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神のみこころ

2020年9月13日 (日)

神のみこころを行う

Ⅰペテロ 4章2節   新改約2017

それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。

 クリスチャン生活にとって、「み心を行う」ことは究極の目標です。ただ多くの人に通って、「聞き従い」と同義語に受け取られている面があります。間違いではないのですが、もう一歩進んだ受け取りを私は考えたいと思います。
 聖書には少しショッキングなみことばがありますl。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(マタ7:21) 「主よ」と言い、御名によって預言し悪霊を追い出したりしていますので、これは一応クリスチャンと見られますが、その全員が天国に入れるわけではない、「父のみこころを行う者」だけが入ると読めます。ですから今日のテーマは非常に重要です。

 さて、「聞き従い」には神からの命令を受け、受けたことだけを行うような意味合いを感じます。しかし「父のみこころを行う」という言葉には、私には良い意味での「忖度」(そんたく)することが感じられるのです。忖度とは、「他人の心情を推し量ること、また、推し量って相手に配慮すること」です。神様から命令されたり、指示を出され、そこで受け身的に行うような上下の場でなく、自由で開かれた場、その中で進んで積極的に行おうとする雰囲気が「みこころを行う」には感じられるのです。たとえ全能の神の御前であったとしても恐れることのない、屈託のない、笑いさえ交えるような、そんな中で、進んで手を上げ、「私のにさせてください」というニュアンスの感じがします。神のご性質は愛であり、御国は決して階層的な窮屈な国ではなく、自由でのびのびとした所のはずです。

 「一度生まれた者は二度死ぬ、二度生まれた者は一度だけ死ぬ」という高名な心理学者の言葉があります。これは新生を言っています。新生すれば聖霊は内住の段階から一歩進んで、その方の主となってくださいます。イエス様を通し、私たちの主となってくださった聖霊様だけが、神のみこころをすべてご存知なのです。聖霊様抜きに「神のみこころを行う」ことは不可能です。私たちが神のみこころを知り、交わり、忖度する必須条件は新生です。みこころを行う、その結果は聖霊の証印(2コリ1:22、エペソ1:13・4:30)を受けるわけです。たとえ今、そうでなくても求め続けましょう。それはみこころなのですから、時が来た時、必ず求める者に与えてくださります。ただ人はその時を知りません。ここに忍耐があります。あわれみ深い神様、どうかその時を早めてください。感謝します。

2020年8月16日 (日)

信仰・希望・愛

Ⅰコリント 6章17節   【新改訳2017】

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

 十字架は贖われた罪、その赦しです。私たちの群れでは「十字架」と言う言葉を入れて証をすることが大切なのですが、言葉だけを入れておけば良いというものではありません。何のためにイエス様は十字架に架かってくださったのでしょうか。人は罪のゆえに、裁かれ、滅びに至るからです。しかしイスラエルの民で明らかになったように、律法を全うして人は救われることができない、ただ一方的な神の愛とその十字架を信じて滅びを免れるのです。但し、もし滅びから免れる、そのためにだけに十字架を信じたのであれば、実に神のみ心を損なっていると言えるのです。

 確認しましょう。本当に罪がわかり、神の子自身が自分の罪のために身代わりとなってくださった。その十字架を信じたならば、すべての罪が赦されます。もっと大切なことは、それは神である聖霊様が内住されるためであったと言うことです。これが十字架と復活の目的でした。これに優る恵は、この人類に存在しないと確信しています。

 しかし聖霊の内住だけでは不十分でした。ペンテコステという聖霊降臨の際には、弟子たちはすでに、神と神の子キリストも信じていたこと、つまり現代で言うクリスチャン状態であったことを踏まえてください。教会はこの聖霊のバプテスマによって誕生したのです。

 聖霊のバプテスマを受けることなしに、神を信じ聖霊が内住されても、多くの方はその存在を自覚できません。存在を感じられないものを「主」と崇め、聞き従うことはできませんから、神を「ないがしろにする」結果になります。しかし聖書はそうでないことを警告しています。自分の内に「神、聖霊の宮」(1コリ3:16-17、同6:19)があること、自分の体がすでに神の所有に移管していることなどです。

 聖霊なる神にしか神の御心を知ることができません。神が聖霊を私たちに送って下さったのは、私たちが聖霊様を通し、神の御心を知り、そのみ心を行うようになるためでなくて何でしょう(ローマ8:27,1コリ2:10)。但しこの御心を行うとは、まだ聖霊のバプテスマを受けていない状態の時のように、命じられて嫌々聞き従うのではなく、神と交わり、神の愛を知り、その絶大な価値のゆえに新生し、神を愛して、自ら進んで行うことなのです。神はそれを最も喜んでくださいます。神を愛する、これが最も大切な教えです。イエスご自身もこのように御言葉でもって教えてくださいました。

『あなたは心を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』と。

2020年6月21日 (日)

偽り

 Ⅰペテロ 5章5節   【新改訳2017】
 同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。

 私たちは神を信じています。しかし神の弟子となり、従う者となっている人は極少数ではないでしょうか。主イエスの「自分を捨て、自分の十字架を負って」のことば通りに、自分は常に自分を捨てていると言い切れる方がどれほど居るのかと同じだからです。

 キリストの弟子は無私でなければなりません。自身が神への捧げものであり、神のものになっているはずです。世の霊と力に対抗し、戦い、肉体の死に至るまで神を信頼し、その勝利を証することがクリスチャンの生き方であり、どこまでも神に栄光を帰し、謙遜であるはずです。しかし現実には全く不十分なクリスチャンがほとんどであり、天国行きの切符をゲットしたとして安心しきって、世人と変わらない生活を送っているだけなのです。クリスチャンだと言いながら、嫉妬や肉欲に支配されているならば、その方は真のクリスチャンではありません。物欲、出世欲、気づきにくい所属欲などに心を奪われていては、神の目から見るなら、悪霊の実を実らせているのです。

 私もそうでしたが皆さんも、初めからこれらに勝つことは出来ないと諦めているおられるのではないでしょうか。神の愛も力も知らないので、そう思われるのです。どうして神の力がその人に現れないのでしょうか。聖霊さまがおられないか、またはあまりにも小さな存在なので、聞けないのです。神をそのように扱う救い難い自己中心の霊というか、高慢さが内実なのです。それに目をつむって、自分の現状を正当化しているのです。聖霊なる神をいつまで侮り、聞かず、悲しませ続けるのでしょうか。

 自分より他の人がすべて優っているといつも思いましょう。逆に自分が人より優っていると思うなら、大いに害があるのです。自分が蔑まれ、落とされるなら主の受難を偲び、与れたことを喜びましょう。どうして怒りの、妬みの感情が湧くのでしょうか。自分をよく知る者は、自分の無価値さを知っています。真の平安は、へりくだりの中にあります。

 残念ながら謙遜には自分の力でなれません。神の助けが必要であり、それなしには不可能です。ですから私たちが謙遜し、へりくだるなら、ますます神に栄光を帰し、へりくだる者となるのです。神の平安と愛の中、自分のことなど本当に小さい、わずかなことと知るのです。そこで初めて自分から解放された平安の恵みが訪れているのです。

「神は高ぶるもには敵対し、へりくだる者には恵みを与えられる」(1ペテロ5:5)です。

2020年6月 7日 (日)

生き返ったラザロ

ヨハネ 11章43節   【新改訳2017】
 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」

 なぜすぐにイエス様は行かれなかったのでしょうか?まず押さえておきたいことは、ベタニアはエルサレム滞在時にはここを本拠としておられたほどのエルサレムから数kmの距離であって、イエス様にとって今や危険な所です。そのためかイエス様たちはヨルダン川の向こう、ペレアに滞在しておられました。その事情を知っていたか、あるいは慎みのためなのか、イエス様に送った使いでも、マルタたちは、危険な病状にも関わらず「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者(ラザロ)が病気です」とだけしか知らせませんでした。しかしそんな気遣いもイエス様はこの事態について逐一承知しておられ、神の栄光の計画に織り込み済みのことだったのです。
  聖書にはイエス様の三つを含め全部で七つの死人が生き返った記事があります。そのほとんどが死んだ直後のケースでしたが、このラザロの生き返りだけはまったく異なります。ラザロは死んで四日経ち、すでに腐臭ただよう状態だったからです。腐乱死体を再び生きた元通りにするとは、世界の歴史始まって以来、空前絶後の出来事です。マリアの処女の受胎と同様、どのような説明も不可能です。人は信じるか、信じないかのいずれかです。

 この生き返りは最大の祭りである過越の祭に集まって来た大勢の人々が見ることとなり(ヨハネ12:9)、イエス様の都への入場の際にはなつめ椰子の枝を手に手にもって「ホサナ」と叫ぶ、大群衆へと成長したのです。この事態は時の権力者たち祭司長やパリサイ人にとって、自分たちの権力基盤が崩壊するかどうかの瀬戸際に追い込むことになりました。

 それゆえ、どんな手を使ってでも、祭司長やパリサイ人はイエス様の存在を抹殺する緊急事態に追い込まれ、何があってもそうする決心に追い込まれたのでした。つまりラザロの生き返りはイエス様が神であることと、そのイエス様を殺そうとする決心を固めさせた二重の結果を伴ったという事になります。ラザロの生き返りは、神の時が満ちたことを現す出来事でした。生と命を完全にコントロールされているこの神を、私たちは信じているのです。私たちを愛して、永遠のいのちを十字架によって与えてくださった神を崇め、心から讃美しましょう。

2020年1月26日 (日)

みこころを確かめる

民数記 12章6節   【新改訳2017】
 主は言われた。「聞け、わたしのことばを。もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、【主】であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。

 私たちの教会は、礼拝する場所に今、窮地に立たされていました。いつも礼拝していた施設が半分ぐらいの割合で使えなくなったのです。その上、借りていた教会事務所の更新も迫っていました。私たちは感謝する中、これには何らかの御心があると促しを感じ、聖会が終わった直後の1月12日、いつもの不動産屋さんに行って相談をしました。御心の礼拝場所、心から賛美できる地を求めて。

「心から神を賛美し、礼拝したい」そんな願いを言うと「そんな場所はあり得ない」と初めは取り合ってもらえなかったのですが、ある担当者が「一軒家で楽器可なら可能かもしれない」と助け船を出し探してくれました。そしてその物件がたった一つだけありました。

 問題は入居するための初期費用が、私たちの予算を大きく超えていた事でした。次に単に楽器可だけでなく、教会として借りる事、管理人として教会員家族が住む事など、こんな条件をOKしてくれるのだろうか、当初とても不可能と思えるばかりでした。

 そんな中、滅多に夢など見ない私が、数日経って不思議な夢を見ました。さらにそんな夢をどうした事か、早天の祈りの中で皆に語ってしまいました。その夢とは【ある薄暗がりの部屋に入ると、白っぽい猫が私のすぐ横にいました。「ええっ、猫がいる」と思ったのですが、さらに奥の方には、私の猫がいることに気づきましまた。それで「お前たち、仲良くしていたんだね」と私は言ったんだ……】そんな夢でした。

 この夢は1月16日(木)のことで、うっかりすぐの早天で話したのです。この話を聞いていた妻が突然「ええっ、白い猫!」と声を出して驚きました。直前のケパドルブログで、白っぽい地域猫の話題を取り上げたと言うのです。夢が解き明かされました。私が見た白い猫とは地域の人々のことで、その人々が私達と交わるようになるという示しだったようです。つまり今度の会堂は、そのように地元住民との交わりのために用いられる、と。

 これ以外にも管理人として住んでくださる教会員、初期費用が信徒全員の献金によって完全に満たされた事、関東予選会の賛美曲、貸し主がこちらの側の要望のすべてを受け入れてくれた事など、沢山の確認事項が与えられました。この度の移転は、私たちの祈りに応え、心から賛美できる礼拝を実現させようとする神の導きなのです。ハレルヤ!

2019年6月 9日 (日)

ありのままに見る

Ⅰヨハネ 3章2節    

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。  【新改訳2017】

<怖れと安心> この聖書箇所で「キリストの現れた時」とは再臨、あるいは携挙の時です。つまり御霊のからだになってからでないと、キリストをありのままに見ることはできないのです。血肉の体を着た今のわたしたちは、ありのまま見えなくても、全知の神は私たちの良いも悪いもすべてを知っておられる(ありのままに見ておられる)、その上で私たちを子とし、愛してくださっている、これが難解な同3:10-20の「20たとい、自分の心が責めても、19神の御前に心が安らかにされる」意味でもあります。すべてを知っておられるが故に怖れて神の前に出られない者と、すべてを知っておられるが故に、それでも揺るぎなく子としてくださる神を信頼し、父の許で心が安らぐ直ぐな者、この違いは非常に大きな者です。畏れはあっても、真のクリスチャンに怖れはありません。さて、あなたはどちらの側のクリスチャンでしょうか。

<ありのまま・・・考> 私たちが賛美している歌集の中に「ありのままのあなたでいい」と言う歌詞があります。この「ありのまま」ということをばを、ただ単に「開き直った感じで、現状通り今のままでいい」と受け取られては、それは違うと私は思います。
そうではなく正しく自分の姿を知ること、気づかされることが前提だと思います。実は多くの人が感じていることは、一番自分のことを自分がわかっていると思っているのに、自分自身の真の姿が実際ははわからないことです。胃が痛いと思っても、実際は膵臓や脾臓、胆嚢だったりします。自分の性格は○○だと思っていても、それは思い込みの間違いだったり、○○ありたい、○○あらねばならないと願っていたもので、実際とはかなり違うことの方が多いのです。その他、自分を守ろうとして欠点を正当化したり、心の病や障害にも影響されるのです。ある意味、自分のことが世界で一番わかっていないのが自分だと言えなくもありません。

<ありのまま> 私たちが神を知ることができるのは、神と似た形になった時ですが、神の方は私たちの真の姿を知っておられます。その上で愛してくださっています。私たちが試練や困難に出会い、何一つ弁解できない自分の罪深さを知った時、その時、確かに自分には絶望しますが、神に希望を見出すことができる大チャンスです。実に罪深い自分の姿を見たその時、自分に死に、自分を神に献げてしもべとなり、神のものとされることができます。悔い改めのどん底の中で、次のような声が響きます。「ありのままでよい」と。ですからこれは人間が言う言葉ではなく、神が私たちに語ってくださる言葉なのです。「ありのままに見た」自分に絶望したので、神があわれんでくださり、神と交わる者、聖としてくださったのです。

ですからみなさん、実際どうにもならない自分自身から解放され、神のものとされることによって、罪深い自分自身から解放されていただきたいと思います。神の内にあれば、そこは真に自由があるのですから。

2019年4月21日 (日)

神に喜ばれたい

Ⅰテサロニケ 2章4節 4章7節  【新改訳2017】

 むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。

 神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。

聖書1テサ2:4に「私たちの心をお調べになる神」と言う類のことばがいくつか出てきます。雀の一羽でさえも神のゆるしなしに地に落ちることはなく、私たちの髪の毛の数まですべて数えられています。ナタナエルという十二弟子の召命においても、主はナタナエルが居た場所まで言い表されました。

このことはつまり、私たちのすべて・・・・それがどんな小さなことであろうとも、神が知らないということはないと言うことです。これを聞いて、それでも神を恐れない人が果たしているでしょうか。かといって全知全能である神の前で、自分を守ろうと弁解することほど愚かなことはありません。しかしポイントになるのは神はこのような罪深い愚かな私をも十字架で愛してくださり、ご自分の命を持って救って下さったという信仰です。ですから神の愛に応え、神さまのふところに飛び込むことしか他に道はありません。

以上のことを抑えた上で、この「心をお調べになる」ことばのすぐに「神に喜んでいただこうとして」ということばが続きます。これはパウロがよく言うことばです。愛は愛でしか応えることはできません。神の愛に答え、神を愛する者にとって、神が私をすべて知って下さるということは喜びですし、何とかして神を愛そうという心が湧いてきます。

愛とは最大限の関心を相手に持つことです。すべてを知りたいのです。事実婚と言って、籍を入れず、いつ別れてもいいように、家にあるものはすべて買う時から所有者が決まっている形があるのだそうです。これは極端として、夫婦でも互いのスマホを見てはダメとか言うカップルがあるそうですね。私はこれを聞くと、そこには秘密という罪があるように感じてしまいます。神さまはすべてをご存知です。愛すればこそ相手のすべてを知りたいのです。私たちも愛する神さまを知りたいのです。何とかして神さまを喜ばせたいのです。

 この群れではよく「神のみこころは?」をよく祈っています。みこころを聞くことは確かに大切ですが、1テサ4:7では「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」と大前提がはっきり語られています。これは自分の努力や行いで聖なる者になることではなく、パウロのように、「神に喜んでもらいたい」と常に神を愛する行いから聖とされていく、私はそのように示されています。私たちが神に喜んでもらおうと心から行うなら、その稚拙は関係なくそのすべてを神は喜んで下さり、天国での最上の宝として取っておいて下さることを信じます。目を世にではなく、天に向け、何とかして天のお父様に喜んでいただく生活をいたしましょう。

2019年3月 3日 (日)

神のみ心に従って願うなら

Ⅰヨハネ 5章14節      【新改訳2017】

何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

   今回の白馬スネルゴイキャンプで、賜物の用い方について迷っていた事について見事な解決が与えられました。右下の図で座っているのは、神さまからの賜物の注ぎが来るまで、ずっと待ち続けている人です。立っているPhoto
人はそうでなく、賜物を用いて行こうと立ちあがって人の姿です。キャンプでA牧師は「聖霊はみ心の祈りをすればかなえてくださる。それはそうしようとする私たちの意思から始まる。故に奇蹟は私たちの意思から始まる」と語られました。座ってでなく立ち上がって行く。これが答えでした。

  ですが少し誤解のないよう、付け加えさせていただきます。癒やしとか奇蹟のわざは100%神のものです。それを人間が行えると少しでも思ったなら間違いです。ではどういうことかと申しますと、A牧師は最初のフィリピン派遣を例に出されたのです。

 初期の派遣でしたが、チームは預言に従ってテロが頻発するミンダナオ島に入りました。命を惜しまない決心をしたいたのですが、チームを乗せた車が市内の歓迎のアーチをくぐる時、そこに「Solvation & Healing」の文字が書かれていたのです。その途端、チームは動揺してしまったのです。癒やしは意図しておらず、どうやっていいか経験もなかったからです。しかしチームは導きと腹をくくって神に頼り、それこそかつて見たことを見よう見まねで癒やしを行ったのですが、なんとそれが現地新聞にも載るほどの、驚くべき奇跡の癒やしの集会へと変えられたのです。
 意図して行ったわけでなく、むしろ「私たちにはできません」と辞退して帰ろうという声さえ上がっていたのです。しかし預言を通し、神の導きに従った結果は真実で見事でした。これは「意図してではなく、そのように追い込まれて聞き従った」結果でした。以後、私たちの群れは外部から「日本で癒やしの教会といえばTELAしか思い浮かばない」とまで称されるまでになったのです。
 癒やしは神に聞き従って行くという私たちの意思に、神が働いてくださるものです。

 絵を見てください。座って聖霊の賜物をただ待っている人より、立って意思を持って神に聞き従おうとする人がいます。どちらが神のみ心に答えており、用いられるでしょうか。そうです。信仰を使って立っている人にです。癒やしと奇蹟は私たちの意思にかかっているのです。

2019年2月 3日 (日)

私と和解する

エペソ 2章16節     【新改訳2017】

二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

 聖句で「二つのもの」とあるのはユダヤ人と異邦人のことです。パウロが終生戦ってきた割礼問題の解決が和解という言葉で言い表されているのです。割礼はクリスチャンをユダヤ教へ改宗させることですが、妥協するのではなく、キリストにあって乗り越え一つのものとなりました。今回は一人の人間における相反する二つのものがテーマです。
 これは実はすべての人がこの問題に直面しています。人はしばしば二つの狭間に在ってバランスを失い、死を選んだり病になるケースがなんと多いことでしょうか。う

 もう少し具体的に見ていきましょう。人の内に在って対立する二つのものとは、「がんばる」に代表される自己の引き上げに対し、それと逆な開き直りのことです。「がんばる」とは、「自己実現」とか「できるようになる」「向上心」とか呼ばれています。あなたがもし会社員だとしたら、会社からは仕事の成績アップとか業績を成し遂げることを常に求められているでしょう。しかし開き直って「いえ、もう私の力ではここまで、無理です」と正直に言うならば、その会社での将来は順調とは言えません。人間には各々能力が異なり、皆が達成できるわけではありませんし、平等な機会が与えられている訳でもありません。社会でも競技でも、ホンの一握りの人以外、多くの人が届かない現実と向きあわざるを得ないのです。

 そのような時、自己像が大きくズレている人の場合、ありのままの自分がわからないのですから、折り合いがつけられず出口のない状態に陥って、病を発症してしまうケースが多くなります。そうなると社会生活が困難になり、入退院を繰り返し、癒えるまでに長い時間がかったり、不治の病と診断されるようになります。
 そこまで行かなくても、どうして多くの人々はありのままの自分を見ることができないのでしょうか。たとえ開き直っても「居直り」となり、罪の意識が極度に鈍感な人もいます。詐欺事件で逮捕されても「だまされる奴が悪いんだ、こんな社会が悪いんだ」とうそぶくような極端なケースもあります。

 神を信じない多くの人に共通して言えるのですが、真の自分自身とはあまりにも罪深く、まともに見ることは困難です。それであるがままの本当の自分自身を受け入れることができません。クリスチャンは違います。罪深い自分、真の姿を見ることができるのです。なぜならその最低の自分を死に至るまで愛し贖ってくださった方を知っているからです。十字架ですべての罪を赦された喜びと感謝、それは人の中で対立し、バラバラにしていた二つのものを和解させて一つにし、そこから自分の為ではない、神のみ心を行おうとする全く新しい人を生み出します。ここに真の解決があるのです。

2018年12月23日 (日)

神のみ心とは

詩篇 73篇26節     【新改訳2017】
 この身も心も尽き果てるでしょう。しかし神は私の心の岩とこしえに私が受ける割り当ての地。 

 クリスチャンは本来、祝福されてしかるべきです。しかし人は世を基準にし、自分の描いた祝福が祝福だと思っていますが、神の祝福は人と大きく異なっているのが現実です。
神に忠実で熱心なクリスチャンに、世的には悲惨な、大きな試練がのぞむことが多いようです。教会をあげて応援していたよく知っている神学生夫婦の夫人が、出産後のマタニティブルーで飛び降り自殺しました。息子のように親しくしていただいた篤信の長老の一人娘は、結婚して三日目の朝に、夫は突然交通事故で召天しました。まだまだ例を上げることができます。ひょっとして以前の私も試練を通ったという点では、同類になるでしょう。

聖書では、イエス様がこの世に来られた目的は、行いなどによって自分を義とするような「正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるため」(マタ9:13、マル2:17、ルカ5:32)と語られています。つまり世の中の成功者、権力など力ある人にではなく、社会から価値が無いとされていた子どもや見捨てられていた人、罪人と迫害されていた病や弱い立場の人たちのために、です。

それはなぜでしょうか。成功者や力ある人々は自分の罪がわからないからです。罪がわからないので、悔い改めることができません。神を信じていると思っていたとしても、真に罪を告白し悔い改められないので罪が赦されていないのです。「放蕩息子のたとえ」を思い出します。罪を悔い改め父の許に行く時、罪が赦されはじめて父の愛がわかりました。父としては、父権に依る強制でも、命令した聞き従いでもなく、悔い改めて帰ってきた息子ほどいとおしい者はないのです。息子の真実な愛を得たことになります。これが神が願って私たちに求めておられる、神への自発的、自主的な愛です。これに反し、不安や恐れで人を動かし支配しようとするものはすべからずサタン的です。

熱心な、み心のクリスチャンへの試練が多いのですが、それはなぜでしょうか。もちろん神は人をいたぶって居られるのではありません。確かにこの世的なものを失うように見えて、実は試練を通して本当に何が大切か、ちょうど放蕩した息子が何もかも失って自分の姿を知り、始めて父の許に帰ろうと決心したように、自分の真の姿を気づかせてくださっているのです。試練を通してのみ、私たちは自分の真の姿に気づき、世の力を打ち破ることができるとすれば、不幸に見えたすべては神の愛なのです。