フォト
2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

ウェブページ

無料ブログはココログ

神のみこころ

2017年5月14日 (日)

信仰の核心 神のみこころ

1ヨハネ 5章14節
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

 クリスチャンには、二種類あります。以前の私のような聖霊も何もわからないクリスチャンと、神に触れられ、聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンとです。十字架を信じている両者ともに、永遠のいのちを与えられているのは同じですが、その心に大きな違いがあります。神のみこころを知って、それを行いたいと願うかどうかです。
 
 その分岐点は聖霊の臨在の違いにあります。聖書には「神のみ心は聖霊以外に知り得ない(1コリ2:11)」とありますので、神のみこころをいくら知りたくても、聖霊さまとの親しい交わり、つまり聖霊のバプテスマと聖霊の満たし以外には、人間には他にみこころを知る手立て、方法がないのです。そして三位一体の神さまである聖霊さまを通して、私たちは神さまというものと知ることができ、その愛に触れて、愛に生きる者、つまり何よりも、自分自身の計画やあらゆる願いよりも、神のみこころを行いたいと願う者へと変えられていくのです。これは神を知れば、必然的な変容なのです。
 
 聖書では「主よ、主よと言うものが皆天に入るのではなく、神(父)のみこころを行う者が天に入る(マタイ7:21)」という御言葉があります。つまりクリスチャンにとって<神のみこころを行う、行えるか>ということが決定的に重要なことです。そして、みこころを行う者に対して、キリストは「天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです(マタイ12:50)」とまで言ってくださっているのです。
 
 これらの交わりは昔、エデンの園で人間と日々交わられていたように、何一つ変わることのない神の原則であり、人類の創造の目的の一つであろうと推察されるのです。神の本質は愛であり、私たちはこの神と交わり、神を知ることによって、神の愛に満たされ、溢れて愛を行う者へと、実際変えられて行きます。また多く許された者が多く愛するように、神に愛された者は、神を愛します。それがみこころを行うということなのです。
 
 神との交わりがどれほど素晴らしいものかは、究極の姿を描いている黙示録においてこのように描かれています。
「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く(黙14:4)」「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる(黙21:3-4)

2017年4月30日 (日)

父のみこころ

ヨハネ 6章38~40節
38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。
39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。


 数日前に黙示録の2ー3章を読みました。七つの教会は、すべての時代に存在した教会の信仰の型だと言うのが私たちの見方です。今回この箇所を読んでいて、これまで気がつかなかったあることを見つけました。みなさん、どうしてスミルナとフィラデルフィア教会が良く言われているか、ご存知でしょうか。それはこの二つの教会だけが「悔い改め=罪・過ち」を指摘されていないのです。
 
 さてそれはさて置き、残りの五つの教会をさらに詳しく見ていきますと、P牧師も指摘されている通り、たとえフィラデルフィア教会でも携挙が全員ではなく、五つの教会であっても、悔い改めるならば「いのちの木の実」、「新しい名」などと天の都、新しいエルサレムが約束されています。これはバプテスマのヨハネからヨハネによる黙示録に至るまで、「悔い改め」が天への鍵であること、これが聖書が語る一貫したテーマです。
 
 ですから「悔い改め」を否定的に受け止め、抵抗を感じ、忌避している人は、取り返しのつかない大間違いをしているのです。イブが善悪を知る木の実を食べて以来、全人類は罪の中に居ます。では神は私たちを、地獄の滅びに落とすために造られたのでしょうか。違います。神のみ心が聖書に、はっきりと次のように書かれてあるからです。
マタイ18章12-13節
だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。このようにこの小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなた方の父のみこころではありません
ヨハネ6章40節
事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです
 天の父なる神は、罪から私たちを救うために、尊い独り子イエス・キリスト様を遣わし、人間の罪の身代わりとして十字架で死ぬことをお命じになりました。ここに神の愛があり、信じる者に完全な赦しが与えられます。赦された者は滅びから免れ、御霊の体という滅ばない新しい体と、永遠のいのちを持って神の国の一員となります。
 
 ただし、罪が分からねば悔い改めることができません。罪がわかることは打ちのめされる一面がありますが、十字架によって悔い改める者は赦され、神に祝福される者となっての大逆転の結果になります。悔い改めることは何と素晴らしいことでありましょう。天国へのパスポートです。ハレルヤ! 感謝します。

2017年4月16日 (日)

神のみこころに聞き従う

Ⅰペテロ 4章2・7節
 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。


 キリスト教においては福音を信じる、つまり「救われ」てクリスチャンになることが先ずもって大切なことです。その次、クリスチャンの信仰生活において、もっとも大切なことは「(神の)みこころを行う」ことです。このことは聖書でイエス様ご自身や、12弟子筆頭のペテロやヨハネらが口をそろえて語っています。このみこころを行おうとすれば、それは結果として神に「聞き従う」ことと同じことになるのではないでしょうか。
 
<参考聖書箇所>
主イエス・・・マタイ 6:10/7:21/12:50  パウロ・・・エペソ 5:17   ペテロ・・・1ペテロ 4:2  ヨハネ・・・1ヨハネ 5:14
 
 では、神のみこころとは何でしょうか。そのことも聖書には明確に説かれています。「(先ず教会内から)互いに心から愛し合う」ことです。ただ注意しなければならないことに、私たち人間にはそのような愛がないことです。人間はすべからく罪人で、自己中心な存在なのです。ですが、各自に聖霊に注がれ、神のあわれみとその力に依って内なる世的な肉を滅ぼすなら、可能になります。こうして聖霊を通しての神の愛が各自に満たされ、溢れて行くなら、互いに親切にし合い、仕え合うことができます。自分の今のありさまや、力を見ては不可能ですが、神にあっては不可能はありません。神の栄光はふさわしくなく、愛の力のない者を通して、神の愛が現されるのです。
 
 もう一つ、神のみこころは私たちが「堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かう」ことです。悪霊というものに対して、今は罪赦されて神のものではあっても、私たちの力では弱い存在です。しかし神は、悪霊に対し、私たちが怖じ逃げ惑うのではなく、「立ち向かえ」と仰っているのです。私たちの力は弱いけれども、神をバックにした堅い信仰に立つならば、圧倒的な勝利者となるのです。クリスチャンは神のしもべであって、しもべは主人の威光を帯びているからです。悪霊に対して逃げてはなりません。戦いの場では、その人が本当に神を信じているのか、神からの聖霊の力が注がれ、みこころによって立っているのかが試されます。失敗を恐れる必要はありません。イエス様の時代において、口をきけなくさせ、ひきつけさせる悪霊の追い出しに失敗した弟子たちにしても、多くのことを学ぶことができたからです。
 
 こうして見ればクリスチャン生活とは、聞き従いを通して、己に見られる内面の不従順さ、世的な欲望と戦い、また外から来る悪霊との戦いをし続けることだと言えるようです。天の故郷に帰るまで続くこの戦い、感謝と賛美はこの中で上がる、信仰による勝利の旗だと言えるでしょう

2017年4月 9日 (日)

クリスチャンの成長

イザヤ6章8節
私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」


 長年教会生活を送られ、奉仕しているのに、一向に自分の問題や困難が解決されず、また信仰の成長や恵みがないと思ってる方がおられれば。本日はそのような方にメッセージを取り次がせていただきます。
 もちろん恵みが感じられにないからと言って、教会生活を中断したりすればUpupどころかDowndownになるわけです。牧師に相談すると、自分のことばかりに目を向けないで、目を外に向け、もっと大変な人々を助けるべきだと諭されるかも知れません。しかし自分の車のガソリンが尽きかけているのに、他の人に分けあてなさいと言っているようなもので、それは無理です。まず自分自身の必要が満たされなければ、どうして他の人にそれを分けられるでしょうか。
 
 さて本題ですが、イザヤは神殿の上に立っている聖なるセラフィムを見て、己の罪深さがわかりました。イザヤは王族の一員で、人の目には正しい人でした。しかし神の圧倒的な聖の前には、滅ばなければならないただの罪人でした。神のあわれみによって、燃えさかる炭が口に触れたので、赦され救われたのです。その与えられた命のゆえ、彼は進んで、「ここに私がおります」と神の召しに応えようとしました。罪を知る、赦しがわかる、献身する、これがポイントです。イザヤだけでなく、人は自分の罪深さをいかにして知るのでしょう。神の聖の前に出ない限りは、罪は分からないようです。
 
 クリスチャンの成長とは、言い方を変えれば、己の罪深さを知って行く過程であるともいえるでしょう。聖である神を知れば知るほど、つまり罪がわかればわかるほど、神のあわれみ深さ、十字架の愛がどれほどかがわかり、自己がかすんで行きます。ついには神の愛をまったく信頼し、自分を捧げたくなって仕方なくなります。神の召しにいのちをかけて応えて行こうとする決心が湧いてきます。こうした神との交わりを通し、経験を通し、自分の思いをはるかに超えた導きの正しさがわかり、自分の考えよりも神のみ心が最善であって、聞き従うことを何よりも求めるようになるのです。
 
 クリスチャンの成長とは御心を求め、聞き従うことにあります。神の言葉である聖書と聖霊との交わりという、聖なる神との交わりなくして成長はありえません。神は生きておられます。交わりのない信仰生活は、徒労感が蓄積するだけです。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」神を、飢え乾きをもって求めましょう。そうすれば必ず神はご自身を現してくださいますし、「ここに私がおります」と応えているご自身と、その成長を見ることになるでしょう。

2017年4月 2日 (日)

原罪から恵みへ

創世記 3章6節
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 このアダムとエバが罪を犯し、エデンの園から追放されるという原罪の記事は、人間のどうしようもない罪を明らかにするだけのものでしょうか。そうではなく、キリストとその十字架による赦しと解放へのドアです。また最終的にはエデンの園にあった永遠の命である「いのちの木」をも与えようとする祝福のプロローグなのですから。
 
 では園に神はなぜ禁断の木の実を置かれたのでしょうか。疑いようもなく、神への「愛」と「従順=戒めを守る」というシンボルでした。キリスト教信仰とは、一言で言えば関係の宗教だと言われます。人格的な関係というものは何よりも信頼が土台です。ですから国旗のように、園の中央に置かれていたのです。
 
 エバの行動で推察されることは、「それに触れてもいけない」と言われていた所に単独での近づいたことです。蛇とのやりとりを通して、そばにアダムが居たような記述がありません。禁じられている恐い所、そこにだけ蛇が居たようですし、そんな所にわざわざ一人で近寄って行くでしょうか。エバに単なる興味や好奇心以上の、神の戒めを疑い、自分の目で本当かどうかを確かめてみたかったという意図を感じます。
 
 エバの罪は蛇の言葉を神よりも信じたことです。サタンの本質は偽りとだましです。また恐怖で人間を支配しようとします。木に近づくという神の言葉への疑いを元に、かつてサタン自身も犯して転落した罪である「神のように賢くなりたい」に、エバをだまして成功しました。神の計画を見事に挫いたようにも見えます。しかしサタンのたくらみのすべてが、キリストの十字架によって完全に打ち砕かれるストーリーが聖書です。
 
 エバのことから学べる、神との信頼関係を損なってしまう、気をつけなければならない三つの原則があることに気づきます。
 第一に神を愛することです。神を愛すれば、その心を行いたいと願うようになります。木に近づいたりするような、誘惑されに行くような危険を冒す気にはなりません。
 第二に、エバが誤ったように見た目や自分の欲や判断を優先させる高ぶりに、特に注しなければなりません。私たちは有限な誤りやすい者で、神に従ってこそ正常なのです。
 第三に聖書と祈りです。「あなたは決して死にません」と言う嘘は、それを体験してからでは取り返しがつかないものでした。見分けるために何を信じ、誰に導いていただくのか、その答えは聖書と祈りしかありません。

2017年3月 5日 (日)

私があなたを遣わすのではないか

士師記 6章12・14節
12節 の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。があなたといっしょにおられる。」
14節 すると、は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
 
 ギデオンはイスラエルのカナン定着の初期、士師の時代においてサムソンと並んで最も有名な指導者です。しかしナジル人で生まれつき選ばれていたサムソンと対照的に、召命を受けた時の彼は属する部族も、その立場も弱いものでした。ですから士師になるには「最もふさわしくなかった」人物とも言えます。今日はこの「ふさわしくない」が一つのテーマです。
 
ギデオンの名には「強い勇士」という意味があります。しかし神に会うまでのギデオンはミデヤン人を恐れて脱穀の麦を酒舟の中で打っていたという名前負け状態でした。脱穀の麦を打つためには、風通しの良い戸外でする作業ですが、そんなことをすればミデヤン人に見つけられて、麦を奪われるばかりか、隠していたとばかり痛めつけられる恐れがありました。
 
ミデヤン人とはアカバ湾の両側であるアラビヤやシナイ半島南部に住んでいた遊牧民です。アブラハムの二番目の妻ケトラとの間に生まれた民で、モーセの妻になったチッポラもその民の一人でした。イスラエルの地から見れば最も遠縁で遠方の民族、ミデヤン人がヨルダン川を渡って東から略奪に来ていました。
 
この時イスラエルは弱く、略奪に堪えかねて救いを待ち望んでいました。その叫びに神は、もっともふさわしくないギデオンを選ばれました。ギデオンがミデヤン人と戦うために角笛を吹いて、3万5千人集めましたが、神はこれ1万人に減らし、さらにハロデの泉でたった3百人に落とされました。これはイスラエルが自分の力で勝ったと言わせないためでした。こうして神の御業が現れる舞台は仕立て上げられました。このことからもわかるように、神のみ心は、民がどうにかして心から神を信じて欲しい、そう願っておられるのです。
 
今日、当初のギデオンのように、名前負けをし、現状に希望を失ない、人生に立ち向かうのに無力感を感じておられる方がおられるかも知れません。しかし大事なのは現状ではありません。ギデオンのように、ただ「神がその人とともにいらっしゃるか」どうかです。
人生の主な問題は、「主があなたと共におられるか否か」です。それは逆説的ですが、自分の計画や夢、希望を一切棄てて、代わりに神の計画の実現にそれらを置き換えることです。ただ神を信じるだけでなく、神を主とし、己を僕(しもべ)として神に聞き従う道でもあります。クリスチャンでも、このように願っている人はごく一部の人だけという現実があります。
 
ただここに大きな問題があります。神に用いられて行くと、サタンがそうであったように、高慢に陥る可能性がたかいのです。これは何としても避けなければなりません。ですから、誇れないように、ふさわしくなかったギデオンを召し、絶対自分たちの力で勝ったと言えないよう、3百人で13万5千人を打ち滅ばされました。
 
 このように「自分はふさわしくない」と思っておられる方、あなたこそ神に栄光に帰すことができ、神に用いられる器として最も適した状態であるとも言えるのす。ただ神を信頼し、神に期待して目を上げましょう。お一人お一人に神の最善の計画があります。どうか神があなたの人生に、ともに歩んでおられますように。

2017年1月 1日 (日)

神の住所

エペソ 3章16~17節
どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

 日本人は今朝の元日、日頃は心にもかけず、信じてはいずとも、慣習か、またはわずかに残っている宗教心のためなのか、神社に詣でるようです。私たちのキリスト教の神さまは天地万物を創造された神です。偶像などに置き換えて拝まれることをたいへんお嫌いです。
 ではいったいクリスチャンどこを指し、どこを向いて、神を拝めば良いのでしょうか。よく「天にまします父よ」と祈りますので、天の方を向いたら良いのでしょうか。しかし日本とブラジルとでは、天の方角がまったく違うではありませんか。神はどこに居られるのでしょうか。イエス様が帰られた所、エルサレムのオリーブ山の上の方なのでしょうか。いえ、実はこのような特定の住所探しは愚かです。三位一体の神は時空を超えて遍在されており、どんなところにも居られるのです。
 それでもあえて「神の住所はどこ?」に答えるなら、神は神を信じる者の心の中に住んで居られます。今日の聖書箇所にあるように、聖霊なる神がクリスチャンお一人お一人の内に住まわれるので、私たち自身に聖霊の宮があるのです。ですから内なる神は、私たちのどんなつぶやきや、知られたくない心の秘密など、すべてご存知であります。どんな隠し事も、神さまには一切通じません。
 
 そう言われましても多くの信徒の方から「神さまの声など聞いたことがありません」「内に住んでおられる実感がありません」などと言われそうです。このような疑問に対して、まず第一に聖書がそう言っている確かなことであること。十字架は罪を赦し、聖霊さまをお一人お一人に内住させるためであったこと。最後に、以下に述べる四つの罪が内に住まわれている聖霊様との交わりを遮断しているからではないか、と申し上げましょう。
 
一つめ、未だ人を許していない「憎しみの罪」(マタイ6:14)があるため。
二つめ、恐れの罪。恐れはサタンを通す管です。恐れに支配されていては、1タラントを埋めてしまったしもべと同じ結果(マタイ25章)になります。
三つめは劣等感の罪、四つめは咎めの罪です。
これらはいずれも肉の思いが聖霊さまとの交わりを遮断してしまい、神の聖さもその臨在の恵みにもあずかれなくしているのです。ですから内住される神がわからないのです。
 
 どうか祈ってください。四つの罪に気づかされ、切なる祈りによって変えられ、肉において死ねるように。内住される聖霊と親しく交わることができ、信頼し、徹底して聞き従がい、主の御心の道を歩まれますように。神の恵みに与れますように

2016年9月11日 (日)

人はうわべを見るが、神は心を見る

1サムエル16章7節
しかし【主】はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが【主】は心を見る。」
 
 この聖句は、最後の士師で預言者のサムエルが、新しい王を選びにエッサイの家を訪れた時、神からあったことばです。エッサイの長子がサムエルの目にはふさわしく見えたのですが、主の目は違いました。私たちにはできない人の心を見ることが、神にはできるからです。これは神のご性質をも教えてくれています。
 
サムエルに限りません。私たち人間というものはよく間違いを犯します。見えることが正しいと信じているのですが、実はそれも多くの間違いを含んでいます。例えば私の髪です。この頭、「かなり灰色になって来たな」と思われませんか。実はその見方、間違っています。グレイの髪の毛なんて存在しないのです。床屋でよく見てもらうと白い毛か黒い毛か、そのどちらかなかったのです。グレイの毛はないのです。見ていても錯覚するくらいですから、人は神と異なって間違う存在なのです。
 
この宇宙、地球とこれに住むあらゆる生き物とその命。神は六日目の最後にご自分の姿に似せて人を造られ、この被造物全体を私たちにお委ねくださいました。人のために一切が造られたのです。このすべては神は人と交わり、人は神と交わるためなのです。神は人の心をお求めなのです。
 
私たちはどのようにして神と交わり、神を愛するようになるのでしょう。それは私たちの真実の姿を見、救ってもらわなければならない自分と神の愛が分かり、十字架によって罪から解放される時に、霊的な交わりが回復されて可能になります。その恵みは非常に大きく、血肉の命に優るものです。神は裁かれると恐れる人もいるようですが、それは神に背き続けた結果であって、自らが選び招いたものです。神は愛そのものなのです。
 
 神は唯一、全知全能のお方ですから、人の心を見られます。私たちが神に助けを呼び求める時に、神は助けずにはおられないお方です。神に助けを求める者は助けられ得です。変にプライドをもってしまい、神に求めない者は気の毒な結果になります。遠慮なく神に救いを、助けを求めましょう。その上で、助けられた感謝と喜びを神にささげましょう。これは重要な交わりでもあり、愛の基礎、土台です。ですから私たちは、助けを呼び求める時、神が必ず助けてくださることを前もって感謝しますし、たとえそれが自分の思った通りの結果ではなく、違ったとしても、神に祈ったものであれば、これが最善の結果であることを知っているのです。神を信じる者には、すべて神の許しの下にあります。神への信頼とは、間違いやすい自分の目よりも、神を信じているからです。 

2016年3月 6日 (日)

神の訪れの時

ルカ 19章44節
そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。

  当時の宗教的指導者であったパリサイ人やサドカイ人は、聖書をよく知っており、メシアを待望していました。ところがイエス様がご自分のことを、数々の証拠を持ってメシアであると明らかにされても、受け入れないどころか、「人でありながら、自分を神だと言っている」として冒涜罪で最も残酷な十字架に架けました。

 こうしてユダヤの民は神の訪れを拒み、殺し、自分たちの描いたメシアを待ち望みました。しかし当然ながらそのメシアは訪れずれることがありませんでした。紀元 65年、悪辣なローマ総督に対し暴動を起こし、翌 66年には民族をかけてローマとの戦いに発展しました。6万のローマ軍が派遣され、エルサレムは完膚なきまでに破壊され、生き残った民はこの後の二千年間も国なき民として、世界中を放浪することになったのです。メシアを殺し、「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。(マタイ 27章25)」と叫んだユダヤの民は単に国を失っただけでなく、歴史上類を見ないほどの過酷な旅が待っていました。

 ロシアでのポグロム、ナチスのホロコーストなどの多くの犠牲を払いながら、ついに時が来て、1948年に聖書の預言通りイスラエルは元の地に再建されました。こうなった理由はただ一つ、イエス様という「神の訪れの時を知らなかった」、この誤まりに尽きるのです。ユダヤ人が犯した誤りを私たちは繰り返してはなりません。今生きている私たちが必ず迎えるだろうと思っていることに、黙示録の終末が来ること、同時にこの日本で非常な臨在の中、リバイバルが起こるのです。リバイバルの訪れを知らなかったでは済まされないのです。 

 未だにユダヤ人のほとんどは、イエス・キリストが救い主、メシアであることを認めません。そして同じようにほとんどの日本人も、イエス・キリストを信じようとはしません。キリスト教伝道が自由な国で、これほど福音が不毛な国はありません。しかし約四百年前、キリスト教のカトリックがこの国の十分の一の割合を占めたことがあります。しかし徳川幕府の弾圧によってキリスト教は抑圧され、封印されました。キリスト教の歴史上、これほど福音宣教が大規模に敗退した例はないことでしょう。

 終末前の今日、イスラエルも日本も、クリスチャンの割合が奇妙に少ない数で一致しています。世界のリバイバルの起点・先駆けとして日本が、またその終点としてのイスラエルが備えられていると私は示されています。ユーラシア大陸の端点にあるこの二つたる国への神の計画は深遠です。私たちが神の訪れの時を同胞へ宣べ伝え、証しする器として用いられることでしょう。みなさん、目を覚まし、準備をしておくのです。

 

2016年1月 3日 (日)

神のみ心

マタイ 20章1-7節
  彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』

 パレスチナでは葡萄が熟すのが九月で、その後すぐに雨期が来ます。その前に葡萄を収穫しておかないと、葡萄が腐ってしまいます。ですから収穫期には人手が必要で、実際1時間だけでも働く人は歓迎されました。日雇い労働者は、朝、町の市場に立って誰かが雇ってくれるのを待っていました。使用人や奴隷と違って、雇用主がいない日雇いは、収入がなければ即、飢える恐れがありました。通常彼らは、朝6時から夕6時まで働きました。Photo_2

 今回新たに何点か気づいたことがあります。主人は9時と12時、午後5時に市場に行っていますが、「別な人たちが立っていた」とあるので、行く度に市場に居た全員を雇ったようです。その際、9時と12時の人には「相当なものを上げる」からと言い、5時の人には、その約束はしていません。通常は働いた時間に従って賃金が支払われますので、9時からの男には3/4デナリ、昼から男には半デナリ、5時から男にはよく出て1/10デナリぐらいの相場だったのではないでしょうか。次に賃金の支払いをこのたとえでは5時からの順にしています。私なら絶対朝6時の人から支払います。これは彼らの文句を引き出す意図があったと理解できます。

本題です。朝6時から働いた人たちとは「私たちは何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。何がいただけるでしょうか」とイエス様におねだりした、ペテロへの答えです。ここで天国での神の報いの基準が明瞭にされます。それは○○したからとかの功利的なものではなく、愛とあわれみの神が公平で正しくさばかれるのです。

 たとえ1時間しか働かなくとも、彼らには1タラントの資格がありました。仕事にあぶれ続け、雇ってくれる町々を探して歩いた彼らは、どれほどの失意や不安に苦しめられて来たことでしょうか。額もですが、最後のわずかなチャンスに望みをつないでいたのです。

 ぶどう園の主人(神)は自分の利益だけを見るのでなく、人の心と苦しみを見て判断される主人でした。私たちの神、主は愛とあわれみに満ちた存在なのです。このたとえで弟子たちを教え諭されたように、私たちもこの神の御心を知り、功利に走らずに仕え、どんなに不遇と失望とが来ようと、神に期待し、必ず報いてくださるかたであることを知り、希望と喜びを持って信じ従いましょう。