✝詩篇40篇7~8節 2017新改訳
7 そのとき私は申し上げました。「今私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。
8 わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。
本日のテーマをわかりやすい人物で例えるなら、アブラハムとダビデです。アブラハムはモリヤの山で、唯一無二の息子イサクを神に聞き従って捧げようとしました。私ならそれは絶対不可能です。「神様、お気は確かですか?」とか「いくら何でも約束のものを反故にするなんて」と拒絶したでしょう。しかしアブラハムは従ったのです。彼はまさに信仰の人、聞き従いの代表です。
一方ダビデはみこころを行う人の代表です。彼は今に至ってもイスラエルの象徴とでも言うべきです。キリストはダビデの子孫から出ました。イスラエルの版図を最大限広げたのもダビデです。神殿建築こそ許されませんでしたが、ダビデほどひどく神から愛された人物はいません。たとえ部下を殺してまでその妻を奪おうとも、晩年にも民の数を数えようとも、普通なら断罪されておかしくないケースですが、ダビデは許され、神の祝福は変わることがありませんでした。
どうしてでしょうか。彼は神を愛していたからです。神もまたダビデを愛しておられました。ダビデがみこころを行う者だったからです。互いの気持ちというものは、それが通じ合うためには一定の期間が必要です。一朝一夕では不可能です。相当期間ふれあい、交わっていなければなりません。ダビデは人の弱さから罪を犯しながら、即座に悔い改める二心のない者でした。そのような存在であったからこそ、神が愛され、いつも交わられていたのです。そしてみこころがわかる者とされたのです。
そのことがよくわかる例は、契約の箱をエルサレムに迎えた時、その喜びを裸になって踊った姿にあります。彼は王の娘にして妻ミカルの、侮の目を意に介しませんでした。ダビデは人からどう見られようと、ただ神に対していたのです。このような人物を神が愛されないわけがありません。どんな過ちを犯そうとも、悔い改めるダビデを神は赦すのです。ダビデもまた、みこころを行うこと最上の喜びとしました。
神に「聞き従う」者は祝福されます。しかし「みこころを行う」者は御国入りが確かなだけでなく、愛されて「わたしの兄弟、母」(マルコ3:35)と呼んでくださるのです。両者を分けるものは何でしょう。真に神が人に求めておられるのは、上下関係的なものでなく、対等的なものです。それは交わりが土台となります。交わりとは何でしょう?聖霊によるバプテスマ以降のものです。わたしの経験では、それを遮っているものは、神の都合やタイミングもあるでしょうが、ほとんどの場合、人にあります。私たち人間は自分が一番自分のことをわかっていると思っていますが、そうではありません。あなたを造られた神が一番わかっておられるのです。ですから、神との交わりを遮っているのは、他ならぬその人にあるのです。「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(マタイ3:8)悔い改めるべきことが見当たらないような皆さん、この喫煙や飲酒、それが切れた時、もし不機嫌になるとしたら、その人には軽度の禁断症状が出ているのであり、霊的には世の霊、悪霊に支配されていると言えます。
実際にはこのようなわかりやすい例だけではありません。不安とかコンプレックス、金銭への執着、いじめに限らず心に受けた傷、そのようなことがいっさいないという方はむしろ少数派でしょう。悪霊が巧妙に隠れて入り込み、その人を、世の中を支配しているのが世の姿です。今年のハリウッドでアカデミーの主要な賞を独占した映画、略称エブエブなど、その典型例です。映画ではマルチバースと聞こえはいいのですが、実際には現実逃避の変身願望と闘争に終始した子供騙しです。
人が自分自身を、あるがままの姿をそのまま肯定し、自分を喜んで生きることはかなり困難です。欲望に支配されて満足することを知らず、その罪深い自分を、あるがままに受け入れられないのです。サタンはそうやって人間を疲れさせ、真に絶望させようとしています。この解決はただ一つ、十字架のキリストを信じ、キリストの愛によって自分と和解するしかありません。キリストに愛され赦された自分なら、受け入れることができるのです。これ以外に正しく歩める人の道はありません。もともと神は人を、エデンの園でのように、ご自分と親しく交われるために創造されているからです。イブやアダムと同様、罪がそれを妨げているのです。
どうやって私たちは、愛してくださる神を知り、正しく導いてくださる神の声を聞くことができるのでしょうか?その第一は神のことばである聖書に聞き従うことです。聖書を神のことばと信じるなら、聖書の御ことばに聞き従い、御ことばを行なう者となるはずです。主イエスが命じておられるたった二つの命令とは、「何よりも神を愛すること」「隣人を愛すること」です。神を愛する者は、神を知り、御ことばを通して語りかけてくださる神の御心を行おうとします。ところが悲しいことに多くのクリスチャンは、口先では神を信じると言いながら、実際には信じた実が伴っていません。神を認めることだけなら、悪霊の方がはるかに優っています。そうでなく、信じた御ことばの実が実る者でなければ、真に救われているとは言えないのではないでしょうか。ポイントは聖霊の実です。
また神は信じる者に直接語られることがあります。これは誰にでも、ではありませんが、聖書の主要な人物、アブラハム・イサク・ヤコブ・モーセなど皆、神の声を聞いています。聖書がある今の時代においても、神は変わらず語ってくださっています。これは御ことばの具体的語りかけであり、もちろんそれは聖書の範囲内で語られていることです。私たちは聖書を土台に吟味して、個人的に語られる神の声を受け取って行くのです。ことに気づけておられるでしょうか。神はあなたの横で、交わりの手を差し伸べ、それを待っておられるのです。