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神のみこころ

2020年11月22日 (日)

聖霊の内住とバプテスマ

1コリント12章3節   新改訳2017

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

 本日の聖書箇所でパウロは聖霊の内住無しには、誰も「イエスは主です」と信仰を告白できないと言っています。「イエスは主」と告白するのであれば、神がご主人であり、自分はその<しもべまたは奴隷>に相当します。しかしながらそのことば通り、神に聞き従う、またはそのように願い聞き従おうと熱心に求める人は、実際にはごくわずかな方に留まるのではないでしょうか。もちろん信じて天に行けるのですが、聖霊を通しての神の力の現れは、それだけでは困難です。

 聖書(使徒8:14-17)において、ピリポのサマリアでの大きな伝道の収獲、人々のバプテスマには聖霊が伴っていなかったことが明らかになっています。エペソにおけるアポロのバプテスマも同様でした。後にパウロが主イエスの名によって聖霊のバプテスマを受けさせた(使徒19:1-7)のです。これらを通し、当初から水のバプテスマは聖霊のバプテスマとは、同一のものではないことが明らかです。考えてみれば弟子たち、特に筆頭弟子のペテロも「あなたは生ける神の子キリストです」と人類最初に告白し(マタイ16:16-17)ながらも、その直後にはサタンと言われたり、三度も主を否定したりと、ペンテコステ以降の力強い証し人ペテロとは別人です。これは聖霊を受けていなかったという最大の違いがあるからです。

 では「聖霊のバプテスマ」とは何でしょう。これは徹頭徹尾、神のものであり、神からのものであり、聖霊なる神と交わって神のみこころ行うはたらきです。九つある聖霊の賜物は聖霊のバプテスマを受けて用いられはじめますが、それとてその人を通して神が働かれただけです。確かにペテロやヨハネ、パウロを主は奇蹟やしるし、大いなるワザを行われましたが、その力は彼らの持ち物ではなく、器を通して現された神の力でした。神が彼らを通し、神のタイミングで行われた神の恵みです。ですからどんなに偉大な神の器が聖霊のバプテスマを受けられるよう祈ったとしても、もしみ心でなければ無理です。信じた全員に対し、神が聖霊のバプテスマを受けさせたいと願っておられるのですが、問題は人間の方であって、ふさわしくないままで恵みにあずかって受けることは出来ません。しかし大胆に聖霊のバプテスマを求めて祈ることは大切です。

 聖霊のバプテスマは、受けたしるしとして「異言」が出ることが言われています。そのことともに、私はこの世への見方、価値観の大転換が伴っていることが大切だと思っています。本当に神が居られることと、その一端に触れたのですから、それまで「主が」自分から転換し、文字通り、主を主として聞き従う歩みに入るからです。もし聖霊のバプテスマを受けながら神に真に聞き従う歩みをしないのであれば、その裁きは大きなものになると思われます。つまり主にいのちを捧げる献身の歩みに入ると言うことです。

 さて私たちは黙示録の七つの教会がどの時代にも存在してきたという説に立っていますが、現在の聖霊の働きが顕著になる時代、そのルーツを知ることも大切です。ペンテコステ派の起こりは、メソジストやホーリネス、クエーカーの影響を受け、アメリカのチャールズ・パーハム(左)が創立した「ただ聖書のみ」をモットーにしたベテル・バイブル・カレッジで1900年の大晦日、女子学生オズマンに按手をしようとしたところ、その場にいた人々から異言のワザが起こりました。その頃、ボニーブレアハウスで有名で後のアズサ街リバイバルとなるウィリアム・シーモア(中央)は黒人のため入学が許されず、学院の窓から講義を聴いていたそうです。翌年の1901年彼はロスでメッセージを始め、今日に至る後の雨につながる聖霊の賜物によるリバイバル時代が幕を開けたのです。キャサリン・クールマンのこの流れの中にあり、日本の中田重治(右)も強い影響を受け、今日のホーリネスの祖となりました。現在日本の大きな教会は、すべてこの流れの中にあり、それは勿論私たちにも影響を及ぼしているのです。

2020年11月 8日 (日)

行け、あなたのその力で

士師記6章14節    2017新改訳

すると、【主】は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

 この士師記の聖句は、前年度たびたびギデオンのことが語られていましたので、私がこれになるのでは無いかと予想した所ですが、残念ながらまったく違っていました。また「あなたのその力で」に少し引っかかっていたこともありましたが、しかしよくよく思い直してみますと、これが実にすばらしいみ言葉であることに気づきましたので、このまま教会の年間聖句にしました。

では何がすばらしいかと言いますと、「あなたのその力で」と言うところです。この現状からでなく、少しは努力したり、引き上げられたりしなければ、主のご用に立てないんじゃない?・・・そういう思いがしていたからです。しかし主はギデオンを召すのに、一切そのようなものは無用だとばかり「あなたのその力で」と語られたのです。ギデオンを遣わされた主は、私たちが牧師になったりする際の、神からの召命とまったく同じものです。

 ところが人によっては、神からのはっきりした召命を受けずに、人間的な思いで献身します。その結果、人間的な見方しかできず、神のみこころを行うどころか、逆にそのような忠実な人々に対し、混乱と迫害さえ行う者と化してしまうのです。神からのものでないのに、神からと間違って受け取ったらギデオンもこの召命が本当に神から来たのか、確かめずにはいられませんでした。これは当然なことだったと思います。もしそうでなかったら・・・・それは想像するだけでとんでもないことだからです。
 神は私たちの弱さをよくご存知であり、もしその召命が真に神からのものであれば、そのしるしを見たいという人間の願いに、神は必ず答えてくださるというのが私の確信です。逆に言えば、重大な決心のような際に、しるしを求めても得られなかったら、それは神からのものではないと言うことです。これは私自身の経験からのことであります。
 しるしには二つの目的があります。それは臨在のしるしを求めるものと、神のみこころを問うしるしとです。今回の場合はこの使いが本当に神からのものかどうか、臨在のしるしを求めるものでした。ギデオンは神の使いに対し、子山羊の贈り物を持って供えるので、しるしを見せて欲しいと頼んだのです。ギデオンは子山羊の肉と肉汁、小麦1エパで作った種なしパンを、指示された通りに供えました。すると神の使いが杖をそれに触れただけでそれらはたちまち火が燃え上がり、焼き尽くされてしまいました。これは後のイエス・キリストのひな形でもあります。

 ギデオンはこの臨在に、死すら感じ、恐れおののきました。みなさん、これが神をリアルに体験した瞬間なのです。神の使いは同時に消えてしまいますが、臨在の神を体験したギデオンは、同時に神の言葉が聞こえる存在になったのです。頭の上で神を信じている信仰と、本当に神の実在を体験した信仰とは、その強さはまったく別物です。これは私の経験的にもコペルニクス的な価値観の転換が起こると言えます。
 ですから神は次にギデオンに対し、その信仰をもっての宗教改革を要求しました。何と父の持っている「バアルの祭壇とアシェラ像を切り倒せ」と命じられたのです。父の、となっていますが、それは町の人々も信仰しているものでしたので、これを勝手に破壊することは命掛けでした。献身の証しでもありました。これを恐れながらも忠実に従ったギデオンでしたが、それも臨在のしるしを確かに見たからに違いありません。こうして父ヨアシュが人々の訴えに取り合わなかっただけでなく、属するアビエゼル族全体にも主への信仰に立ち返る機会となったことは想像に難くありません。
 私たちもギデオンのように、それぞれの仕方で神に召されています。神は私たちの弱さを実際をご存知なのですから、足りないものを神ご自身がすべて備えてくださるのです。神から「行け、あなたのその力で」と聞いたなら、ぜひしるしなど確認されてから聞き従っていただきたいと思います。それが神からのものであれば、その願いに答えるなど天地万物の神にとっては朝飯前なのですから。



2020年10月25日 (日)

主に喜ばれるかどうか

Ⅱコリント 5章9節  【新改訳2017】

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

 私たちがこの世で、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れています。やがて天に行き、キリストの前に立った時、地上で行ったことすべてに応じて報いを受けます。この「キリストの前で」とはキリストの地上再臨のことで、その時の報いはすべてのみ使いたちの前で行われるため、私たちめいめいの守護天使が、行いのすべてを読み上げるかもしれません。
 さてその報いとは、1テサ2:19のような栄冠だけでなく、1コリ3:10以下にあるように、世的な富(木、草、藁)はみな焼けて天に持って行けません。ただし最悪な場合でもクリスチャンなら、火の中をくぐるようにして助けられます。それゆえ裁きではなく、報いの時と言われているわけです。

 この天での報いについて、神を信じる者としては無関心ではいられません。タラントの話(マタイ25:15~)でも明らかなのように、評価の基準はこの世での力や人間的な賜物としての能力ではないことが分かります。要は信仰が無ければ出来ないことですが、神への忠実さの問題であることが分かります。聖書に忠実であること、及び何よりも聖霊に聞き従うこと、さらに自ら進んで神のみこころを行おうとすることです。聖書も聖霊による解き明かしがなければ理解できませんし、心に響きません、力にもなりません。まして神に聞き従うことなどは、サムエルのように聞けないと従うことは出来ません。誤解している方がいらっしゃるかも知れませんが、これは人に聞き従うことではないことに注意してください。あくまで神に、対してです。

 さて神に聞き従うためには、聖霊によって神がこの世に実際に生きて働かれるお方であることを個人的に体験していなければ、聞き従うことは出来ません。そのことによって、その人にはコペルニクス的な価値観の転換が起こっているはずです。それがなければ、神の声を聞いたと思っていたとしても、それは単に自分の観念の中、思い込みのものに過ぎず、遅かれ速かれ挫折します。挫折するので、それが肉的なものであったことが分かります。しかし真に聖霊の満たしを体験したのであれば、挫折はあり得ません。

 聖霊によって罪深さを教えられ、自己を明け渡して神のものとされた人は、すべての点において自分の行おうとすることが「主に喜ばれることかどうか」吟味します。主を知っているので、主のみこころ、主が喜ばれることが分かるからです。こうして残りの世での人生を、キリストのために喜んで生きるようになります。自分の為に生きていた時代は不安と肉欲で自分自身が翻弄されていましたが、神に捧げ尽くしてはじめて、思い患いの一切から解放され、平安を得ます。これはキリストが十字架によって勝利をとられたように、パラドックス(逆説)的な解決なのです。

2020年9月13日 (日)

神のみこころを行う

Ⅰペテロ 4章2節   新改約2017

それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。

 クリスチャン生活にとって、「み心を行う」ことは究極の目標です。ただ多くの人に通って、「聞き従い」と同義語に受け取られている面があります。間違いではないのですが、もう一歩進んだ受け取りを私は考えたいと思います。
 聖書には少しショッキングなみことばがありますl。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(マタ7:21) 「主よ」と言い、御名によって預言し悪霊を追い出したりしていますので、これは一応クリスチャンと見られますが、その全員が天国に入れるわけではない、「父のみこころを行う者」だけが入ると読めます。ですから今日のテーマは非常に重要です。

 さて、「聞き従い」には神からの命令を受け、受けたことだけを行うような意味合いを感じます。しかし「父のみこころを行う」という言葉には、私には良い意味での「忖度」(そんたく)することが感じられるのです。忖度とは、「他人の心情を推し量ること、また、推し量って相手に配慮すること」です。神様から命令されたり、指示を出され、そこで受け身的に行うような上下の場でなく、自由で開かれた場、その中で進んで積極的に行おうとする雰囲気が「みこころを行う」には感じられるのです。たとえ全能の神の御前であったとしても恐れることのない、屈託のない、笑いさえ交えるような、そんな中で、進んで手を上げ、「私のにさせてください」というニュアンスの感じがします。神のご性質は愛であり、御国は決して階層的な窮屈な国ではなく、自由でのびのびとした所のはずです。

 「一度生まれた者は二度死ぬ、二度生まれた者は一度だけ死ぬ」という高名な心理学者の言葉があります。これは新生を言っています。新生すれば聖霊は内住の段階から一歩進んで、その方の主となってくださいます。イエス様を通し、私たちの主となってくださった聖霊様だけが、神のみこころをすべてご存知なのです。聖霊様抜きに「神のみこころを行う」ことは不可能です。私たちが神のみこころを知り、交わり、忖度する必須条件は新生です。みこころを行う、その結果は聖霊の証印(2コリ1:22、エペソ1:13・4:30)を受けるわけです。たとえ今、そうでなくても求め続けましょう。それはみこころなのですから、時が来た時、必ず求める者に与えてくださります。ただ人はその時を知りません。ここに忍耐があります。あわれみ深い神様、どうかその時を早めてください。感謝します。

2020年8月16日 (日)

信仰・希望・愛

Ⅰコリント 6章17節   【新改訳2017】

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

 十字架は贖われた罪、その赦しです。私たちの群れでは「十字架」と言う言葉を入れて証をすることが大切なのですが、言葉だけを入れておけば良いというものではありません。何のためにイエス様は十字架に架かってくださったのでしょうか。人は罪のゆえに、裁かれ、滅びに至るからです。しかしイスラエルの民で明らかになったように、律法を全うして人は救われることができない、ただ一方的な神の愛とその十字架を信じて滅びを免れるのです。但し、もし滅びから免れる、そのためにだけに十字架を信じたのであれば、実に神のみ心を損なっていると言えるのです。

 確認しましょう。本当に罪がわかり、神の子自身が自分の罪のために身代わりとなってくださった。その十字架を信じたならば、すべての罪が赦されます。もっと大切なことは、それは神である聖霊様が内住されるためであったと言うことです。これが十字架と復活の目的でした。これに優る恵は、この人類に存在しないと確信しています。

 しかし聖霊の内住だけでは不十分でした。ペンテコステという聖霊降臨の際には、弟子たちはすでに、神と神の子キリストも信じていたこと、つまり現代で言うクリスチャン状態であったことを踏まえてください。教会はこの聖霊のバプテスマによって誕生したのです。

 聖霊のバプテスマを受けることなしに、神を信じ聖霊が内住されても、多くの方はその存在を自覚できません。存在を感じられないものを「主」と崇め、聞き従うことはできませんから、神を「ないがしろにする」結果になります。しかし聖書はそうでないことを警告しています。自分の内に「神、聖霊の宮」(1コリ3:16-17、同6:19)があること、自分の体がすでに神の所有に移管していることなどです。

 聖霊なる神にしか神の御心を知ることができません。神が聖霊を私たちに送って下さったのは、私たちが聖霊様を通し、神の御心を知り、そのみ心を行うようになるためでなくて何でしょう(ローマ8:27,1コリ2:10)。但しこの御心を行うとは、まだ聖霊のバプテスマを受けていない状態の時のように、命じられて嫌々聞き従うのではなく、神と交わり、神の愛を知り、その絶大な価値のゆえに新生し、神を愛して、自ら進んで行うことなのです。神はそれを最も喜んでくださいます。神を愛する、これが最も大切な教えです。イエスご自身もこのように御言葉でもって教えてくださいました。

『あなたは心を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』と。

2020年6月21日 (日)

偽り

 Ⅰペテロ 5章5節   【新改訳2017】
 同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。

 私たちは神を信じています。しかし神の弟子となり、従う者となっている人は極少数ではないでしょうか。主イエスの「自分を捨て、自分の十字架を負って」のことば通りに、自分は常に自分を捨てていると言い切れる方がどれほど居るのかと同じだからです。

 キリストの弟子は無私でなければなりません。自身が神への捧げものであり、神のものになっているはずです。世の霊と力に対抗し、戦い、肉体の死に至るまで神を信頼し、その勝利を証することがクリスチャンの生き方であり、どこまでも神に栄光を帰し、謙遜であるはずです。しかし現実には全く不十分なクリスチャンがほとんどであり、天国行きの切符をゲットしたとして安心しきって、世人と変わらない生活を送っているだけなのです。クリスチャンだと言いながら、嫉妬や肉欲に支配されているならば、その方は真のクリスチャンではありません。物欲、出世欲、気づきにくい所属欲などに心を奪われていては、神の目から見るなら、悪霊の実を実らせているのです。

 私もそうでしたが皆さんも、初めからこれらに勝つことは出来ないと諦めているおられるのではないでしょうか。神の愛も力も知らないので、そう思われるのです。どうして神の力がその人に現れないのでしょうか。聖霊さまがおられないか、またはあまりにも小さな存在なので、聞けないのです。神をそのように扱う救い難い自己中心の霊というか、高慢さが内実なのです。それに目をつむって、自分の現状を正当化しているのです。聖霊なる神をいつまで侮り、聞かず、悲しませ続けるのでしょうか。

 自分より他の人がすべて優っているといつも思いましょう。逆に自分が人より優っていると思うなら、大いに害があるのです。自分が蔑まれ、落とされるなら主の受難を偲び、与れたことを喜びましょう。どうして怒りの、妬みの感情が湧くのでしょうか。自分をよく知る者は、自分の無価値さを知っています。真の平安は、へりくだりの中にあります。

 残念ながら謙遜には自分の力でなれません。神の助けが必要であり、それなしには不可能です。ですから私たちが謙遜し、へりくだるなら、ますます神に栄光を帰し、へりくだる者となるのです。神の平安と愛の中、自分のことなど本当に小さい、わずかなことと知るのです。そこで初めて自分から解放された平安の恵みが訪れているのです。

「神は高ぶるもには敵対し、へりくだる者には恵みを与えられる」(1ペテロ5:5)です。

2020年6月 7日 (日)

生き返ったラザロ

ヨハネ 11章43節   【新改訳2017】
 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」

 なぜすぐにイエス様は行かれなかったのでしょうか?まず押さえておきたいことは、ベタニアはエルサレム滞在時にはここを本拠としておられたほどのエルサレムから数kmの距離であって、イエス様にとって今や危険な所です。そのためかイエス様たちはヨルダン川の向こう、ペレアに滞在しておられました。その事情を知っていたか、あるいは慎みのためなのか、イエス様に送った使いでも、マルタたちは、危険な病状にも関わらず「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者(ラザロ)が病気です」とだけしか知らせませんでした。しかしそんな気遣いもイエス様はこの事態について逐一承知しておられ、神の栄光の計画に織り込み済みのことだったのです。
  聖書にはイエス様の三つを含め全部で七つの死人が生き返った記事があります。そのほとんどが死んだ直後のケースでしたが、このラザロの生き返りだけはまったく異なります。ラザロは死んで四日経ち、すでに腐臭ただよう状態だったからです。腐乱死体を再び生きた元通りにするとは、世界の歴史始まって以来、空前絶後の出来事です。マリアの処女の受胎と同様、どのような説明も不可能です。人は信じるか、信じないかのいずれかです。

 この生き返りは最大の祭りである過越の祭に集まって来た大勢の人々が見ることとなり(ヨハネ12:9)、イエス様の都への入場の際にはなつめ椰子の枝を手に手にもって「ホサナ」と叫ぶ、大群衆へと成長したのです。この事態は時の権力者たち祭司長やパリサイ人にとって、自分たちの権力基盤が崩壊するかどうかの瀬戸際に追い込むことになりました。

 それゆえ、どんな手を使ってでも、祭司長やパリサイ人はイエス様の存在を抹殺する緊急事態に追い込まれ、何があってもそうする決心に追い込まれたのでした。つまりラザロの生き返りはイエス様が神であることと、そのイエス様を殺そうとする決心を固めさせた二重の結果を伴ったという事になります。ラザロの生き返りは、神の時が満ちたことを現す出来事でした。生と命を完全にコントロールされているこの神を、私たちは信じているのです。私たちを愛して、永遠のいのちを十字架によって与えてくださった神を崇め、心から讃美しましょう。

2020年1月26日 (日)

みこころを確かめる

民数記 12章6節   【新改訳2017】
 主は言われた。「聞け、わたしのことばを。もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、【主】であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。

 私たちの教会は、礼拝する場所に今、窮地に立たされていました。いつも礼拝していた施設が半分ぐらいの割合で使えなくなったのです。その上、借りていた教会事務所の更新も迫っていました。私たちは感謝する中、これには何らかの御心があると促しを感じ、聖会が終わった直後の1月12日、いつもの不動産屋さんに行って相談をしました。御心の礼拝場所、心から賛美できる地を求めて。

「心から神を賛美し、礼拝したい」そんな願いを言うと「そんな場所はあり得ない」と初めは取り合ってもらえなかったのですが、ある担当者が「一軒家で楽器可なら可能かもしれない」と助け船を出し探してくれました。そしてその物件がたった一つだけありました。

 問題は入居するための初期費用が、私たちの予算を大きく超えていた事でした。次に単に楽器可だけでなく、教会として借りる事、管理人として教会員家族が住む事など、こんな条件をOKしてくれるのだろうか、当初とても不可能と思えるばかりでした。

 そんな中、滅多に夢など見ない私が、数日経って不思議な夢を見ました。さらにそんな夢をどうした事か、早天の祈りの中で皆に語ってしまいました。その夢とは【ある薄暗がりの部屋に入ると、白っぽい猫が私のすぐ横にいました。「ええっ、猫がいる」と思ったのですが、さらに奥の方には、私の猫がいることに気づきましまた。それで「お前たち、仲良くしていたんだね」と私は言ったんだ……】そんな夢でした。

 この夢は1月16日(木)のことで、うっかりすぐの早天で話したのです。この話を聞いていた妻が突然「ええっ、白い猫!」と声を出して驚きました。直前のケパドルブログで、白っぽい地域猫の話題を取り上げたと言うのです。夢が解き明かされました。私が見た白い猫とは地域の人々のことで、その人々が私達と交わるようになるという示しだったようです。つまり今度の会堂は、そのように地元住民との交わりのために用いられる、と。

 これ以外にも管理人として住んでくださる教会員、初期費用が信徒全員の献金によって完全に満たされた事、関東予選会の賛美曲、貸し主がこちらの側の要望のすべてを受け入れてくれた事など、沢山の確認事項が与えられました。この度の移転は、私たちの祈りに応え、心から賛美できる礼拝を実現させようとする神の導きなのです。ハレルヤ!

2019年6月 9日 (日)

ありのままに見る

Ⅰヨハネ 3章2節    

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。  【新改訳2017】

<怖れと安心> この聖書箇所で「キリストの現れた時」とは再臨、あるいは携挙の時です。つまり御霊のからだになってからでないと、キリストをありのままに見ることはできないのです。血肉の体を着た今のわたしたちは、ありのまま見えなくても、全知の神は私たちの良いも悪いもすべてを知っておられる(ありのままに見ておられる)、その上で私たちを子とし、愛してくださっている、これが難解な同3:10-20の「20たとい、自分の心が責めても、19神の御前に心が安らかにされる」意味でもあります。すべてを知っておられるが故に怖れて神の前に出られない者と、すべてを知っておられるが故に、それでも揺るぎなく子としてくださる神を信頼し、父の許で心が安らぐ直ぐな者、この違いは非常に大きな者です。畏れはあっても、真のクリスチャンに怖れはありません。さて、あなたはどちらの側のクリスチャンでしょうか。

<ありのまま・・・考> 私たちが賛美している歌集の中に「ありのままのあなたでいい」と言う歌詞があります。この「ありのまま」ということをばを、ただ単に「開き直った感じで、現状通り今のままでいい」と受け取られては、それは違うと私は思います。
そうではなく正しく自分の姿を知ること、気づかされることが前提だと思います。実は多くの人が感じていることは、一番自分のことを自分がわかっていると思っているのに、自分自身の真の姿が実際ははわからないことです。胃が痛いと思っても、実際は膵臓や脾臓、胆嚢だったりします。自分の性格は○○だと思っていても、それは思い込みの間違いだったり、○○ありたい、○○あらねばならないと願っていたもので、実際とはかなり違うことの方が多いのです。その他、自分を守ろうとして欠点を正当化したり、心の病や障害にも影響されるのです。ある意味、自分のことが世界で一番わかっていないのが自分だと言えなくもありません。

<ありのまま> 私たちが神を知ることができるのは、神と似た形になった時ですが、神の方は私たちの真の姿を知っておられます。その上で愛してくださっています。私たちが試練や困難に出会い、何一つ弁解できない自分の罪深さを知った時、その時、確かに自分には絶望しますが、神に希望を見出すことができる大チャンスです。実に罪深い自分の姿を見たその時、自分に死に、自分を神に献げてしもべとなり、神のものとされることができます。悔い改めのどん底の中で、次のような声が響きます。「ありのままでよい」と。ですからこれは人間が言う言葉ではなく、神が私たちに語ってくださる言葉なのです。「ありのままに見た」自分に絶望したので、神があわれんでくださり、神と交わる者、聖としてくださったのです。

ですからみなさん、実際どうにもならない自分自身から解放され、神のものとされることによって、罪深い自分自身から解放されていただきたいと思います。神の内にあれば、そこは真に自由があるのですから。

2019年4月21日 (日)

神に喜ばれたい

Ⅰテサロニケ 2章4節 4章7節  【新改訳2017】

 むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。

 神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。

聖書1テサ2:4に「私たちの心をお調べになる神」と言う類のことばがいくつか出てきます。雀の一羽でさえも神のゆるしなしに地に落ちることはなく、私たちの髪の毛の数まですべて数えられています。ナタナエルという十二弟子の召命においても、主はナタナエルが居た場所まで言い表されました。

このことはつまり、私たちのすべて・・・・それがどんな小さなことであろうとも、神が知らないということはないと言うことです。これを聞いて、それでも神を恐れない人が果たしているでしょうか。かといって全知全能である神の前で、自分を守ろうと弁解することほど愚かなことはありません。しかしポイントになるのは神はこのような罪深い愚かな私をも十字架で愛してくださり、ご自分の命を持って救って下さったという信仰です。ですから神の愛に応え、神さまのふところに飛び込むことしか他に道はありません。

以上のことを抑えた上で、この「心をお調べになる」ことばのすぐに「神に喜んでいただこうとして」ということばが続きます。これはパウロがよく言うことばです。愛は愛でしか応えることはできません。神の愛に答え、神を愛する者にとって、神が私をすべて知って下さるということは喜びですし、何とかして神を愛そうという心が湧いてきます。

愛とは最大限の関心を相手に持つことです。すべてを知りたいのです。事実婚と言って、籍を入れず、いつ別れてもいいように、家にあるものはすべて買う時から所有者が決まっている形があるのだそうです。これは極端として、夫婦でも互いのスマホを見てはダメとか言うカップルがあるそうですね。私はこれを聞くと、そこには秘密という罪があるように感じてしまいます。神さまはすべてをご存知です。愛すればこそ相手のすべてを知りたいのです。私たちも愛する神さまを知りたいのです。何とかして神さまを喜ばせたいのです。

 この群れではよく「神のみこころは?」をよく祈っています。みこころを聞くことは確かに大切ですが、1テサ4:7では「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」と大前提がはっきり語られています。これは自分の努力や行いで聖なる者になることではなく、パウロのように、「神に喜んでもらいたい」と常に神を愛する行いから聖とされていく、私はそのように示されています。私たちが神に喜んでもらおうと心から行うなら、その稚拙は関係なくそのすべてを神は喜んで下さり、天国での最上の宝として取っておいて下さることを信じます。目を世にではなく、天に向け、何とかして天のお父様に喜んでいただく生活をいたしましょう。