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神の愛

2021年1月10日 (日)

恵みも満ちあふれる

ローマ 5章20-21節   新改訳2017

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。
それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。

 神は「愛」そのものなのに、なぜ神は審きをされるのだろうか?という疑問を抱く方がおられます。かつて私もそのように思ったものでした。しかしその疑問は、神様のご性質がまだよくわかっていない段階のものと思われます。なぜなら神様の愛は人間が考えるような愛とは、まったくレベルが違うのです。全知全能の存在は、人間が及びもつかない聖であり、義なるお方、光と真理に満ちた存在なのです。神は基本的には従うだけの存在である天使とは異なって、自由な意思と意見を持ち、ご自身と分け隔てなく交われる多くの聖徒たちを構成員として、真の天国をお造りになろうとしておられるのです。

 小学生だった頃、浄土真宗だった私の家に、折々その住職さんが読経と法話に来てくださったことを思い出します。特に「二河白道」の話は興味深かったのですが、幼いなりに一つの疑問がありました。貪りや執着心の水の川、怒りや憎しみの川の間の白い道を何とか行けても、その極楽浄土にたどり着いた所は本当に良いところなのだろうか、と。世の人とどこが違っているのだろうか、と。結局はこの世と変わらない世界だとしたら、意味ないと思ったのです。どうにも風変わりな子どもだったようです。
 13歳の時に小説で神を知り、15歳で探し当てた伝道所でキリスト教に接したとき、これが真の神であるとわかりました。疑問を解決する十字架が有ったからです。神は愛なる神ですが、同時に聖なるお方、義なるお方です。天国が本当に天国であるのは、赦されて罪から解放された人々、聖とされた人々の国であるからです。
 十字架無しに人々が義とされることも、聖とされることもありません。神の愛そのものの十字架こそ、世界でオンリーワンの真の宗教です。罪深い私たちを完全に贖ってくださった十字架の主イエス・キリストを、心から自分の罪を償ってくださった方だと信じるなら、その方は救われているのです。救われた人は、決してそれまでの人ではありません。その人に聖霊が内住されたからです。

 しかしクリスチャンになっても、それまでの(肉的な)自分との変化を感じない方が多いとしたら、深刻に自分自身を吟味していただきたいと思います。それは聖霊の内住があっても、聖霊様の方が僕とされている不遜な状態であるか、さもなくば偽りの信仰告白だったからです。神がご自分の血肉の命を捧げてくださったのですから、私たちもまず自分の命を捧げ、その僕となって聞き従う必要があります。その上でいのちの道が開かれます。その時人は、自分自身が最も自分を窮屈にし苦しめてきた敵であることに気付くでしょう。その時、審きはもはや意味を成さないのです。

2020年12月27日 (日)

神に愛される

黙示録3章19節  新改訳2017

わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。

 最初に絵本<大切なきみ>の朗読をしました。このお話の中で、人々が互いに比べ合い、その優劣に囚われている姿が、シールの貼り合いで表されていました。確かに私たちは優劣の価値観で互いを判定し、金ぴかの星シールやダメージを貼りまくりそのことに疑問を持っていません。

1227_20210201020901教会においてすら、競い合うケースがあるようです。しかしこの絵本のように、造り主である神は、たとえ世の見方と異なって、個々人を最善に造られているのです。ただそれがわからないだけです。その作り主の愛と御心に従って生きることの方が、決定的に重要なことであるのはもちろんです。

 昨日、バイトしている放課後ディで二人の中学生をきつく叱りました。リーダー的な存在のはずの子たちなのですが、英語の学びの時間になっても、自分がしたいことを続け、いくら注意しても意図的に無視したためでした。他人である者が叱れば、その後も大変なケアが待っています。しかし一旦「自分勝手な行動が通る」と学んでしまうと、その後、その成功体験を正すことはかなり大変です。子どものわがままを許容することで、降りかかる煩わしさから自分を守ったかも知れませんが、それはその子たちを愛しているとは言えません。
 まして神さまであれば、子である私たちの勝手な思いや行い、わがままを叱られないことはあり得ません。実際、私は褒められることはほとんどなく、叱られることの方が圧倒的です。しかし、叱られても叱られても、それはむしろ当然であって、かえって神さまの愛を感じます。もし「叱られたことがない」と言われるならば、かえってその方は私生児です。または、神の訓練の段階に入れない乳飲児の状態なのでしょう。

 この絵本を子ども向けだと思わないでください。晩節を汚す人、退職していつまでも上役気分が抜けない人、伴侶を送ったばかりに生きる気力すら湧かない人など、この絵本に該当するクリスチャンのなんと多いことでしょう。私たちは、主によって懲らしめられなければ成長できない存在なのです。それは愛されている子の特権です。最後にヘブルの12章の御言葉を受け取りましょう。
「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。主が訓練しない子がいるでしょうか。すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって本当の子ではありません。」

2020年9月20日 (日)

神のかたち

コロサイ 1章15節   新改約2017

御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。

 聖書通読で「御子は見えない神のかたち」という言葉に改めてショックを受けました。旧約の十戒の影響からでしょうか、新しい律法、新しい契約においては<神ご自身が人となられた>ことをもっと重要視すべきだったと気づかされたのです。

 イエス様を見、知れば、私たちは人となった神を知ることができるのです。どのようなご人格、お人柄で、どんなことを為さり、言われたのか。そのお心はどのようなものであったのか、四つの福音書を通してわかるのです。これはすごいことであり、素晴らしいプレゼントではありませんか。他の宗教で教祖がこのように具体的に知らされることは無いでしょう。できるだけ知らせず、神秘的に覆い隠さなければ、罪深い人間の正体がばれてしまうからです。しかし私たちの神はまったく異なるのです。

 イエス様の使命は十字架にありましたが、それまでの三年半の公生涯もそれに劣らず重要だったのです。それは一言で言えば神の愛の姿をリアルに知らせるためでした。人の弱さに対応し、人類への福音そのものだったのです。イエス様は神の愛のかたちそのものだったのです。幼子を抱き、罪を赦し病を癒やし、嵐を静め、飢えた5,6千人をそのままではお帰しになりませんでした。異臭ただよう死人をもよみがえらせられました。大工の息子で教養は受けられませんでしたが、国中の学者たちも太刀打ちができませんでした。

 イエス・キリストが行ったわざに拠ってではなく、その言葉こそ実に驚くべきもの、信じる者の力です。実際、キリストの言葉は神にしか言えないもの、神の叡知と力の証明でした。言葉を聞いて信じる者は、奇跡を見て信じる者より幸いなのです。

 一例を上げましょう。パリサイ人の「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」(ルカ20:25 )
これは神の知恵の確かさを示しています。パリサイ人の家での食事において「彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです」(ルカ7:47) 神でなかったら、これらの言葉は到底語れるものではありません。

 私たちはこの神のあわれみによって救われたのです。未信者に対し、仏像とかの偶像がないから説明しづらい思うなら、それは愚かです。神を具体的には語り憎いと思うなら、血肉の形をもって地上に降りてくださった神のみこころを無にすることになります。二千年前であっても、今も私の心の中に居られ、交わっている確かな人物、主イエス・キリストを私たちは個人的に、いきいきと語れば良いのです。

2020年7月 5日 (日)

愛の苦しみ

詩篇 105篇17~19節   【新改訳2017】

主は一人の人を彼らに先駆けて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。
ヨセフの足は苦しみのかせをはめられその首は鉄のかせに入れられた。
彼のことばがそのとおりになるときまで【主】のことばは彼を錬った。

 先週お伝えした神との直接の出会い、それは自分が根本から変えられるもの・・・・つまり、聖霊の満たし、聖霊のバプテスマですが、そのことをあたかも結婚前の男女に見られるような「おのぼせ」に例えたりしました。しかしそれでは真実を伝えていない部分があり・・・・今回は、その後の少し熱が冷めて実際的な生活に入った部分をお伝えしなければならないと示されました。それで「愛の苦しみ」という題にしました。
  先週のケンピスの言葉に「キリストとともに生きたい人は、先ず自分の自分自身に死ぬことが必要である」(p126)がありました。そのすぐ続きに「おお、いつ神のみが私のすべてとなり、私のすべてが神と一つになれる日が来るのだろうか」と嘆いています。ケンピスですら難しいことなのです。実際、神と一つになるまでは、この世において私たちは完全な幸せにはなれないことも分かっています。

 ではどうすれば良いのでしょうか。それはキリストに従うこと、自分を棄てることに力を尽くすことしかりません。自分の肉が死ぬことには、痛みが伴います。それはちょうど結婚式を終え、落ち着きを取り戻した男女が直面していく、様々な問題にも似ています。決してバラ色ではありません。まさに神を愛するが故の苦しみが営まれて日々でもあります。残されている己の肉との絶え間ない戦い、葛藤がつきまとうのです。肉を完全に絶つことは困難ですが、だからといって妥協し、あきらめる道はあり得ません。
 例をあげてみましょう・・・・〇兄弟や世の人にも、その良くない点や過ちに耐え、悲しみ、より愛せるように祈る、〇隣人の良い模範や美徳を、我がことのように喜ぶ、〇食卓で、自分よりも他の人によりよいものを取り分ける、〇自分の好き嫌いを放棄する・・・・等。

 キリストを愛し、従うことはキリストがされたように、キリストがされるであろうように生きることです。私たちはキリストを愛するが故に、この血肉のいのちがある間中、戦い耐え続けて全うしていくのです。聖霊なる神が唯一の助け手です。
 「受けるより与える方が幸いである」(使徒20:34)とパウロが語ったように、パウロもまた、キリストを愛する苦しみ、その生涯実践しました。ヨセフは13年牢屋に入れられ、手枷足枷の中で忍耐し、最後にはエジプトの宰相になり、自分の家族への夢を実現させました。一方パウロは牢獄の中で処刑されて死にました。しかしパウロによってユダヤ教から新宗教キリスト教が誕生し、真の世界宗教へと脱皮させた、最大の功労者になりました。
 キリストに従った結果、世での栄誉を受けるか、刑場の露と消えるかは問題ではありません。ただキリストを愛し、神と一つになるれる希望をもって、そのためにどれだけ苦しんだか、そしてなお祈りかつ喜んだかが、天に生きる者のすべてなのです。

2020年2月23日 (日)

人を愛し尊重してくださる神

アモス 3章7節   【新改訳2017】
まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない。

 聖書の学び(His Story)でアブラハムに対し、神が「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」と考えられたのですが、今でもまったく同じことを神はされ続けています。たとえば私ですが、人生の重大な事に関して選ばされたり、この後の人生についてもだいたいの展開は聞いているからです。ですからこのアモス書にある「ご自分の計画をそのしもべにである預言者たちに示さずには、何事もなさらない」に私はアーメンと全き同意をいたします。

 なぜ神はこのように人に過ぎない存在に、あらかじめ語られるのでしょうか。それは、たとえ結果は同じになるにしても、後で聞くのと先に聞くのとでは大きな違いがあるからです。事の起こる前に聞いているならば、心の動揺はなく、神の偉大さ、信仰を堅くするだけではありません、「私は尊重され神に愛されている」心が湧くのであって、あいしてくださる神はそのことをご存じだからなのです。

 ぼくしである私にとって、教会形成の上で譲れないものがあるとしたらこの点です。全てとは行かないでしょうが、教会にとって大切な案件において、私は可能な限り教会員に諮って合意を得てからにしたいのです。なぜなら上位下達は権力の支配を現し、天的ではないのです。神は人を友とし子として尊重してくださる神であって、愛がその本質です。権力をもって人を支配する存在とは真逆の方です。私たちの教会には神の愛が満ちているだけでなく、牧師が主イエスへの愛を持って「わたしの小羊を飼いなさい」の戒めを受けているからです。

 最後に、神はなぜここまで人を愛され尊重してくださるのか、それを少し学びたいと思います。ご承知のように、人は血肉の体を持つ有限なる存在ですが、神は天使たちに、人に仕えるよう命じられました。ただし天使が仕える人とは、イエス・キリストを真に信じた人々です。その人達には聖霊が内住しています。一方、天使は霊的な存在なので、物質的な体を持っていません。ですから聞き従うだけの存在です。しかし人は血肉の戦いに、十字架によって勝利を取り、サタンの縄目から解放された存在なのです。それ故、時が来たら超物質的な体の上に霊を持つ、御霊の体をもって神に最も近い存在として下さいます。

 以上の事から神の形に似せて造られた人とは、神に近い存在であり、命令に従うだけの存在ではなく、多様な個性と進んでみこころを行おうとする意欲に満ちた、神と交われる存在として創造されたことがわかります。従うだけの存在ではなく、神から愛され、交わる存在として創造されたのが、私たち人なのです。

2020年1月 5日 (日)

赦され、愛する

ルカ 7章47節   【新改訳2017】
ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。

 私たちは癒やしの教会ですが、どんなに体が癒やされても、それが信仰に結びつかなければ何の意味もありません。癒やされてもそれは少し延命だけで、人は遅かれ早かれ必ず死ぬのです。真の癒やしは、永遠の存在である魂の癒やし、霊の回復です。イエス様はそのために地上に来られました。
 さて、多くの病いを癒やすだけでなく、多くの罪をイエス様は赦されました。罪の赦しとは霊・魂の癒やしになります。病いをただ癒やすだけでなく、その根本の霊を癒やす、それがイエス・キリストを信じることです。しかしそれができるのは神だけです。どれほどパリサイ人の反感と憎しみを買おうとも、イエス様は赦しの癒やしを止めることができませんでした。その為に来られたのですから。

 さて、本日の聖書でイエス様は「この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから」と言われました。逆に「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」とはっきり言われました。一方で神を愛する人がおり、また、どうしても愛することがわからない人もいます。愛するならば、例えば映画パッションでのイエスへの鞭打ちのリアルシーンを観て、あの鞭の痛みを我が事のように感じるはずです。

 そういうわけで、罪深い女だけでなく、長血に苦しめられた女、ゲラサ人の地で墓場に住んで、レギオンほどの悪霊に憑かれていた男など、赦され救われたこれらの方々は、イエス様を心から慕い愛する者に変えられたと私は信じます。罪深さはなんと全くの逆転、永遠のいのちと信仰、結果としてそれに見合う癒やしを得る恵みの道だったのです。

 「心の貧しき者は幸いである」とは以上のことを指しています。罪の意識は人を苦しめますが、十字架の赦しの道を見出したならば、祝福され、愛と自由の中、永遠の魂の安息を得ます。赦されなければ愛することができず、これら神の愛の恵みを十分には受け取ることができないからです。繰り返しますが、赦しと愛とは表裏一体なのです。自分を正当化し、赦されることの飢え渇きを感じない人は、不幸です。

 神は最善を私たちに与えようとしておられ、赦されることなしに神を知ることができません。偽りの祝福を与えることはおできになりません。私たちの魂を妬むほどに求めておられるのです。

2019年12月29日 (日)

神のお人柄

ヨハネ14章26節    【新改訳2017】
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 昔、各地のクリスチャンが集まって親しく話をする機会がありました。その時感じたのは、「神を信じる者が十人いたならば、それぞれ十人十色の信仰と神様観があるんだな」という感想でした。確かに神は人間の理解を超えた存在であって、「群盲象を評す」とその時は思ったものです。

 しかし、三位一体なる神は唯一であり、十人各々の異なる神がおられるわけではありません。多くの人の聖霊のバプテスマ体験を聞くなら、多少の相違はあっても、弱さを知り悔い改め、神に自分を明け渡す不思議な特徴があり、たましいの奥底を揺さぶられるその証しからは、間違いなく同じ神であることがわかるのです。

 さて、あるクリスチャンの神様観は「義なる神で、厳しい裁きをされる怖ーいお方である」であったとします。そのクリスチャンは神に聞き従う忠実な者となりましたが、どうしても神の懐に飛び込むことができないのでした。逆にあるクリスチャンは、神はサタンにすでに勝利されているので、サタンなんか恐れるに足りずと侮っていました。ところがその侮りが自分の力を過信したり、神に対しても聞き従いが弱くなる一面があったのです。

 では神様って、どんなお方なのでしょうか? それには人となって来てくださったイエス様を知ることです。私の神様観はルカ七章の「罪深い女」の話に出る、赦しの愛がピッタリします。罪深い女は、その土地の名士であるパリサイ人シモンとは真反対の対応をイエスにしました。当時、迎え入れた客人に対してする、足洗いの水さえ出さなかったシモンに対し、この女は涙でイエスの足を洗い、自分の髪の毛でぬぐい、その足に口づけをして香油を塗った(38節)のです。女の対応にイエスは【多く赦された者が、多く愛する】と言われたのです。多く赦された自分の罪がわかる、これが私の神観のポイントです。

罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました   (ローマ 5章20節)とあります。
神はなぜ、放蕩するとわかっていても弟息子に放蕩を許されたのでしょうか? 自分を知らせ、悔い改めさせ、真の父の愛を知らせるためでした。本当の心は、赦されなければならない心から生じるのです。自分の罪深さを知ることは、神の赦しと愛がわかり、神に喜んで自分を捧げるようになります。
 エデンの園の中央に、わざわざ置かれたのも、放蕩を許されたのも、すべては神が私たちの本当の心を得られようとしている証左です。そこまで神は私たちをお求めなのです。この愛に、私たちは真に生かされるのです。

2019年12月22日 (日)

自由意志

創世記 2章9節   【新改訳2017】
神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。

○罪~ 蛇に惑わされたと言っても、別に強制されたわけではありません。人は神の「食べると死ぬ」と言う戒めより、自分の見た目や、何より「神のように賢くなれる」欲を優先したのです。日頃あれほど親しく交わっていた神を信じず、従わず、自分の考えや判断を正しいものとしたのです。サタンと同じ、「神のようになる」という高慢が罪の正体なのです。

○疑問~ 一点だけ気になるのは、神はなぜ、どの木からも取って食べて良いと言われたにも関わらず、わざわざ中央に恐ろしい木を置かれたのでしょうか? 人間の親ならそんな危険なものを置いたりはしません。神は意地悪いお方なのでしょうか?
 そうではなく、放蕩息子のように、愛すればこそ、選択という自由を与えられたのです。さらに神には、イエス・キリストという救いの計画がありました。禁断の木の実は「神を信じ、従う」しるしでした。結局人は罪を犯しましたが、それは罪の只中から、自分たちが救われなければならない存在であることに気づかせるためです。悔い改め、二度と高ぶらせない計画が神にはお有りだったのです。
 十字架によって、アダムの罪は完全に贖われ、聖霊によって、人は真の自由を得て恐れることなく、御前で神と交わる、神との関係はこうして回復されて行くためでした。

○アダム~ このことをパウロは、最初のアダムと最後のアダムとして説明しています。最初のアダムは土で造られ土に帰りましたが、最後のアダムは天からのもので、乙女マリヤから生まれました。つまり最初のアダムは、最後のマダムであるキリストの雛形でした(ロマ5章中ほど)。天からのキリストによって、私たちは永遠の天の相続者となり、信じる者の霊は天に帰り、新たなからだを得るのです。
 キリストによって永遠のいのちを得たのであれば、たとえ何があってもこの恵みを失うわけにはいきません。「最後のアダムはいのちを与える御霊となりました」(1コリ15:45)

○交わり~ 真の交わりとは権威と秩序の下、一つの目的のために、互いの個性と感性から意見を出し合うことを言います。自由意思と個性を持った兄弟姉妹同士でなければ、そんな交わりにはなりません。私たちは神の子どもです。子どもならば恐れずに父のみ前で、自分の考えを言うでしょう。神は妬まれるほどに、そのような霊をお求めなのです。

 

 

2019年12月 1日 (日)

愛を追い求めなさい

 ✝1コリ14:1  [新改訳2018]
愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい

私たちの群れではこの聖句の後半《預言を熱心にもとめなさい》を土台として、主に関連する聖書箇所(中心はコリント第一)を元に預言を学び、セミナーや実践練習を積み重ねて来た。しかし最近は前半の《愛を追い求めなさい》にも光を当て、単に並列されて書き表されているだけでない、重要な預言の土台というものに再び光を当てている。 

図で表せば「愛」と「預言」の関係は右のようになる。つまり先ず愛が求められ、そのお器とか土台があっての後、預言することを熱心に求めるという順序というか、土台があっての預言ありきではないのかと言う点である。

<愛がなければ、騒がしいどらやうるさいシンバルと同じ><よりすぐれた賜物である愛がと20191201もなっていないのであれば、無に等しく>とあるように、このことは聖書にしっかりと押さえられていることなのではないだろうか。万が一この神の愛を受けずして、聖霊の賜物ばかりを求めるとしたら、サマリアで賜物を使徒たちから買おうとしたシモンの轍を踏むことになりはしないだろうか。

御霊の賜物はどうして与えられるのか、ということを考えるなら、それは「教会を成長させるため」である。それゆえに聖霊の賜物は教会のものであるし、その管理を受ける。教会の使命とは愛そのものの神の御からだであり、その信仰の継承と福音宣教が使命である。ここでも<愛>が中心である。賜物は教会のためにであって、自分のためには一切無いのである。

一般に「通り良き管」「神の器」とかいう言葉があるが、聖化に関しても私の思いでは、それはあったとしても管に付着する錆び、容器に染みつくシミみたいなものであって、それは決して管とか器が変えられてのものとは言い難い種類のものではないか、と。失礼ながら、時に剥がれ落ち、化けの皮が取れるような存在のものではないだとうか。私たちの本性は罪人であって、絶えず神に赦しを請い願い続け、聖霊さまに通っていただかなくては用を果たしているとは言えないはずだ。あえて言うなら管にも太り管と細い管とがあるだろうが、5タラントも2タラントも同じお褒めにあずかったように、それすらも御前で決して誇ることは出来ないものだと私は思える。徹底して悔い改め、謙遜、謙虚にこの血肉のいのちを全うして生きましょう。神の愛の組織である。

2019年10月27日 (日)

神を愛する人Ⅱ

  ✝ローマ 8章28節   【新改訳2017】
ロマ 8:28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

前回は神を愛した人として、モーセを例にとって述べました。けれども後で気がついたのです。モーセもですが、新約でもすごい人がいました。それを忘れてはいけないでしょう。それはパウロです。今日キリスト教はパウロ無しには存在しません。ちょうど荒野で神がイスラエルの民の頑なさを悔い、モーセから新たな民を起こそうとされたように、十二使徒からではなく、神はパリサイ派の将来を担うはずの若き逸材にして最大の迫害者サウルを召し出されました。律法を完成させ、そのくびきから解き放つためには最も律法に精通し、迫害の中心人物を召し出されるとは、何という驚くべき神の知恵でしょうか。

 

パウロがどれほど神を愛したかということですが、パウロの通らされた道は、常人では到底耐えられないほどの迫害に次ぐ迫害の道でした。そのことは2コリント11:22ー28にある通り、39のむち打ちが五度、ローマ式のむち打ちが三度。彼の背中はどんな背中になっていたのでしょうか。他にも数多くの難があり、死んだと思われるまで石で打たれたことさえあります。これらはほとんどが彼が愛する同胞ユダヤ人からのもので、まさにダマスコでアナニヤに語られた「彼が私の名のためにどんなに苦しまなければならないか」そのままの道でした。

そのパウロが本日の聖書箇所で何と言っているでしょうか。「神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、(神を愛する人たち=)私たちは知っています」と証しているのです。
さらにこの章の最後(ロマ8:39)でパウロは「(世の力による、どれほどの困難があろうと・・・・の意味で)私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と宣言しています。信じられないほどの迫害と困難さの中にあって苦しめられていても、パウロは神の愛の中に生きていました。そしてパウロは神をこころから愛し、愛によってすべてをささげ尽くし、生涯を全うしました。神の愛を知り、その愛の中で育った者は例外なく神を愛し、その愛の力は想像を絶するものであったことがわかります。
先ず神が私たちを十字架で愛してくださり、その愛を真に受けた者だけが神を愛するのです。この逆はありません。自分の罪がわかり、神のあわれみがわかること、これがスタートです。

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