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いやし・奇蹟

2016年12月 4日 (日)

神のわざ

 ヨハネ 9章3節
 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざが現れるためです。」
 
教師という職業柄、障害児と関わる機会が多くありました。家庭訪問である程度信頼していただきますと、たいていのお母さんはわが子の障害について「私が悪かったのでしょうか」と胸の内を明かしてくださいます。社会の偏見や差別を100%身に負われて、苦しんでいらっしゃるのでした。未だに「税金の無駄遣い」と揶揄する人がいるようですが、もしそれが自分の子だったら、と相手の身になって考えられないようです。これはお金の問題ではありません。
 親として障害の原因をお医者さんに聞いても、発生率などをあげられて、「たまたまあなた方が引き受けられました」と説明されても、日々の現実にそれで納得できるようなものではないでしょう。世界の宗教の中で私の調べた範囲では、障害に対峙して教えているのはただ一つ、キリスト教だけです。そしてそれが本日の聖書箇所です。
 
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」  ヨハネの福音書 9章3節
 
 これは障害や病を通しての、神の計画と働きがあるのであって、神の栄光が現されるということなのです。実際9章では生まれつきの盲人が癒やされましたが、それは当時の宗教的権力者であったパリサイ人たちに対して、大いなる証しのために用いられました。彼を知る近所の人や両親までも、恐れて黙する中、何と大胆に元盲人は証しをしたことでしょう。しつこくパリサイ人に尋問されても、

「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのかご存じないと言う。しかし、あの方はわたしの目をおあけになったのです。神は罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、誰でも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられのでなかったとしたら、何もできないはずです。」  ヨハネ9章30~33節

と答えたのでした。これは非常に重要な証しの見本だと思います。私たちが伝道する時、あれこれ教えを伝えるのでなく、信じた結果、どれほど自分が変えられてきたか、そのことだけをこの元盲人が語ったように語れば良いのです。何も考えておく必要はありません。飾らずに、ただ事実だけを淡々と語ればよいのです。
元盲人はこう語ったので都から追放されましたが、これは彼の信仰を守るためには、腐った信仰であふれている都よりも良い導きであったと思われます。障害者、精神の病を持つ人、世的には能力が無い者を通して、神の計画があり、進んでいきます。すべての栄光を神に帰すことができるからです。ですから皆さん、弱さは私たちの心を神に向け、神の栄誉をうばわない私たちの宝物なのです。 ハレルヤ!

2013年1月 6日 (日)

信仰といやし

マルコ 5章34節
いやしはキャサリン・クールマンのようにどんなに偉大な神の器であったとしても、本人たちも言っているようにその人の力ではなく、すべて神からのものに他なりません。神の私たちへの恵み、あわれみとして、神の絶対的な大能によって一方的にいやしは行われます。Photo_2 ゲザレ人の地でレギオンという悪霊にとりつかれていた人に対して、「悪霊の追い出し」という形で一方的ないやしが行われたようにです。しかしいやしの多くは、それを求めてイエスのもとに来た者に、無条件で与えられた(マタイ14:14、15:30)のです。
 しかし、キリストご自身は、いやしを行われるためにこの世に来られたのではなく、いやしは二義的なものに過ぎませんでした。見えなかった目が開き耳が聞こえはじめると言った肉体がどんなに癒されようと、死人がよみがるという大奇跡であえろうと、その人が心から悔い改めて信仰を持たないなら、水泡に帰すというか、空しいことなのです。なぜならそれは、死というもので朽ち滅びるもので、ただ一時的に良くされ、命が延ばされただけなのですから。
 キリストは私たちに永遠の命を与えるために世に降ってこられました。一言で言えば福音の宣教のためにです。キリストはいやしによって、神の実在と力、愛とあわれみの深さを体験する者となり、神をほめ讃え信じる者になることを期待されました。ですから聖書はいやしに関して、いやされる人や執りなす人の「信仰」と関連づけての記述に多くのスペースを割いているのです。神からの真の祝福は「永遠のもの、信仰」にあるからあり、「罪の赦し」「信仰があなたを救った(直した)」にポイントがあるのは当然なのです。
 新約聖書ではその人の信仰を大いに賞賛された二人の人物がいます。なんと二人とも外国人なのです。しもべのいやしを願った百人隊長であり、レバノンでのシドン人の女です。イエス・キリストはこの二人に「あなたの信じた(願い)通りになるように(what you beieve(or want) will be done for you)」と言われました。二人の信仰は御心のものであり、これこそ私たちが目標とするいやしなのです。これを端的なことばで言うと、「自分のためにいやされたいのか」、それともいやされるべき病は「神様の力と栄光を誉め讃えるため」であったかということです。 

2012年12月 9日 (日)

あなたの信仰があなたをいやした

ルカ  8章40-47節
「長血」という病、辞書によりますと、子宮から血の混じったおりものが長期間出ることです。この女性の場合12年間もこの病が続き、前より悪くなるばかりでした。その上医者から見放され、すっかり財産を使い果たしてしまいました。   
 さらにこの女性を苦しめたのは、律法(レビ5:21)によって汚れた者とされ、社会から隔離させられたことでしょう。生きていても存在しない死んだような状態でありました。そんな中、この女性はたった一つの希望をあらゆる病をいやされる、「イエス・キリスト」に見出します。絶望的な女性に残されたたった一つの希望、それが「このお方の衣の裾にでも触れれば、いやされる」であったのです。しかしそこに大きな壁がありました。自分が汚れており、公衆の前に出ていくことができないからです。
 御衣に誰かふれ、自分の体から力が出て行くのに気づかれたイエス様は、自分の力が「盗られた」とお怒りになって立ち止まり、押しかける群衆を見回されたのでしょうか?会堂司ヤイロの娘はまさに危篤状態であり、一刻を急ぐ場合なのに、どうしてイエス様は、名乗り出るまでは一歩も退かない態度に終始されたのでしょうか?これは私が若い頃から抱いていた疑問の一つでした。
 女から言えば、律法を破ったという「出るに出られない」状況がありました。どれぐらいの時間が、沈黙が流れたのかわかりません。これは「怒られた」わけでも、状況をわきまえられなかったわけでもありません。ただ一つ、神に栄光を帰することにより、「罪」を赦し義とするためでありました。
 イエス様が「あなたの信仰があなたをいやし」と女に言われたのは、従来は女のJesus_29_2「御衣にでもふれたならば」という信仰のためであるとされてきました。しかし、もしそうならば、危篤の中、女の自白を待たれる必要はありません。女はいやしを得てはしても、それがイエス様の御衣にさわったからだとは、今後も公に言うことはなかったでしょう。しかしイエス様の決然たる態度を見た女は、隠しきれないと観念したのです。そして信仰の行いをしたのです。群衆という公けの前で、恐れにおののきながら、イエス様の足下に身をひれ伏し、余すところなくすべてを打ち明けたのです。
 聖書には「そこで、(マルコ5:34、ルカ8:48)」とあるように、女の告白に対し「あなたの信仰が」と言われ、賞賛されたのです。告白し「神に栄光を帰す」ことは、罪の赦しと義に決定的に重要なのです。まったく同じことが、十人のライ病者のいやし(ルカ17:12ー19)にもあります。ただ一人、神をあがめるために戻ってきた者にだけ、「あなたの信仰が」と語られているのです。
 いやしを得られたならば、その栄光を神に帰さねばなりません。その行いで神から義を受けるのです。いやしは体と共にやがてまた土に還りますが、神からの義は永遠の恵であり祝福なのです。どちらが決定的に大切か、おわかりですね。このことを心にしっかりと刻もうではありませんか。