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愛なる神

2017年4月23日 (日)

神の愛

Ⅰヨハネ 4章19節
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
 
 主イエスやペテロやヨハネは皆、同じことを言っています。神は愛であること、そして信じる者は神を愛することです。なぜ神を愛するのでしょうか。神がまず愛してくださったからです。その絶大な愛に、信頼し、悔い改めて応答する者となるからです。
 
 もう一つ、詳しく神を愛することを見るなら、それは≪本来地獄行きの己の罪が(十字架の贖いによって)赦され、その負債を免除され(救われ)たどころか、子として永遠の命を与えられた≫からです。
 
 この赦されることについて、私はどうしてもルカ7章後半にある、罪深い女の話を思い出します。この女は通常であれば、イエス様に近づくことすらできなかった存在でした。しかしイエス様を招きながら、試そうとしたために見逃されました。女はイエス様の背後から近づき、その足を自分の涙で濡らし(どれほど多くの涙が出たことでしょう!)、自分の髪で汚れを拭き、御足に接吻した上で、おそらくは自分が一番大切にしていた最大の財産、御足を香油で塗りました。
 
辺りで知らぬ者のいない罪深い女。もう十分に辱められ、見下された罪深い女。しかし当時の社会では、女が働いて生きる仕事は他になかったのです。この世で自分の命にも等しいような香油を捧げた女は、イエス様の神性が分からなかった宗教の専門家パリサイ人に対し、それをはるかに理解していただけでなく、卑しめられたこの世ではなく、赦されて神の国への希望と信仰が圧倒的にあったのです。
 
 女のなすがままにされていることをいぶかしんでいるシモンに、ついにイエス様は言われます。金貸しから借金を全部許してもらった(そんなことはあり得ないことですが)二人のうち、一人は現代で言えば50万円、もう一人は500万円相当でしたが、「どちらが多く金貸しを愛するようになるか」と。
 
深刻な罪意識を持つことは、十字架の主イエスのところに行くことによって、多く赦され、多く愛するようになる恵みの道でした。神を愛する者は、多く赦されなければならない者でしたし、神の子とされた今となっては、かつて罪深い自分であったことが宝となりました。神を愛することは、すべての罪をおおうだけでなく、何があって奪われることのない天の宝です。
 このことは「愛のない者に、神はわかりません(1ヨハ4:8)」とあるとおりで、神を愛する者は兄弟をも愛するのです。

2017年3月26日 (日)

キリストと共に死ぬ恵み

ガラテヤ 2章20節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 
 この火曜日のブログで私は母との思い出を書きました。書いていて思い出したことは、「人は自分が誰かに必要とされ、それで生きていける」ということでした。その間の詳しい事情をすべて省きますが、五十歳にして家族を失い、やむなく母のアルツハイマー症の介護を兼ねて実家に帰った私の心はボロボロでした。しかしそれも数年経つと、病の進行で母は施設に入ることになりました。
 
 すると、誰も居なくなった実家に、自分一人がポツンと居ることになりまして・・・そのような経験がお有りでしょうか? あればご理解いただけるでしょう。誰も私を必要としない、されていない状況に置かれ、虚しさ、淋しさに私は本当におかしくなってしまったのです。仕事はありましたが、私が居なくてもすぐに代替者が来ます。しかし家族の代替者は居ません。家族を失い世話をしていた肉親まで・・・私の喪失感は極まったのです。
 
 私はクリスチャンですので自殺できず、自棄(やけ)になって自分をダメにしたい衝動に駆られるようになりました。そんな人生の最大の危機的な時、どん底の闇の中の私に、神のあわれみが注がれ、光が射す時が来たのです。
「私はあなたをずっと愛していた・・・」神の語りかけは突然でした。そしてその言葉は、私を瞬間的にいっさいがっさい、完全に変えたのです。誰からも必要とされなかったのでは無かったのです。神がこのウジ虫のような罪人の私を愛し、私のために十字架に架かってくださった・・・こんな愛ってあるでしょうか。この愛は、たとえこの世で命を失おうとも、失われることがない永遠の愛です。恐れ多いことですが、天地万物を造られた神から、私は必要とされ愛されていたのです。
 
 このことはへブル2:14でキリストが十字架で死の力、死の恐怖、サタンの縄目から私たちを解放してくださったと書かれてあるように、本当でした。それまで三十年もクリスチャンでしたが、それを自分のこととして受け取れていませんでした。
 
 それ故真に神を信じる私たちは告白しましょう
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちにいきておられるのです」と。
 
 こうして私は新しく生きる者となり、虚しさとサタンから解放され、真に生きる喜びを覚える者とされました。みなさん、これがほんとうに生きていると言うことです。誰も、死をもこれを奪うことができません。永遠の愛です。苦しめられた者は幸いです。神の愛を知るからです。神のあわれみに感謝しましょう。

2016年12月25日 (日)

受肉された神

ルカの福音書 1章37節 
神にとって不可能なことは一つもありません
  私たちの神とはどのようなお方なのでしょうか?また、どのようにして私たちは神さまと交われるのしょうか?

 キリスト教など一神教には、偶像がありません。神のすべては、この聖書に不足なく明らかにされています。ですからクリスチャンで神さまのことを知りたい方は、まず神さまのどこを知りたいかを心を尽くし、祈りをもって聖書を読んでいただきたいと思います。求める者に神は必ず答えてくださいます。または、あなたの教会の牧師に聞きましょう。使徒8:31でカンダケに神がピリポを遣わされたような助けが、あなたにもたらされるかも知れません。
 付け加えますと、このことにちゃんと神は備えてくださいました。それは人となられた神、イエス・キリストです。今から二千年前、人となってくださった神を見ればよいのです。
 
 今日は12月25日。諸人こぞりてキリストの生誕をお祝いする日です。イエス・キリストは処女マリヤからお生まれになりました。天使ガブリエルからこのことを聞いて、あり得ないと思ったマリヤに対して天使ガブリエルが言った言葉が「神に不可能はない」と言うことばでした。全能の神にとって、聖霊によって処女マリヤから生まれることなど、簡単なことでしょう。しかし神は霊でした。その霊なる方が次元の低い不自由な肉の体をお持ちになった、このことに示された神の愛と計画が、処女云々より人間の理解を超えた、恵みの真の大奇跡でした。
 
 イエス・キリストという人となり、また為されたことがらについて、四つもの福音書で詳しく述べられています。嵐を静め、湖の水の上を歩き、五千人と六千人の給食を二匹の魚と五つのパンから為された。あらゆる病や精神の病をいやされ、罪人を赦し、弟子たちを訓練し、万人を愛された。これらの他にどのようなお方であったかを知るには、山上の垂訓と呼ばれるマタイ五章が参考になります。弱い者、貧しい者、悲しい者に寄り添い、あわれみ深いお方でした。また18:2にあるように、当時は無価値な者とされていた子どもを愛された。このように同7:11にある、神の御心というものを私たちに見せ、伝えてくださったのです。
 
 イエス様ご本人に関して言えば、ガラテヤ5:22-23「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」にある聖霊の実そのものを実際に現してくださったのもイエス様です。その上、十字架によって死に、復活されたすべてが、人間を愛してやまない神の御性質を現しておられるのです。信じるあなたのただ中に、イエス様の霊、三位一体の神である聖霊さまがお住みになっておられます。己の内に住みたまう神さまを確信し、心から祈れば、神はその祈りに答え、必ずご自身を示して答えてくださることでしょう。

2016年10月 9日 (日)

神を愛する理由

マルコ10章38節
 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
 この箇所はこの世の地位のように、ゼベダイの子であるヤコブとヨハネが、神の国での最高の地位をイエス様に求めたところです。「一人をイエスの右に、もう一人を左に」。これを聞いて他の弟子たちが憤慨しないはずがありません。とは言ってもこの兄弟、告白通り兄は殉教し、弟は流刑という生涯を送りました。本日私が着目したいのは、兄弟の願いに対し、イエス様が「あなた方は自分が何を求めているのか、わかっていないのです」と言われことです。
 
 これには二つの意味があると思われます。一つはイエスの座の隣にという、その高さに見合う地上での過酷な試練を覚悟してのことか?ということ。兄弟の決心は確かに合格点でしたが、「御心に従うことが最善」の段階には至っていなかったのです。
もう一つには、地上の価値観で、つまり「上座が偉い」と天を推し量った誤りです。天ではこの世と反対に、仕えられる者より仕える者の方が高い地位を有するのだと主は諭されています。私たちの願いは目先のものであり、御心と異なるものなのです。
 
 祈りについて考えますと、幼児のような初期段階として、何でも求める段階があり、成長すると、神を知り、愛し、信頼するという段階に至ります。さらに御心を行いたいと祈り求める主に召されての献身者の段階があります。主の同労者として迫害や困難にも聞き従って、栄光の主を証しします。
どの段階においても祈りが決定的に重要ですが、皆様にお伝えしたいことは、ヤコブとヨハネのように、私たちも神に祈り求めますが、「何を求めているのか、わかっていない」祈りの状況にとどまっている可能性が高いことです。私たちが願っているあらゆることは、すでに主はご存知なのです。
 
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(マタイ6:26)
このように、世のことで思い煩っているのが私たちであるとしたら、ではいったい私たちは何を神に求めて祈るべきなのでしょうか?主は明確に示されます。
 
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
(マタイ12:30)
 私たちは、父なる神を「全力を尽くして愛せるように」祈れるなら、それは御心です。子が親に反抗し、忘恩の言葉をいかに吐いたとしても、親の愛は微動だにしません。そのことに気がついた子が為すべきことは、悔い改め、親孝行、つまり親に仕えることです。この世での、私たちの祈りで最も大切なことは、心を尽くし、思いを尽くし、知性と力を尽くして神を愛せるよう祈ることです。

2016年8月14日 (日)

神の愛

Ⅰヨハネ 4章16節
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

 人はよく次のようなことをつぶやきます。私はひどい人間だ。徹底した自己中心でエゴイスト。自分よりも神を、隣人を大切にすることが愛なら、自分は一度だって人を愛したことはない。自分は人前では取り繕っているが、偽善家で情けない人間だ。だからこんな自分は誰からも愛される資格はない。しかも取り柄のない不出来な失敗作の自分だ。他の人よりすぐれたところなど何もないない。こんな自分はきっと生きていても、迷惑な存在なのだ。神だって、こんな人間を愛するなんてできるわけがない・・・・と。
 
 しかし神はあなたを、母の胎の前から知っておられ、選んで母の胎の中で形造られたのです。ですから神はあなたをあなた自身よりよく知っておられるのです。私たちの罪の状態も、救いようのない心の状態も、そして今の心もすべてご存知なのです。それだけではありません。全知と言って、神は生まれる前も、今も、そしてあなたの人生の終わりまでご存知です。その方があなたを愛していると言われているのです。
 
 当然、神はあなたが自分で失敗作だと思っていようがいまいが、あなたを造られた方なのですから、そのあるがままを知っておられ受け入れて、愛していてくださっています。人間の親ですら、生まれて来た我が子が不出来だろうと、問題があろうと、この子は自分の子でないなどとは決して言わないでしょう。ですから神はあなたを決して見捨てられませんし、その愛が変わることがありません。これを信じることで、私たちは子としての実質を受け取ることができ、人生を最高のものとしてくださる特権をゲットするのです。
 
 ただ神さまは聖い方ですから、過失はともかく、導かれた悪い所、神さまの方に向いていなくて犯した罪は悔い改めてください。神は十字架のあわれみで必ず赦してくださいます。
 次に試練のことですが、自分に子どもが出来るとよく分かります。親としてはわが子に最高の人生を送って欲しいと願います。愛しているからです。それで生きていくのに必要な勉強が出来なければできるよう、一生懸命励ましたり、注意したりします。でも「あれっ」と思うわけです。自分の時はこうまで熱心ではなかった、と。神さまも同じです。最高の人生を私たちに送らせたいので、励ましたり、注意したり、懲らしめたり(ロマ 2;4、黙示3:19 )されるのです。そのような訓練、試練を与えられず、放任されたままであったら、それは実の子とは言えません 【ヘブル12:8】。
 
神さまは私たちに最高の人生を送って欲しいと願っておられ、その愛が私たちに注がれているのです。しかもミスの多い人間の親と違って、神の守りは完全です。聖書に繰り返しあるように、神は人間を愛していてくださるのです。そうなると私たちの側では神の愛を「信じる」と言うことが、何をさておいても重要となります。ただ一つお願いです、わたしたちはこの神の愛から、決して逃げ出したり、途中下車してはいけないのです。

2016年6月19日 (日)

神にあわれまれているうちに

ローマ 9章15節
 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。

 我が国で最も成功した武将と言えば、徳川家康でしょう。その家康が生涯肌身離さず持っていた一枚の絵、それがご覧の家康しかみ像です。Photo_2 常人なら失敗は、少しでも速く忘れて思い出したくないことでしょう。しかし家康の成功は、謙虚に自分の失敗を教訓とし、戒めたことだったのです。

 イスラエルの人物中、もっとも祝福された人物はダビデです。イスラエル史上最大の領土を得て、子々孫々に至るまで王座を神に約束されました。ではダビデという人物が完璧な人であったかというと、逆に失敗の多い人でもありました。バテ・シェバのこと、民の数を数えたこと、子育ての父親として不甲斐ない父であったこと・・・・などです。今日はさらにその上塗りとして、致命的とも言えるミスを挙げましょう。それはダビデがサウル王から逃れるために、亡命先としてペリシテのガテの王アキシュに頼ったことです。
 
 この時のダビデはサウル王に追われ、イスラエル内では自分の命が守れないと判断したのです。この時、明らかにダビデは神様の加護よりも サウル王を恐れていました。
 しかしこれは窮地に陥ったこととは言え、みすみす仇敵の手に陥る愚か極まりない選択でした。ペリシテの英雄ゴリアテを倒し、サウルは千、ダビデは万と謳われたダビデをそのままにするはずがないからです。その絶体絶命の危機が、詩編34や56に歌として「捕らえられ、一日中殺されそうになった」と自ら綴っています。しかしこのピンチの結果は、単なる追放で終わるのですが、ダビデはこれがハッキリと「神の護り」であることを知っていたのです。そしてダビデはこの最大の失敗を徹底的に悔い改めるため、詩編にし、幾度も幾度も歌い、歌わせ自分に言い聞かました。
 
 ですからみなさん、過ちや失敗にも神の護りがあるのです。大切なことは悔い改め、そこから学び、神により頼み、堅く信仰に立つことです。失敗を生かすことです。試練はこのためにあるのかも知れません。失敗を以後二度と繰り返さないよう絵にし、歌にし、生かすならば、神に喜ばれ、ますます祝福される基となるのです。あなたの人生での失敗を益に変えましょう。それは失敗や過ちを記憶から消し去り、忘れようとするのではなく、逆です、大いに明らかにして学び、護ってくださった神に栄光を帰すのです。神はあわれもうとする者をあわれみ、恵もうとされる者を恵まれるのです。神の祝福の分かれ目は、自分を守るのか、それとも守らず神に目を向け、栄光を帰すかなのです。

2016年5月29日 (日)

キリスト者の自由

ガラテヤ 5章1節
 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

 今日の聖書箇所を、()書きの注釈を付けるなら、・・・キリストは(罪からの)自由を得させる(与える)ために、私たちを(十字架にかかるという、血の代価を払ってまで、私たちを罪から)解放してくださいました・・・と言うことになります。
 
 私は長い間福音派の教会におり、この箇所のメッセージは何度も聞きました。福音派の人たちにとってもここはよい聖句のようでして、「自由」についていろいろウンチクを語られるのですが、理想過ぎて別世界の話に聞こえました。なんだか自由にされて、何でもこれから好きなことができるんだ、そんな今から考えると後半にパウロが戒めている肉的な気持ちにもされたのです。

とんでもないことです。ここは次に語られている「聖霊によって歩みなさい」がポイントなのです。しかし聖霊を理解していない教派ばかりでしたので、心に届かないのは当然でした。
 「自由を与える与えられるために召された」とパウロが言った背景として、神はサタンのように<強制し、支配>することがお出来になれないということがあります。神の本質は愛なので、人もまた愛をもって神であるご自分に従い、御心を行うことをお望みです。自由な状態でなおかつ、神への服従、献身を喜ばれるのです。自由とはそのようにして使われものなのです。
 
 しかしこの自由は、全宇宙とすべての命を創造された神ご自身の十字架というあまりにも尊い犠牲によって買い取られ、与えられたものです。その上で選択できる状態が自由でした。この自由を再びサタンに易々と明け渡してよいものでしょうか。
 
 神様は人を縛りご自分に隷属させることがおできならないので、神に代わって使徒パウロが私たちに16節の「御霊によって歩みなさい」と強く薦めているのです。この御言葉は単に聖霊の内住というだけではない、聖霊のバプテスマや新生を受け、神の霊に満たされた経験のあるクリスチャン(ガラテヤ人やそのようなクリスチャン)に対して語られています。聖霊のバプテスマが未だの人にとっては、先ずそれを受けることが先決です。本来、聖霊の実を実らせるべき選ばれた人々に対して、「怠りなく常に聖霊に満たされ続けなさい」と説いているのです。
 
 今日のキリスト教会や、うっかりすると私たちの群れの中においてでさえも、肉のクリスチャンが存在し、ねたみや分派心が存在し、愛のない行いを見ることがあります。ガラテヤの諸教会もパウロの輝かしい異邦人伝道の初穂でした。しかしサタンも必死に挽回をはかっており、その幾分かは成功しているようです。霊の世界においては中立地帯という場所はありません。あると思われていたら、そこは肉であり、サタンの領域です。サタンや悪霊側に対し、神様と神様に従う陣営しか存在しないのです。みなさんはどちらの側に立っておられるのでしょうか。

2016年3月13日 (日)

先ず第一に求めるもの

マタイ 6:31-34
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます

 ウルグアイという南米の国に、ムヒカ大統領が言った言葉「貧乏な人とは、少ししか持っていない人ではなく、無限の欲が有り、いくらあっても満足しない人のことだ」が心に沁みます。大統領としてのほとんどの収入を献金し、自身は月千ドルで郊外の小さな農園に暮らしました。自分の財産は小さな農園と古いビートル、それにトラクター1台でした。しかし大統領になる前のムヒカさんは、ゲリラ上がりで6発の銃弾を受けて、13年も刑務所にいた人です。そんなところは南アのマンデラ大統領とよく似ていますね。
 
 さて欠乏感に取り憑かれている現代人にとって、「飽くなき物欲に支配されている自分」とその脱出を探すことは、本当の幸福を見つけるスタートになるのです。それは単に諦観したり、哲学にふけるといった、我慢したり、他のことに熱中することでは一時的なものに終わることでしょう。そうではなく、命よりも大切なもの、幸福なもの、価値ある生き方を見出すことではないでしょうか。
 
 そしてそれは、真の神を信じ、従うことでしか実現しないことを、私は断言できます。聖書にある「心を尽くし、思いを尽くして、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」とは、三千五百年前から今に至るまで、変わらぬ真実な言葉です。
 神さまは、その人その人に何が必要かをご存知です。皆が皆、同じものが必要なのではありません。ひとそれぞれ異なるのです。人が持っているものを羨んでも、それは貪欲の罪に当たるかも知れませんし、せっかく手に入れても、宝の持ち腐れというか、失望を味わうことさえあります。これらは神に自分の命の目的、真の生かされた方を聞いていなくて、空しく世をさま迷っている姿です。
 
 私たちはそうであってはなりません。神さまを信頼し、御手の中にご自分の生活、生き甲斐、能力、喜び、感謝を見出しましょう。それでも世の人々はお墓とか法事、近所のお勤めなどいろいろな世のことを言ってきますが、それらは私たちにとっては枝葉末節なことですし、正直関わりたくないことです。しかしながら、イエス様が魚の口から1ステタル貨を納めさせたように、「人をつまづかせない」程度には対応するにとどめましょう。
 何よりも先ず「神の国と神の義を求めよ」です。あなたの「神の国」、あなたの「神の義」は何でしょうか?
 
 私たちは激しい消費社会に踊らされています。会社としては売れるもの作りとその販売に命を賭けているわけです。ですから私たちクリスチャンとしては、神の御心と与えられた使命をまず第一にし、徹底して聞き従っていけるよう、聖霊の満たしと祈りとを求め、強めて行かなければなりません。世における私の神の国とは、その中で成就し神の栄光が現されていくことでしょう。

2016年2月21日 (日)

神に愛される人とは

ルカ 18章13節

 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

 神さまを信じる私たちは、畢竟(詰まるところ)神にあわれまれ、つまり愛され、その恵みに生きている存在です。本日の聖書箇所はそのことをよく言い当てている所です。少し詳しく見ていきましょう。
 パリサイ人と取税人がエルサレム神殿に祈りに来ました。まったく対照的な二人です。パリサイ人とは当時も今も、ユダヤ教の指導者であって、自らも律法を忠実を守っている人でした。ですから「天国に行くなら、真っ先に行ける人」というのが、当時の人々の通念でした。少しこのことも説明しましょう。

律法は言わば憲法のような十戒があり、そこから網の目を広げたように数多くの律法が生まれてきました。例えば安息日を守るために、徹底して労働を禁じるため、何歩以上歩いてはいけない」という決まりがありました。この日には食事の準備や、暗くなって照明をつけるのも律法違反なのです。それでパリサイ人はしない・・・・ではどうするか?貧しい使用人にやらせるのです。つまり金持ちは天国に行けて、貧しい人は行けないのです。この時代、金持ちは神から祝福されていると見なされるのは、このようにして律法を守っているために天国に行けると思われていたからでした。地獄、ではなく天国も金次第というわけです。裕福な人が多かったパリサイ人は、それで律法を守れていたのでしょう。

 対するに取税人ですが、独立をローマに奪われ、そのローマの手先となって税金を集めるユダヤ人、これはそのこと自体が民族への背信行為であって、罪人でした。さらにローマに納める額以上の取り立ては自由に設定できたので、背後にローマがいる取税人は恐れられると同時に、非常に憎まれたのです。

 さてこの二人、一般的にはパリサイ人が「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」とする愛の無さが義とされない理由だとされています。確かにそうですが、自分を義とするのは多くの人がするので、このパリサイ人が特別だと言うわけではありません。しかしパリサイ人というのは宗教的な指導者ですから、隣人への愛の実践をより求められ、逆にこのかけ離れた態度は責められても仕方ありません。しかしそれよりも神の目は取税人に注がれ、御心にかなっていたと言うべきでしょう。

 この取税人は、「神さま、私は生きるために仕方なかったのです」とか「私はまだマシな方で、もっとひどい取り立てをしている者もいます」と申し開きを言うこともできたでしょう。しかし一切そのようなことを口にせず、ただ遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈ったのです。「自分の胸をたたく」とは慟哭の最たる表現です。泣くことすらできない悲しんでいる、心からの悔い改めです。
 私たち神を信じる者は畢竟(とどの詰まるところ)、神のあわれみという恵みに与った存在です。パリサイ人のようにどんなに良い行いをしようと、律法をいかに遵守しようとも、自分を頼みにし義とする者にはあわれみは注がれません。罪は私たちを覆っており、人と比べてばかりのその私たちはそのことすら理解できないのです。しかし心から悔い改め、罪の縄目から救いを神に求める者の声は、神は必ず聞かれるのです。

 ですから私たちはあわれみ深い天の父に、お一人おひとり真に悔い改め、おすがりし、自分がいかに多く赦されなければならないかを覚えましょう。またそれがゆるされているように、今度はお互いにゆるし合いましょう。愛は神から出るのです。これこそ神から愛をゲットするコツなのです。

2015年8月23日 (日)

愛を追い求めなさい

1コリント 13章~14章1節 
 昔からこの第1コリント13章は有名な聖書箇所で、結婚式でよく読み上げられる所です。  
愛は寛容、親切、ねたまず・・・・自慢せず、高慢でなく、礼儀正しい。自分の利益を求めず、怒らず、受けた悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜ぶ。すべてをがまんし、すべてを信じすべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ。愛は決して絶えることがない。

 若い時分は、これを聞くたびに「愛って素晴らしい! これを目指して自分たちも頑張ろう!」と感激して思ったのですが、親となり、お爺ちゃんと呼ばれても相応な年代になると、現実は愛とほど遠く、到底不可能なことだと思うようになって来ます。
 しかしこれは大変な勘違い、見当違いでした。特に8節「愛は決して絶えることがありません」を考えてみましょう。どうして他の賜物に比べて愛は絶えることがないのでしょうか。実は「愛」とは、賜物と同様に神から与えられるものなのです。自分の努力で素晴らしい「愛」ある人間になろうとしていた私は、大変な思い違いをしていました。愛は神から生まれ、与えられるものなのです。ですから14章の頭に、「愛を追い求めなさい」と神が勧めておられるのです。神は愛そのものであり、私たちは神から「愛」を注いでいただく存在なのです。ですから熱心に「神からの愛」を追い求める存在でもあります。この求めの祈りは御心ですから、聞かれるのです。

 こうして愛は、人間が自分のものとして誇ることのできないものであって、神の愛という1コリント13章の神の完全な御性質が現されていくのです。
 ここで一つ疑問が出てきます。異言や預言などの聖霊の賜物はキリストの再臨以降は廃れるのに比し、愛はなぜ絶えることがない(いつまでも続く)のでしょうか。再臨以後、神様を目前にし直接神様からお言葉を聞けるのですから、これまでのような人を介しての預言などは必要なく、廃れるのは当たり前です。では「愛」は、どうして廃れることなく、続いて行くのでしょうか?  

 これは「愛」と言うものが分かっていないための疑問です。聖霊の賜物は神から受けたなら、そのまま人間の解釈を交えず人々に伝えていくもので、宣教という明確な目的があるものです。ですから再臨という福音宣教の必要が終了した時点では不要になります。けれどもエデンの園に神が日毎に訪れてくださったように、愛には終わりとか、面倒とか省略とかはなく、互いに「進化する交わり」が本質です。愛は神から来て、私たちはその愛を受け取るだけでなく、同時に拙Jンmkいながらも神にお返して行くという、双方向のものです。ですから聖霊の賜物のような一方通行のものとは異なり、交流して生まれてくる愛は、決して廃れず、絶えることもないのです。

神の愛を、熱心に追い求め続けましょう!