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いやし・奇蹟

2024年8月18日 (日)

サタンの策略Ⅲ

エペソ 6章11~12節   2017新改訳

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 世の人々はすでにサタンの配下にあるので、サタンの攻撃目標はクリスチャンに絞られている。だから激しい攻撃を受けるクリスチャンが精神の病にならないという保証はない。もし教会員が病になった場合、教会をあげて祈り、フォローしますし、教会には真の癒やし主である神が居られるので、癒やされる希望だけでなく、事後には強力な証人にとなる可能性が高い。

 心の癒やしは医学の力を用いて薬物などの治療などを受けつつ、ひとまず寛解状態を目指します。しかし完全に癒やされるには医学の治療だけでは不十分で、薬から解放される完全な癒やしは、ただ神によってのみ可能です。私たちの群れには、直ることが不可能だと言われる統合失調症が癒やされ、現在は逆に大きな働きをされている方がおられるように、完全な癒やしは生きた神を真の信仰する教会にあります。

 全てが悪霊に依ると見なすのは誤りですが、精神の病は悪霊に依ることが多いです。原因が悪霊と見られる場合、医学的な治療だけでなく、まず罪がわかっての信仰を持ち、心から悔い改めることから始まります。また聖書の真理によって(悪霊の偽りを砕き)戦う決意をしなければなりません。第一に神のことばである聖書をしっかりと学び、聖書の御言葉を神のことばとして実行することが大切です。次の段階は神の愛と御心が自分に注がれており、その絶大な恵みの故に自分を神に明け渡す段階があります。しかしそれは新生という、古い自分が死んで新たに生まれる中で起こります。これは自分が努力して得るものではなく、神からの一方的な油注ぎ(または聖霊のバプテスマと言われる油注ぎ)です。その際のポイントは自分に死ぬということです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」ヨハネ 12:24

 そうすればすでに勝利をとられておられる神が、あなたの中で主となられ、戦われ、必ず勝利す得るのですが、その受け入れる決断はあなたがしなければなりません。

 こころの病だけでなく、力のない信仰のクリスチャンや、霊的に苦しい方の力になることが私たちの教会のみ心です。病の人は病院で治療を受けることが大切ですが、それだけでは完全に治ることはできません。霊的な対応、つまり私たちをだましているものの正体を知り、その相手を神の言葉、聖霊によって追い出すことが、完全な癒やしへの道です。 
 まずもって本人の認識と決断が前提ですが、私たちは共にスクラムを組んで、キリストの愛のうちにサポートして行きたいと思います。 

2024年8月11日 (日)

サタンの策略Ⅱ

ヨハネ 1章12節   2017新改訳2017

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

 先週ではクリスチャンはサタン側から常に狙われて戦いの最前線にいることと、鬱などの病に対しては速やかに医学的な診断と処方を受け、脳内物質不足を補って平常に戻った上で心の癒やし、霊的な対応を進めることが大切だと申し上げました。それは老眼などでメガネが必要になったら、視力を補正するメガネを使うようなものだと例えました。しかし教会では鬱などの投薬治療を「信仰が足りないからだ」と否定的に見られ、ために治療を怠った所に悪霊がつけ込む事例が生じています。ですからそれは間違いだ、と強く申し上げたところです。

本日はその続きとして、特に下図の肉体面を中心にさらに学んでみましょう。Img_1397
 人間とは上図の三つで構成されています。その中で人の肉体は唯一目に見えるもので、この世の一時的なものであり、不完全な存在です。つまりサタンの攻撃を最も受けやすい存在でもあります。また肉体が健康な状態でなければ、それが精神にも霊にも大きな支障が出ます。私たちはこの肉体の良き管理者として、常に祈りながら最善の状態になるよう、心がけていかなければなりません。

 私たちの教会には大きな特徴があります。それは聖書を生ける神のことばとして単に信じるだけでなく、神のみこころに聞き従い、霊的な対応をして行く教会だという点です。つまり不思議や霊的なことが特徴的ですから、そのような人々が集って来る教会なのです。
 私たちの教会では例えば予知・予告の不思議がある方が来られた場合、その人が神を本当に信じているかどうか、次に聖書的に妥当なもので、個人にではなく神の栄光が表されているかどうかがポイントになります。
 いずれにしても教会はカウンセリングの場ではないので、肉体的な対応はまず通院されると共に、神を信じ、共に祈りをいたします。そうして精神と霊性が聖霊によって導かれた、真に癒やしのある教会へと主任牧師であるイエス・キリストによって導かれて行くのです。
 私たちの神は、十字架にかかってまで私たちを愛してくださった愛なる神です。私たちを完全に癒やそうと手を差し伸べてくださっているのです。そのことを実際に信じましょう。

2024年8月 4日 (日)

サタンの策略

   ✝Ⅱコリント 5章16ー17節   2017新改訳

ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 Ⅱコリ5章17節の「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」‥‥このことばに注意してください。実は誰でもがキリストのうちにあるわけではないからです。洗礼を受けて、晴れてクリスチャンになっても、数日は喜びで満たされるでしょうが、しばらくすると「ハタ」と気づくのです。「自分は前と何も変わってない」と。生まれ変わる新生は、そう、簡単ではありません。私は二十歳の時にバプテスマを受けましたが、私を含め、下図は受洗した多くの例を示しています。なのに、しばらくするとぜんぜん救われた気もせず、相変わらず苦しんでいる人が何と多いことでしょうか。相変わらず罪と良心の呵責に苦しみ続け、その鎖の中に居るのはどうしてでしょうか。

ローマ6章22節でも次のように言っています。Photo_20240810215501 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」と。しかし現実は肉の状態に悩んで、うつ病に近い状態にまで陥っているクリスチャンもいます。

 わたしは自分の経験も含めて、その人の祈りや信仰が足りないとは決して思いません。そうではなく、病院で診断され、処方薬を飲むことで劇的に回復します。これは老眼で見えにくくなった人がメガネをかけることとか、インシュリンを服用する糖尿病患者に信仰が弱いとでも言うのでしょうか。クリニックで処方されるこの類いの薬は依存性も中毒性もありませんし、霊的なものではありません。脳内物質の不足を補う薬を服用し、回復した体になってこそ、はるかに霊的な成長を目指すことができるのです。教会は皆でそのために祈り、支援をし、神の力が注がれる状態に戻れるよう霊的な対応もしましょう。病める兄弟姉妹を、牧師や教会が助けるのは、何よりも神のみ心であり、教会の兄弟愛からも当然なことです。

 身体的な治療を受けて回復し、次に真の新生した者となって神の大いなる証し人になることは極めて聖書的です。病み傷つき、苦しんだ者こそ神を愛し、神の宣教者として、また証し人として大きく用いられていったことは聖書が証しています。 

2023年12月31日 (日)

これはひどい話だ

ヨハネ 6章60節   2017新改訳

これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」

 福音書の中に、なかなか私たちには理解できないイエス様の行動がいくつかあります。本日はその一つ、自分に従われる大勢の弟子たちが一斉にイエス様から離れて行く事件がありました。本日はそのことについて語らせていただこうと思います。

 ヨハネによる福音書の6章にそのことが書かれています。場所はガリラヤ湖畔のカペナウムです。それまで付き従っていたたくさんの弟子たちは、イエス様のこの言葉によって去ったのです。
 かつて荒野でイスラエルはマナを食べたが、彼らは死んだ。しかし「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるもの」と言われ、群衆からそれを求められると「わたしがいのちのパンです」と答えられたのだった。そして決定打は「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」とさらに明言されたことだった。
 これを聞いた弟子たちは<人肉嗜好>だと思い、「これはひどい話だ」と去って行ったのです。どうしてこのような誤解されることをあえて言われたのでしょうか。背景とその後を見るなら、実に深い計画があっての言葉だとわかります。

 まず第一にイエス様は二つの理由によって、群衆から追いかけまわされていました。一つは奇跡見たさの群衆です。直前に五千人の給食という大奇跡をされていたからです。群衆はエリヤの再来だと思っていたのです。もう一つは最も危険な、イエスを王に担ぎ上げようとする政治的な陰謀です。またそこまでではなくても、弟子たちが本当にイエス様を信じて従おうとしているのか、試しが必要でした。「これはひどい話だ」と思った弟子たちは、自分の常識や判断でイエス様のことばを捉えました。そして自分の判断に従ったのですから、これは本当の弟子ではなかったのです。
 現在でもクリスチャンと称しながら、すべて物事を自分の判断で為し、教会に集っていながら、自分に何がしかの益を得ようとする人々は多いのです。このような目的で付き従う弟子の存在は、十字架に向けての宣教には、かえって妨害になるのです。

 さらに本日もありました<聖餐式>において、見かけはパンとぶどう酒ですが、そうではなく、イエスの体を食べ、その血を飲んでいます。私たちイエスを主と告白したので、永遠のいのちを受けているので聖餐の恵みに与るのです。人肉嗜好のように聞こえたイエス様のことばは、人智では測り難い、神の真実でした。

2023年5月 7日 (日)

癒やし~回復の時

使徒 3章16節   2017新改訳

このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。

真に癒されるとは、神様との関係の回復である。

足が不自由な人の<美くしの門>での奇跡について                  

○神殿内にあった<美しの門>の場所についての二つの説とその図。
○この四十代の男は、ある意味、神を信じ神殿詣をするユダヤ人にとって、誰もが知る超有名人だったはずである。
○最近起こったイエスの事件を、彼が知らなかったはずがない。そして癒やされるに足りる信仰があったと見るべきである。
○神はペンテコステの後、最初の奇跡としてペテロを通し、この奇跡を行われた。萎えていたはずの足の筋肉とくるぶしが、差し出されたペテロ  の手をとって立ち上がろうとした瞬間に回復した。ここにこの男の信仰を見ることができる。その結果、即座に躍り上がって立って歩けた。さらに歩けただけでなく、飛び跳ねて歩けたことは、もはや奇跡である。
この男は、即座に証人としての活動に入った。二人と一緒に宮に入って、歩きながら神を賛美している姿を見た人々は、「ものも言えないほど驚いた」のである。ペテロはこの奇跡を通して説教し、信じた男の数が五千人にも上った大収穫となったのである。

このように神に触れられた体験は、即座に「歩きながら賛美し」サンヒドリンの議会では、「二人と共に証人として立った」など、信仰の大きな力を伴うものだった。

 誤解してはならないこととして、神に触れられる体験と癒やしの違いである。イエス様がガリラヤからサマリヤとの境を通られた時、十人のツァラアトに冒された人がいて、祭司に行く時に十人とも癒されたのであったが、そのことをイエスに報告に来たのがサマリヤ人の一人だけであったことである。神による癒やしが即座に信仰に結びつかないのであれば、それは神の恵みを全くの無駄にしたわけで、かえって裁きの一つの理由になってしまいかねない。

2023年1月 1日 (日)

信じる人々に伴うしるし

マルコ 16章17~18節   2017新改訳

 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、
その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。

☆はじめに〜すべてのことについて土台となる事柄があります。サタンは己を良い者とだまし偽らせます。しかし人が自身の罪深さに気づいたなら、その人は神に近いと言えます。クリスチャンとは罪の奈落の底から、十字架の神の愛によって救われた人のことです。バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい、天の御国が近づいたから」と言いましたが、罪がわからずして悔い改めることができず、救いもありません。

🔖「わたしの名によって悪霊を追い出し」→これは悪霊の支配からクリスチャンは解放されるということです。
サタンに従う悪霊は、人に対して己の罪深い真実から目を背けさせようとしますが、救いの神を信じ義とされた人は、これを見破り、戦って勝利する力が与えられます。不安や恐れ、自己欲との戦いは血肉の命がある間中、絶え間なく続きます。しかし勝利後の解放された喜びは、悪霊に対する怒りと、真に生きていると実感できる喜びです。

🔖「新しいことばで語る」→確かに聖書を読んでも、信じる前後ではまったく分かりが違ってきます。聖書の一つ一つの御言葉が神のことばであることがわかるのです。み言葉に命があり、自分に語りかけてくることが分かります。「アーメン」にこもる心が違ってきます。そして信じたあなたが神を関して語れば、聞く人には「別人の新しいことば」として伝播し、わかるのです。

🔖「その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず」→パウロの例を見るなら、蛇とはマムシのような毒蛇でしょうし、毒とはトリカブトのようなものでしょうか?しかし仮に殉教に終わったとしても、即天国直行ですから神の栄光です。生も死も御心の結果であって、すべて神の最善の実です。ただ一つ、自分の意思で同じ事をして神を試してはいけません。

🔖「病人に手を置けば癒やされます」→これは私たち自身が、自分の体でまず体験しているのではないでしょうか。神に癒やしを求め、ただ単に体が直っただけなら、実は何の意味もないどころか、御心を無にしています。そうではなく、癒やしがその人を悔い改めや神への心からの感謝に向かわせ、信仰を堅くさせたのであれば、真に癒やされたと言うべきでしょう。クリスチャン病は許された病であって、すべて神の計画、御心の故なのですから。

 以上、聖書を神の言葉として信じる方にとって、この聖書箇所は信仰のチャンレンジそのものです。果たして自分に「しるし」があるだろうか? ではなぜ自分にないのだろうか? 本日の解き明かしが参考になれば幸いです。 

2021年10月 3日 (日)

いやし

イザヤ 53章5-6節   新改訳2017
 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

 イエス・キリストは「信じていない人々から」ではなく、民族全員が信じ、待ち望んでいたはずの人々から罪人とされ、苦しみを受け、捨てられました。その権力者たちからは自分たちの地位を脅かす危険な存在だとされ、民衆・・・イエスによって赦され癒やされた多くの人々・・・からは期待外れだとして、嘲られたのです。人々をあわれみ、愛そうと天から降りて来られた我らの聖なる造物主に、これほど最悪で悲劇的な結果があるでしょうか。しかし主はほむべきかな、最悪を神は最善に変えてくださりました。Healing_20211010034601
 イスラエルの民は<自分が期待しているメシア像と異なっていた>のでイエスを捨てたのですが、今日のクリスチャンにもそっくり同じことが言えます。使徒時代には当たり前であった聖霊のバプテスマを、どうして現代のクリスチャンは受けられないのでしょうか。衝撃的な表現をすれば、あの十字架につけた時代と今も変わりなく、神を自分の利己目的実現のために利用しようとしているからです。神のみ心を行おうとしなければ、結局のところ、十字架上のキリストに向かって「降りて来い、そうしたら信じよう」と叫んだ人々と大差はありません。

 このことは癒やしについてもまったく同じことが言えます。癒やしはまず第一に神がみ心によって行われるものです。聖書の理解で言えば、病の多くは罪が原因であり、特に心の病ではそれが顕著です。ですから真に癒やしを受けるためには、まず神との関係を正しくしなければなりません。神が今も生きて働かれていることを認め、自分の高慢と罪を認め、徹底して悔い改め、ひたすら神のあわれみにすがらなければなりません。

 癒やしはこのように信仰によって受ける恵みです。どんな時代でも、信仰が無ければ癒やしは起こりませんでした。イエス様も、不信仰な郷里ナザレではほとんど力あるわざは行われませんでした。またどんなに信仰があっても、み心の故に癒やしが行われない場合もあります。しかしその場合、神がその理由を答えてくださることでしょう。「わたしの恵みはあなたに最善である」と。
 実は癒やしの最大最高なものは、神を心から信じる事ではないでしょうか。その時、もはや癒やしなどは超越してしまっていて、どうでも良いことになっているのでしょう。どんなに癒やされたとしても、人の体は100年もありません。そうではなく、霊の人となって、永遠に神の国で永遠に生きるとしたら、どんなに素晴らしいことでしょうか。

2020年11月29日 (日)

どちらが易しいか

マルコ 2章5・9節   新改訳2017

5節 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

9節 中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。    

   屋根から吊り下ろされた中風の人を前に、「あなたの罪は赦されました」と、その先にある死をも覚悟しつつ、イエス様は並み居るパリサイ人の眼前で言われました。人間がそれを言うことは、自分を神、あるいは神と等しい存在とする冒涜罪であり、死に値することでした。それは現在でも決定的な事柄であることは同じです。もし、この直後に中風の人が癒やされなかったとしたら、です。しかしイエス様の言葉が真実である驚くべき癒やしの奇蹟が起こり、そうはなりませんでした。そうなると周囲の人は、イエス様が神、あるいは神に等しい人物なのか、それとも悪霊の力に依る癒やしなのか、どちらかに判定せねばなりません。この時、民衆は別でしたが、専門家であるパリサイ人の主だった人たちは、なんと後者を選びました。自分たちの権力と利害に目がくらんでいたのです。そのためイエス様は不法な十字架への道をたどることになったのです。

 本日のテーマですが、屋根から吊り下ろされたのは中風の病人です。本人も含め彼らは癒やされることを期待して吊り下ろしたのです。 「この方なら癒やされる」との信仰があったからでした。しかし案に相違して罪が赦されました。彼らが落胆したかどうかは分かりません。もちろんイエス様は癒やしを行えたのですが、真実な方は表面にではなく、根源に目を留められます。これをもって中風の人の病の原因は罪であったと解説する解説があります。しかしそうであれば、中風のような一般的な病気はおしなべて罪の結果だとする、パリサイ人の病の見方と何ら変わりはないことになります。そうでなく、私は中風の人は罪の許し、神の恵みを証する選ばれた証人なのだと思います。義人はいません。すべての人に罪があるのです。病にかかっていないからと、自らを義とするパリサイ人の前で、イエス・キリストによって罪が赦され、癒やされてることに、真の救いはただイエス・キリストを信じ、その罪が赦されることだと教えておられるのです。すべての人の代表として中風の病があったのです。発病するかどうかではなく、罪こそがすべての人の実相です。ですからこのことは福音そのものでした。そして後の十字架によって、救いが完成されたのです。

 たとえ体が癒やされても、をれは肉体が世に在る時だけの一時的なものです。十字架によって罪が赦され、神を信じる者となることこそ、永遠の救い、いのちを得る道です。イザヤ53章5節にある「その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」この神の贖いの御業こそ、すべての癒やしの源です。罪の赦し、その宣言こそ、冒涜ではなく、神ご自身による救いの御業が始まった宣言でした。癒やしは神を信じ、救いへと至らせるためのものです。

2020年11月 1日 (日)

9人はどこにいるのか ー癒やしor 救いー

ルカ 17章17節      新改訳2017 

すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。

 この「十人のきよめ」はルカだけの記事です。イエス様が「御顔をエルサレムに向け」てガリラヤからサマリヤ地方を通過しての山道を歩まれていた時、その国境の村での出来事でした。十人の重い皮膚病を患っている人たちの「私たちをあわれんでください」と叫ぶ声に、あわれみの主が答えられました。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」と。アラムのナアマン将軍の癒やしがありますが、この十人はナアマンよりも素直に従い、その途中で全員が癒やされました。

 しかしこの十人の中で神を崇めるために戻って来た者は、ユダヤ人にとって外国人であるサマリヤ人一人だけでした。残りの九人は癒やされるために叫んであわれみを求めたのですが、それはただこの状態を脱したいだけの自分のためでした。たとえどんなに超自然的な奇蹟を見たとしても、それが生き方を変える真の神の力であることなどには関係なかったのです。まさに豚に真珠だったのです。

 そもそも奇蹟、奇蹟の癒やしは、近年ラインハルト・ボンケが心がけているように、神が真の神であることの証明として神が起こされるものです。それゆえ奇蹟が奇蹟を起こされた神への信仰に結びつかなければ、まったく無用なものとなります。
 サマリアの魔術師シモンは奇蹟の力を、使徒たちから金で買おうとしました。今日でもベニー・ヒンのように、非常に作為的に奇蹟や奇蹟の癒やしを演出し、人々を虜にしようとした動きがあります。しかし真の奇跡、癒やしを見分けながら、神を誉めたたえなかった九人のようになってはいけません。真の奇蹟は神からのものです。繰り返しますが、それが信仰に結びつかなかったならば、神から嘆かれることになるのです。

 戻って来た一人は、自分が重い皮膚病から癒やされたことに、自分の癒やしよりももっと大切なこと、全能の神が実際におられることに気づいたのです。それは彼にとっては癒やしよりもはるかに大切な気づきでした。肉体の命はいずれ必ず滅ぶものですが、永遠の神がおられ、神を信じ従う者はその永遠のいのちの恵みにあずかります。戻ってきた彼の信仰は詳細には不明ですが、彼は体が癒やされただけでなく、たましいの拠り所が見つかった喜びで満ちていたのです。

 この後しばらくして患難時代が来るでしょうが、癒やしを求めてくる人々に対し、私たちは徹底して癒やしは神のものであること、神に栄光を帰すこと、癒やしの神を信じなければならないこと、つまり「信仰による救い」を伝えましょう。「九人はどこにいるのか」の声を聞くことが無いように。

2020年3月29日 (日)

赦しといやしの違い

マタイ 9章5節   【新改訳2017】
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

 多くの方はイエス様のこの問いに、なかなか答えられません。私自身も「う〜ん、難問だ、罪を赦すことと、病を癒すこと、さてどっちが易しいんだろう」と考えて、その落とし穴にはまっていました。その穴の中では、次のように考えていたのです。

 罪を赦すことは100% 神の主権だから困難(カトリックの告解や一部の教派では可能なようですが、聖書から見れば誤り)、それに比べて癒しも基本がすることだから、いくら祈っても癒されるとは限らない。どちらも神のものだが、あえて易しいのがどれかと言えば、可能癒しかな?などと・・・云々。ところがこのような考えは全く的外れであることがわかりました。

 ではどう言うことでしょうか。これは律法学者へ問いでした。当時のユダヤ社会では富は神の祝福、病は罪の結果と考えられていました。この男の重い痛風は、人々は罪の結果だと受け止めていました。痛風の男自身も、そう思っていたかも知れません。しかしたとえそうであっても、周囲の人々には信仰がありました。彼らによって運ばれたこの人に、イエス様は根本的な癒し、「あなたの罪は赦された」と語られたのです。しかし罪の赦しは癒しと異なって、すぐに周囲の人にわかるような外面的な変化はありません。

 変化がなくわからないために律法学者は、イエス様の言葉だけに反応し、冒涜だとみなしました。人に過ぎない者が罪を赦すならば冒涜ですが、神、または神からの権威であれば正当で栄光です。それでイエス様は「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」癒しをあえてあらわされたのです。

 この癒された男は、自分の罪が赦されたことが、語られた一瞬でわかったはずです。どれほどの平安と歓喜に包まれていたことでしょうか。これはその赦しを受けた経験者でないとわからないことです。その彼にとって「起きて寝床を担ぎ、家に帰る」などはおまけみたいなことです。しかし人々にとっては、神にしかできない驚くべき大奇跡でした。また「罪を赦す」イエス様の言葉が真実であったことの証明でもありました。律法学者たちちとっては、まさに「グーッの音も出ない」出来事になったのです。

 結局この「どちらが易しいか」との問いは、AかBかの二者択一の問うものではなく、律法学者たちに「神の国が近づいた」ことの福音を、律法学者たちに知らせるための癒しでした。たとえその収穫がわずかであったとしても。

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