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神のみこころ

2022年1月 9日 (日)

御霊によって生きる

ガラテヤ 5章24~25節   新改訳2017

 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。

 私たちは、「御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」とパウロは熱心にガラテヤ地方のクリスチャンに奨めています。つまりキリストにつかず、肉のままの自称クリスチャンが程度はわかりませんが、無視できないほど居たということです。この手紙は残されているパウロの手紙で最も初期のものですから、1世紀のほぼ真ん中で書かれています。つまり、パウロの第一回伝道旅行が終わって5年ないし10年しか経ていないのに、こういう事態だったのです。

 使徒の働きには当初からクリスチャンには二種類いました。<水のバプテスマ>のクリスチャンと<聖霊のバプテスマ>を受けたクリスチャンです(使徒8:14-17、19:1-7)。聖霊のバプテスマを受けていないと、神と親しく交れませんから、クリスチャンの使命「御霊によって生きる、神の御心を行なう」ことは困難です。そしてパウロは前節までで、<肉のわざ>と<御霊の実>と対比して二種類のクリスチャンの違いを明示しています。

 ところで、「神を本当に信じるとは、どういうことですか?」を質問されたことがあります。「実がつき、実ることです」と私は答えました。これを初歩的な事例で例えば、自分自身の心の内に肉のわざへの誘惑が襲ってきた時、これを古い自分自身が今一度虜にしようとの攻撃であることを直感し、「イエス・キリストの御名によって命じる、お前を縛る。今すぐ私から出て行け!」と戦えるかどうか、なのです。肉のわざを行う者は、神の国を相続できない(21節)のですから、これは非常に重大な問題です。これは全クリスチャンに向けてのメッセージであって、決して看過してはいけないものなのです。

 あなたは22節以降のような実をつけていますか?あなたの心の中は、本当に主の霊によって生き、歩んで おられますでしょうか。私達の髪の毛の数すら数えておられる神は、私達の心の中の全てを、私達が生まれる前から、一切を見ておられるのです。

 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」とパウロは熱心にガラテヤ地方のクリスチャンに奨めています。つまりキリストにつかず、肉のままの自称クリスチャンが程度はわかりませんが、無視できないほど居たということです。この手紙は残されているパウロの手紙で最も初期のものですから、1世紀のほぼ真ん中で書かれています。つまり、パウロの第一回伝道旅行が終わって5年ないし10年しか経ていないのに、こういう事態だったのです。
 使徒の働きには当初からクリスチャンには二種類いました。<水のバプテスマ>のクリスチャンと<聖霊のバプテスマ>を受けたクリスチャンです(使徒8:14-17、19:1-7)。聖霊のバプテスマを受けていないと、神と親しく交れませんから、クリスチャンの使命「御霊によって生きる、神の御心を行なう」ことは困難です。そしてパウロは前節までで、<肉のわざ>と<御霊の実>と対比して二種類のクリスチャンの違いを明示しています。

 ところで、「神を本当に信じるとは、どういうことですか?」を質問されたことがあります。「実がつき、実ることです」と私は答えました。これを初歩的な事例で例えば、自分自身の心の内に肉のわざへの誘惑が襲ってきた時、これを古い自分自身が今一度虜にしようとの攻撃であることを直感し、「イエス・キリストの御名によって命じる、お前を縛る。今すぐ私から出て行け!」と戦えるかどうか、なのです。肉のわざを行う者は、神の国を相続できない(21節)のですから、これは非常に重大な問題です。これは全クリスチャンに向けてのメッセージであって、決して看過してはいけないものなのです。


 あなたは22節以降のような実をつけていますか?あなたの心の中は、本当に主の霊によって生き、歩んで おられますでしょうか。私達の髪の毛の数すら数えておられる神は、私達の心の中の全てを、私達が生まれる前から、一切を見ておられるのです。

2021年12月12日 (日)

神のことばで生きる

マタイ 4章4節   2017新改訳

イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」

「世の中の一番大きな誘惑は、私たちが見たまま、感じたままを話すことです」(J・Meyer)。一見聞いただけでは、反発すら覚えられる言葉です。それも当然。文科省は小学校の教育目標として「自ら判断し行動するために必要な基礎的な力自分の考えや意見を持つ」ことを教育目標にしてさえいます。しかしこれは、キリスト教徒としては、当然のことであり、神を信じていると称している多くの肉のクリスチャンへの警鐘です。

 イエスさまがサタンの誘惑にあった最初は、四十日四十夜という断食直後、空腹を覚えられたタイミングで、サタンが現れ『「あなたが神の子なら石をパンに変えなさい」、それを行って自分が神の子であることを証明しなさい』と言う試みをしました。もしイエス様が己れの空腹に耐えかね、石をパンに変えようものなら、どんなことになったことでしょうか。それは肉欲を神の力で以て満たし、満足したことを意味します。もちろん主はそんなこと、お茶の子さいさいでできたことでしょう。しかしそれでは神が肉の誘惑に負けたことになり、人の創造の根本理由、「人は・・・神のことばで生きる」創造の御業を否定することになるのです。

 人は生物学的には生きていようと、そのままでは罪のままであり、霊的には死んでいる存在であると、聖書ははっきり宣言しています。次に重要なのは、最後の「・・・と書いてある」と言う言葉です。たとえクリスチャンだと称していても、己の肉の欲求ばかりを満たし、神のことばを無視し続けて命を終えるならば、その後、神の御前に立った時、どうやって弁明するのでしょうか。それは極めて困難です。イエスさまは自分の考えではなく、神の言葉、聖書でお答えになりました。まして被造物たる人間が聖書の言葉に立って生きなければなりません。

 私たちは十字架の恵みに与りました。しかし本来、十字架は罪を赦し、聖霊様がお住みになれるようにするためでした。それなのにきれいにお部屋を掃除したままになっていると、出て行った悪霊がさらにたくさんの悪霊を連れてきて、事態はもっと悪くなるのです(マタイ12:42-45)。これは今日の多くのクリスチャンの状態を指して言っています。内住される聖霊様が単に内住されているのではなく、その人の頭として実際に働かれ、指図されていることが決定的に重要です。私たちの主は、私たちの中に生きて働かれる主でなければなりません。これほど申しても、私がなにを語ろうとしているのか、まったく分からないクリスチャンがいます。聖霊の満たし、バプテスマを受けていないからです。どうか先ず、それを求めて頂きたいと思います。その時はじめてその人は、サタンの支配から解放されて神のものとなり、自我から解放されて自由を得るのです。サタンに支配され肉のまま滅びるか、神に自分を明け渡して永遠のいのちと自由を得るか、そのどちらかしかないのです。

2021年9月19日 (日)

エリ、エリ、レマ、サバクタニ

マタイ 27章46節   2017新改訳

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 題名は古代のアラム語であり、意味は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。受肉して人の姿になられ、多くの人々を教え、癒やし、わざを現した神の子が、その結果として考えられないほどの苦しみを受けた挙句、十字架上の今際(いまわ)の際に、どうしてこのように遣わされた神から<見捨てられ>なければならないのか。多くのクリスチャンは理不尽に思い、不可解なことと受け取っているようだ。このような人は当然サタンからも狙われ、信仰が窮地に陥っているケースが多い。

 結論から言えば、それは全人類の罪を背負われた贖いの意図を理解せず、Photo_20211002164601  ペテロがイエスをなだめたような人間的な思考でこのことばを理解しようとした誤りである。処断され見捨てられたのはイエス様ではなく、人類の罪の方である。その罪は最も偽善家であるパリサイ人の代表によって告発され、時の権力によって血肉の命を奪うべく実行された。彼らはイエス様の血肉の死を目的にしたが、その霊に対しては無力である。私たちの罪を私たちの創造者である神ご自身がその責を取り、贖いのわざを果たされたのである。そしてイエスの名によって私たちの罪も十字架の贖いのわざを信じるなら、完全に赦されることになった。神がお見捨てになったのは、繰り返して言うが、人間の罪に対してであった。
 だが、そのイエス様は最後の大声での叫びによって、血肉の使命を全うされた上、ご自身の霊を天の父の元にお戻しになった。人類の罪の全てを神は御子イエスに背負わされたまま葬られたのである。繰り返すが、それゆえ人はイエス・キリストを信じるだけで、その罪が赦されるのである。救いのわざのすべてが十字架によって「完了」したのである。

 こうして真に自分の罪を自覚したクリスチャンにとって、その罪の身代わりとなってくださった十字架のイエス様の血潮は慕わしく、また狂わんばかりに十字架の血が自分の生きるいのちそのものとなっていることを自覚するのである。たとえ神を信じない人々からは「気味悪い」「吸血鬼」とか誤解されようと、私たちは意に介さないのである。この群れでよく賛美されるのが「尊き血潮を流された‥‥十字架の愛(一例8集60、救い主イエス」であるのは以上のような理由による。私たちはこの賛美を、これまで以上に声を大にして歌おうではないか。

2021年8月29日 (日)

狭き門より入れ

マタイ 8章13-14節   2017新改訳

それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。
それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。

 ここで「狭き門」と言われていますが、クリスチャンになった自分はすでに狭い門をくぐっていると思っている節があります。これはまったくの読み誤りでしょう。続く21節の「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのでなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る」とあるからです。広い門も狭い門もみなクリスチャンのことであって、多くのクリスチャンが広い門を選んでしまい、滅ぶと受け取るべきです。

 どうして多くのクリスチャンが広い門、広い道を選ぶのでしょうか。多くの人が行く・・・多くの人の連れがあることで、安心感があることでしょう。広いので世的で妥当な道と見えるのでしょう。しかし21節を見ると、「父のみ心を行う者」とあり、<み心>がポイントです。これは真に神を信じ、聖霊のバプテスマを受け、常に天の父と交わっていなければ御心を知ることができません。そのような人は自分の使命をも知らされています。たとえ聖霊派、カリスマ派の教会員であっても、直接聖霊様と交わって聞き従っている方は少数なのかも知れません。
 狭き門をくぐる聖徒とは、殉教者をはじめ、血肉の命を神に捧げています。肉が死んで新生し、聖霊の実を実らせている方々です。生きながらすでに殉教しているので、携挙されるのはこのような方々です。妬み、肉欲、物欲に日々支配されていて、神のみ心を知ることができないのです。

 ここ半年から数ヶ月、わたしは安利淑著の「たとえそうでなくても」をもう一度読むよう促されてきました。1972年という半世紀近く前の本で、当時一度読んだものの、手元から失われてしまったものでした。促されて再び買おうと探しましたら、あまりにも高価な本になっていました。しかし驚いたことに、今月の東京カリスマ聖会で「たとえそうでなくても」がなぜか上映されたのです。その聖会後の帰り道、同乗されたある方に、相談したら、なんと「あります、貸してあげましょう」と即座に郵送してくださったのです。主の促しはスピーディに、即刻実現するのです。

 この本は76年前までの日本が行った、キリスト教弾圧と迫害の真実な記録です。朝鮮の人々に皇民化政策を推し進め、牧師や信徒たちを捕縛し、拷問し殺しました。これからそのうちの二人の牧師の話を聞いた安姉の記録を読ませていただきます。一人は奇跡を期待した若い牧師、もう一人はそうではなく、十字架の苦しみを負うことを決心した牧師です。それではお聞きください。
 私たちは、広い門を通った日本のキリスト教会がどうなったのか、その結果を知っています。空から降ってきた焼夷弾、硫黄の火で都市は廃墟となりました。少数ですが、狭き門を選び、その栄光をも見た教派もあります。迫害を受けた教会でした。その当座はただ主に従うだけでしたが、神は怠りなく酬いてくださる方であることを見るのです。これは来るべき世への備えです。

2021年7月11日 (日)

みことばを行う人になりなさい

ヤコブ 1章21~22節   2017新改訳

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。

 私たちは聖書の民です。聖書は人類にとって唯一の特別な書であって、神を知ること、その真理も信仰もすべてこの書から来ています。神が与えてくださったこの書によって私たちは生き、養われています。聖書だけがすべての知の土台であって、一切の権威、力の源です。またこの書に付け加えるあらゆるもの、聖母崇拝、使徒権の継承、聖人、秘蹟などを私たちは受け入れません。
 しかしイスラエルの民があのシナイの荒野で日毎マナによって養われても、結局はその信仰が保持されなかったように、宗教改革を経て誕生したプロテスタント教会の多くの現状が、聖書のみ言葉が有り難いお経のようになって、ただ聞き流されて実際の生きる力となっていないのを見るのです。要するにこれは霊的な問題であって、神への「信仰」とその渇きが乏しいからなのです。

ヤコブ書は聖書の中でもっとも早期のものですが、初代教会からしてすでに現在のような傾向がみられていたようです。まだ新訳の多くの文書が出回る前という背景から、ここでの「み言葉」とは兄イエスのことば録と旧約とを指していると思われますが、「福音を聞いても、もし行いが伴わない」なら、信仰に何の意味があるのだろうかと問いかけています。これは信仰による義を否定しているわけではなく、信じた結果、十字架によって赦され新たに生かされた人としての生まれ変わっての「行いのないあなたの信仰をわたしに見せてください(2:18)」と言っているわけです。つまりこれは実の問題でもあります。信じた結果、生き方が変わらない信仰はあり得ず、そのような実の伴わない信仰とは偽りの告白(2コリント5:18-23)になります。
 これには順番があります。先ず福音を信じ、悔い改めること。次に罪から解放され、自分を捨て、聖霊の内住された者として新生すること。そして生まれ変わった者としての新生の実をつけることです。真に信じたなら、肉のままの元の自分でいることはありえません。ヤコブはこの最後の実のことを言っているだけなのです。

 御言葉には力があり、信じて聖霊のバプテスマを受けた人に、それまでの肉の人に戻ることは不可能です。ただ聞くだけの者となるはずがないのです。しかし理想はすべての人が聖霊のバプテスマを受け、新生した人になることですが、もちろん信者であってそれを求め続けている人も多いのです。その場合、ただ一つだけ注意点があります。それは御言葉は神のことばであって、従って霊的なものです。これを正しく理解して受け取ることが重要です。ですから御言葉を聞いても読んでも、それに少しの疑問点も無く、勝手な解釈のままに受け入れないようにしましょう。そのために教会があり、牧師や伝道師が存在しているのです。どうか神の霊が主となってその人に住まうように、共に祈りましょう。

 

2021年7月 4日 (日)

本当の自分に立つ

ヨハネ 14章6節   2017新改訳

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

 真実とは良く言った言葉だと思います。実が本当にあるという字だからです。このことから、イエス様が「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ」と語られたことは次の一つの法則を示しています。つまり神を信じて救い主と告白しても、ただ口にしたことばがその通りに、約束された実を結んで(ガラテヤ5:22-23)こそ、真に神の国人になると言っているわけです。
従ってどんなに教会生活が長く、どんなに教会の重要な役職を奉仕をしていようと、それら目に見えることは、永遠のいのちである天国とは関係ないことです。むしろそれらは、ある意味、さばかれる原因の一つになるかも知れません。

 「真に実を結ぶ」とは、たとえば先ほどの I姉の証しのように、偽りに立たず、「真実」に立って生きることを選ぶということです。神を信じる者には、たとえ当座はつらくても、そのように神が造られた恵みの計画を信じますから可能なのです。そして実際、神は信仰に応じて祝福して下さいます。信仰がなければ神に喜ばれないのと同様、真のクリスチャンは偽りに耐えられません。内住されている神に聞き従うので、真実の上に立つのです。
 問題は自分自身の真の姿、それがわからないクリスチャンがいることです。そのような方にも神は試練や困難を送って,どうにかして気付かせようとされるのです(ヘブル12章5-7節)。しかしどのようにしても、人間的な偽りに気づけない場合、悔い改めて新生し、その人の中に神が住まうことは困難です。私たちは口先のことばではなく、自分の本当の姿から、十字架の神の愛にすべてを委ね、すべての希望を見いだす者となっていきましょう。

2021年6月 6日 (日)

神様のお人柄4-神のみ心

Ⅰテサロニケ 4章3節   新改訳2017

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。

 神様は私たちが「聖なる者となること」がみこころです。しかしこのみことばをそのままに受け取られて、早速聖なる者となろうと願い心がけられる前に、このお話をお聞きください。

この節の前にパウロは「神に喜ばれるために、どのように歩むべきか」をあなた方に教えたと言い、学んだはずだとも言っています。それはどのような内容だったのでしょうか。答えは次の5章14節以降の勧めであって、特に16~18節において命令形で書かれている「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「すべてのことにおいて感謝しなさい」のようです。パウロはこれらを「神があなたがたに望んでおられること」だと念押ししています。

 しかし果たしてこれらパウロの「聖なる」のことが、実際に行えているでしょうか。現実には私をはじめとして、クリアできていないのではないでしょうか? これでは到底、みこころを行っているとは言えませんし、「聖なる者」になることは、はるか遠くの絵空物語です。そして実際に昨夜も、私が「聖なる者」にされるように祈りますと、逆に世の霊、肉欲の霊らの悪霊が、私を激しく攻撃してきました。妻の助けを借りて私は何とか脱出しましたが、聖を求めれば求めるほど、逆に聖からほど遠い現実が私を打ちのめすのです。

 そこで私は気づいたのですが、パウロが勧めている「聖なる者となること」は確かに神のみこころですが、血肉のからだの間に達成できるとは言ってはいないことです。つまり血肉のからだで生きている間は、天的な目標であっても、実現不可能なのです。可能になるのは携挙などを通し、御霊のからだになった時です。これは神が「地上にあっても天への目標を忘れずに、絶えず目指し続けなさい」、そうするならば必ず成就し実現するとの約束のことばなのです。
 逆にもし血肉にあって、「私は聖なる者とされた」などと思うならば、その人はとんでもない偽りと高慢に陥っているかも知れないのです。聖霊が注がれれば注がれるほど、その人の良心が研ぎ澄まされ、自分の罪深さが浮き上がって来ます。それはあたかも、光が強ければその黒い影もはっきりしてくるようなものです。その結果、人はますます謙虚にされるのですから、自分は聖なる者になった、などと自負することとは真逆です。

神のみこころとは、ご自身が愛される者を、一人も残さずに最終的に天に引き上げることです。携挙や再臨において、神の愛を知るものは、その愛とあわれみによって自分の罪がすべて赦されることに疑いを持ちません。なぜなら父との交わりによって神を知り、信頼することができているからです。ですから今が「聖なる者」とされていなくとも、決してあわてません。自分が子とされている現実がゆるぎないからです

2021年5月 2日 (日)

死に打ち勝つ勝利

コリントⅠ 15章54節   2017新改訳

そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」

 イエス・キリストの十字架は、私たちの罪を赦すためでした。その罪への勝利として復活があります。但しその復活は単なるRisen(自分自身でよみがえり)であり、それも単なる生き返ったよみがえりではなく、〈御霊のからだ〉でのよみがえりと言う根本的な異なるものでした。

 御霊のからだ、これは驚天動地とも言えるもので、朽ちない、つまり永遠の天でのからだの初穂であったのです。天国製のもので、罪の無い存在だけがまとえる天国人の姿です。
 今一度この復活されたイエス様の〈御霊のからだ〉を見ていきましょう。これはあらゆる点で、それまでのエリヤたちやラザロやヤイロの娘、ナインの女の息子のよみがえりとは異なっていました。彼らはよみがえりましたが、時が来た時、また再び死んだのです。しかし〈御霊のからだ〉は単に二度と死なないだけでなく、およそ人類には理解も想像もできない多くの不思議を伴っていました。テレポーテーション(瞬時にどんな遠隔地にも移動)でき、トンネル効果(物体が物体を通り抜ける)を実現し、その体に実際に触れる実体を持ち、あまつさえ食べることができました。
 このような「御霊のからだ」を常識のある人なら、到底信じることができません。おまけにイエス時代の五百人あまりの人々を除いて、この事実を証明する人物はいないのです。しかし聖書を信じるなら、聖書の中身であるこの〈御霊のからだ〉を信じなければなりません。なぜならイエス・キリストは自らに関する全ての預言を成就させましたし、この〈御霊のからだ〉については、五百人以上の証人を持って明らかにしているのです。なおかつ、今も人々に御霊が注がれ、御霊のバプテスマを受けた人々は実際に確信を持ってこれを信じることができます。

 神は御子を送られ、私たちを罪なき者としてくださいましたが、それは〈御霊のからだ〉を通して永遠に天の国で子として交わらせるためなのです。つまり御霊のからだこそ、神の恵みの最終形なのです。
 聖書を神の言葉として信じるかどうかより、聖霊の体験と初穂としてのイエス・キリストと同じ姿になる聖書の約束によって、今や私たちはこのことの確信を持っているのです。
 聖霊のバプテスマを受けるまでは、確信を持てませんでした。体験がないことには、神をリアルに信じているとは言えませんでした。しかし聖霊のバプテスマを受けてからはまったく一変しました。聖書が神の言葉であり、真実であると固く信じるようになりました。この御霊のからだについても、私はまったく信じることができます。神を信じる者にとって、死は滅ぼされ、御霊のからだに変えられて行くことを完全に信じることができます。私たちは変えられるのです。ハレルヤ!

2021年4月 4日 (日)

ここにはおられません

✝マタイ 28章6節   新改訳2017 

ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。

 二千年前のこの日、主はよみがえられました。最初にマリア達が墓地で聞いた、天使の言葉を英語では次の文になります。
 「He is not here; for he is risen, as He said. 」
 英語の良さはこういう所にあります。自動詞riseと他動詞raiseの違いです。これより前、死んで四日目によみがえったラザロは、raiseです。イエス様の復活はriseの過去形risenです。つまりイエス様は誰の助けも借りず、ただご自分の意思でよみがえられたのです。それを日本語では『よみがえられた』という、曖昧な表現になり、主の栄光のわざを薄めてしまっています。

 本題ですが、なぜ蘇られなければならなかったのか?と言うことについて、一般的には「キリストが死に打ち勝ってくださった」という理解でしょう。しかしこれは単に打ち勝っただけでなく、もし復活がなかりせば、キリスト教は觀念的、哲学的なものであり、虚しいのです。それはどういうことでしょうか。
 イエス様の復活が勝利であったのはあのラザロのような、再び滅ぶような体ではなく、【御霊のからだ】というからだであったとことです。このからだについて福音書に多くの証言が残されています。突如弟子たちの集団の只中に現れる=物体の通過ができたり、瞬間移動ができ、実際にさわる実体があり、魚すら食べることができました。しかもその御霊のからだは永遠で滅びません。さらには神様と常時に即座に交れるはずです。ですからもはや預言などの賜物は不要になるのです。罪はもちろん、憂いや悲しみ、涙はもはやありません。

 この素晴らしい御霊からだの初穂として、イエス様が復活されたのです。これこそ滅びという死に対する勝利であり、全ての命に優って神の究極的な勝利です。考えても見てください。天のエルサレムはこうした全面的な勝利の締めくくりに地上に降り立ちます。
 
 興味深いことに、今回は「エマオへの途上」に目を開かれさせられました。クレオパたちの道中、イエス様が道連れのように現れても、弟子たちにはそれがイエス様であることがわかりません。なぜでしょうか。この弟子たちはイエス様の目的や使命について、理解していなかったからです。
 彼らはイスラエルを再興するメシア観に囚われ続けていたのです。十字架の意味が分からない者は、たとえキリストを眼前にしても、キリストであることが分からないという実例です。道々、イエス様に諄々と悟され、宿でパンを裂かれて初めて気づいたのです。

 このように、現在でもなお、真のキリストを求めない人には、神はご自身を顕されない現実があります。十字架の恵みは全ての人のものですが、罪がわかり、真に悔い改める人々のものであって、その門は未だに狭き門です。しかし患難時代が来たならば、話は別なものとなるでしょう。

2021年1月24日 (日)

神の右の座に

  ✝マルコ 16章19節   2017新改訳

主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。

 バプテスマのヨハネが預言した主イエスについて、地上で果たされなかったことが一つだけあります。それは何だと思われますか? 答えは「聖霊と火によるバプテスマ」です。

 主は十字架で全人類の贖いをご自分の血肉の命を持っ果たされ、復活の後、天の神の右の座につかれました。右の座・・・まさにそれこそが預言されていた「聖霊と火によるバプテスマ」を授けるためだったのです。罪を赦す十字架によって、信じる者に聖い聖霊様が内住されることが可能になったのです。これが生前のイエス様に、聖霊と火によるバプテスマが無かった訳です。イエス様の地上での生涯も、実にこのためでした。

この神のstrategy(戦略・策略・計画)について、聖霊を受けた私たちも幾分かは知ることができます。元々人もサタンも同じ被造物でした。ですから人はサタンが考えるように考え行い、サタンもまた人の様に考え、行うのです。しかし、サタンの方が経験上、数段上手の存在であることは確かです。今日、私たちクリスチャンは世界中に、あるいは身近に、彼らを見分けることができます。教会においてすら、それは実によって見分けられるのです。Photo_20210201024001

 サタンについてですが、その知恵は人とそれほどの相違は無いと申しましたが、私たち人のアドバンテージ は、一見マイナスとも思える血肉の体があることです。この体があることに関しても、サタンは神の測り難い知恵と力には太刀打ち出来ません。一例を挙げれば十字架です。彼らはよもやこれが自分たちの滅びの決定打になるとは、想像もつかなかったはずです。そして最終局面で、イエス様が十字架の上で苦しんでおられるのを見て、勝利を確信した彼らは「十字架から降りて来い、そうしたら信じよう」などと愚かなことを言ったのです。しかし全人類の救いという大逆転をもたらすことになることをサタンは知らなかったのです。二千年経っていようと、未だにサタン属する霊にとって、「十字架の言葉は、彼らにとっては愚かな言葉」にしか思えないのですが‥‥‥

 サタンはイブへの誘惑から始まり、数千年も人間に対するノウハウを蓄積していますので、侮ることはできません。しかししかし神の知恵と力は、イザヤ55章9節にあるように、それこそ天と地という格段の差があるのです。私たちは自分の力に依ることなく、神に自分を捧げ、神の計画に聞き従い、神の計画と方法を実践して行くべきです。そうすればサタンに対し、私たちは圧倒的な勝利を得ます。しかしてそれは私たちの勝利ではなく、神の勝利です。一寸たりとも神の栄光を奪わないように、愛と謙遜を持って神を褒め称えましょう。ハレルヤ!

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