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神の愛

2022年9月11日 (日)

神の奴隷

ローマ 6章22節   新改訳2017

しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。

 人は自覚しようがしていまいが、生来人は罪の奴隷である(※原罪とも言う)。ただ、キリストを信じ、罪の奴隷から、神の奴隷に替えていただける場合がある。もちろんそれは新主人となる神の意向次第なのだが、最後に買われていく奴隷側にも受諾の意思を確認される機会がある。それが信仰告白なのだ。多くのクリスチャンが勘違いしているかも知れないが、罪の奴隷から解放され、自由となって晴れて好きなように自分が生きていく、そんなことはあり得ない。確かに聖書ガラテヤ5章には「自由を得させるために」とありますが、それは主にある自由であって、「堅く(※信仰に)立って、再び奴隷のくびきを負わされないように」とある通りである。

 ひと昔前の奴隷時代、奴隷はその主人によって人生のすべてが大きく左右されていた。良い主人にであるならば、たとえ奴隷から解放される機会があったとしても、生きていく手段を持たなければ、生涯を奴隷として生きる選択をする者も多かったようだ。家族が居ればなおさらである。罪の奴隷から神とキリストの奴隷へと替わることは、ただ買い取られて持ち主が変わるだけでなく、あり得ない恵み、主人の嗣子(跡取りの養子)にと劇的な変化が伴う。さらに驚くべきことに、この主人キリストは、私を買い取るために自らを差し出し、贖(あがな)いの十字架に架かって苦しみの極みで死んでくださったのだ。キリストにあがなわれて、神のものとなった私たちは、罪の奴隷から解放されて自由になった心で、今度はキリストに自分を感謝し、キリストを愛し、すすんで自分を捧げる決心をし、その御心を行う忠実なしもべ奴隷として新たに生きるようになった存在である。これを新生という。ただ、これには三位一体のもう一つの神、聖霊体験が伴わないと実際的な効力が伴わない。

聖書でパウロはローマ1章1節、テトス1章1節で、またヤコブも1章1節で、bondservant(希doulas)と言う、奴隷という言葉を使っている。この言葉を使うからには、彼らも又、以前は罪の奴隷であったことを意識していたことが分かる。罪奴隷である意識が無いところに福音も悔い改めも届かず、新しい主人を歓迎し、その奴隷にすすんでなる気にはならないだろう。罪の意識は、その人に神があらかじめ<聖>を入れておいてくださるからこそ、自分の闇である<罪>が分かるのだ(ローマ8章30)。その意味で私たちは選ばれた存在であり、神に感謝を捧げ、自分たちを誇ることはできない。すべていのちある者は主を賛美せよ!

2022年1月 2日 (日)

神に愛される秘訣

 詩篇 32篇5節   新改訳2017 

私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを【主】に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。

 神というのは、当たり前だけれども全地全能の造物主で、全てのことをご存知である(天の御座の周りに前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた:黙示録4章6・8節)。私たちは常にその天の神に報告され一切が知られている存在である。

 長年小学校の教師をしていた私が、教師をしていて一番嬉しかったことは、教え子に問題があって、指導していた時の子ども態度だった。私から咎めを受けそうな子が、それまで嘘を言ったり取り繕っていて、どうにも隠しきれなくなって、突然「ごめんなさい」と反省し認め、悔い改めた瞬間である。それはすごく嬉しくて、思わずその子を抱きしめたくなったものである。

 実は、天の神さまも同じではないかと思う。詩篇32でこんな箇所がある。
私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。セラ

 全てを知っておられる神に向かって、自分を守って偽りを言うほど愚かで、神をガッカリさせ悲しませることはないと私は思う。神からの愛を失うことほど、私たち人間にとって危険な状態は存在しない。逆に「お父さん、ごめんなさい赦してください」と本当のことを白状し、その懐に飛び込むことほど、神さまを喜ばせることはないはずだ。心からであれば、たとえどんなに罪を犯していようが、両手を上げて喜んでくださり、赦してくださり、愛してくださるのは絶対の請け合いだ。

「神に愛される秘訣」とは、善行を行なったり、無理して聞き従う真似をして頑張ることではない。そんなこと、見ておられる神さまもお疲れになる。良い子ぶっても、そこはお見通しなのである。神に愛されれば、述べたような神を受けて、もう本当の自分を見ることは怖くなくなる。その罪だらけの自分に愛想を尽かし、解放され、全ての希望と喜びを、ただ神の愛だけに見出すようになるのは時間の問題だ。そして聖霊のバプテスマを体験し、神さまと交わり、神を知れば知るほど神を愛するようになる。この恵みのサイクルにはまっていく素晴らしさ、その喜び。

 その秘訣は極めて単純であり、幼児ですら分かることである。正直なこと。私は「自分の罪をあなたに知らせ、私の咎を隠しません」と神の愛をゲットする。このサイクルにはまると、もう罪を報告するのがサディスティクという訳ではなく、喜んでいつもするようになるのだから。
 あなたの身の回りに、そんな理解不可能なサディスティックとすら思えるクリスチャンはいませんか。彼らに喜びがあるのを見ていませんか? 彼らは真のクリスチャンです。

2021年7月18日 (日)

あなたは愛されている

Ⅰヨハネ 4章19~20節   2017新改訳

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません

 昨日の土曜日、仕事で子どもたちを乗せていると、ラジオをつけて欲しいとせがまれ、スイッチを入れた途端に、レーナ・マリアの話が聞こえてきました。両腕や左足が形成不全で生まれて来ました彼女は、スウェーデンのパラオリンの水泳で、数々の入賞を果たしました。選手を引退してからは今に至るまでゴスペルシンガーとして世界を回り、度々来日し、長野冬季でも開会式で歌いました。わたしが彼女を知ったのは久米宏さんのTV、ニュースステーションでした。今でもその時語った彼女の証しは、放送の自粛規定すれすれだったと思いますが、力強く脳裏に残っています。異口同音に彼女に対し「その明るさはどこから来るのか」の問いに、彼女はいつも同じ答えをしています。「私は、私のこの特別な体は神様の計画ために造られたのだから、そのために使っていただきたいと思っていますし、そのようにお祈りしていると、神様が親友でいてくださることがわかって、いつも喜んでいることができる」と。
 障害は目に見えるものと見えないものがありますが、霊、魂にそんな垣根みたいなものはありません。レーナさんの障害は見える形を通して、私たちの障害者感こそ、実は障害であることを明らかにし、造られた者が造ってくださった方に対し、それは各自異なってはいますが、それぞれに与えられ計画(み心)を行うならば、どれほど命が素晴らしく輝くかを実証し、学ばせてくれるのです。

 私たちは一人ひとりがレーナ・マリアでもあります。神の目には高価で尊い(イザヤ43:4)のですし、神に愛されて(1ヨハネ4:19)この世に生まれて来たのです。全能の神に当たり外れはあり得ません。み心がただ、お一人おひとりに異なっているだけなのです。もし世の人から見て羨ましいほどの健全な体と恵まれた豊かな家に生まれたとしても、神を信じなかったら何の意味もないのです。もし豊かさが高ぶりを招き、真実の人間の姿が曇って見えたとしたら、それは本当に不幸としか言いようがありません。

 神が人間のために天地万物を創造され、天使たちすら創られたのです。万物の創造の目的は多くの人を神ご自身の子として、友として得るためでした。神は人を愛してくださったのです。それは天使のように、受け身形で聞き従うだけでなく、レーナのように「どうか主よ、この私をあなたの者とし、あなたのみ心のためにお持ちいください」という自ら進んでの自主的、積極的な魂を得るためでした。それ故、神の子は神の御性質と等しく、兄弟姉妹をも心から愛するはずです。愛せない人は、世のものです。これは神から来ているのです。

2021年4月18日 (日)

神のあわれみ

ローマ 9章15節    新改訳2017

神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」

 つくづく私たち人間とは、自分中心の視点でしか、物事を捉えることはできないという限界を痛感する。例えば自分より良い人間、立派な友が居て、そのような良い友が救われず、自分のような人格的に劣る人間が救われるのはゆ神の不公平だと考えることなどである。
 誰が救われ、また誰が救われないかということは、人間が判断する事でなく、あくまで神が決められ、定められる事である。造られた陶器に過ぎないものが、造り手の陶器師に向かって、指図しているようなものである。私たちは神の被造物であり、その御心をそのなど人の目で見て憚らない。 (イスラエルで撮影のリス↓)

 私たち人間は神の御心を知らない。常に他と比べて、自分に良いものを求める。しかしその良いものが、自分にとって必ず良いもの、最善にPhoto_20210425021301 なることではないことがわからない。眉目秀麗であることが慢心に陥り、才色兼備であることが自分の力を過信したり、人を侮ることになりかねない。
神は人を造られたが故に、そのすべてをご存知であり、最善をご存知である。この方が、私たちを、私たちが世に生まれるはるか以前に愛を持って創造してくださった。ですから神を信じる者は神の子であり、一人一人形の違いがあっても、子として父が自分を最善に造って世に送り出してくださったことを感謝するのである。

 神にはえこひいきが存在しない。ただ値なき自分が、永遠の神からのあわれみを受け、子としてくださったことを、感謝と賛美で主を崇め、上からの喜びで満たされたい。あわれみによって私たちが神の子どもとされたのは、計り知れない神の知恵である。神の御心はかみのみぞ知る。

 私たちが皆、神の子どもであることは、神を信じる者同士はすべて、血肉に勝る真の兄弟姉妹であり、互いに愛し合うことからも明らかである。しかしそうでなく、兄弟を告発したり、妬んだりするならば、その人は偽兄弟である。裁くことは神がしてくださるが、私たちとしては取り成しをして祈るのみである

2021年1月10日 (日)

恵みも満ちあふれる

ローマ 5章20-21節   新改訳2017

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。
それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。

 神は「愛」そのものなのに、なぜ神は審きをされるのだろうか?という疑問を抱く方がおられます。かつて私もそのように思ったものでした。しかしその疑問は、神様のご性質がまだよくわかっていない段階のものと思われます。なぜなら神様の愛は人間が考えるような愛とは、まったくレベルが違うのです。全知全能の存在は、人間が及びもつかない聖であり、義なるお方、光と真理に満ちた存在なのです。神は基本的には従うだけの存在である天使とは異なって、自由な意思と意見を持ち、ご自身と分け隔てなく交われる多くの聖徒たちを構成員として、真の天国をお造りになろうとしておられるのです。

 小学生だった頃、浄土真宗だった私の家に、折々その住職さんが読経と法話に来てくださったことを思い出します。特に「二河白道」の話は興味深かったのですが、幼いなりに一つの疑問がありました。貪りや執着心の水の川、怒りや憎しみの川の間の白い道を何とか行けても、その極楽浄土にたどり着いた所は本当に良いところなのだろうか、と。世の人とどこが違っているのだろうか、と。結局はこの世と変わらない世界だとしたら、意味ないと思ったのです。どうにも風変わりな子どもだったようです。
 13歳の時に小説で神を知り、15歳で探し当てた伝道所でキリスト教に接したとき、これが真の神であるとわかりました。疑問を解決する十字架が有ったからです。神は愛なる神ですが、同時に聖なるお方、義なるお方です。天国が本当に天国であるのは、赦されて罪から解放された人々、聖とされた人々の国であるからです。
 十字架無しに人々が義とされることも、聖とされることもありません。神の愛そのものの十字架こそ、世界でオンリーワンの真の宗教です。罪深い私たちを完全に贖ってくださった十字架の主イエス・キリストを、心から自分の罪を償ってくださった方だと信じるなら、その方は救われているのです。救われた人は、決してそれまでの人ではありません。その人に聖霊が内住されたからです。

 しかしクリスチャンになっても、それまでの(肉的な)自分との変化を感じない方が多いとしたら、深刻に自分自身を吟味していただきたいと思います。それは聖霊の内住があっても、聖霊様の方が僕とされている不遜な状態であるか、さもなくば偽りの信仰告白だったからです。神がご自分の血肉の命を捧げてくださったのですから、私たちもまず自分の命を捧げ、その僕となって聞き従う必要があります。その上でいのちの道が開かれます。その時人は、自分自身が最も自分を窮屈にし苦しめてきた敵であることに気付くでしょう。その時、審きはもはや意味を成さないのです。

2020年12月27日 (日)

神に愛される

黙示録3章19節  新改訳2017

わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。

 最初に絵本<大切なきみ>の朗読をしました。このお話の中で、人々が互いに比べ合い、その優劣に囚われている姿が、シールの貼り合いで表されていました。確かに私たちは優劣の価値観で互いを判定し、金ぴかの星シールやダメージを貼りまくりそのことに疑問を持っていません。

1227_20210201020901教会においてすら、競い合うケースがあるようです。しかしこの絵本のように、造り主である神は、たとえ世の見方と異なって、個々人を最善に造られているのです。ただそれがわからないだけです。その作り主の愛と御心に従って生きることの方が、決定的に重要なことであるのはもちろんです。

 昨日、バイトしている放課後ディで二人の中学生をきつく叱りました。リーダー的な存在のはずの子たちなのですが、英語の学びの時間になっても、自分がしたいことを続け、いくら注意しても意図的に無視したためでした。他人である者が叱れば、その後も大変なケアが待っています。しかし一旦「自分勝手な行動が通る」と学んでしまうと、その後、その成功体験を正すことはかなり大変です。子どものわがままを許容することで、降りかかる煩わしさから自分を守ったかも知れませんが、それはその子たちを愛しているとは言えません。
 まして神さまであれば、子である私たちの勝手な思いや行い、わがままを叱られないことはあり得ません。実際、私は褒められることはほとんどなく、叱られることの方が圧倒的です。しかし、叱られても叱られても、それはむしろ当然であって、かえって神さまの愛を感じます。もし「叱られたことがない」と言われるならば、かえってその方は私生児です。または、神の訓練の段階に入れない乳飲児の状態なのでしょう。

 この絵本を子ども向けだと思わないでください。晩節を汚す人、退職していつまでも上役気分が抜けない人、伴侶を送ったばかりに生きる気力すら湧かない人など、この絵本に該当するクリスチャンのなんと多いことでしょう。私たちは、主によって懲らしめられなければ成長できない存在なのです。それは愛されている子の特権です。最後にヘブルの12章の御言葉を受け取りましょう。
「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。主が訓練しない子がいるでしょうか。すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって本当の子ではありません。」

2020年9月20日 (日)

神のかたち

コロサイ 1章15節   新改約2017

御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。

 聖書通読で「御子は見えない神のかたち」という言葉に改めてショックを受けました。旧約の十戒の影響からでしょうか、新しい律法、新しい契約においては<神ご自身が人となられた>ことをもっと重要視すべきだったと気づかされたのです。

 イエス様を見、知れば、私たちは人となった神を知ることができるのです。どのようなご人格、お人柄で、どんなことを為さり、言われたのか。そのお心はどのようなものであったのか、四つの福音書を通してわかるのです。これはすごいことであり、素晴らしいプレゼントではありませんか。他の宗教で教祖がこのように具体的に知らされることは無いでしょう。できるだけ知らせず、神秘的に覆い隠さなければ、罪深い人間の正体がばれてしまうからです。しかし私たちの神はまったく異なるのです。

 イエス様の使命は十字架にありましたが、それまでの三年半の公生涯もそれに劣らず重要だったのです。それは一言で言えば神の愛の姿をリアルに知らせるためでした。人の弱さに対応し、人類への福音そのものだったのです。イエス様は神の愛のかたちそのものだったのです。幼子を抱き、罪を赦し病を癒やし、嵐を静め、飢えた5,6千人をそのままではお帰しになりませんでした。異臭ただよう死人をもよみがえらせられました。大工の息子で教養は受けられませんでしたが、国中の学者たちも太刀打ちができませんでした。

 イエス・キリストが行ったわざに拠ってではなく、その言葉こそ実に驚くべきもの、信じる者の力です。実際、キリストの言葉は神にしか言えないもの、神の叡知と力の証明でした。言葉を聞いて信じる者は、奇跡を見て信じる者より幸いなのです。

 一例を上げましょう。パリサイ人の「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」(ルカ20:25 )
これは神の知恵の確かさを示しています。パリサイ人の家での食事において「彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです」(ルカ7:47) 神でなかったら、これらの言葉は到底語れるものではありません。

 私たちはこの神のあわれみによって救われたのです。未信者に対し、仏像とかの偶像がないから説明しづらい思うなら、それは愚かです。神を具体的には語り憎いと思うなら、血肉の形をもって地上に降りてくださった神のみこころを無にすることになります。二千年前であっても、今も私の心の中に居られ、交わっている確かな人物、主イエス・キリストを私たちは個人的に、いきいきと語れば良いのです。

2020年7月 5日 (日)

愛の苦しみ

詩篇 105篇17~19節   【新改訳2017】

主は一人の人を彼らに先駆けて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。
ヨセフの足は苦しみのかせをはめられその首は鉄のかせに入れられた。
彼のことばがそのとおりになるときまで【主】のことばは彼を錬った。

 先週お伝えした神との直接の出会い、それは自分が根本から変えられるもの・・・・つまり、聖霊の満たし、聖霊のバプテスマですが、そのことをあたかも結婚前の男女に見られるような「おのぼせ」に例えたりしました。しかしそれでは真実を伝えていない部分があり・・・・今回は、その後の少し熱が冷めて実際的な生活に入った部分をお伝えしなければならないと示されました。それで「愛の苦しみ」という題にしました。
  先週のケンピスの言葉に「キリストとともに生きたい人は、先ず自分の自分自身に死ぬことが必要である」(p126)がありました。そのすぐ続きに「おお、いつ神のみが私のすべてとなり、私のすべてが神と一つになれる日が来るのだろうか」と嘆いています。ケンピスですら難しいことなのです。実際、神と一つになるまでは、この世において私たちは完全な幸せにはなれないことも分かっています。

 ではどうすれば良いのでしょうか。それはキリストに従うこと、自分を棄てることに力を尽くすことしかりません。自分の肉が死ぬことには、痛みが伴います。それはちょうど結婚式を終え、落ち着きを取り戻した男女が直面していく、様々な問題にも似ています。決してバラ色ではありません。まさに神を愛するが故の苦しみが営まれて日々でもあります。残されている己の肉との絶え間ない戦い、葛藤がつきまとうのです。肉を完全に絶つことは困難ですが、だからといって妥協し、あきらめる道はあり得ません。
 例をあげてみましょう・・・・〇兄弟や世の人にも、その良くない点や過ちに耐え、悲しみ、より愛せるように祈る、〇隣人の良い模範や美徳を、我がことのように喜ぶ、〇食卓で、自分よりも他の人によりよいものを取り分ける、〇自分の好き嫌いを放棄する・・・・等。

 キリストを愛し、従うことはキリストがされたように、キリストがされるであろうように生きることです。私たちはキリストを愛するが故に、この血肉のいのちがある間中、戦い耐え続けて全うしていくのです。聖霊なる神が唯一の助け手です。
 「受けるより与える方が幸いである」(使徒20:34)とパウロが語ったように、パウロもまた、キリストを愛する苦しみ、その生涯実践しました。ヨセフは13年牢屋に入れられ、手枷足枷の中で忍耐し、最後にはエジプトの宰相になり、自分の家族への夢を実現させました。一方パウロは牢獄の中で処刑されて死にました。しかしパウロによってユダヤ教から新宗教キリスト教が誕生し、真の世界宗教へと脱皮させた、最大の功労者になりました。
 キリストに従った結果、世での栄誉を受けるか、刑場の露と消えるかは問題ではありません。ただキリストを愛し、神と一つになるれる希望をもって、そのためにどれだけ苦しんだか、そしてなお祈りかつ喜んだかが、天に生きる者のすべてなのです。

2020年2月23日 (日)

人を愛し尊重してくださる神

アモス 3章7節   【新改訳2017】
まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない。

 聖書の学び(His Story)でアブラハムに対し、神が「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」と考えられたのですが、今でもまったく同じことを神はされ続けています。たとえば私ですが、人生の重大な事に関して選ばされたり、この後の人生についてもだいたいの展開は聞いているからです。ですからこのアモス書にある「ご自分の計画をそのしもべにである預言者たちに示さずには、何事もなさらない」に私はアーメンと全き同意をいたします。

 なぜ神はこのように人に過ぎない存在に、あらかじめ語られるのでしょうか。それは、たとえ結果は同じになるにしても、後で聞くのと先に聞くのとでは大きな違いがあるからです。事の起こる前に聞いているならば、心の動揺はなく、神の偉大さ、信仰を堅くするだけではありません、「私は尊重され神に愛されている」心が湧くのであって、あいしてくださる神はそのことをご存じだからなのです。

 ぼくしである私にとって、教会形成の上で譲れないものがあるとしたらこの点です。全てとは行かないでしょうが、教会にとって大切な案件において、私は可能な限り教会員に諮って合意を得てからにしたいのです。なぜなら上位下達は権力の支配を現し、天的ではないのです。神は人を友とし子として尊重してくださる神であって、愛がその本質です。権力をもって人を支配する存在とは真逆の方です。私たちの教会には神の愛が満ちているだけでなく、牧師が主イエスへの愛を持って「わたしの小羊を飼いなさい」の戒めを受けているからです。

 最後に、神はなぜここまで人を愛され尊重してくださるのか、それを少し学びたいと思います。ご承知のように、人は血肉の体を持つ有限なる存在ですが、神は天使たちに、人に仕えるよう命じられました。ただし天使が仕える人とは、イエス・キリストを真に信じた人々です。その人達には聖霊が内住しています。一方、天使は霊的な存在なので、物質的な体を持っていません。ですから聞き従うだけの存在です。しかし人は血肉の戦いに、十字架によって勝利を取り、サタンの縄目から解放された存在なのです。それ故、時が来たら超物質的な体の上に霊を持つ、御霊の体をもって神に最も近い存在として下さいます。

 以上の事から神の形に似せて造られた人とは、神に近い存在であり、命令に従うだけの存在ではなく、多様な個性と進んでみこころを行おうとする意欲に満ちた、神と交われる存在として創造されたことがわかります。従うだけの存在ではなく、神から愛され、交わる存在として創造されたのが、私たち人なのです。

2020年1月 5日 (日)

赦され、愛する

ルカ 7章47節   【新改訳2017】
ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。

 私たちは癒やしの教会ですが、どんなに体が癒やされても、それが信仰に結びつかなければ何の意味もありません。癒やされてもそれは少し延命だけで、人は遅かれ早かれ必ず死ぬのです。真の癒やしは、永遠の存在である魂の癒やし、霊の回復です。イエス様はそのために地上に来られました。
 さて、多くの病いを癒やすだけでなく、多くの罪をイエス様は赦されました。罪の赦しとは霊・魂の癒やしになります。病いをただ癒やすだけでなく、その根本の霊を癒やす、それがイエス・キリストを信じることです。しかしそれができるのは神だけです。どれほどパリサイ人の反感と憎しみを買おうとも、イエス様は赦しの癒やしを止めることができませんでした。その為に来られたのですから。

 さて、本日の聖書でイエス様は「この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから」と言われました。逆に「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」とはっきり言われました。一方で神を愛する人がおり、また、どうしても愛することがわからない人もいます。愛するならば、例えば映画パッションでのイエスへの鞭打ちのリアルシーンを観て、あの鞭の痛みを我が事のように感じるはずです。

 そういうわけで、罪深い女だけでなく、長血に苦しめられた女、ゲラサ人の地で墓場に住んで、レギオンほどの悪霊に憑かれていた男など、赦され救われたこれらの方々は、イエス様を心から慕い愛する者に変えられたと私は信じます。罪深さはなんと全くの逆転、永遠のいのちと信仰、結果としてそれに見合う癒やしを得る恵みの道だったのです。

 「心の貧しき者は幸いである」とは以上のことを指しています。罪の意識は人を苦しめますが、十字架の赦しの道を見出したならば、祝福され、愛と自由の中、永遠の魂の安息を得ます。赦されなければ愛することができず、これら神の愛の恵みを十分には受け取ることができないからです。繰り返しますが、赦しと愛とは表裏一体なのです。自分を正当化し、赦されることの飢え渇きを感じない人は、不幸です。

 神は最善を私たちに与えようとしておられ、赦されることなしに神を知ることができません。偽りの祝福を与えることはおできになりません。私たちの魂を妬むほどに求めておられるのです。

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