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神の愛

2018年8月12日 (日)

本当の愛

へブル 13章5節~6節     【新改訳2017】

  金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。
  ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。 人が私に何ができるだろうか。」

 金銭というのは、この世という物質世界のシンボルです。お金がなかったら生きていけませんので、お金を否定しているのでなく、お金を愛する生活を否定しているのです。それはどういうことかを実際に考えてみましょう。
このみ言葉の対象はクリスチャンです。今回の船橋聖会で秋元牧師が「十字架はすべての人のための恵みですが、その恵みを受け取るのはただ信じた人、信仰を持った人だけなのです」と語れたことが心に残っています。ただ信じて天国に必須のすべての罪が赦されただけでなく、義とされるのです。

信じなければ十字架の恵みを受け取れないように、「決してあなたを見放さない、決して見捨てない」(英文ではneverがそれぞれにかかっている)と信仰によって信じることで、経済的あるいは将来への不安や恐れから解放されることがわかります。実際これら不安や恐れは、人を虜にし惑わすだけで、結局は多くの損失を得てしまうものであることがほとんどです。

「老後より死後」・・・金銭に代表される切実な世界とは老後なのかもしれません。体が衰え、以前のように働けなくなっているがわかった時、「蟻とキリギリス」ではありませんが、頼れるのは蓄えた金銭でしょう。しかし金銭は「おれおれ詐欺」に狙われ、いつの間にか目減りし、高額医療費で消えてしまうものです。

ルカ8:43-44に「十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた」とあります。この女は財産をすべて費やしても癒やされることはなかったのですが、イエス様の衣の房に触れることで、たちまち、一瞬にして癒やされ治りました。(※実際には溶鉱炉の高熱で鉄を取り出す話でしたが、その言い換え)

みなさん、考えてください。この世を含め、すべての力、権威、栄光は神のものです。人の命、健康もすべて神が司っておられるのです。自分が蓄えたお金でどう頑張っても、絶対がんにかからない、明日の命は大丈夫だと言えません。しかし人が神に頼る時、神に委ね愛する生活をするなら、神は決して見放さす、決して見捨てないと一仰ってくださるのです。本当に懸命な選択とはどちらか、自明のことではないでしょうか。神の真実な愛に応えていきたいと思います。

2018年7月29日 (日)

愛の中身

イザヤ 49章15節   【新改訳2017】
 女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。

 ソロモン王没後、王国は二つに分裂します。北イスラエル王国がアッシリアによって滅亡し、ユダ王国も、エルサレム以外の大きな町は落とされ、捕囚の憂き目もに遭いました。最後の首都エルサレムも陥落寸前、取り囲んでいたアッシリア軍18万5千人が一瞬のうちに主の手によって撃ち殺されました。この危急時に王と国を支えて護り、大活躍したのが預言者イザヤです。
 したがってこの風前の灯火の中、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。と言う叫びがあり、これにイザヤを通して「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない」(49:14-15) と言う神の言葉がイザヤによって語られたのです。

 南ユダに対するこの神の言葉は、全体を通して読み解く限り、現実のイスラエルに対してと言うより、霊的イスラエル人に対しての言葉のようです。言わば私たちクリスチャンに対しての神の愛の言葉が語られていると理解しても良いでしょう。これほどの神の愛に対して、その愛されている当のクリスチャンが「神の愛を受けとめきれていないのはなぜでしょうか」、つまり神の愛に対して「応答」できていない、これが今回の白馬キャンプでのメインテーマでした。この「応答」には信仰の「祈り」「聞き従い」「告白」の三つを用いる必要があることが解き明かされています。

 皆さん思い出してください。私が白馬に行く前に示されて語ったのは「聖霊を悲しませない」でした。自分の中にいつも、神の愛を感じ、その愛する方を悲しませたくないという心、それはなぜ生じるのだろうか、とメッセージをしました。それはどんなに自分が罪深いか、罪がわかって真実な悔い改めに導かれ、そこではじめて神の愛がわかる、と語らせていただきました。

 神の愛がわかれば、なによりもそれが大切であるし、その方を決して悲しませてはならないと心に強く思うようになります。また、神様のみ心を聞き従って行いたい気持ちにもなるのです。これを一言で言えば神様との関係、「交わり」だと私は申し上げました。

 「応答」と「交わり」、言葉やニュアンスは少し異なりますが、言わんとすることはほぼ重なっています。それは神様を愛することで、その中味としてのコミュニケーションです。神様はただ崇められたり、奉られたりすることをお望みではありません。被造物に過ぎない人間ですが、特別にお一人お一人を愛されています。愛にコミュニケーションは必須です。神様はそのために十字架によって特別に罪を取り除いてくださり、隔ての壁をなくしてくださったのです。

  それなのに神様の愛がわからない、受けられないのは、100%人間の側の問題です。それが完全に砕かれずに残っている各自の高慢であり、また、祈りや告白に代表される信仰の三つを用いないことにあるのです。

  ですからみなさん、試練を喜んでください。高慢から悔い改めに導かれます。祈り告白してください、神様の恵みの愛がわかり、受けられるますように。

2018年7月15日 (日)

十字架

Ⅰヨハネ 4章10節    【新改訳2017】

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 キリスト教とキリスト教以外の世界のあらゆる宗教とでは、非常に大きな、本質的な違いというものがあります。それが十字架です。ギリシャなどの諸々の神々、仏教、広義にはイスラム教も含まれると思われますが、基本、神は偉大で人間の上に高く座し、人間の弱さや罪、不信仰を怒っています。それゆえ人間は神々をなだめ、身代わりの供え物をいつも捧げなければなりませんでした。

 ところがキリスト教だけはそれを人間の側からでなく、神の側から、それもなんと崇められるべき神自身が捧げられているのです。十字架はその象徴です。このような神は他に類を見ませんし、人間を愛する神の究極的なすがた形が、この十字架だと言えるでしょう。

 なぜ神であるキリストが十字架で死ななければならなかったのでしょう。それは人の罪の大きさに相当し、それを償ない購える存在が他に無かったからです。大切なことは、ただ単に贖うだけでなく、神との関係の回復をすることが真の目的であったという点です。つまり、究極のエデンの園である天の御国に、たくさんのアダムの子孫を加えて、永遠の交わりを再出発させる、これが神のご計画であることです。ですから十字架がわかるためには、「自分の罪がわかる」ことが大前提です。

 実は私がバプテスマを受けたのは、学生運動し、アジっていた自分の高慢さがわかって、悔い改めていた時のことでした。また自宅にも帰れず、ただ星空を見つめていて、星々の規則正しい運行に、天地万物を創造された神がおられることがわかり、それを認めてこなかった罪がわかったからでした。ただまだその時には、罪が本当に心からわかって信じたとは言えなかったと思います。ですから悔い改めが不十分でした。クリスチャンになれた、天国に行ける希望はありましたが、新生したとは言えませんでした。これらは真の悔い改めがなければ生じませんし、それは自分の力では不可能でした。これらを得たのは、その後何十年も経って、大きな試練を経てからのことでした。

 ですから試練があるのはすばらしい祝福なのです。試練がなければ、人は自分の愚かさ、不信仰さ、罪深さのゆえ、神様に自分を明け渡すことができないからでもあります。その時、神は自分に死に、神に明け渡す者を受け取ってくださり、ご自分のものにしてくださいます。それで御霊によって歩む者にされ、御霊の実が実っていくことになります。
 皆さん、十字架がわかり、聖霊の実を実らせる者となりましょう。これを求めることはみ心ですから、必ず聞いてくださいますので、熱心に求め続けましょう。

2018年6月24日 (日)

よりすぐれた賜物

1コリント 12章31節
あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

 本日の聖書箇所には、“よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい”とありますが、これは九つある聖霊の賜物のどれかを指しているのではありません。この“熱心に求めなさい”と同じ言葉が次の14章1節にも使われており、そこでは「愛」「預言」とが同格で“熱心に求めなさい”となっています。「愛」は「預言」と同格ですが、「愛」という土台が先ずあって、その次に聖霊の賜物の代表であり、神の愛を伝える「預言」があるのです。

 Ⅰコリント13:4-7 には次のように「愛」を語っています“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。”

 私が若い頃は信仰が引き上げられたら、こんなすばらしい愛のある者にしていただけると思っていたのですが、今は違います。ますます自分の罪深さを知り、ほど遠い姿を見るのです。自分という人間には、これは到底到達不可能、そこでわかりました。これは、本当の愛というものを神様が教えてくださっているのだということをです。ですから、これは人には無理なのです。
 たとえばどんなに願っても子どもが与えられなかった人が、できた人を羨ましいと思うな・・・それは無理なことです。程度問題が重要ですが、それにしても嫉妬がない・・・それは人間を超えている気がします。“人をねたみません”これができるのは神様だけでしょう。間違っても自分ができる、そんな誤解をして自分を責め、苦しまないでいただきたいと思います。この罪深いみじめな私のために、ますます十字架の力が働き、赦されたものとして、赦してくださった神への愛がこんこんと湧いてくるのではないでしょうか。

 神への愛は、十字架の愛で私たちの罪が赦され、エデンの園で断ち切られた関係が回復し、聖霊さまを通し神様を個人的に知ることによって深められて行きます。神様はすばらしい愛なるお方です。Ⅰコリ13:4-7にある通り、神様を知れば知るほど、神様に夢中になり、安心して喜んでこんな自分でもよければ、と自分を捧げるようになります。

 神様を愛するようになれば、当然、愛する方から影響されていくようになります。自分の罪深い性質は本質的に変わりませんが、妬みも以前よりは少し減り、心が何よりも平安になります。しかしそれら良いところがあったとしても、それらはすべて神様の影響であって、自分のものではありませんので、高ぶったり、誇りすることにはなりません。人は神に栄光を帰し、ますます謙虚になります。“さらに勝る道”とは「神の愛」のことであり、このように神様と交わる恵みのことを意味するのです。

2017年12月17日 (日)

私をみた者は天の父を見たのです

✝️ヨハネ 14章9節
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
先週のメッセージで私は神様のご人格と言うか人柄というか、それを「理解が難しい」ことと述べました。しかし難しいからと言って、この大切なことをそのままにしていいことではありません。それで今回もう少し詳しく語らせていただくことにしました。
 
今日の聖書箇所 「わたしを見た者は、天の父を見たのである」 とはイエス様がおっしゃった言葉です。三位一体を信じる私たちにとって、神様を理解するのに、人となられた神、イエス様を知る事が最も理解しやすいことだと思われます。そして私がその観点から選んだのはルカ13章から15章にかけてのイエス様の言行録です。ここは他の福音書にはない、ルカ独自の記事が多いのです。
 
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打った者。わたしはめんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めよう
したことか。それなのにあなた方は、それを好まなかった。(ルカ13:34)」

めんどりがひなをかばうように、と言われたのは、本当に神様のお人柄、お気持ちがよく出ていると私は思います。時々それでもひながトコトコ、親鳥のそばから離れて行ってしまうのですが、そんな時の神様の気持ちはこれです。この後、神は独り子を十字架に架けて殺したイスラエルとエルサレムはついに滅ぼされてしまうのですが、どれほどつらいお気持ちになられたか、想像ができません。
 
ルカ15章に1匹のいなくなってしまい、羊飼いが残りの99匹を野原に残して、1匹の羊を見つけるまで捜しに出かける話があります。羊飼いたるもの、こんな愚かなことは決してしないことでしょう。1対99、どちらが大切でしょうか。
捜しに出かけるにしても、残りの羊をまさか野原にそのまま置いたりはいたしません。必ず野宿用の石囲いの中に残りを入れ、それから捜しに出かけることでしょう。安全でない野原にそのまま置き去りにしておくなんて、正気の沙汰ではないはずです。そして1匹の迷える羊が見つかると、怒り注意するどころか大変喜ぶのです。
どうも神の国は、この世の常識とはかけ離れているようです。イエスは次のように説明されました。「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にある」と言うのです。ここで言う「悔い改めの必要のない人」とは、自分を正しいとする人たちのことです。そのような人たちは、他者を裁いているからこそ、己を正しいとするのです。逆に罪人とは、迷った1匹の羊のように、不服従の結果の恐ろしい結末を迎えようとしている今、心から悔い改め、その助けを求めている人だと言えるでしょう。
 
今はひと昔前、教師をしていた時、いつも子ども達に尋ねていたことがありました。「自分はいい子だと思っていますか、それとも悪い子だと思っていますか」の問いに、ほぼ全員の子が悪い子の方に手をあげます。しかし高学年などになると、少しずつその割合が減っていくのです。自分の心の中ではなく、人と比べて自分が是か非か相対視するようになるからでしょう。
神は人の心の中を見られる神なのです。神の関心はまさにその人の心にあり、他者と比べてや社会的な位置などは関係ありません。幼い子をイエス様が言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」とは、まさにこのことです。
 
私たちの本当の敵は私たちの内にある、エゴ、自我です。自分を義とするために人をさばき、その刃で結局自分自身をも傷つけて苦しむのです。それはサタンに取り憑かれている自分でもあります。
さあ今、昔の幼かった子どもに戻って、自分の罪性を認め、救われなければならない者として神の前に悔い改め、白旗を掲げて神の子としていただきましょう。

2017年12月10日 (日)

哀れみを受け恵みをいただいて

ヘブル 4章16節 
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

私たちの神は全知全能の神です。人類何十億の1に過ぎない私の、どんなこともご存知です。そんなビッグデータって信じられないとか、あり得ないと言う前に、人間の理解をはるかに超える、命と万物の創始者が神であるという信仰によってこれを知るのです。
 今となっては素晴らしい恵みですが、これは私が体験したことです。聖霊を受け新生した後、過去に犯したあらゆる罪を思い出しては悔い改める機会が、幾晩も続いたことがあったのです。私がすでに忘れていたこと、その一つ一つを思い出せられては、その度に私が悔い改めるのです。実は少々辛かったのですが、それが終わった時、ことごとく罪から解放されたような、一点の雲も無い青空のような喜びが全身に湧きました。
  この事はそれまでの霊的な状況を一変させました。それ以後私は悪霊に対し、霊的に怯えたり恐れることがなくなったのです。敵が私に取り付く取っかりが一切無くなったかのようでした。つまり霊的に完全に解放されたのです。
 さて私たちの神は全てを知っておられるのです。ですから二つの対応しかできません。逃げるか、それとも降参して神の前に進み出るかです。逃れようとするならば神を悲しませ、己の罪を増し加えるだけであるのは言うまでもありませんです。ですから観念して神の前に進み出、あらいざらい自分の罪を告白し、あわれみにすがるのが上策です。
 
 私たちの神さまとはどのような方でしょうか。私たちの告白に怒り、ひどいお仕置きをされる方でしょうか。まったく違います。神はその独り子を十字架に架けるほど私たちを愛してくださっているお方です。私たちが罪を告白し、悔い改めれば改めるほど喜び、愛を深めてくださる方です。これは理解が難しいことかもしれませんが、調子に乗って「もっとひどい己の罪を、主よ、さらに思い出させてください」と祈るほどでもあるのです。
 
 神は私たちの罪の告白に対し、ペテロが「何度まで赦すべきでしょうか?」主に聞いた時、「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまで」と答えられた方が、どうして赦さないなどと答えられることがあるのでしょうか。

 神は愛です。慈愛とあわれみに満ちた方です。罪深い私をも造られたのが神であるならば、この正直さにあらわれる神への信頼を必ず、酬てくださる神であることを知りましょう。神は私を子として愛してくださるのです。
 さあ、神のあわれみの中に飛び込んで参りましょう。その計り知れない愛の中へ。

2017年12月 3日 (日)

十字架~その愛Ⅱ

ヨハネ  14章6節
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
十字架は人間を愛してくださった、神の愛そのものです。しかし今日、多くのクリスチャンが単に罪の赦しだけに留まって、十字架の真の目的に達していないのは明らかです。
十字架の真の目的とはエデンの回復です。エデンとは神との親しい交わりが行われた所であり、一人の人の罪が全人類に及んだように、次には神の子一人によて罪から全人類を解放したのです。またそれは罪の無い状態にして、人に聖い聖霊さまを送るためでもありました。聖霊さまを通し、エデンの園が回復されるためでした。 永遠の命、新生、聖霊のバプテスマは回復の現れです。
 
聖霊降臨日以降、教会はすぐに大きな問題に直面 しました。十字架によって罪の赦しを受けても、園(交わり)が回復されない状態が生じたのです。聖霊の賜物を受けない
人々です。最初の例はピリポが散らされた先、サマリヤで起こり、次にアポロがエペソで教えた時にも起こりました(使徒8:14-17・19:1-7)。注意していただきたいことは、このことを使徒たちは重大な事とし、すぐに使徒を派遣しました。十字架の真の目的を損ねかねないからでした。Photo_3
しかし今日のキリスト世界では、残念ながらサマリヤやエペソで起きたことが全体に広がり、圧倒的多数派を形成しています。御言葉や祈り、預言などによって神が語られることを受け入れなければ、そこに交わりは存在できません。
 
私の体験
聖霊のバプテスマを何年も求め続けていましたが、いきなり受けたのではありません。初めに深い悔い改めがありました。私がワカサギ漁の話とか、野壺の話をしたことを覚えておられるでしょう。悔い改めの底で、神のあわれみが注がれたのです。聖日の朝のことで、神はご自身を現されたのでした。
 
 最初に異変に気づいたのは、礼拝へと車を走らせているとフロントグラスに、解読不可能な配列をした文字らしきものがぴょんぴょん跳ねていたのです。私の注意を惹きつけ終わると、その文字は並び替えてメッセージを伝えてきました。その時私はひどい自己卑下の状態でしたから、「わたしはあなたを愛している」「どれほどあなたを待っていたことでしょう」という内容に、最初は意味がわかりませんでした。思いもかけない一つの内容に、これが神からだと気づくのにも時間はかかりませんでした。体が震え、嗚咽が出ました。
 神が語られる、どんなに待ち望んだことであっても、実際にそれがある、神は現実に生きておられ、関わりを持とうとしてくださっている・・・・この時まだ聖霊のバプテスマを受けてはいませんでしたが、この瞬間から私の信仰は劇的に変わったのです。そして、神が生きているか、実際に存在されているのかどうかわからないような、これまでの信仰の教会にはもう二度と戻れないと言うこともわかったのでした。そうでないことを私は体験し、知ってしまったのです。
 
「神は愛」、それは十字架によって現され、聖霊に依って受け取る真実です。聖書は確かに神の言葉であり、誰でも受け取ることが出来るものですが、聖霊によって受ける時、御言葉は自分に適用できる生きた言葉、力ある言葉になります。そして聖書が説いているとおり、祈りと聖霊の賜物によって、私たちは神と深い交わりの中、自分を神に捧げ、聞き従って世での人生を歩むこと、つまり十字架の真の目的が達成できるのです。
 
皆さんは十字架の恵みを受け、祝福されました。この群れは聖霊の賜物を用いる素晴らしい教会です。教会の恵み、十字架の恵みをさらに受け取るために、受けている人も居ない人もさらに聖霊を祈り求めましょう。聞き従いを強めましょう。これは御心ですから、時が来たら神は必ず成就して下さることを信じましょう。

2017年11月26日 (日)

十字架~その愛Ⅰ

ヨハネ 14章6節 
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
    
今日のみ言葉の「わたし」とはイエス・キリストのことです。父のみもと、つまり天国に行くには「イエスを神の子とし、その十字架を信じなければ行くことができない」、他にどんな道もあり得ないと聖書は明確に言っています。
 
 使徒信条を見てみましょう。この簡潔な信仰告白での中心は、イエスは神であるという告白です。「聖霊によって処女マリヤから生まれた」ことは大奇跡であって罪の無い存在であることをあらわし、「三日目に復活し、昇天した」ことや「神の右に座し」「最後の審判で、すべての人類を審く」ことは、イエスが神であることにほかなりません。
 
 さて私たちの群れでは「父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神は神であり、唯一である」が三位一体の定義です。三位一体を氷・水・水蒸気とかにたとえようとしても、的確ではありません。それでこの言葉通りに私たちは三位一体覚えるので、三位一体を理解するには、逆説的ですが、三位一体を否定する非キリスト教の教えを見た方がわかりやすいと言われています。
 
 使徒が存在しなくなった3世紀ごろから、すでにキリストの神性をめぐっての三位一体が争点になっていました。4世紀のニカイヤ公会議で三位一体に決着しましたが、今日に至っても姿や形を変えて、キリスト教会は攻撃されています。
 モナルキア主義……神の唯一性を主張するあまり、イエス・キリストも聖霊も、一人三役のようなもので同じであると唱えました。逆にイエスは最高度の人間(キリストの神性を否定)であって、父なる神だけが唯一の神であると主張する偽グループが目立ちます。これは4世紀のアリウス派から連綿と続いています。もしイエスが神で無かったとしたら、十字架は空しく、私たちは今もなお罪の中に留まり続けていることになりますし、私たちは全員地獄行きです。
 
 このように他ならぬ創造者である神ご自身が私たちの罪を一身に引き受け、自ら贖いの小羊となってくださった、ここに神の愛があります。神ご自身以外に人類の罪の身代わりにふさわしい方はいません。イエスが神でなければ、私たちは未だに罪の中におり、絶望の底に居るのです。三位一体こそ、キリスト教の土台であり、真理であり、生命線なのです。

2017年10月22日 (日)

迷った一匹の羊

マタイ 18章12~14節
12:あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
13:そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
14このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
学校の教室では毎日7時間くらい、教師は子どもたちと過ごします。教師から見て、子どもたちのグループがどうしても三つできてしまいます。一つは先生の机にいつも集まり、親しく交わってくれる子どもたち。次に授業に参加し一見忠実ですが、それは授業中だけ。上手に教師との関係を保っていく多くのグループ。最後に教師に反抗するごく少数の子どもです。
卒業式が終わった直後、担任と別れを惜しんで挨拶に来てくれる子どもは、いつも交わってくれていた子どもたちです。が、教師に反抗してくれた子どもも来てくれます。しかし大多数のつかず離れずのお利口さんたちは、蜘蛛の子を散らしたように校門から去って行くだけです。これは何を物語っているのでしょうか。プラスであれ、マイナスであれ、真剣に関わった関係が互いに残るということです。
 
私たちと神さまの関係も似たようなところがあります。私たちはこの血肉のある地上での財産や受けた栄誉、地位などは何一つ、天の神の国には持って行けません。ですからそれらは空しいのです。しかし「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛(1コリ13:13)」だと聖書は言っています。愛とは別な言葉で言い換えれば、<真剣に関わり合った関係から生み出されるもの>だと思っています。表面的には従っていても、距離を置いた関係、つかず離れずの関係からは愛は育ちません。
 
本日の聖書箇所でイエス様は、九十九匹を山に残してでも、迷った一匹を捜しに行くと言われました。これは人間的に判断するなら、非常に愚かです。ご存知のように、囲いも石塀もない山に多くの羊を置いて行くならば、迷った羊以上にたくさんの羊を失う可能性が高い。しかも迷った一匹というのは、自業自得で不注意というか、聞き従いのない身勝手な羊かも知れません。にも関わらず、計算を度外視して捜すのが神様の愛だと言われているのです。この迷った一匹の羊を、私は教師に反抗する子どもによく重ね合わせます。捜し当てられた羊は、この体験を通して羊飼いの愛がよくよくわかり、まったく別人、いや別羊に変わったことと思います。魂を得る神の愛、これが最も重要な点です。
 
皆さん、神様との関係に距離をおいてはいけません。「アバ父よ」と幼子のようにすり寄るもよし、反抗して「どうしてこんな試練が許されるんだ」と叫ぶもよし。とにかく生きて働かれる神様と真剣に関わっていく! これがこの血肉の世で一番大切な神から愛される道なのです。天への宝、神への愛はその中で育まれ、醸成されて大きく育つのです。

2017年8月20日 (日)

父の愛

ルカ 15章24節
この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
(死んでいたのに生き返り~放蕩息子の話)
 放蕩した弟息子の方が、兄よりはまだ見どころがある人間だったと私は思います。弟を「あなたの息子」と突き放して言い、「遊女に溺れて」と放蕩を具体的に指摘したのは、本当は自分も人一倍したかったことに違いない人間であったことを思わせます。兄には弟のように真の自分に気づき、悔い改めて立ち返る機会が遠いことでしょう。
 
父は自分の身代を食い潰すことがわかっていも、何も言わずに弟息子の要求通りに生前贈与を呑みました。さぞ苦いものだったと思いますが、そうすることしかできなかったのです。真の愛は束縛したり、まして支配するものではありません。それはサタンのすることです。父は悲しみながら離れ、去って行くことを受け入れました。私たち人間社会に起こる様々な問題、争いとか戦争、不幸はすべてこの視点から見ていく必要があると私は思われるのです。
 
弟息子は結局、相続をすべてお金に換え、遠くの異国の地で、おそらくは短期間に財産を使い果たします。遊女へはもちろんですが、この人なら恩義を感じてくれるだろうという人からも、忌み嫌われる「豚の世話人」をあてがわれるような薄情さでした。そして飢えに苦しんで豚の餌をも食べたいと思うほどの苦しみの最中、「我にかえった」のです。それはいかなる我でしょうか?大勢のしもべを従えた財産家の子息としてプライドがあったはずの弟息子でしたが、父の雇い人の一人になることを願って帰ることの決断でした。英語のKJVでは雇い人を「hired servant」とあります。これは日雇い奴隷のことです。家の奴隷は家族の内であり、食いっぱぐれることはありません。しかし日雇いはその保障はなく、最も惨めな最下層の労働者です。かつて主人であった弟息子が、それを覚悟して帰郷するということは、恥も外聞も捨て、一切のプライドを捨てて帰ると言うことです。最下層の奴隷の一人として、過去の栄光をうち捨てて、父のあわれみにすがるためでした。一言で言うと、「あわれまれるべき自分」でした。神の元に帰る私たちとは、あわれまれなければならない、惨めな我を知ることに尽きます。世的な自我が死んで、私たちは初めて自分の真の姿に気づくのです。
 
この弟息子を父は毎日毎日地境まででかけては、「まだかまだか」と案じつつ帰還を待っておりました。そして帰ってくることを信じて、指輪や良い服、履き物まで用意させておきました。そして誰よりも真っ先に見つけ、駆け寄り、ユダヤ人にとって最も忌むべき豚の臭いふんぷんの乞食姿の息子を抱き寄せ、接吻しました。それはまさに、狂ったように喜んだのです。弟息子が悔い改めの言葉を聞くか聞かないかの内に、父は指輪をはめさせて息子としての権利を与え、服を着させ、自由人としての履き物をはかせました。これが父の愛、私たちの天のお父様の真の姿です。なぜなら死んでいた息子が生き返ったのだから。
 
それで今、この世では生きていますが、神に愛されているのにその愛を受け入れていないという、死んでいるみなさん、この天の父の元に帰ろうではありませんか。神は愛です。この父の愛を受け入れ、立ち返りましょう。