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神の愛

2023年8月20日 (日)

刈り込まれた者

ヘブル 12章6節   2017新改訳

主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。
 
神は愛する者を刈り込まれる。その刈り込みとは何か?
 家の庭が、伸び放題の木や高い雑草で覆われていたら、その家は空き家に見えます。もしそれが自宅だったら恥ずかしく思うだろう。自然のまま放っておけば、必ずそうなるものだ。そこで刈り込んで手入れする。樹木には痛いことであろうが、結果として美しくなり、風通しが良く、病害虫も防いで生長も良くなる。手入れされることは美しく快適で、持ち主の庭への愛を感じる。

 これは神と人との関係に同じことが言える。天地万物を造られた神は、人をその管理者として置かれた。しかし人もまた神の被造物であって、自然のままでなく刈り込みを受け、整えられなければ野性のままである。刈り込みを受ける人は、神に愛されているのである。
 私たちクリスチャンへの刈り込みとは、真に神を「主」とするための試練困難のことである。肉のクリスチャンはいつまでも自分が主であり、逆に神をしもべとしていることに気付かない。人間の努力や力では、真に神を主とすることは困難なのだ。そこで神は愛する者に刈り込みをされるのである。神からの刈り込みによって、自分自身の誇りや高ぶりが打ち砕かれ、人ははじめてへりくだって自分の人生を神に明け渡し、神を文字通り主とすることができる。

 イエス・キリストは弟子たちに重ねて次のように教えた。(ヨハネ 12章24~25)
 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

 刈り込まれた者は、父の愛を知り、父を愛し、慕う。喜んで自分を神に捧げ、「主」として聞き従うようになる。自分がどんなに肉の人間であったかを知って、心から悔い改める。そして初めて平安を得る。刈り込みを恐れてはならない。それは神を信頼していないことになる。アブラハムに神が「子イサクを燔祭として捧げよ」と言われた時、神はアブラハムが実際に捧げる信仰があるのを確信していたと私は信じる。できないことを神は試されたり、困難に陥れられない。全知全能の神に失敗はなく、すべては愛する者をより愛そうと、愛から発しているのだから。

 私たち人間は刈り込まれることによって、真に神との正しい関係に入り、神の愛の内に憩い、喜び、御心を何としてでも行いたい熱意を持つ。肉の果てる命に優る永遠の霊のいのちは、その人の中で宮となり、栄光の神の計画と共に歩む。刈り込まれた者は、世では惨めで呪われた者に映るかも知れないが、実際には素晴らしい恵みであり祝福された人のことである。

2023年8月13日 (日)

Restart (再出発)

申命記 6章4~5節   2017新改訳

聞け、イスラエルよ。は私たちの神。は唯一である。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、を愛しなさい。

 本日はちょうど13年前の15日(日)、船橋に着任後、勤労市民センターセンターで初めての礼拝を持った日になります。その時の出席者は牧師夫妻にK姉、つまり今日のメンバーそのままでした。そしてなんということでしょうか、あらゆる面で、再びここから14年目に向けて原点に戻っての再出発をすることになりました。「原点に戻って」とは、それまでいた教会員が主日礼拝直前に、創設時のメンバーにまで減らされ戻されたということです。
 こんな偶然があるものでしょうか。私は心中不安覚えて(※三つの無い)祈っていたものの、具体的は何らそのことにお応えや指示はなく、脱会通告が一斉に来てはじめてことの成り行きを知りました。SNSを同時に閉鎖されたので遺留のための対応は不可能でした。ですからちょうど14年目の出発というタイミングで、最終的に残されたメンバーが最初の三人であったことなど、これが神のみこころであり、「ここから再出発をせよ」の指示であることをはっきりと受け取るのです。

 ひとことだけここで確認しておきたいことがあります。出られた姉妹が退会理由として、TLEAのことを異端であり、カルトだと断定されました。これはまったく誤った判断です。こんな一方的な思い込みによる自分の判断と主張をし、それに対する相手の言葉は一切聞かないというのは、取り返しのつかない過ちをされている恐れがあります。
 異端とはキリスト教と称していても、使徒信条で特に触れられている神であるイエス・キリストを認めない教団・教会を指します。三位一体を前提とするキリスト教から逸脱しているわけです。エホバの証人や旧統一原理などがこれに当たります。
 次にカルトというのは、カリスマ的指導者を中心とするマインドコントロール中心の集まりを指し、現在では犯罪行為を犯すような反社会的な宗教団体を指して言います。確かにTLEAは偏見を持ち外見だけを見るのであれば、一見そのように見間違う人がいるかも知れません。しかし別にマインドコントロールがあるわけではなく、信仰と聖霊にもとづく歩みが実体なのです。ですから私たちはカルト教団ではありません。実際いつでも退会は自由です。そしてカリスマ派、ペンテコステ派など、全ての聖霊派の教会に言えることですが、どうしてもリーダーにはカリスマ的傾向はあるのですが、問題はそこに神の臨在があるのかという点であり、各人に与えられた賜物が正しく運用されているかどうかです。

 本日からこの船橋キリスト教会は14年目の働きに入ります。神はこの地に私たちを立てさせ、ご自分の証人として用い、日本のリバイバルに用いると語っておられます。したがってこれまでの13年間は、霊的にですが、イスラエルの民がシナイの荒野で訓練を受け、約束の地を獲ち取る戦士にされたような期間であったと考えましょう。さあ、Restartの賛美に載せて、この約束の地を占領しましょう。

2023年4月30日 (日)

まことのブドウの木 Part2

ヨハネ 15章1節  2017新改訳

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。

 イエス様は、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」(ヨハネ15章1節)と言われました。この「まことの」とは英語でtrueになり、真実の、本当のと言う意味であることは先週お話ししました。

 ご承知のとおり、ぶどうの実は大地を通し、幹と枝を通しての豊かな滋養を受けなければ実ることはできません。大地を耕やし豊かにされているのは農夫である神、その大地の栄養はぶどうという木であるイエス様を通し聖霊として吸い上げられ、幹から枝を通してぶどうの房への養分として注がれて行く。では実とは何でしょう?聖霊様の働きによる<愛>では無いでしょうか。ぶどうの一粒一粒の実とは、その愛の現れだと言えます。
 つまり誰であっても神とイエス様を通してでなければ、また聖霊様を通してでなければ誰一人、証しとなる実、またその実がもたらす永遠のいのちと言う<実>を得ることはできないのです。Img_1194_20230506204901

 そして今回特に示されたのは、大粒の実を実らすための刈り込みを<行うのは誰か?>ということです。

「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」 (ヨハネの福音書 15章2節)

 神です。考えてもみてください。ヨブに考えられないほどの困難を許されたのは神です。全知全能の神にしか許可を与えることはできないのです。逆に言えば、刈り込みは直接神が選ばれた、愛された人であって、その結果も完全に見通された絶対的なものだと言うことです。ですから刈り込みにあった人は、そのことに甘んじ、感謝し、下記の(ヨブ記 1章21節)のように告白しましょう。

そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

 

 

 

 

2023年4月23日 (日)

まことのブドウの木

ヨハネ 15章1節   2017新改訳

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。

 イエス様は「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」(ヨハネ15章1節)と言われました。この「まことの」とは英語でtrueになり、真実の、本当のと言う意味です。ご承知のとおり、ぶどうの実は大地を通し、幹と枝を通しての豊かな滋養を受けなければ実ることはできません。

 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。(ヨハネ10章11節・15節)
 このイエス様こそ真の牧者であり、私たちに滋養を注ぎ入れてくださる方です。世界には色々な宗教があると思いますが、教祖が自分の民のために死ぬなんて宗教は他にありません。どこも崇高な死に方をされているのですが、キリストだけは全く別な最後を遂げられました。
 それは当時の宗教的な権力者によって極悪な犯罪人として殺されるという、壮烈な最後でした。彼らこそ、真っ先にイエス様を神として崇め、仕えなければならなかったはずの人々だったのです。このことを、虚飾と書き換えの無い聖書が証しています。この真の神は、あらかじめ予告しておられただけでなく、次のことから真実であることがわかっています。

   ⭐️四千年も前からの最も古くから在る神
   ⭐️最も多くの人類が信じている神
   ⭐️神自らが、人のために命を捨てた神
   ⭐️復活によって罪と死を滅ぼした神           以上で、この方が真の神とわかるのです。

 しかし私たちがキリストの神を信じたのは、修行などの努力で得たわけでも、色々な雑念を捨て自分を超えることができたからでもありません。また、ひどく良心があり自分がはっきりとゲヘナに行く罪人だと悟ったからでもないでしょう。

 私たちがイエス様が神であることがわかったのは、ただ神のあわれみであり、あらかじめ選ばれていただけのことなのです。信じるまでは、あるいは信じても聖霊をうけるまでは、この世の人とは、何も変わるところはなかったのです。ただ一つ、時が来た時、私たちはこの方が真実の神であることを信じたのです。それは自分の力ではないことは明白です。

 ただ、麦は麦の実を結びますが、毒麦は毒麦の実を結びます。実によって真か偽りかを判断できるのです。私たちが救われたのは、すべて神の御心に拠るのです。決して高ぶることの無いようにしましょう。

2023年1月29日 (日)

神のあわれみに生きる

出エジプト 34章6~7節   2017新改訳

は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、
恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」

 ある時「神はあわれみ深いというけど、私にはよくわからない」という声を以前聞きました。しかし神ご自身で自己紹介されたこの御言葉を読むと、いの一番に「あわれみ深い」が出て来るのです。つまりあわれみがわからなければ、神がわからない、ということになりかねません。これは一大事ですので、本日はこのあわれみについて、共に学び、その恵みを分かち合って行きたいと思います。
 まず<あわれみ>とは<子宮>を意味する言葉でもあるようです。子を宿した母は、我が子の成長と誕生を心から願う存在です。胎の中で安心し、スクスク育つ我が子のためには、どんなことでもしようと強く思うのが母性です。私たちの神も同様です。
 またそのような神が私たちに対して、主観的な激しい心の思いを持つのが当然です。神を信じない者は、子なのに親に向かって「あなたは親と違う」と言っているようなものです。神を信じない人たちは、どれほど神を悲しませ苦しめていることでしょうか。

 罪がわからない人がいます。また、自分の真の姿がわからず、聖書の罪とはどういうものなのか、理解に苦しむ人がいます。さらに自分が本当は罪そのものなので、罪を認めると自分の価値や生きてきた意味が無くなる・・・そんな恐ろしいことなんてできない人もいることでしょう。いずれにしても、実際に行動として犯罪を犯さなくても、人の心の中は欲望や妬み、よこしまな思いで満ちており、神にそぐわない本質的に罪の存在なのです。本当の自分の姿を見たくない思いに乗じて、世の霊、悪霊はあなたを世の見方で持ち上げ、真の自分の姿から遠ざけ、偽り、あたかもいい者のようにだましているのです。

 しかし神の愛は聖霊によって聖を示し、目を覚ませます。聖霊によって自分の真の罪の姿が分かった時、私たちはまず、自分の力できよくなろうとします。修行とか精進とか戒律や律法を守るとか、断食とかをするのです。しかしそれで自分が清くなる目的を達した人はまず居ないと思われます。絶望した者は最後にどうするでしょうか。<あわれみ深い神にあわれみを請う>しか他に道はないのです。神はあわれみ深い方ですので、ここに至って、そのような人々を惜しみなくあわれんでくださるのです。
 あわれんでもらった人は、自分の力できよめられたのではありませんから、誇ることはできません。すべての栄光を神に帰すのです。もしきよめられれば、ますます神を畏れ敬うことでしょう。

2022年12月11日 (日)

父の愛

ヘブル 12章6節   2017新改訳

主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。

5:「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。
6:主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子にむちを加えられるのだから。」
7:訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。

 多くの人にとって神のイメージは、穏やかで優しく、怒るに遅くすべてを受け入れ赦してくださるといったものでしょうか。しかし同時に神は義であり聖であるので、罪に関わる一切は赦されても、罪を犯し続ける罪性まで受け入れられることは決してありません。

 ですから神はご自分の子に対して、例外なく訓練をされます。それは当然です。なぜなら私たち血肉の体を持つ者は、例外なく罪人であり、十字架の恵みに与ったとしても、容易には罪の性質から逃れられないからです。もしその罪の性質のまま天国に入ったとしたら、聖と義を汚し、即外の暗闇に追放されてしまうことになるでしょう。根本的に、新しく作り変えられなければならないのです。

 しかしそれは自分の力、努力、修行、精進とかの類では不可能です。根本的に自己愛から逃れられない人間の弱さ、罪深さがあります。ですからこれは神の力に依るしかないのです。これこそ「神の試練」であり、一人一人に注がれている神の愛です。試練に苦しんでいる我が子に対し、親は子以上に辛い思いしますが、その後のはるかに素晴らしい結果を知って耐えてくださっているのは神です。
 従って神からは訓練があり、時にはムチがくだされます。聖訓練を通らされています。アブラハムは生涯、イサクと墓地以外、約束のものを得ることはありませんでした。 ヤコブやヨセフ、モーセやダビデに至るまで、彼らに訓練が止むことはありませんでした。新約の時代においてすら、ペテロやパウロは常に迫害や困難な中に生きてきました。神からの試練は全能の確かな守りがあり、確実に成功することを信じなければなりません。

 しかし皆さん安心してください。神は全知全能な方ですから、赤ちゃんや幼な子に訓練やムチはありません。ちゃんと成長段階に従って訓練されます。また大事なことですが、基本的に志願制だと言うことです。神の御心を行いたい熱い愛にある方と、神の御心の人にあるのであって、望まない方にはありません。
 ですから試練にある方は喜んでください。あなたは神に愛されている子であり、神の国はあなたのものなのです。

2022年11月20日 (日)

キリストの律法

ガラテヤ 6章2節   2017新改訳

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。

 福音書の中でイエス様はパリサイ人と律法学者たちという、当時の指導者層を厳しく非難されています。イエス様は「愛と赦し」のイメージが強いのですが、これをどう受け取ったらよいのか、いまいち理解できていないクリスチャンが多いのではないでしょうか。
 この時代は預言者が現れていない四百年であり、問題や困難を解決し、人々に指針を与える神の言葉が失われていた時代だと言えるでしょう。イスラエルの人々はこの間、人々は神の声を聞く代わりに、ひたすら律法を細かく生活に適用した、口伝律法を守ることが救いであるかのように誤解し、人によって作られた律法を厳密に守ることが、神の国に行ける唯一の道になるました。

 しかしここに大きな問題が生じました。それは細かな決まりを守ることに忠実なあまり、木を見て森を見ずのような、律法のそもそもの精神が失われて行ったのです。律法の究極は「神を愛し、隣人を愛する」ですが、「良きサマリア人」のように、決まりを守ってさえいれば天国に行けるわけなので、対象の相手、隣人を見ることがなくなったのです。これでは本末転倒です。どんな善行も相手のためではなく、自分が律法を守っているかだけがポイントなのです。これでは、神に近づくための律法が、ますます生ける神との出会いを失って行くという、皮肉な結果になっていくのです。ですからイエス様が「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない」(マタイ23:13)と非難されるのも当然だったのです。

 このような中で来られたイエス様は、古い律法を成就させ、新しい契約、新しい律法を私たちに与えてくださいました。それは「神を愛し、隣人を愛する」はよく似ていますが、根本的な土台が全く異なっているのです。それは十字架を信じた者の罪を赦すことでした。なぜそれが決定的に重要であるかというと、聖なる聖霊様は罪とは同居できない点にあります。人に入れなければ、その人と聖霊は関係ありません。神である聖霊の「愛」「導き」が働かないのです。その力を発揮されません。従って新しい契約では、「キリストの律法」は、人の力によってではなく、神の力によって成就していくという、土台変換が行われることになり、私たちクリスチャンはますます神を讃え、御名を崇めるのです。  参考(ロマ10:4)(ロマ10:4)

 それゆえ、私たちは「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」 (ガラテヤ6:2)という御言葉を、神の愛によって行う者になっていきましょう。

2022年10月 9日 (日)

あわれみを受けて

Ⅱコリント4章1節   2017新改訳

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。

 クリスチャン各々に、それぞれ神さまへの思いや見方があると思います。私に関して言えば、私の一番神さまのお人柄、いや神柄何ですが、それはこ2コリ5章で言っている「あわれみ」深いお方だと感じています。神は完全な義にして聖なるお方ですから、私たち人間が99の良いこと、義を行っても、1つの悪いこと、つまり正しくない罪があれば、神はその人を受け入れることがお出来にならず、神の前での審きではアウトなりますし、ゲヘナ行きとなります。
 これは苛烈に聞こえるかも知れませんが、おにぎりに、たった一粒でも腐ったものが混じっていようものなら、そのおにぎりは食べられないようなものです。その実例がエジプトから脱出した何百万のイスラエルの民の内、約束の地に入れたのがたった二人だけであったことです。
 しかしそれを何倍にも補って余りあるものが、「あわれみ深い愛」が神さまであることはどうでしょうか?これが神さまの本質だと聖書は念を押しています。そうでなければ人は何のために創られたのでしょうか。人は神からあわれまれ、愛されるために創造されたのですから。神のあわれみと愛によって、私たちは黒い体を赦されて真っ白にしていただき、天のエルサレムの一員とされるのです。しかり、私たちはこの恵みの時代に生きているのです。   
 はっきり申し上げて、神のこの「あわれみ」が分からない方は、たとえ自分はクリスチャンだといくら自称されていても、ひょっとして<救われていない>可能性があります。なぜでしょうか?それはあわれまれなければならない、ご自身の罪が分かっておいでにならないということになり、おそらくその人にとって、十字架の赦しも無効になっていると思われるからです。

 逆に自身の罪が万死に当たり、ゲヘナ行きが当然だと分かるのであれば、十字架はその人のいのちそのものになることでしょう。なぜなら愛されるに値しない自分がいて、絶大な神がいのちを捨てて愛してくださった・・・このあわれみとしか言いようのない、神の愛を実感することでしょう。その上で、罪が遮断していた神との交わり・・・その人にある聖霊の宮を通して・・・の深まりが増すに連れ、それがますます強固にされ、神を愛するこころにより、遂には父の御心を行うことがその人にとって全てとなり、喜びとなります。
 あわれみを受け、値しない者からの神への愛こそ、最も神が喜ばれることです。

2022年10月 2日 (日)

愛がなければ

Ⅰコリント13章1-3節   2017新改訳

たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちませ。。

 本日の聖書日課の箇所ですが、そこには異言や預言の賜物、あるいは全財産を施しての献身や殉教、あるいは山を動かすほどの信仰があっても、そこに愛がなければ(but have not Love)空しく意味がない断言しています。

 私たちの群れでは次章の「熱心に求めなさい」から、礼拝で単に預言するだけでなく、神学校で預言者クラスを作り、預言を熱心に求め、学び、練習し続けています。しかし注意すべきことに、聖書でパウロはそれらの前にまずもって「愛を追い求めなさい」と指示しているのです。KJV的には愛を追い求めなさい(Pursue)、賜物は望みなさい(desire)と求め方にも差をつけています。愛なくしては、御霊の賜物や信仰の行いは意味を為さない空しいものになる、この聖書の御言葉をどれほど私たちは認識し、正面から向き合っているのだろうかと気になる。

「愛を追い求めなさい」とは、具体的には何であろうか。なぜか掴みどころがないように見え、それゆえ賜物ほど具体的に求められていないかのように見える。けれども聖書の時代、それは誰にも分かる共通のイメージを持った言葉であったはずだ。それが明確に認識できないのであれば、考えられないことだが、《愛》を知らず、直接触れてもいない実態があって思い間違いをしているのかも知れない。

 では《愛》とは何か?多くの人は「人を深く心から大切に思う」「自分以上に愛すること」だと思うかも知れない。しかし私はそれこそ聖書の《愛》を知らないことから来ていると思う。言葉としてはそのように言えても、それは単なる抽象的な概念である。だから分からなくなっているのではないか。<愛>とは先ずもって神に愛され、その神に対する愛に他ならない。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい マタイ22:37など」と主イエスは私たちに最も大切な戒めとして教えている。
 なぜなら神の本質は愛であって、ヨハネは「神は愛 1ヨハネ4:8or16」と断言しました。聖霊のバプテスマを受け、神に触れられたならば、これが骨の髄まで分かります。従って自分のいのちを憎み、死に、自分以上に神を愛する者に変えられるのです。これは聖霊の力であって、人のものではありません。神を愛せない者は未だ神の内にいないか、知っていない者です。

 愛とは個人的な関係のことであり、個人的、具体的な交わりです。夫婦や親子のように、交わりを通して愛は深く強固なものに変えられ強められます。交わりのない愛は存在しません。十字架でのいのちを持って愛して下さった神に、人に過ぎない者が、自分の血肉の命以上に愛するようになるのは、当然のことではないでしょうか。

2022年9月11日 (日)

神の奴隷

ローマ 6章22節   新改訳2017

しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。

 人は自覚しようがしていまいが、生来人は罪の奴隷である(※原罪とも言う)。ただ、キリストを信じ、罪の奴隷から、神の奴隷に替えていただける場合がある。もちろんそれは新主人となる神の意向次第なのだが、最後に買われていく奴隷側にも受諾の意思を確認される機会がある。それが信仰告白なのだ。多くのクリスチャンが勘違いしているかも知れないが、罪の奴隷から解放され、自由となって晴れて好きなように自分が生きていく、そんなことはあり得ない。確かに聖書ガラテヤ5章には「自由を得させるために」とありますが、それは主にある自由であって、「堅く(※信仰に)立って、再び奴隷のくびきを負わされないように」とある通りである。

 ひと昔前の奴隷時代、奴隷はその主人によって人生のすべてが大きく左右されていた。良い主人にであるならば、たとえ奴隷から解放される機会があったとしても、生きていく手段を持たなければ、生涯を奴隷として生きる選択をする者も多かったようだ。家族が居ればなおさらである。罪の奴隷から神とキリストの奴隷へと替わることは、ただ買い取られて持ち主が変わるだけでなく、あり得ない恵み、主人の嗣子(跡取りの養子)にと劇的な変化が伴う。さらに驚くべきことに、この主人キリストは、私を買い取るために自らを差し出し、贖(あがな)いの十字架に架かって苦しみの極みで死んでくださったのだ。キリストにあがなわれて、神のものとなった私たちは、罪の奴隷から解放されて自由になった心で、今度はキリストに自分を感謝し、キリストを愛し、すすんで自分を捧げる決心をし、その御心を行う忠実なしもべ奴隷として新たに生きるようになった存在である。これを新生という。ただ、これには三位一体のもう一つの神、聖霊体験が伴わないと実際的な効力が伴わない。

聖書でパウロはローマ1章1節、テトス1章1節で、またヤコブも1章1節で、bondservant(希doulas)と言う、奴隷という言葉を使っている。この言葉を使うからには、彼らも又、以前は罪の奴隷であったことを意識していたことが分かる。罪奴隷である意識が無いところに福音も悔い改めも届かず、新しい主人を歓迎し、その奴隷にすすんでなる気にはならないだろう。罪の意識は、その人に神があらかじめ<聖>を入れておいてくださるからこそ、自分の闇である<罪>が分かるのだ(ローマ8章30)。その意味で私たちは選ばれた存在であり、神に感謝を捧げ、自分たちを誇ることはできない。すべていのちある者は主を賛美せよ!

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