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神の愛

2019年5月19日 (日)

聞き従いのわけは

詩篇 40篇8節   新改訳2017

わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。
 
 クリスチャンにとって、神に聞き従うことは最も大切です。ですが聞き従いにも、恐れから従う人と、神を愛して従う人とがいます。恐れて従うのであれば、その場その場のものですが、愛して従う人は神に近づこうとし、従うことそのものが喜びなのです。

 P牧師が良く述懐しておられますが、教会の誰よりも熱心に教会に出席し、奉仕しても、そんな自分よりもなぜか神に愛され、祝福される人が居ると。聖書ではダビデが該当するタイプではないでしょうか。ダビデは歴史上、イスラエルを最大版図にした英雄であり、イスラエルの国旗にもなっている人物ですが、逆に彼ほど問題を起こした人物は少ないのです。姦淫し殺人までしたバテ・シェバの一件、息子アブサロムに反逆され、妻たちを残して都落ちを余儀なくされたこともあります。

 しかし彼には神を愛する真摯な心がありました。神をなんとかして喜ばせようとしたのです。ですからどんな失敗があっても、神は彼を忘れず、祝福し続けたのです。どうしてでしょうか。神もまたダビデを愛されたからです。愛には、愛を、の原則があるからです。

 私は小学校の担任を長く経験しましたが、児童たちに二つの傾向が見られました。それは恐れて従う子どもと、恐れずに進んで教師に近寄って来る子どもです。恐れて従う子どもたちは確かに従いはしますが、それは教室という私の管理下にある時だけのことでした。しかしもう一方の恐れない子どもは、休憩時間になると教師のところに来て、あれこれ言いたいことを言います。「先生、あれは難しかった」とかの評価をずけずけ言ったりもします。時に山積みになっている教師の机上のノートを整理を手伝ってくれたりもします。この子どもたちは先生を恐れてはいません。教師に興味があり、親しみを感じ、近づいて会話を楽しむのです。すると互いの心がわかり、育まれるものが生じます。信頼と愛の中で育まれる最も理想的な関係、聞き従いではないでしょうか。

 このように、同じ聞き従いでも、神との距離が大きなポイントになります。神は同じように私たちを愛したいと思っていらっしゃいますが、前述のどちらがより多くの恵みを受け取っているか、お分かりでしょう。神を愛したダビデは、契約の箱を都に迎える時には、王の威厳も何もなく、妻に軽蔑されようと、ただ子どものように喜んで裸で踊りました。全知の神は私たちの稚拙より、私たちの心を実に喜んでくださる神なのです。

 私たちも、恐れからではなく、私たちを多く愛してくださった神を愛し返しましょう。

2019年1月 6日 (日)

ひかり

ヨハネ 12章46節      【新改訳2017】

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。

 この聖句で「光」とは神のことを意味し、「闇」とは神の光が当たらない罪の世界を指します。創世記の始めのように、光がなければ在っても、色も形も全体も見えないので認識できません。存在は光があってこそのものです。人に神の光が当たるならば、己の真の姿がわかりますが、多くの人は罪がわからず、闇の中に留まっていることになります。光は罪を知らせ、悔い改めて光である父のもとに立ち返らせます。

 神を信じない人々は、光を知りません。原罪がわからず、人を裁き自己を正当化します。そして悪霊の世界に属していることが当然で、光の子どもを妬んだり、理解できない存在として拒み迫害します。このように闇の中を歩く人は、自分が最終的にはどこへ行くのかを知りません。でも本当は何となくわかっていて、はっきりとは知りたくないのかも知れませんが。

 主イエスはこのような滅び行く人、自分の敵さえも愛しておられました。ご自身もたびたび仰っておられれますが、彼らはイエス様を除くことが神への忠誠であり、奉仕だとすら思っていたのですから、最後の審判に本当のことを知ったらどれほど驚くことでしょうか。「(メシアである)しるしを見せろ」と迫るユダヤ人たちのに、どんなしるしを見せてもそ無駄であることまでイエス様はご存知でした。にもかかわらず、最後の最後に生まれつき見えなかった人を直し、死後四日経っていたラザロを生き返らせました。偶然ではなく、神の栄光が現されるため、あらかじめ備えられた人たちでした。案の定というべきか、ユダヤ人たちは眼前で行われたこの明白なしるしですら、一部を除いて信じ受け入れませんでした。こうして自分たちが、闇に属する者たちであることを明白にしました。
 ただニコデモのようなほんの一部にはイエスを認めるパリサイ人のユダヤ人が出て、彼らにささやかな分裂は生じました。しかしどんなに少数であっても、公然とイエス様に従うことができなかったとしても、イエス様にとっては大切な羊だったのです。

 光は闇を恐れません。かえって闇を明らかにします。イエス様はご自分の「私は良い牧者です。わたしは羊のために命を捨てる」と語られ、「捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます」(ヨハネ10:14-17)を実践されました。父がご自分に従うイエスキリストを愛されたように、キリストに従う私たちをも愛されます。決してご自分の羊を失われません。

私たちはその愛を反射して、新しい群れの名前の実質をラザロのように、光と愛を証しして参りましょう。

2018年12月16日 (日)

神の愛-Agape-

ルカ 15章24節    【新改訳2017】

この子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。

昨日の通読聖書箇所を今日のメッセージとして取り上げました。今回読んでおりまして特に「死んでいたのに」が示されました。父にあろうことか生前贈与を要求し、家を出て行った弟息子は、生きておりましたが自分のしたいことやその欲望に従っていました。弟はすでに霊的には死んでいました。死んでいた、これはどういうことでしょうか。

私たちは、罪を悔い改めて生まれ変わらなければ、そのままでは滅びます。滅ぶとは、神の国に行けないということです。このことを主イエスが繰り返し繰り返し「悔い改めなければ滅ぶ」と語られたことですが、悔い改めるためには、自分の罪が徹底的にわからなければできないことです。

父が赦してくれた生前贈与、それで身を持ち崩すということは容易に想像できたことでしたが、それでも父は赦します。案の定放蕩によって、弟息子は罪のあらゆることを身に知らされました。人々は自分ではなく、自分の金にだけ群がっていたこと、忘恩の憂き目にあい、忌むべき豚小屋で命をつなぎ止める生活に落とされました。ユダヤ人にとって、豚の食べ物を食べようとする困窮さは、すでに人としての誇りも何もかも失っていることを表します。そうなって始めて弟息子は、自分の罪がわかったのでした。

あらゆる自尊心を捨て、どんなに屈辱を味わおうとも、もう一度父の許に帰ろうと決心します。悔い改めの「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう息子と呼ばれる資格はありません」の言葉を胸に、です。

悔い改めることができたのです。生きている間に、実は自分は死んでいたことに気づき悔い改める者には、神の愛が注がれ、真の生きる意味と目的が与えられます。これが人の親にはできない、神の愛です。

現在逮捕され取り調べ中のゴーンさんは、毎年日産からだけでも10億円の収入があったようですが、それだけでは全然足りなかったようです。人間の欲望というものは際限のないもののようで、その先は、罪が口を開けて待っているようです。

聖書では主イエスが地上に来られたのは病む人のためだとえ語られました。「取税人」「罪の女」「病の人」など、世からはさげすまれており希望がなく、「癒やし」と「救い」を切実に求める人の多くは福音を求め、主を信じました。罪がわかるからです。世で成功している人にはそれが全く分からない事。神の国にはこれほど逆転があるのです。

2018年8月12日 (日)

本当の愛

へブル 13章5節~6節     【新改訳2017】

  金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。
  ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。 人が私に何ができるだろうか。」

 金銭というのは、この世という物質世界のシンボルです。お金がなかったら生きていけませんので、お金を否定しているのでなく、お金を愛する生活を否定しているのです。それはどういうことかを実際に考えてみましょう。
このみ言葉の対象はクリスチャンです。今回の船橋聖会で秋元牧師が「十字架はすべての人のための恵みですが、その恵みを受け取るのはただ信じた人、信仰を持った人だけなのです」と語れたことが心に残っています。ただ信じて天国に必須のすべての罪が赦されただけでなく、義とされるのです。

信じなければ十字架の恵みを受け取れないように、「決してあなたを見放さない、決して見捨てない」(英文ではneverがそれぞれにかかっている)と信仰によって信じることで、経済的あるいは将来への不安や恐れから解放されることがわかります。実際これら不安や恐れは、人を虜にし惑わすだけで、結局は多くの損失を得てしまうものであることがほとんどです。

「老後より死後」・・・金銭に代表される切実な世界とは老後なのかもしれません。体が衰え、以前のように働けなくなっているがわかった時、「蟻とキリギリス」ではありませんが、頼れるのは蓄えた金銭でしょう。しかし金銭は「おれおれ詐欺」に狙われ、いつの間にか目減りし、高額医療費で消えてしまうものです。

ルカ8:43-44に「十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた」とあります。この女は財産をすべて費やしても癒やされることはなかったのですが、イエス様の衣の房に触れることで、たちまち、一瞬にして癒やされ治りました。(※実際には溶鉱炉の高熱で鉄を取り出す話でしたが、その言い換え)

みなさん、考えてください。この世を含め、すべての力、権威、栄光は神のものです。人の命、健康もすべて神が司っておられるのです。自分が蓄えたお金でどう頑張っても、絶対がんにかからない、明日の命は大丈夫だと言えません。しかし人が神に頼る時、神に委ね愛する生活をするなら、神は決して見放さす、決して見捨てないと一仰ってくださるのです。本当に懸命な選択とはどちらか、自明のことではないでしょうか。神の真実な愛に応えていきたいと思います。

2018年7月29日 (日)

愛の中身

イザヤ 49章15節   【新改訳2017】
 女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。

 ソロモン王没後、王国は二つに分裂します。北イスラエル王国がアッシリアによって滅亡し、ユダ王国も、エルサレム以外の大きな町は落とされ、捕囚の憂き目もに遭いました。最後の首都エルサレムも陥落寸前、取り囲んでいたアッシリア軍18万5千人が一瞬のうちに主の手によって撃ち殺されました。この危急時に王と国を支えて護り、大活躍したのが預言者イザヤです。
 したがってこの風前の灯火の中、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。と言う叫びがあり、これにイザヤを通して「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない」(49:14-15) と言う神の言葉がイザヤによって語られたのです。

 南ユダに対するこの神の言葉は、全体を通して読み解く限り、現実のイスラエルに対してと言うより、霊的イスラエル人に対しての言葉のようです。言わば私たちクリスチャンに対しての神の愛の言葉が語られていると理解しても良いでしょう。これほどの神の愛に対して、その愛されている当のクリスチャンが「神の愛を受けとめきれていないのはなぜでしょうか」、つまり神の愛に対して「応答」できていない、これが今回の白馬キャンプでのメインテーマでした。この「応答」には信仰の「祈り」「聞き従い」「告白」の三つを用いる必要があることが解き明かされています。

 皆さん思い出してください。私が白馬に行く前に示されて語ったのは「聖霊を悲しませない」でした。自分の中にいつも、神の愛を感じ、その愛する方を悲しませたくないという心、それはなぜ生じるのだろうか、とメッセージをしました。それはどんなに自分が罪深いか、罪がわかって真実な悔い改めに導かれ、そこではじめて神の愛がわかる、と語らせていただきました。

 神の愛がわかれば、なによりもそれが大切であるし、その方を決して悲しませてはならないと心に強く思うようになります。また、神様のみ心を聞き従って行いたい気持ちにもなるのです。これを一言で言えば神様との関係、「交わり」だと私は申し上げました。

 「応答」と「交わり」、言葉やニュアンスは少し異なりますが、言わんとすることはほぼ重なっています。それは神様を愛することで、その中味としてのコミュニケーションです。神様はただ崇められたり、奉られたりすることをお望みではありません。被造物に過ぎない人間ですが、特別にお一人お一人を愛されています。愛にコミュニケーションは必須です。神様はそのために十字架によって特別に罪を取り除いてくださり、隔ての壁をなくしてくださったのです。

  それなのに神様の愛がわからない、受けられないのは、100%人間の側の問題です。それが完全に砕かれずに残っている各自の高慢であり、また、祈りや告白に代表される信仰の三つを用いないことにあるのです。

  ですからみなさん、試練を喜んでください。高慢から悔い改めに導かれます。祈り告白してください、神様の恵みの愛がわかり、受けられるますように。

2018年7月15日 (日)

十字架

Ⅰヨハネ 4章10節    【新改訳2017】

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 キリスト教とキリスト教以外の世界のあらゆる宗教とでは、非常に大きな、本質的な違いというものがあります。それが十字架です。ギリシャなどの諸々の神々、仏教、広義にはイスラム教も含まれると思われますが、基本、神は偉大で人間の上に高く座し、人間の弱さや罪、不信仰を怒っています。それゆえ人間は神々をなだめ、身代わりの供え物をいつも捧げなければなりませんでした。

 ところがキリスト教だけはそれを人間の側からでなく、神の側から、それもなんと崇められるべき神自身が捧げられているのです。十字架はその象徴です。このような神は他に類を見ませんし、人間を愛する神の究極的なすがた形が、この十字架だと言えるでしょう。

 なぜ神であるキリストが十字架で死ななければならなかったのでしょう。それは人の罪の大きさに相当し、それを償ない購える存在が他に無かったからです。大切なことは、ただ単に贖うだけでなく、神との関係の回復をすることが真の目的であったという点です。つまり、究極のエデンの園である天の御国に、たくさんのアダムの子孫を加えて、永遠の交わりを再出発させる、これが神のご計画であることです。ですから十字架がわかるためには、「自分の罪がわかる」ことが大前提です。

 実は私がバプテスマを受けたのは、学生運動し、アジっていた自分の高慢さがわかって、悔い改めていた時のことでした。また自宅にも帰れず、ただ星空を見つめていて、星々の規則正しい運行に、天地万物を創造された神がおられることがわかり、それを認めてこなかった罪がわかったからでした。ただまだその時には、罪が本当に心からわかって信じたとは言えなかったと思います。ですから悔い改めが不十分でした。クリスチャンになれた、天国に行ける希望はありましたが、新生したとは言えませんでした。これらは真の悔い改めがなければ生じませんし、それは自分の力では不可能でした。これらを得たのは、その後何十年も経って、大きな試練を経てからのことでした。

 ですから試練があるのはすばらしい祝福なのです。試練がなければ、人は自分の愚かさ、不信仰さ、罪深さのゆえ、神様に自分を明け渡すことができないからでもあります。その時、神は自分に死に、神に明け渡す者を受け取ってくださり、ご自分のものにしてくださいます。それで御霊によって歩む者にされ、御霊の実が実っていくことになります。
 皆さん、十字架がわかり、聖霊の実を実らせる者となりましょう。これを求めることはみ心ですから、必ず聞いてくださいますので、熱心に求め続けましょう。

2018年6月24日 (日)

よりすぐれた賜物

1コリント 12章31節
あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

 本日の聖書箇所には、“よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい”とありますが、これは九つある聖霊の賜物のどれかを指しているのではありません。この“熱心に求めなさい”と同じ言葉が次の14章1節にも使われており、そこでは「愛」「預言」とが同格で“熱心に求めなさい”となっています。「愛」は「預言」と同格ですが、「愛」という土台が先ずあって、その次に聖霊の賜物の代表であり、神の愛を伝える「預言」があるのです。

 Ⅰコリント13:4-7 には次のように「愛」を語っています“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。”

 私が若い頃は信仰が引き上げられたら、こんなすばらしい愛のある者にしていただけると思っていたのですが、今は違います。ますます自分の罪深さを知り、ほど遠い姿を見るのです。自分という人間には、これは到底到達不可能、そこでわかりました。これは、本当の愛というものを神様が教えてくださっているのだということをです。ですから、これは人には無理なのです。
 たとえばどんなに願っても子どもが与えられなかった人が、できた人を羨ましいと思うな・・・それは無理なことです。程度問題が重要ですが、それにしても嫉妬がない・・・それは人間を超えている気がします。“人をねたみません”これができるのは神様だけでしょう。間違っても自分ができる、そんな誤解をして自分を責め、苦しまないでいただきたいと思います。この罪深いみじめな私のために、ますます十字架の力が働き、赦されたものとして、赦してくださった神への愛がこんこんと湧いてくるのではないでしょうか。

 神への愛は、十字架の愛で私たちの罪が赦され、エデンの園で断ち切られた関係が回復し、聖霊さまを通し神様を個人的に知ることによって深められて行きます。神様はすばらしい愛なるお方です。Ⅰコリ13:4-7にある通り、神様を知れば知るほど、神様に夢中になり、安心して喜んでこんな自分でもよければ、と自分を捧げるようになります。

 神様を愛するようになれば、当然、愛する方から影響されていくようになります。自分の罪深い性質は本質的に変わりませんが、妬みも以前よりは少し減り、心が何よりも平安になります。しかしそれら良いところがあったとしても、それらはすべて神様の影響であって、自分のものではありませんので、高ぶったり、誇りすることにはなりません。人は神に栄光を帰し、ますます謙虚になります。“さらに勝る道”とは「神の愛」のことであり、このように神様と交わる恵みのことを意味するのです。

2017年12月17日 (日)

私をみた者は天の父を見たのです

✝️ヨハネ 14章9節
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
先週のメッセージで私は神様のご人格と言うか人柄というか、それを「理解が難しい」ことと述べました。しかし難しいからと言って、この大切なことをそのままにしていいことではありません。それで今回もう少し詳しく語らせていただくことにしました。
 
今日の聖書箇所 「わたしを見た者は、天の父を見たのである」 とはイエス様がおっしゃった言葉です。三位一体を信じる私たちにとって、神様を理解するのに、人となられた神、イエス様を知る事が最も理解しやすいことだと思われます。そして私がその観点から選んだのはルカ13章から15章にかけてのイエス様の言行録です。ここは他の福音書にはない、ルカ独自の記事が多いのです。
 
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打った者。わたしはめんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めよう
したことか。それなのにあなた方は、それを好まなかった。(ルカ13:34)」

めんどりがひなをかばうように、と言われたのは、本当に神様のお人柄、お気持ちがよく出ていると私は思います。時々それでもひながトコトコ、親鳥のそばから離れて行ってしまうのですが、そんな時の神様の気持ちはこれです。この後、神は独り子を十字架に架けて殺したイスラエルとエルサレムはついに滅ぼされてしまうのですが、どれほどつらいお気持ちになられたか、想像ができません。
 
ルカ15章に1匹のいなくなってしまい、羊飼いが残りの99匹を野原に残して、1匹の羊を見つけるまで捜しに出かける話があります。羊飼いたるもの、こんな愚かなことは決してしないことでしょう。1対99、どちらが大切でしょうか。
捜しに出かけるにしても、残りの羊をまさか野原にそのまま置いたりはいたしません。必ず野宿用の石囲いの中に残りを入れ、それから捜しに出かけることでしょう。安全でない野原にそのまま置き去りにしておくなんて、正気の沙汰ではないはずです。そして1匹の迷える羊が見つかると、怒り注意するどころか大変喜ぶのです。
どうも神の国は、この世の常識とはかけ離れているようです。イエスは次のように説明されました。「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にある」と言うのです。ここで言う「悔い改めの必要のない人」とは、自分を正しいとする人たちのことです。そのような人たちは、他者を裁いているからこそ、己を正しいとするのです。逆に罪人とは、迷った1匹の羊のように、不服従の結果の恐ろしい結末を迎えようとしている今、心から悔い改め、その助けを求めている人だと言えるでしょう。
 
今はひと昔前、教師をしていた時、いつも子ども達に尋ねていたことがありました。「自分はいい子だと思っていますか、それとも悪い子だと思っていますか」の問いに、ほぼ全員の子が悪い子の方に手をあげます。しかし高学年などになると、少しずつその割合が減っていくのです。自分の心の中ではなく、人と比べて自分が是か非か相対視するようになるからでしょう。
神は人の心の中を見られる神なのです。神の関心はまさにその人の心にあり、他者と比べてや社会的な位置などは関係ありません。幼い子をイエス様が言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」とは、まさにこのことです。
 
私たちの本当の敵は私たちの内にある、エゴ、自我です。自分を義とするために人をさばき、その刃で結局自分自身をも傷つけて苦しむのです。それはサタンに取り憑かれている自分でもあります。
さあ今、昔の幼かった子どもに戻って、自分の罪性を認め、救われなければならない者として神の前に悔い改め、白旗を掲げて神の子としていただきましょう。

2017年12月10日 (日)

哀れみを受け恵みをいただいて

ヘブル 4章16節 
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

私たちの神は全知全能の神です。人類何十億の1に過ぎない私の、どんなこともご存知です。そんなビッグデータって信じられないとか、あり得ないと言う前に、人間の理解をはるかに超える、命と万物の創始者が神であるという信仰によってこれを知るのです。
 今となっては素晴らしい恵みですが、これは私が体験したことです。聖霊を受け新生した後、過去に犯したあらゆる罪を思い出しては悔い改める機会が、幾晩も続いたことがあったのです。私がすでに忘れていたこと、その一つ一つを思い出せられては、その度に私が悔い改めるのです。実は少々辛かったのですが、それが終わった時、ことごとく罪から解放されたような、一点の雲も無い青空のような喜びが全身に湧きました。
  この事はそれまでの霊的な状況を一変させました。それ以後私は悪霊に対し、霊的に怯えたり恐れることがなくなったのです。敵が私に取り付く取っかりが一切無くなったかのようでした。つまり霊的に完全に解放されたのです。
 さて私たちの神は全てを知っておられるのです。ですから二つの対応しかできません。逃げるか、それとも降参して神の前に進み出るかです。逃れようとするならば神を悲しませ、己の罪を増し加えるだけであるのは言うまでもありませんです。ですから観念して神の前に進み出、あらいざらい自分の罪を告白し、あわれみにすがるのが上策です。
 
 私たちの神さまとはどのような方でしょうか。私たちの告白に怒り、ひどいお仕置きをされる方でしょうか。まったく違います。神はその独り子を十字架に架けるほど私たちを愛してくださっているお方です。私たちが罪を告白し、悔い改めれば改めるほど喜び、愛を深めてくださる方です。これは理解が難しいことかもしれませんが、調子に乗って「もっとひどい己の罪を、主よ、さらに思い出させてください」と祈るほどでもあるのです。
 
 神は私たちの罪の告白に対し、ペテロが「何度まで赦すべきでしょうか?」主に聞いた時、「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまで」と答えられた方が、どうして赦さないなどと答えられることがあるのでしょうか。

 神は愛です。慈愛とあわれみに満ちた方です。罪深い私をも造られたのが神であるならば、この正直さにあらわれる神への信頼を必ず、酬てくださる神であることを知りましょう。神は私を子として愛してくださるのです。
 さあ、神のあわれみの中に飛び込んで参りましょう。その計り知れない愛の中へ。

2017年12月 3日 (日)

十字架~その愛Ⅱ

ヨハネ  14章6節
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
十字架は人間を愛してくださった、神の愛そのものです。しかし今日、多くのクリスチャンが単に罪の赦しだけに留まって、十字架の真の目的に達していないのは明らかです。
十字架の真の目的とはエデンの回復です。エデンとは神との親しい交わりが行われた所であり、一人の人の罪が全人類に及んだように、次には神の子一人によて罪から全人類を解放したのです。またそれは罪の無い状態にして、人に聖い聖霊さまを送るためでもありました。聖霊さまを通し、エデンの園が回復されるためでした。 永遠の命、新生、聖霊のバプテスマは回復の現れです。
 
聖霊降臨日以降、教会はすぐに大きな問題に直面 しました。十字架によって罪の赦しを受けても、園(交わり)が回復されない状態が生じたのです。聖霊の賜物を受けない
人々です。最初の例はピリポが散らされた先、サマリヤで起こり、次にアポロがエペソで教えた時にも起こりました(使徒8:14-17・19:1-7)。注意していただきたいことは、このことを使徒たちは重大な事とし、すぐに使徒を派遣しました。十字架の真の目的を損ねかねないからでした。Photo_3
しかし今日のキリスト世界では、残念ながらサマリヤやエペソで起きたことが全体に広がり、圧倒的多数派を形成しています。御言葉や祈り、預言などによって神が語られることを受け入れなければ、そこに交わりは存在できません。
 
私の体験
聖霊のバプテスマを何年も求め続けていましたが、いきなり受けたのではありません。初めに深い悔い改めがありました。私がワカサギ漁の話とか、野壺の話をしたことを覚えておられるでしょう。悔い改めの底で、神のあわれみが注がれたのです。聖日の朝のことで、神はご自身を現されたのでした。
 
 最初に異変に気づいたのは、礼拝へと車を走らせているとフロントグラスに、解読不可能な配列をした文字らしきものがぴょんぴょん跳ねていたのです。私の注意を惹きつけ終わると、その文字は並び替えてメッセージを伝えてきました。その時私はひどい自己卑下の状態でしたから、「わたしはあなたを愛している」「どれほどあなたを待っていたことでしょう」という内容に、最初は意味がわかりませんでした。思いもかけない一つの内容に、これが神からだと気づくのにも時間はかかりませんでした。体が震え、嗚咽が出ました。
 神が語られる、どんなに待ち望んだことであっても、実際にそれがある、神は現実に生きておられ、関わりを持とうとしてくださっている・・・・この時まだ聖霊のバプテスマを受けてはいませんでしたが、この瞬間から私の信仰は劇的に変わったのです。そして、神が生きているか、実際に存在されているのかどうかわからないような、これまでの信仰の教会にはもう二度と戻れないと言うこともわかったのでした。そうでないことを私は体験し、知ってしまったのです。
 
「神は愛」、それは十字架によって現され、聖霊に依って受け取る真実です。聖書は確かに神の言葉であり、誰でも受け取ることが出来るものですが、聖霊によって受ける時、御言葉は自分に適用できる生きた言葉、力ある言葉になります。そして聖書が説いているとおり、祈りと聖霊の賜物によって、私たちは神と深い交わりの中、自分を神に捧げ、聞き従って世での人生を歩むこと、つまり十字架の真の目的が達成できるのです。
 
皆さんは十字架の恵みを受け、祝福されました。この群れは聖霊の賜物を用いる素晴らしい教会です。教会の恵み、十字架の恵みをさらに受け取るために、受けている人も居ない人もさらに聖霊を祈り求めましょう。聞き従いを強めましょう。これは御心ですから、時が来たら神は必ず成就して下さることを信じましょう。