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神のみこころ

2023年10月22日 (日)

平和をつくる者

マタイ 5章9節  2017新改訳

 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

 「平和をつくる者」、この御言葉が今ほど心に響く事はありませんでした。これまでは3節の「心の貧しい者は幸いです」の印象が主にんっていて、平和は、今いちピンと来なかったのです。平和ボケしていたか、平和がよくわかっていなかったということでしょう。しかし、平和が失われつつある今の世界に、平和の尊さを強く感じるようになりました。

 ロシア軍によるブチャでの犯行とか、今回のハマスの残虐なテロ行為を知ると、憎しみや恐れ、高慢というものが人間の本質であると気付かされます。あらためてすべての人は罪人であり、自己中心的な存在であって、一皮剥けば人殺しなのです。三年以上にわたったコロナ禍や異常気象の猛暑、そして今進行している二つの戦争など、いったいこの先、世界はどうなってしまうのだろうかと思ってしまいます。
 その上に、身近にショックなできごとが二ヶ月前ありました。私たちは一つの御体、天の御国に行っても永遠に続く信仰の兄弟姉妹と思っていた姉妹たちを失ったのです。教会は痛手を受け、後始末に追われました。しかし今、新しい形での礼拝が始まり、ようやく一息ついたところです。

 そうしてみますと分かり始めたことは、失われたことに目を止めるのではなく、未来に目を向け続けることが大切であることでした。イエス様は次のように言っています。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。ー中略ーこれらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」マルコの福音書 7章20~23節
 自己中心というこれら人間の罪に対して、残された道は私たち一人一人が平和を造る者に、神の力によって変えていただくことです。平和をつくる人は、少なくとも自分自身の心に平和を築いていなければなりません。悔い改め、神に立ち返り、神によって生まれ変わること、そして平和の神の御心を行うようになること。確認しますが、これこそが私たちの道であり、依って立つ使命です。

 ヤコブの手紙 1章19節には次のように戒められています。
「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」
ここには二つの戒めが述べられています。

<1>すぐに人を裁かないで、柔和な人になりなさい。
<2>怒るに遅くなりなさい。
 柔和な人とか、すぐに怒らない人は天性のもののように思われていますが、実は神から愛され、神を愛する人は誰でもこれを実行するようになるのです。どうか主が私たちの信仰を増してくださり、この時代にあって「地の塩」「世の光」として用いてください。どうかリバイバルをこの地に起こし、私たちを平和をもたらす者として用いてくださいますように。

2023年7月 2日 (日)

みこころを行う

マタイ 7章21節   2017新改訳

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
 「キリストを信じて信仰告白をすれば、誰でもみな天国に行ける」と多くのクリスチャンは思っているはずですが、そのような人たちは、本日のこの箇所 --「みな」ではない-- をどう読み取るのでしょうか。
 このような不安を払拭できないからでしょうか、この重要な箇所であるにも関わらず、過去においてメッセージにおいて、私は一度も聞いたことがありません。しかしこれを避け、このまま不安を残したまま時を迎えるのであれば、牧会者として大きな問題であります。

 神のみこころを行なわなければ、天の御国に入れない。では<みこころ>とは何か? これは聖書では明確にイエスの言葉として次のように言っている。
第一に神を愛しなさい。」「第二に隣人を愛しなさい」と。さらに「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19−20)という使命も語られています。神のみこころが分からないという人は、これらのはっきりしたみこころを行おうとしていない‥‥つまり本当に救われた神を愛する実が、実際に実っていないのではないか、と私は疑っています。本当に救われていれば、自分ができる、できないではなく、行えるよう神の助けを真剣に祈り求めるはずです。

 次に神のみこころは具体的に個々人にあらわされていきます。自分の努力や働きで霊的な救いを得るということでもありません。それは勿論聖書の範囲内のことであり、聖霊との日々の交わりを通して明らかにされて行きます。神はご自分を愛される者にご自分をあらわされるのです。それは聖霊のバプテスマのような、肉なる心を滅ぼし、聖霊がその人の中で主となり、宮を築いておられる人限定になります。いわば神への献身者を通して神は具体的な指示や慰め、励ましを与え、みこころを行わせて神の計画を前進させられます。
神はみこころのままに、あなた方のうちに働いて志を建てさせ、事を行わせてくださる方です」(ピリピ12:13)
文字は殺し、御霊は生かす」この聖句も(Ⅱコリント3:6)に出てきます。文字とは直接的には十戒のことですが、律法の意味です。律法によっては人は罪を知るばかりです。(使徒13:38−39)が、十字架によって罪から解放された私たちは新たな主、御霊が与えられました。この御霊によって私たちは肉の心から解放され、父と交わる者とされました。世の霊、肉の自分からはじめて自由になりました。それを御心のために用いることによって、<永遠に生きる>存在とされ、自由の意味を知ることになりました。御霊は私たちをそのように教え育て、真に生かすという意味です。

 

 

 

 

 

2023年6月25日 (日)

主は御霊

Ⅱコリント 3章17~18節  2017新改訳

 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。

 三位一体について、直接言及した聖書本文はありませんが、聖書の随所でそのことは明らかにされています。本日の箇所もその一つと言うべきでしょう。御霊なる聖霊は、父なる神、子なる神イエス・キリストであると明言しています。

 次に自由という言葉も、肉的なクリスチャンがよく思うような <好きなことをなんでもして良い>と受け取ってはなりません。大前提として、キリストを信じる者は、キリストが贖ってくださった、買い取られた者です。いわば奴隷市場で、新たなご主人に買われたのです。しかしこのご主人は私たちを奴隷として扱わず、子としてくださる方なのです。ですから子として、保護者である親から養育され、成人するまでは聞き従う必要があります。勘違いしてはいけません。
 では自由とは何の自由でしょうか。強制でも命令でもなく、御心を行える自由です。確かに聖書には命令形の言葉がたくさんあります。「悔い改めなさい」とか「感謝しなさい」のような言葉です。しかしそれは、聞き従って恵を受けるための、父からの戒めであり訓育です。悔い改めない者、感謝しない者に対してのものです。

 しかし子として父を愛する者には自由があります。聖霊によって普段に父と交わり、父がどのような考えをし、対応をしているかを知っていますので、子も進んで父のように行おうとします。すでに何が良いことでいけないことかを知っており、わきまえているので、父もある程度の自由を許して、子に色々な経験を積ませようとするのです。
 それは家庭と同じように、子は父の家の中で安心し、恐れなく、嗣子として自由に振るまいます。神の下にある時、人は罪の縄目から解放され、愛する父の御心を行おうとするので、自由があるのです。

 文字は殺し、御霊は生かす。この聖句も(Ⅱコリント3:6)で出てきます。文字とは直接的には十戒のことですが、律法の意味です。律法によっては人は罪を知るばかりです。(使徒13:38−39)が、十字架によって罪から解放された私たちは新たな主、御霊が与えられました。この御霊によって私たちは肉の心から解放され、父と交わる者とされました。世の霊、肉の自分からはじめて自由になりました。それを御心のために用いることによって、<永遠に生きる>存在とされ、自由の意味を知ることになりました。御霊は私たちをそのように教え育て、真に生かすという意味です。

 

 

 

 

 

2023年3月26日 (日)

聞き従いVS御心を行う

詩篇40篇7~8節  2017新改訳  

7 そのとき私は申し上げました。「今私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。
8 わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。

 本日のテーマをわかりやすい人物で例えるなら、アブラハムとダビデです。アブラハムはモリヤの山で、唯一無二の息子イサクを神に聞き従って捧げようとしました。私ならそれは絶対不可能です。「神様、お気は確かですか?」とか「いくら何でも約束のものを反故にするなんて」と拒絶したでしょう。しかしアブラハムは従ったのです。彼はまさに信仰の人、聞き従いの代表です。

 一方ダビデはみこころを行う人の代表です。彼は今に至ってもイスラエルの象徴とでも言うべきです。キリストはダビデの子孫から出ました。イスラエルの版図を最大限広げたのもダビデです。神殿建築こそ許されませんでしたが、ダビデほどひどく神から愛された人物はいません。たとえ部下を殺してまでその妻を奪おうとも、晩年にも民の数を数えようとも、普通なら断罪されておかしくないケースですが、ダビデは許され、神の祝福は変わることがありませんでした。

 どうしてでしょうか。彼は神を愛していたからです。神もまたダビデを愛しておられました。ダビデがみこころを行う者だったからです。互いの気持ちというものは、それが通じ合うためには一定の期間が必要です。一朝一夕では不可能です。相当期間ふれあい、交わっていなければなりません。ダビデは人の弱さから罪を犯しながら、即座に悔い改める二心のない者でした。そのような存在であったからこそ、神が愛され、いつも交わられていたのです。そしてみこころがわかる者とされたのです。
 そのことがよくわかる例は、契約の箱をエルサレムに迎えた時、その喜びを裸になって踊った姿にあります。彼は王の娘にして妻ミカルの、侮の目を意に介しませんでした。ダビデは人からどう見られようと、ただ神に対していたのです。このような人物を神が愛されないわけがありません。どんな過ちを犯そうとも、悔い改めるダビデを神は赦すのです。ダビデもまた、みこころを行うこと最上の喜びとしました。

 神に「聞き従う」者は祝福されます。しかし「みこころを行う」者は御国入りが確かなだけでなく、愛されて「わたしの兄弟、母」(マルコ3:35)と呼んでくださるのです。両者を分けるものは何でしょう。真に神が人に求めておられるのは、上下関係的なものでなく、対等的なものです。それは交わりが土台となります。交わりとは何でしょう?聖霊によるバプテスマ以降のものです。わたしの経験では、それを遮っているものは、神の都合やタイミングもあるでしょうが、ほとんどの場合、人にあります。私たち人間は自分が一番自分のことをわかっていると思っていますが、そうではありません。あなたを造られた神が一番わかっておられるのです。ですから、神との交わりを遮っているのは、他ならぬその人にあるのです。「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(マタイ3:8)悔い改めるべきことが見当たらないような皆さん、この喫煙や飲酒、それが切れた時、もし不機嫌になるとしたら、その人には軽度の禁断症状が出ているのであり、霊的には世の霊、悪霊に支配されていると言えます。

 実際にはこのようなわかりやすい例だけではありません。不安とかコンプレックス、金銭への執着、いじめに限らず心に受けた傷、そのようなことがいっさいないという方はむしろ少数派でしょう。悪霊が巧妙に隠れて入り込み、その人を、世の中を支配しているのが世の姿です。今年のハリウッドでアカデミーの主要な賞を独占した映画、略称エブエブなど、その典型例です。映画ではマルチバースと聞こえはいいのですが、実際には現実逃避の変身願望と闘争に終始した子供騙しです。
 人が自分自身を、あるがままの姿をそのまま肯定し、自分を喜んで生きることはかなり困難です。欲望に支配されて満足することを知らず、その罪深い自分を、あるがままに受け入れられないのです。サタンはそうやって人間を疲れさせ、真に絶望させようとしています。この解決はただ一つ、十字架のキリストを信じ、キリストの愛によって自分と和解するしかありません。キリストに愛され赦された自分なら、受け入れることができるのです。これ以外に正しく歩める人の道はありません。もともと神は人を、エデンの園でのように、ご自分と親しく交われるために創造されているからです。イブやアダムと同様、罪がそれを妨げているのです。

 どうやって私たちは、愛してくださる神を知り、正しく導いてくださる神の声を聞くことができるのでしょうか?その第一は神のことばである聖書に聞き従うことです。聖書を神のことばと信じるなら、聖書の御ことばに聞き従い、御ことばを行なう者となるはずです。主イエスが命じておられるたった二つの命令とは、「何よりも神を愛すること」「隣人を愛すること」です。神を愛する者は、神を知り、御ことばを通して語りかけてくださる神の御心を行おうとします。ところが悲しいことに多くのクリスチャンは、口先では神を信じると言いながら、実際には信じた実が伴っていません。神を認めることだけなら、悪霊の方がはるかに優っています。そうでなく、信じた御ことばの実が実る者でなければ、真に救われているとは言えないのではないでしょうか。ポイントは聖霊の実です。

 また神は信じる者に直接語られることがあります。これは誰にでも、ではありませんが、聖書の主要な人物、アブラハム・イサク・ヤコブ・モーセなど皆、神の声を聞いています。聖書がある今の時代においても、神は変わらず語ってくださっています。これは御ことばの具体的語りかけであり、もちろんそれは聖書の範囲内で語られていることです。私たちは聖書を土台に吟味して、個人的に語られる神の声を受け取って行くのです。ことに気づけておられるでしょうか。神はあなたの横で、交わりの手を差し伸べ、それを待っておられるのです。

2023年3月 5日 (日)

信仰の戦い

Ⅰテモテ 6章12節  新改訳2017

信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。

 私たちは肉と骨だけでできている存在ではありません。スポーツでもウクライナでの戦いでも実証されているように、正義と意思、心が実際には真のポイントです。人間はその霊・たましいで生きている存在なのです。そしてそれは血肉で表すことができないのと同じように、血肉が消滅しても存在します。ただ別の、二つに別れた永遠の世界に舞台を移して生き続けて行くのです。

 本日皆さんと分かち合いたいと願っていることは、ありのままの姿を確かめ、共に良い選択をし、そしてそれを妨げようとする闇の力に打ち勝って栄冠を得ることです。

 みなさん、自分を受け入れられない、愛せない人がいるのはなぜでしょうか? きっと要求水準が高く、ありのままの自分ではダメなのでしょう。子どもの時から勉強を「がんばれ、がんばれ。現状で満足するな、努力して引き上げろ」と金科玉条のように言われて育ったためでしょうか。しかし私は根本的には、その人たちは、親から愛されていたとしても、自分が愛されていると心から感じる経験が無かったのだと思います。私にも思い当たるので言っていますが、それは本人にとって不幸なことです。
 この愛の欠乏感の解消は、疑いようもなく真に愛されること、それが本人に分かることでしか解消されることはない、そう私は思います。これは肉の両親にとってはその人なりのやり方を大転換するものですから、よほどの指導的オーソリティがついていなければ不可能です。可能であるのは、その絶対的なオーソリティ、つまりその者の創造者、神にしかできないことです。神にはそれができます。神は全知全能であり、すべての人間の肉の親にはるかに優る、真の創造者ですから。神は人間というものが、同じ人間の見方・評価・価値観を基準にしてでしか自分を推し量れなかったのに対し、根本的に異なった目的を持っておられるのです。

 最近、自分の顔をアプリで好きなように変えて楽しむことから、最終的に整形にまで進んでしまうことが流行っているそうです。ありのままの自分を受け入れ、愛することができないようです。神の愛を知らず、自己中心の罪のただ中に居ると、私たちの魂・霊は惨めな状態になります。しかし神の愛、造られた方の意図、愛を知ったならそうではありません。

 神は人を愛し、尊重されるからこそ、自由意志を与え、その中から真の愛に目覚めるよう期待してくださっています。ただそれだけでなく、十字架によってはっきりと愛を示してくださいました。私たちは十字架を我がためと気づき、信じることによって自分自身の罪、自己中心の生き方の誤り、人間基準の見方や価値観から解放され、神に愛されている自分から始めて、その愛に満たされてはじめてありのままの自分を愛せるようになるのです。それは信仰からの平安であり、幸せです。

 

 

 

 

2023年2月26日 (日)

神のみ心

Ⅰテサロニケ 5章16~18節   2017新改訳

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 「神のみ心~神が望んで居られる事」 ~ 副題 喜べ・祈れ・感謝せよ
 「いつも喜んでいなさい」から始まる有名なこの御言葉は、この世の人からは理解され難い言葉かも知れない。しかし、神を信じる私たちにとってはそうではない。天啓のことばである。罪がわかり、そのすべてを贖ってくださった十字架の主の愛に触れた人々にとって、いつも神様に喜び絶えず祈り感謝することは、むしろ当然だと言ってよい。

 これは、額に入れて飾っておくものではなく、「実際にそのような人に自分がなっていなければ」と心に迫られる言葉でもある。なぜなら、これが神が望んでおられる、つまり御心のクリスチャンの姿なのだから。神の子どもである私たちは、神様のご意志を無視するどころか、積極的にそれを体現する者となりたいからだ。
 さらに「喜ぶ・祈る・感謝する」この三つの中で、最も土台になるのは<感謝>であると思われる。なぜなら感謝がなければ喜びはもちろん、祈ることにも臨在が伴わないからだ。すべてを感謝する、それは自分の過去のあらゆる困難や傷に思えたことが、自分を低くされ、神にあわれみを受けた土台に思えるからだ。むしろ救われた勲章ですらある。今の恵みを受けるための大切なものだと思えるからだ。だから自分のすべてが、心からの喜びと賛美の霊に、感謝に溢れているのだ。

神の御心を行う者は、実際につぎのようになる

①  罪を贖ってくださった感謝

②(平安)不安や恐れ、死の行き先の心配からの解放の喜び

③(許し許され)世の霊、悪霊から解放された喜び

④ 永遠のいのちを与えられた賛美と感謝…死を恐れることなく、血肉の命をもって神に聞き従う道を選ぶ。自分よりまず神を愛する。 

 

2023年1月22日 (日)

私を見いだす

エレミヤ 29章13~14節   2017新改訳

 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。
 わたしはあなたがたに見出される─

 19世紀のアメリカの偉大なリバイバリストで、今日に至るまで大きな影響を与えている主の器としてチャールス・フィニーがいる。エレミヤ書29章13節の御言葉(下記)は、彼が29歳の時、森の中で膝まずいて祈っていた時に示されたもの。おそらく誰一人として見る者のいない静まり返った中、若きフィニーが心を尽くして(with all your heart)祈っていた中、神は御言葉を通して彼に触れられたのであろう。

あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見出される─主のことば─

この御言葉は神が直接フィニーに、これから与える聖霊のバプテスマを予告したものであって、彼は神に触れられ、神が実存することを確信したはずである。

 私も聖霊のバプテスマを受ける前に、フィニーのような御言葉ではなかったが、突然このように触れられた体験がある。それは運転中だったが、全くことばで現しようのない驚天動地の体験だった。それは神がリアルに居られることがわかった瞬間であり信仰のコペルニクス転回点であった。もちろんそれまでにも神を、どちらかといえば熱心に信じていた方だと自負していたというのに。
 それが前妻の精神の病から神癒を求めるようになり、探し求め続けて十年、信仰の放浪を続け、空しく時が経ち、もはやそれも諦めかけていた・・・神に失望し、自暴自棄の心境になったこの時、自分の罪性が深く示され、私は三日間、これまでにないほどの悔い改め続けていた時だった。

 フィニーもこの時「私は何という堕落した罪人なのだろう」と深い悔い改めに導かれている。その時、神はこの御言葉をフィニーに示し、彼に触れられたのだった。

 聖霊のバプテスマを求める人は多い。しかし偽りの聖霊のバプテスマでは、神の教会を貶めるサタンの手先、協力者に落とされてしまう。あの一見華やかな聖霊のバプテスマは、それ以前に、深い悔い改め、つまり深刻な自己の罪性、自分に希望をなくす、の認識が前提となることを忘れてはいけない。
 その認識は、この罪人をも十字架の愛によって身代わりの犠牲となってくださった神の愛がわかった瞬間であり、同時に神を愛することであり、献身の時でもあるのだ。聖霊のバプテスマは自分のそれまでの既成の価値観が一変した後に、神の交わりの開始、入学式のようにしてプレゼントされるものだろう。

2023年1月 8日 (日)

何のために生きている?

Ⅰペテロ 4章2節   2017新改訳

それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。

「あなたには生きる目標があって生きていますか?」とカリスマ派の教会員に問うなら、ペテロ4章2節からの「神のみこころを生きるため」と即答される方が多いことでしょう。しかしさらに重ねて、「ではあなたへの神のみこころは何でしょうか」と問いますと、これには何人の方が答えられるでしょうか。各個人への純粋に神から示されての召しのことを聞いています。

 自分への神のみこころを知らないで、「みこころに生きる」と答えても、それは御題目ということになるでしょう。神は皆さんひとり一人に、異なるみこころをお持ちのはずです。今日ここで取り上げたいのはその中で、みこころの共通する部分です。
 私が示されていること ➡︎神は私たちが意思も感情も必要とせず、ただ命令されたことだけを忠実に行なわせるためだけにお造りになったわけでは決してありません。「聞き従い」とか「しもべ」のイメージが強いのかも知れませんが、そんなことならロボットで良いではありませんか。いや、それよりもっと良い働き手である忠実な天使たちがいます。天地万物を創造し膨大な時間と手間暇かけて、人間なんかを創られる必要なんかないのです。

 では、どういうことでしょうか?人は罪を犯すまでは、たとえ血肉のからだを持っていても滅ぶ存在ではありませんでした。もちろん神は罪を犯すことは予知されていました。キリストは第二のアダムであり、罪の故にアダムが失った御霊のからだを回復させるための神の形でした。十字架を信じる者の罪を赦し、聖霊を送り、時がくれば御霊のからだになると言う、エデンの園を再来させる壮大な神の計画でした。

 次に私たちはいつまでも、神の僕(しもべ)ではありません。確かに子としてくださる神に、全ての栄光を神に帰す訓練を受ける期間はあります。しかし神は私たちを愛していてくださり、子として私たちを遇してくださり、私たち人間の個性と意思を尊重してくださる方です。私たちが喜ぶことを喜んでくださいます。最終的に天国では、完全な自由があり、私たち一人一人の個性が神の栄光を讃え、礼拝するために生かされ、用いられていくはずです。つまり最初のエデンの園では果たし得なかった、数多くの自由意志を持った聖徒たちと共にある楽園が完成する時、それは千年王国の終わりに来るがやがて来る進展新地、天国のはずです。
 このように神のみこころの理解をしていますので、これは私の妄想かもしれませんが、神のみこころの土台となる共通事項として以上を申し上げました。この上に一人一人の召しが合わさって、神の国、天のエルサレムが降臨して来るはずでしょう。

2022年12月 4日 (日)

万能の存在の目的

ヘブル 2章10節   2017新改訳

多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。

 ヘブル書2章10節の「万物の創造の目的」とは、神がキリストの十字架とその救いを実現するため、全世界、宇宙すべての万物を創造されたと私は理解する。神には救いによる聖徒たちと共に、来るべき新宇宙、天の御国創造の計画があるはずである。
 私たち人間は、自分の力で真の信仰・・・自分の命より神を、永遠のいのちを選べる力がある・・と思ってはならない。その実例として、イスラエルの民との2千年にわたる旧約の歴史がある。神がエジプトで為された十の災い、海を分けての大脱出、さらにシナイの荒野で毎日マナやうずら。岩を割っての水。またアマレク人と戦い。このような神の威光と恵みの奇跡を日々体験しても、イスラエルはカナンの占領にあたっては神を信じず、つまづいた。
 これらのことから、神を信じるとはどういうことかを示している。それは自分の判断ではなく、神の言葉に命をかけて聞き従うということである。私たちの群れの年間主題「あなたがたは向きを変え、葦の海の道を通って荒野に向かって旅立て」も同様である。主が示された方向に向きを変え、委ね信じて歩み出さなければならない。

 <信じる>ということは人間同士の友情でも言えるが、信じるならば<委ねる>こともできるはずである。それはスポーツでも、仕事でも、あるいは人生の大事な決断においても同じ。特に<神を信じる>信仰においては、条件無しに信じること、自分を委ねることが信じたことになる。ユダヤ人は自分たちの見方、判断を神の約束の上に置いた。それで四十年間荒野をさまようことになった。これはどんなに時代が下がってキリストの時代から今日に至るまで、ユダヤ人は神に自分を委ね、信じることができないでいるのは変わらない。
 ーすべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず【ロマ 3:23】ー
とある通り、罪人どんなに努力しても義とされないばかりか、偽善に落ちいるばかりである。神の子イエス・キリストが地上に来られ、十字架によって罪の力を打ち砕き、信じる者をその縄目から解放してくださった恵みは、計り知れない恵みである。

 本年度のみ言葉によって、私たちは真に「信じる」という信仰にもう一度立ち返り、「向きを変え」て旅立たなければならない。それは自分の力ではなく、全面的に神に自分を明け渡し、委ね、信頼することである。そうすれば約束の地、リバイバルを私たちは占領できる。そこには私たちがこれまで見たことない景色がそある。私たちはこれまでに多くの奇跡やわざを見てきた。それらを見ても信じることができなかったイスラエルの民ではなく、信じ、踏み出せる民となろう。
 万物が創造され、それが存在する目的とは、私たち人間が救われ、聖とされ、神の最終的な目標である天のエルサレムに入れられ、神と親しく交わり、崇め賛美し、神と共に永遠に生きるためだ。その一翼として私たちは用いられて行くのだから。

2022年8月28日 (日)

世に打ち勝つ信仰

Ⅰヨハネ 5章4~5節   2017新改訳

神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

 「聖書は誤りなき神のことば」だと信じることがどんなに大切か、そのことをリバイバルナイトでの木原ヨハネ副牧師は強く証しされたのです。「聖書のみことばは神のことばである」、これが頭で分かっているのではなく、はっきりと体験できるのは聖霊の働きによるのです。   聖書はすべて神の霊感によるもの(2テモ3:16)と聖書自身が証していることなのですが。執筆者は神であって、人はその忠実な書記に過ぎないのですから、聖霊様の助けなしに<神のことば>が神のことばであることが分かることは不可能です。

 聖書について考えてみれば、私たちの信仰、教会、生活など、そのすべてが聖書に源を発し、聖書を拠り所とし、聖書を究極的な目標としています。聖書以外の教会の伝統とか、神に準じる代理人的な権威というものは一切存在しません。ですから聖書だけが私たちの全基準なので。。

 聖書を基準とする一例としてLGBT+があります。聖書では男色は、はっきりと神の国を相続できないと記されています。最近の遺伝子調査においても、性的指向(LGB)を決定する遺伝子は見つからず、基本的には(胎児期を含めた)環境による影響が大きいとされています。ですからこれは障害ではなく、直ることが可能です。私たちはこのような人々をも愛し、立ち直れるよう祈りを持って神に取り成す、というのが聖書的な正しい方法だと言えるでしょう。

 私たちは聖書によって、聖書自体が神のことばであり、三位一体である主イエスの神性を信じます。主イエスが神でなければ十字架の意味がないのです。又罪の赦しに、主イエス以外のいかなる仲介もあり得ません。免罪符、告解、イエスの生母マリアの無原罪などを否定します。聖書では世の権力や進化論も関わりがありません。

 しかしキリスト教会の歴史を見ると、聖霊は子孫に継承されることは困難です。あくまで神のもの、人のものではないからです。ひとたび聖霊を失うなら、父が神のことばとした聖書も、子は一般の書物と同じように、自分達人間の力と視点で神のことばを判断しようとするのです。そしてそれがキリスト教会で普通になっていくのです。私自身も、木原副牧師のような体験をするまでは、人間的な理解に終始し、みことばは私にとって力のないものでした。こうして聖霊を受けていないクリスチャンと教会、つまり死んだようなキリスト教が今や真のクリスチャンを迫害するのです。

 私たちはこの世の知恵で聖書を見下ろす彼らの不信仰を受け入れてはいけません。そして神のことばである聖書を、聖霊様の助けと説き明かしによって神のみこころを知り、みこころを行う者となるよう祈りましょう。神のことばは神のことばと悟らせる聖霊様の導きによって読むのです。

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