを訓練し、万人を愛された。これらの他にどのようなお方であったかを知るには、山上の垂訓と呼ばれるマタイ五章が参考になります。弱い者、貧しい者、悲しい者に寄り添い、あわれみ深いお方でした。また18:2にあるように、当時は無価値な者とされていた子どもを愛された。このように同7:11にある、神の御心というものを私たちに見せ、伝えてくださったのです。
 
 イエス様ご本人に関して言えば、ガラテヤ5:22-23「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」にある聖霊の実そのものを実際に現してくださったのもイエス様です。その上、十字架によって死に、復活されたすべてが、人間を愛してやまない神の御性質を現しておられるのです。信じるあなたのただ中に、イエス様の霊、三位一体の神である聖霊さまがお住みになっておられます。己の内に住みたまう神さまを確信し、心から祈れば、神はその祈りに答え、必ずご自身を示して答えてくださることでしょう。

2016年10月 9日 (日)

神を愛する理由

マルコ10章38節
 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
 この箇所はこの世の地位のように、ゼベダイの子であるヤコブとヨハネが、神の国での最高の地位をイエス様に求めたところです。「一人をイエスの右に、もう一人を左に」。これを聞いて他の弟子たちが憤慨しないはずがありません。とは言ってもこの兄弟、告白通り兄は殉教し、弟は流刑という生涯を送りました。本日私が着目したいのは、兄弟の願いに対し、イエス様が「あなた方は自分が何を求めているのか、わかっていないのです」と言われことです。
 
 これには二つの意味があると思われます。一つはイエスの座の隣にという、その高さに見合う地上での過酷な試練を覚悟してのことか?ということ。兄弟の決心は確かに合格点でしたが、「御心に従うことが最善」の段階には至っていなかったのです。
もう一つには、地上の価値観で、つまり「上座が偉い」と天を推し量った誤りです。天ではこの世と反対に、仕えられる者より仕える者の方が高い地位を有するのだと主は諭されています。私たちの願いは目先のものであり、御心と異なるものなのです。
 
 祈りについて考えますと、幼児のような初期段階として、何でも求める段階があり、成長すると、神を知り、愛し、信頼するという段階に至ります。さらに御心を行いたいと祈り求める主に召されての献身者の段階があります。主の同労者として迫害や困難にも聞き従って、栄光の主を証しします。
どの段階においても祈りが決定的に重要ですが、皆様にお伝えしたいことは、ヤコブとヨハネのように、私たちも神に祈り求めますが、「何を求めているのか、わかっていない」祈りの状況にとどまっている可能性が高いことです。私たちが願っているあらゆることは、すでに主はご存知なのです。
 
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(マタイ6:26)
このように、世のことで思い煩っているのが私たちであるとしたら、ではいったい私たちは何を神に求めて祈るべきなのでしょうか?主は明確に示されます。
 
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
(マタイ12:30)
 私たちは、父なる神を「全力を尽くして愛せるように」祈れるなら、それは御心です。子が親に反抗し、忘恩の言葉をいかに吐いたとしても、親の愛は微動だにしません。そのことに気がついた子が為すべきことは、悔い改め、親孝行、つまり親に仕えることです。この世での、私たちの祈りで最も大切なことは、心を尽くし、思いを尽くし、知性と力を尽くして神を愛せるよう祈ることです。

2016年8月14日 (日)

神の愛

Ⅰヨハネ 4章16節
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

 人はよく次のようなことをつぶやきます。私はひどい人間だ。徹底した自己中心でエゴイスト。自分よりも神を、隣人を大切にすることが愛なら、自分は一度だって人を愛したことはない。自分は人前では取り繕っているが、偽善家で情けない人間だ。だからこんな自分は誰からも愛される資格はない。しかも取り柄のない不出来な失敗作の自分だ。他の人よりすぐれたところなど何もないない。こんな自分はきっと生きていても、迷惑な存在なのだ。神だって、こんな人間を愛するなんてできるわけがない・・・・と。
 
 しかし神はあなたを、母の胎の前から知っておられ、選んで母の胎の中で形造られたのです。ですから神はあなたをあなた自身よりよく知っておられるのです。私たちの罪の状態も、救いようのない心の状態も、そして今の心もすべてご存知なのです。それだけではありません。全知と言って、神は生まれる前も、今も、そしてあなたの人生の終わりまでご存知です。その方があなたを愛していると言われているのです。
 
 当然、神はあなたが自分で失敗作だと思っていようがいまいが、あなたを造られた方なのですから、そのあるがままを知っておられ受け入れて、愛していてくださっています。人間の親ですら、生まれて来た我が子が不出来だろうと、問題があろうと、この子は自分の子でないなどとは決して言わないでしょう。ですから神はあなたを決して見捨てられませんし、その愛が変わることがありません。これを信じることで、私たちは子としての実質を受け取ることができ、人生を最高のものとしてくださる特権をゲットするのです。
 
 ただ神さまは聖い方ですから、過失はともかく、導かれた悪い所、神さまの方に向いていなくて犯した罪は悔い改めてください。神は十字架のあわれみで必ず赦してくださいます。
 次に試練のことですが、自分に子どもが出来るとよく分かります。親としてはわが子に最高の人生を送って欲しいと願います。愛しているからです。それで生きていくのに必要な勉強が出来なければできるよう、一生懸命励ましたり、注意したりします。でも「あれっ」と思うわけです。自分の時はこうまで熱心ではなかった、と。神さまも同じです。最高の人生を私たちに送らせたいので、励ましたり、注意したり、懲らしめたり(ロマ 2;4、黙示3:19 )されるのです。そのような訓練、試練を与えられず、放任されたままであったら、それは実の子とは言えません 【ヘブル12:8】。
 
神さまは私たちに最高の人生を送って欲しいと願っておられ、その愛が私たちに注がれているのです。しかもミスの多い人間の親と違って、神の守りは完全です。聖書に繰り返しあるように、神は人間を愛していてくださるのです。そうなると私たちの側では神の愛を「信じる」と言うことが、何をさておいても重要となります。ただ一つお願いです、わたしたちはこの神の愛から、決して逃げ出したり、途中下車してはいけないのです。

2016年6月19日 (日)

神にあわれまれているうちに

ローマ 9章15節
 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。

 我が国で最も成功した武将と言えば、徳川家康でしょう。その家康が生涯肌身離さず持っていた一枚の絵、それがご覧の家康しかみ像です。Photo_2 常人なら失敗は、少しでも速く忘れて思い出したくないことでしょう。しかし家康の成功は、謙虚に自分の失敗を教訓とし、戒めたことだったのです。

 イスラエルの人物中、もっとも祝福された人物はダビデです。イスラエル史上最大の領土を得て、子々孫々に至るまで王座を神に約束されました。ではダビデという人物が完璧な人であったかというと、逆に失敗の多い人でもありました。バテ・シェバのこと、民の数を数えたこと、子育ての父親として不甲斐ない父であったこと・・・・などです。今日はさらにその上塗りとして、致命的とも言えるミスを挙げましょう。それはダビデがサウル王から逃れるために、亡命先としてペリシテのガテの王アキシュに頼ったことです。
 
 この時のダビデはサウル王に追われ、イスラエル内では自分の命が守れないと判断したのです。この時、明らかにダビデは神様の加護よりも サウル王を恐れていました。
 しかしこれは窮地に陥ったこととは言え、みすみす仇敵の手に陥る愚か極まりない選択でした。ペリシテの英雄ゴリアテを倒し、サウルは千、ダビデは万と謳われたダビデをそのままにするはずがないからです。その絶体絶命の危機が、詩編34や56に歌として「捕らえられ、一日中殺されそうになった」と自ら綴っています。しかしこのピンチの結果は、単なる追放で終わるのですが、ダビデはこれがハッキリと「神の護り」であることを知っていたのです。そしてダビデはこの最大の失敗を徹底的に悔い改めるため、詩編にし、幾度も幾度も歌い、歌わせ自分に言い聞かました。
 
 ですからみなさん、過ちや失敗にも神の護りがあるのです。大切なことは悔い改め、そこから学び、神により頼み、堅く信仰に立つことです。失敗を生かすことです。試練はこのためにあるのかも知れません。失敗を以後二度と繰り返さないよう絵にし、歌にし、生かすならば、神に喜ばれ、ますます祝福される基となるのです。あなたの人生での失敗を益に変えましょう。それは失敗や過ちを記憶から消し去り、忘れようとするのではなく、逆です、大いに明らかにして学び、護ってくださった神に栄光を帰すのです。神はあわれもうとする者をあわれみ、恵もうとされる者を恵まれるのです。神の祝福の分かれ目は、自分を守るのか、それとも守らず神に目を向け、栄光を帰すかなのです。