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神のみこころ

2019年6月 9日 (日)

ありのままに見る

Ⅰヨハネ 3章2節    

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。  【新改訳2017】

<怖れと安心> この聖書箇所で「キリストの現れた時」とは再臨、あるいは携挙の時です。つまり御霊のからだになってからでないと、キリストをありのままに見ることはできないのです。血肉の体を着た今のわたしたちは、ありのまま見えなくても、全知の神は私たちの良いも悪いもすべてを知っておられる(ありのままに見ておられる)、その上で私たちを子とし、愛してくださっている、これが難解な同3:10-20の「20たとい、自分の心が責めても、19神の御前に心が安らかにされる」意味でもあります。すべてを知っておられるが故に怖れて神の前に出られない者と、すべてを知っておられるが故に、それでも揺るぎなく子としてくださる神を信頼し、父の許で心が安らぐ直ぐな者、この違いは非常に大きな者です。畏れはあっても、真のクリスチャンに怖れはありません。さて、あなたはどちらの側のクリスチャンでしょうか。

<ありのまま・・・考> 私たちが賛美している歌集の中に「ありのままのあなたでいい」と言う歌詞があります。この「ありのまま」ということをばを、ただ単に「開き直った感じで、現状通り今のままでいい」と受け取られては、それは違うと私は思います。
そうではなく正しく自分の姿を知ること、気づかされることが前提だと思います。実は多くの人が感じていることは、一番自分のことを自分がわかっていると思っているのに、自分自身の真の姿が実際ははわからないことです。胃が痛いと思っても、実際は膵臓や脾臓、胆嚢だったりします。自分の性格は○○だと思っていても、それは思い込みの間違いだったり、○○ありたい、○○あらねばならないと願っていたもので、実際とはかなり違うことの方が多いのです。その他、自分を守ろうとして欠点を正当化したり、心の病や障害にも影響されるのです。ある意味、自分のことが世界で一番わかっていないのが自分だと言えなくもありません。

<ありのまま> 私たちが神を知ることができるのは、神と似た形になった時ですが、神の方は私たちの真の姿を知っておられます。その上で愛してくださっています。私たちが試練や困難に出会い、何一つ弁解できない自分の罪深さを知った時、その時、確かに自分には絶望しますが、神に希望を見出すことができる大チャンスです。実に罪深い自分の姿を見たその時、自分に死に、自分を神に献げてしもべとなり、神のものとされることができます。悔い改めのどん底の中で、次のような声が響きます。「ありのままでよい」と。ですからこれは人間が言う言葉ではなく、神が私たちに語ってくださる言葉なのです。「ありのままに見た」自分に絶望したので、神があわれんでくださり、神と交わる者、聖としてくださったのです。

ですからみなさん、実際どうにもならない自分自身から解放され、神のものとされることによって、罪深い自分自身から解放されていただきたいと思います。神の内にあれば、そこは真に自由があるのですから。

2019年4月21日 (日)

神に喜ばれたい

Ⅰテサロニケ 2章4節 4章7節  【新改訳2017】

 むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。

 神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。

聖書1テサ2:4に「私たちの心をお調べになる神」と言う類のことばがいくつか出てきます。雀の一羽でさえも神のゆるしなしに地に落ちることはなく、私たちの髪の毛の数まですべて数えられています。ナタナエルという十二弟子の召命においても、主はナタナエルが居た場所まで言い表されました。

このことはつまり、私たちのすべて・・・・それがどんな小さなことであろうとも、神が知らないということはないと言うことです。これを聞いて、それでも神を恐れない人が果たしているでしょうか。かといって全知全能である神の前で、自分を守ろうと弁解することほど愚かなことはありません。しかしポイントになるのは神はこのような罪深い愚かな私をも十字架で愛してくださり、ご自分の命を持って救って下さったという信仰です。ですから神の愛に応え、神さまのふところに飛び込むことしか他に道はありません。

以上のことを抑えた上で、この「心をお調べになる」ことばのすぐに「神に喜んでいただこうとして」ということばが続きます。これはパウロがよく言うことばです。愛は愛でしか応えることはできません。神の愛に答え、神を愛する者にとって、神が私をすべて知って下さるということは喜びですし、何とかして神を愛そうという心が湧いてきます。

愛とは最大限の関心を相手に持つことです。すべてを知りたいのです。事実婚と言って、籍を入れず、いつ別れてもいいように、家にあるものはすべて買う時から所有者が決まっている形があるのだそうです。これは極端として、夫婦でも互いのスマホを見てはダメとか言うカップルがあるそうですね。私はこれを聞くと、そこには秘密という罪があるように感じてしまいます。神さまはすべてをご存知です。愛すればこそ相手のすべてを知りたいのです。私たちも愛する神さまを知りたいのです。何とかして神さまを喜ばせたいのです。

 この群れではよく「神のみこころは?」をよく祈っています。みこころを聞くことは確かに大切ですが、1テサ4:7では「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」と大前提がはっきり語られています。これは自分の努力や行いで聖なる者になることではなく、パウロのように、「神に喜んでもらいたい」と常に神を愛する行いから聖とされていく、私はそのように示されています。私たちが神に喜んでもらおうと心から行うなら、その稚拙は関係なくそのすべてを神は喜んで下さり、天国での最上の宝として取っておいて下さることを信じます。目を世にではなく、天に向け、何とかして天のお父様に喜んでいただく生活をいたしましょう。

2019年3月 3日 (日)

神のみ心に従って願うなら

Ⅰヨハネ 5章14節      【新改訳2017】

何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

   今回の白馬スネルゴイキャンプで、賜物の用い方について迷っていた事について見事な解決が与えられました。右下の図で座っているのは、神さまからの賜物の注ぎが来るまで、ずっと待ち続けている人です。立っているPhoto
人はそうでなく、賜物を用いて行こうと立ちあがって人の姿です。キャンプでA牧師は「聖霊はみ心の祈りをすればかなえてくださる。それはそうしようとする私たちの意思から始まる。故に奇蹟は私たちの意思から始まる」と語られました。座ってでなく立ち上がって行く。これが答えでした。

  ですが少し誤解のないよう、付け加えさせていただきます。癒やしとか奇蹟のわざは100%神のものです。それを人間が行えると少しでも思ったなら間違いです。ではどういうことかと申しますと、A牧師は最初のフィリピン派遣を例に出されたのです。

 初期の派遣でしたが、チームは預言に従ってテロが頻発するミンダナオ島に入りました。命を惜しまない決心をしたいたのですが、チームを乗せた車が市内の歓迎のアーチをくぐる時、そこに「Solvation & Healing」の文字が書かれていたのです。その途端、チームは動揺してしまったのです。癒やしは意図しておらず、どうやっていいか経験もなかったからです。しかしチームは導きと腹をくくって神に頼り、それこそかつて見たことを見よう見まねで癒やしを行ったのですが、なんとそれが現地新聞にも載るほどの、驚くべき奇跡の癒やしの集会へと変えられたのです。
 意図して行ったわけでなく、むしろ「私たちにはできません」と辞退して帰ろうという声さえ上がっていたのです。しかし預言を通し、神の導きに従った結果は真実で見事でした。これは「意図してではなく、そのように追い込まれて聞き従った」結果でした。以後、私たちの群れは外部から「日本で癒やしの教会といえばTELAしか思い浮かばない」とまで称されるまでになったのです。
 癒やしは神に聞き従って行くという私たちの意思に、神が働いてくださるものです。

 絵を見てください。座って聖霊の賜物をただ待っている人より、立って意思を持って神に聞き従おうとする人がいます。どちらが神のみ心に答えており、用いられるでしょうか。そうです。信仰を使って立っている人にです。癒やしと奇蹟は私たちの意思にかかっているのです。

2019年2月 3日 (日)

私と和解する

エペソ 2章16節     【新改訳2017】

二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

 聖句で「二つのもの」とあるのはユダヤ人と異邦人のことです。パウロが終生戦ってきた割礼問題の解決が和解という言葉で言い表されているのです。割礼はクリスチャンをユダヤ教へ改宗させることですが、妥協するのではなく、キリストにあって乗り越え一つのものとなりました。今回は一人の人間における相反する二つのものがテーマです。
 これは実はすべての人がこの問題に直面しています。人はしばしば二つの狭間に在ってバランスを失い、死を選んだり病になるケースがなんと多いことでしょうか。う

 もう少し具体的に見ていきましょう。人の内に在って対立する二つのものとは、「がんばる」に代表される自己の引き上げに対し、それと逆な開き直りのことです。「がんばる」とは、「自己実現」とか「できるようになる」「向上心」とか呼ばれています。あなたがもし会社員だとしたら、会社からは仕事の成績アップとか業績を成し遂げることを常に求められているでしょう。しかし開き直って「いえ、もう私の力ではここまで、無理です」と正直に言うならば、その会社での将来は順調とは言えません。人間には各々能力が異なり、皆が達成できるわけではありませんし、平等な機会が与えられている訳でもありません。社会でも競技でも、ホンの一握りの人以外、多くの人が届かない現実と向きあわざるを得ないのです。

 そのような時、自己像が大きくズレている人の場合、ありのままの自分がわからないのですから、折り合いがつけられず出口のない状態に陥って、病を発症してしまうケースが多くなります。そうなると社会生活が困難になり、入退院を繰り返し、癒えるまでに長い時間がかったり、不治の病と診断されるようになります。
 そこまで行かなくても、どうして多くの人々はありのままの自分を見ることができないのでしょうか。たとえ開き直っても「居直り」となり、罪の意識が極度に鈍感な人もいます。詐欺事件で逮捕されても「だまされる奴が悪いんだ、こんな社会が悪いんだ」とうそぶくような極端なケースもあります。

 神を信じない多くの人に共通して言えるのですが、真の自分自身とはあまりにも罪深く、まともに見ることは困難です。それであるがままの本当の自分自身を受け入れることができません。クリスチャンは違います。罪深い自分、真の姿を見ることができるのです。なぜならその最低の自分を死に至るまで愛し贖ってくださった方を知っているからです。十字架ですべての罪を赦された喜びと感謝、それは人の中で対立し、バラバラにしていた二つのものを和解させて一つにし、そこから自分の為ではない、神のみ心を行おうとする全く新しい人を生み出します。ここに真の解決があるのです。

2018年12月23日 (日)

神のみ心とは

詩篇 73篇26節     【新改訳2017】
 この身も心も尽き果てるでしょう。しかし神は私の心の岩とこしえに私が受ける割り当ての地。 

 クリスチャンは本来、祝福されてしかるべきです。しかし人は世を基準にし、自分の描いた祝福が祝福だと思っていますが、神の祝福は人と大きく異なっているのが現実です。
神に忠実で熱心なクリスチャンに、世的には悲惨な、大きな試練がのぞむことが多いようです。教会をあげて応援していたよく知っている神学生夫婦の夫人が、出産後のマタニティブルーで飛び降り自殺しました。息子のように親しくしていただいた篤信の長老の一人娘は、結婚して三日目の朝に、夫は突然交通事故で召天しました。まだまだ例を上げることができます。ひょっとして以前の私も試練を通ったという点では、同類になるでしょう。

聖書では、イエス様がこの世に来られた目的は、行いなどによって自分を義とするような「正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるため」(マタ9:13、マル2:17、ルカ5:32)と語られています。つまり世の中の成功者、権力など力ある人にではなく、社会から価値が無いとされていた子どもや見捨てられていた人、罪人と迫害されていた病や弱い立場の人たちのために、です。

それはなぜでしょうか。成功者や力ある人々は自分の罪がわからないからです。罪がわからないので、悔い改めることができません。神を信じていると思っていたとしても、真に罪を告白し悔い改められないので罪が赦されていないのです。「放蕩息子のたとえ」を思い出します。罪を悔い改め父の許に行く時、罪が赦されはじめて父の愛がわかりました。父としては、父権に依る強制でも、命令した聞き従いでもなく、悔い改めて帰ってきた息子ほどいとおしい者はないのです。息子の真実な愛を得たことになります。これが神が願って私たちに求めておられる、神への自発的、自主的な愛です。これに反し、不安や恐れで人を動かし支配しようとするものはすべからずサタン的です。

熱心な、み心のクリスチャンへの試練が多いのですが、それはなぜでしょうか。もちろん神は人をいたぶって居られるのではありません。確かにこの世的なものを失うように見えて、実は試練を通して本当に何が大切か、ちょうど放蕩した息子が何もかも失って自分の姿を知り、始めて父の許に帰ろうと決心したように、自分の真の姿を気づかせてくださっているのです。試練を通してのみ、私たちは自分の真の姿に気づき、世の力を打ち破ることができるとすれば、不幸に見えたすべては神の愛なのです。

2018年9月23日 (日)

神のみこころを知る

ローマ 12章1-2節     【新改訳2017】
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

 聖書は神の言葉であり、その聖書を通して私たちは神のみこころを知ります。その方法は大きく分けて二つあります。第1にイエス・キリストのゲッセマネの園で祈りにその典型例があります。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26章39節)
 キリストは神でしたが、同時に完全な肉の体を持った人でもありました。受けなければならない想像を絶する苦しみは、人々を愛し尽くした末の酬いでした。これは弱さというより、まったく理不尽な酬いを前にして、キリストはみこころの確認を求められられたのです。重要な点は、ただ神のみこころを確認しただけで、従うという意思に微塵も揺るぎがなかったことです。「何があっても従う」これがみこころを知るための一つです。神のみこころは「十字架の上で死になさい」でした。

 「みこころを知る」もう一つは、「神のご命令のみこころ」とでも言うべきものです。どんなに悪いことにでも「感謝しなさい」(1テサ5:18)、いつでも「喜びなさい」(ピリピ4:4)は神の命令ですが、私たちへのみこころです。特に「愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)は主イエスからの重ねての命令で、厳命とでも言うべきものです。
 しかしながら現状は聞き従っているとは思えません。知っていても実際に従おうとしない不服従がみられます。自分を見、自分に到底行う力がないのを知っているので、はなから試みないのです。

 確かに私たちには行う力がありません。神はそのような私たちの力をよくご存知なはずです。つまり、自分の力では「愛する」「感謝する」ことができないことを告白し、「悔改め」て全面的に神により頼むことを期待されているのです。神に期待し、心から願うことによって、神によって私たちは新しくつくられるという真理が開かれるのです。本日の聖書の2節に「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば‥‥‥」とあるのは、このことです。
 どうか謙遜になって、この神のあわれみと恵みを無駄にしないよう、みこころを知り、それを行える者に、自分の力ではなく、神によって変えていただきましょう。アーメンでしょうか?

2018年9月16日 (日)

けして見捨てられない

1ペテロ 2章6節    【新改訳2017】
聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」

本日の聖書箇所で,シオンという言葉は、世俗化したエルサレムに対比してのものでしょう。それに対しシオンの丘は、「神の住む丘」、「神の都」です。シオンとは「天のエルサレム」をも暗示しています。

さらに「選ばれた石」とはイエス・キリストのことであり、失望という言葉はKJVで「shame=恥」と書かれています。このみ言葉全体の理解は、人々に見捨てられたキリストを信じるならば、神の国へ必ず行けると言う意味でしょう。
また、このことを非常に言い当てている、神は「決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(へブル13:5)のみ言葉は,このことを端的に言いあらわしていると言えましょう。

さて神の約束はまことに心躍るものです。この神にあって霊的に成長させられるならば、私たちは次の四つの栄光にあずかります。「選ばれた種族」「王である祭司」「聖なる国民」「神のものとされた民」となります。実際、キリストの再臨の後に来る千年王国で、私たちはキリストと共に王となり、人々を導き執りなす者となることは聞き及びでしょう。

信仰をまっとうし、天のエルサレムに引き上げられてからの私たちは、このような栄光の召しがあり、なんとしてもそれを望み、まっとうできるように、この地上での命を尽くしましょう。その力は私たち自身にはなく、内住される聖霊様にどれほど働いていただけるかにかかっています。聖霊様中心の自分になるために、熱心に<霊の乳を求め>ましょう。
また聖霊の力でもって<肉の欲を避け>、<善を行えるよう祈り>、<与えられた自由を神に従うものとして用い>、<すべての人を敬う>と言う信仰の行いが生じて行くのです。つまり、神が私たちに望んでおられるのは、次のみ言葉に集約して言うことができるのです。
ですからそのようにこの世の時間を用いるため、ご一緒にお祈り致しましょう。

「それはあなたがたが残された時を、もはや人間的な欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです(1ペテロ4:2)」

2018年9月 9日 (日)

神との交わり

1ヨハネ 1章3節     【新改訳2017】
私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

神を信じたクリスチャンには三位一体の聖霊という神様が内住されました。本日の聖書箇所「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」です。
 私たち被造物である人が神と交われようにするために、神は世界の始まる前から私たちを造られ、時至ってこの世の世界に命をもって送り出してくださいました。交わりを開くのためにアダムとイブの追放があり、ノアの箱船、アブラハムへの約束があり、イエス・キリストの贖いがありました。すべては十字架と復活を信じる者に聖霊を与えるためであり、交わりを開くためでした。人は聖霊を通して、父と交わるのです。

 続く8節に不思議なことが述べてあります。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」と。聖い神様とお交わりをするのに、全くふさわしくない真逆の自分の罪を告白しなければダメだ、なんて言われているのです。

 これには三つの真理があると思われます。一つには、高慢の逆、へりくだりです。 真に十字架を信じた人には必ず聖霊が内住されています。聖霊の聖さは人の罪を明らかにし、高慢を砕きます。へりくだりは聖霊の内住を現し、神に接する基本的態度です。

 次に罪を認め、告白するならば必ずそれは赦され、まったく無かったこととされます。つまり、罪を告白した直後は、神との交わりにふさわしいきよい者とされるのです。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。【Ⅰヨハ 1:9】

 最後に罪を告白する者に、神は賛美と喜びを与えてくださいます。それは罪の縄目から解放された喜び、真に自由とされた悦び、深く愛され愛している歓びです。

 大切なことは神と交わるということです。これは地上のわずかな時間を越えて、永遠の交わりの、ホンのプロローグに過ぎないと言うことです。次のみ言葉があるように、地上の働きは天とリンクしており、故郷である天に凱旋するためなのです。
まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。マタ 18:18】

 それでみなさん、ご一緒に次のみ言葉のお祈り致しましょう。
こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。1ペテロ4:2】

2018年8月26日 (日)

主は心を見る

1サムエル 16章7節     【新改訳2017】

主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。

本日の聖書箇所、「主は心を見る」とありますが、前王サウルこそ〈容貌〉や〈背の高さ〉に誰よりもすぐれていた人だったので、これは、サウルの予断に対しての戒めの言葉であり、同時に人間に対する神の基本的な見方を明らかにするものです。

 しかしここで疑問が湧く。全知である主が、どうして見かけ上立派なサウルを選び、心は見なかっただろうか。サウル王の位置づけが気になるところである。神はサウルを王としたことを「悔やむ」(1サム15:11)とまで言われた。ところが不思議なことをサムエルは言っている。主は「悔やむこともない」と(Ⅰサム15:29)。

 一見矛盾に見えることだが、おそらくサムエルは主に、サウル王を退けられた理由を聞いたのだ。神はノアの箱船のように、悔やまれ、失敗に見えても、それを最善の結果に変える力がある。典型例がキリストの十字架だ。それ故サムエルは「神に悔いはない」と神の全知と叡智を証言して言ったのだと。

 サウル王が次王ダビデに果たす役割は、次のように大きかった。第1に世の王権に勝る神の主権があることを知らしめる。第2に長い逃亡生活を通し、ダビデの訓練と主との親密な交わりの確立のために。主はサウルを悔やまれた。しかし神はそれを最善にする計画が用意されていた。故に神は、サウルを退けても悔やむことがないと言われたのだ。

 実際、聖書に登場する人物の中で、ダビデほど神に愛され、祝福された人物はない。油を注がれた後の彼の人生は、苦難の歩みだった。ゴリアテに勝ち、ヨナタンと兄弟以上の契りを結び、常勝の軍団長となって王の娘ミカルの婿となっても、執拗に義父である王から命を狙われ続けた彼の逃避行は、ただ神を頼りとする以外になかったのである。

 また王となってもダビデの家庭には平和がなかった。アブシャロムの反乱、アドニヤの王位狙いなど悲惨であった。またダビデ自身もベテ・シェバとの罪と殺人、あるいは民を数えた罪で幾度も神の前に身を投げ出し。悔い改めなければならなかった。

 しかし神はダビデを愛し続け、ダビデへの祝福を変えることはなかった。ここに神様とはどのような心を求めておられのか、また私たちが目ざすべき心というものを明らかにしてくれるのである。次の詩篇51:17 の短い一節がこのすべてを言い表している。  

神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません

2018年4月29日 (日)

私を愛するか

ヨハネ 21節17節
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」
  ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛します か」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。 あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼 に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 本日の聖書箇所、ヨハネ21章でのペテロへ「わたしを愛するか?」の投げかけの真意を探ります。三度繰り返された投げかけは、完全数であり、決定的という意味があります。ということは、どういうことでしょう。
 結婚式の誓約「(夫・妻とすることに)誓いますか?」も、一度の「ハイ」で終わりです。三度も繰り返して要求したら、「相当疑っている?」と思われることでしょう。ではイエス様はそうなのでしょうか。主の意図がこの時ペテロはわからず、心を痛めました。「どうして何度も聞かれるのか?」と。

  私は半世紀近くいろいろな教会の経験があります。それから言えることは、私たちカリスマの教会には聖霊の注ぎが大きく、癒やしや奇蹟が頻繁に起こります。ですからサタンからの攻撃も強いのです。カリスマ教会は信徒を守り、秩序を維持するために、次第に権威・秩序を重んじるようになり、その窮屈さからか、普通の教会に見られる、日曜日は教会に、の大勢の中間的な信徒層が少なくなる傾向があります。

 これから日本にも世界にも、終末のリバイバルが注がれていきます。圧倒的な多数の人々が教会に押し寄せて来ますが、その時人間的な牧会をしていては、せいぜい数十人規模しか牧会できないことでしょう。ペテロに対し、三度の完全をもって「Do you love me ?私を愛するか」と問われたのは、「わたしイエスへの愛をもって、羊たちを愛しなさい。それはわたしを愛すること」でした。
 ご存知のようにペテロは三度も主を見捨てて逃げた群れのリーダーです。その彼に三度も問われたということは、二度・・・・は無いということだと、私は思わされています。果たしてこの後、ペテロの殉教の仕方を主が語られているので、符号が合います。・・・・つまり「本当に、命をかけて私を愛するように、羊たちを愛しなさい」が真意であると私は示されています。

 カリスマの教会牧師が、今ペテロと同じく主への愛を一番に置いているなら、その信徒たちもまた、主を愛することを一番にするはずです。つまり主を愛し、主の愛された者を何よりも一番に愛する」ことが、指導者である牧師の姿勢から全員に感染して広がる「奥義」を、このペテロの再召命の箇所から教えられたのです。