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神のみこころ

2022年6月19日 (日)

いのち吹き込まれて

マルコ 10章45節   2017新改訳

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

 「人・・・仕えるために・・・来た」 私はこの御言葉を誤解をしている面があった。もし文字通りに牧師が教会員にしもべのようにして仕えるならば、教会は秩序と権威が混乱することになる。この主の言葉の意味は、主ご自身が父に仕えられたように、私たちが主の御心に「仕える」という意味である

 最近になってなってもっとも感じたことは、イエス様はワンパターンで教えられたのではなく、個々人の日々の問題と必要に対応された、まるで特別支援教育のスペシャリストであった点だ。本日はスカルのサマリアの女との出来事を通し、どんなにイエス様が御心に従われ、スペシャルにそれを対応されたかを読み取って、全能なる神をさらに崇めていきたい。

 このサマリア人の女は5回の離婚歴が有り、現在の男は夫ではなかった。だから女同士が集う朝や夕方には井戸に来れなかったのだ。一見ふしだらに見える彼女は、実はたましいの飢え渇きがあった。神はそれを見逃されていなかったし、彼女を通し異邦人伝道の初穂とされた。主は人の中身を見られる。

《しかし、サマリヤを通っていかなければならなかった ヨハネ4:4の御言葉は重要である。これはイエス様があらかじめサマリアの女を選び、福音を伝えるよう神から示されていたことを表す。だから《行かなければならなかった》のである。
 なぜ彼女が選ばれたのだろうか。自分を正当化し、罪の意識の乏しい人に十字架の福音は届かない。同時にたましいの飢え渇きがなければ、満たされ新生したいのちと喜びの泉は湧かない。
 この女は人とか結婚という世に求めていた。しかしそれらはみな砕かれて崩れ、絶望の底に沈んでいたはずである。惨めで人前に出ることすらも憚られていた。この女は単なるふしだらな女ではないことは明らかである。福音を聞いた時、即座にメシア来臨への望みを告白したからである。

 イエス様はこの女に、ご自分がキリストである決定的なことば・・・唯一この後では、十字架刑の決めてになったカヤパへの言葉  マルコ14:61~62 である「あなたと話しているこのわたしがそれです」を語られた。弟子にも語られたことがなかったメシア宣言・・・これは驚くべきことである。
 聖書を通して見れば、信仰を誉められた者はすべて異邦人である。ダイレクトな福音はまず異邦人のサマリアの女に語られ、自分がキリストであることを証しされた。このことは、今日、ユダヤ人を除いて、異邦人が福音信仰で世界を席巻することが御心であったことを暗示している。神の知恵と計画は果てしなく大きく、人が理解することが不可能だ。ただ神をほめたたえる。

2022年2月20日 (日)

従うと言うこと

Ⅰペテロ 2章13節   2017新改訳

人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても

 ペテロ第一の2章でペテロは、上に立てられた「権威に従う」ことを求めました。たとえ意地悪な主人であろうと、理不尽な不当な苦しみを受けようと、クリスチャンが上に立てられた者に従うこと、それは「それは神に喜ばれること」であり、苦しんで耐えて行くならば「このためにこそ、あなたがたは召され」ているとまで言い切っています。
 今日の世の常識では、ペテロのようなことを言うならば、大変な批判を浴びてしまうかも知れません。弱者を救済すべき、あるいはパワハラとかコンプライアンス違反など、いくらでも反対の事例がある時代になって来ました。しかし目に余る犯罪的な不正ならともかく、聖書でペテロは上に立つ権威は神が立てたものであって、敬意を持って従うように言っています。私たちは聖書を現代流に解釈するのではなく、聖書の書かれている内容に時代を超えて従うべきです。

 実際、聞いてみますと表だっての反発や文句が言えず、同僚のスタッフ同士で、陰で上司を批判したり、不満を言い合うことは大変多いのです。面従腹背なわけですね。しかしそれは知らず知らずの内に、あなたがたの心を
暗くし、サタンの罠にはまって偽りの偽善家になってしまいます。しかし、もし心から従うなら守られます。
 実際、従うことには多くの益があります。戦争の非道や力による現状変更、弱肉強食、あらゆる混乱と破壊は、定められたルールに従わない人間の心、「自分が」「自分が」という欲心から出ています。秩序を壊すことは、確かに神から出ているとは言えないのです。

 儒教などの教えと異なって、神は聖書を通して一人ひとりのこころを、信仰によって根本から変え、互いを尊重し、立てられた権威にキリストの故に従うことを通し、その困難に信仰によって耐えるならば、周囲の人たちから不思議に思われ、その私たちの内に、神の力が働いているの見ることでしょう。口先で福音を語るより、身をもって証する、これこそ私たちの徳であり、神の証です。実際そのことによって神の勝利を私たちは見ますし、その例挙はいとまがありません。

 私たちは反抗する者ではなく、従うことによって勝利者となりましょう。

 

 

 

 

2022年2月13日 (日)

神の用意周到さ

イザヤ 40章28節   2017新改訳
   あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。【主】は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。 

 神のされることは私たち人間の理解を超えています。神のされようとしておられる計画は、時に<おかしなこと、良いこととは思えない>事柄であっても、神を信頼し、その導きに委ね従って行くならば、最善にして最高の結果を私たちは見ます。本日は福音を全世界に広め、ユダヤ教を脱してキリスト教を確立したパウロ、その次に私たちの教会を例にして、神の用意周到さ、その導きに信頼することの素晴らしさを見ていきましょう。

 神さまはパウロを、いきなりキリスト教の立役者として引っ張り出されたのではありません。アブラハムに「あなたによって祝福されるすべての部族は祝福される」(創世12:3)と語った神は、その子孫を通し、人の力や行いでは救われ難い事実を明らかにされました。つまり十字架のメシアが必須な状況において、万を侍してイエスさまをこの世界に送り出されたのです。
 ステパノの殉教によって、エルサレムの主だった人たちが散らされたことも益にされました。ピリポによって、隣接民族サマリヤ人に救いがもたらされたのです。それだけでなく、使徒ペテロを通し、幻で3度も「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」と教え導き、異邦人の百人隊長コルネリウスの家に行かせ、家族と食事を共にさせ、バプテスマまで施させたのです。
 当然パウロはエルサレムに帰って、律法違反の嫌疑をかけられましたが、同行し異邦人にも聖霊が下った証人が七人もバックにいたのでは、認めるしかありませんでした。しかし注意すべき点は、異邦人信徒が救われたことには同意はしたものの、割礼を無効にした訳ではないことです。そこまで受容してしまえば、エルサレム教会の人々は異端とされ、エルサレムに存在することはできなかったことでしょう。
 このようにお膳立てされた上で、タルソ出身、つまりバイリンガルでローマ市民権という特権に恵まれたパウロが登場しました。律法に精通していた彼のしたことは、律法の限界から「信仰義認」という土台を確立し、ユダヤ教の枠からイエスの教えを飛び立たせたことです。彼にあって割礼問題は、もはや飛び越す当然のステップになったのでした。
 さて船橋キリスト教会についても、神の用意周到さを知ることができます。例えば今日13日はちょうど2年前、前日に引っ越しを完了し、初めての礼拝を開いた日になります。翌日には稻村家が引っ越されてきました。驚くことに、もしこの家が会堂として開かれていなければ、間違いなく私たちはこの二年間、礼拝する場所を失っていただろうと言うことです。今回、契約の更新がなった今、さらに礼拝場所が確保されたのです。2年前のあの時、私たちが望んでいた条件に適合した物件はこの一軒だけでした。しかし契約に必要なお金がまるでなかったのです。諦めるしかない、そう思ったのですが、「見るだけでも」と言う誘いの言葉に従って下見に来た時、「此処です」と示されたのでした。
 必要なお金は、特に金額を上げずとも、皆の献金で必要な額が満たされたのです。御心とはこういうことを言うのでしょうか。この会堂は、皆が捧げて与えられた教会です。感謝しましょう。
会堂がわかり易いので最初に話しましたが、12年前、私は牧師として派遣されてきました。それにも「マケドニアの叫び」と言う神の用意周到な備えがありました。実に不思議な神の導きでした。もうすぐパトモス派遣という時期。区の定期検診結果を知らされる日に病院に行きますと、まだデータが届いていないと言われ、仕方なくそれはパトモス派遣の後に聞くことになりました。そのパトモス派遣は、帰りに島からギリシャ本土に着くとすぐバスに乗り、ほぼ1日かけてマケドニアのテサロニケに行ったのです。その夜テサロニケのホテルに泊まった翌朝の聖会で秋元牧師が変な夢、
「マケドニアの叫び」を見たと言い始められたのです。帰国後、それを悟られた秋元牧師は、「宣教に遣わすので示された者は名乗り出るように」と言われました。私がこの群れに来て、この逆はあっても、アンテオケ教会から遣わすとは初めてのことでした。
 さて帰国後すぐに検診結果を聞きましたが、かなり大きな癌らしき腫瘍が二つもあるという診断でした。「結腸癌の疑い」があるので、すぐに大きな病院でカメラによる検査を受けるように指示されました。レントゲン写真を見ましたが、それは素人目にもわかる大きなものでした。
 造影剤で映った大きな腫瘍を見て、これが本当なら大きなゆえに転移もかなり進んでいるような気がしました。ネットで調べますと、結腸癌の自覚症状の項目にすべて該当し、ガンだと確信を持ちました。生存率を見ますと「ああ、これでは私は死ぬかも知れない」という思いに至りました。真剣に祈り始めますと、「永遠のいのちに比べれば、これは取るに足りないこと」のように思え、死への恐怖心は取り去られ、平安がきました。さらに祈っていますと、こんな示しがきました。「命は私の手の内にあります」 「主よ、その通りです」 「わたしの与えた使命を、あなたは全く果たしていません」 「主よ、その命がなければ、私の使命を果たす事は出来ないのではないですか」。しかし祈りはここまでで、この後の応答は無くなったのです。けれども御心はわかりました。(牧師)として召したのだから、その使命を果たせ=つまり、本格的な牧会に出なさいと言う意味であると。
 ところが月曜日のカメラによる検査結果は驚く結果で、「全く癌はありませんでした」と言うものでした。「それではあれは、別人のものでは無かったか?」と思うほどでした。
 検査の翌日の火曜日は白馬キャンプでした。キャンプで秋元牧師に検査結果を聞かれた私は「癌は無かったです」と報告しました。「それは奇跡ではないですか」と言われました。しかし私は人違いだったような気がしましたし、示されたことに対して、どのように自分が対応すべきなのか、考えがまとまっていませんでした。しかしもし奇跡であれば、神の御心は明らかです。踵を返して去ろうとした時、突然私は自分でも思ってもいなかった言葉が口から出ました。「秋元牧師、私をどこかに牧師として出してください」と。
 その結果、船橋という未知の土地に赴任が決まりました。「マケドニアの叫び」は神が私をこの船橋に遣わすために、群れ全体に示してくださったのです。「信徒は1人も居ない、開拓地」と聞いて船橋に来たのですが、主は1人だけ備えてくださっていました。右も左もわからない私たちにとって、その方はその後、非常に大きな助けとなってくださいました。神に感謝します。
 偶然はあり得ません。神はこのように御心を成そうと用意周到に、人知を超えた準備してくださる方です。私たちはいろいろな問題や不安を抱えたとしても、信仰によってその火矢を消し、神を信頼し、神の導かれた道を全うしようではありませんか。神は信頼に値する方であり、その英知は測り知れないからです。

 

 

 

 

2022年1月 9日 (日)

御霊によって生きる

ガラテヤ 5章24~25節   新改訳2017

 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。

 私たちは、「御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」とパウロは熱心にガラテヤ地方のクリスチャンに奨めています。つまりキリストにつかず、肉のままの自称クリスチャンが程度はわかりませんが、無視できないほど居たということです。この手紙は残されているパウロの手紙で最も初期のものですから、1世紀のほぼ真ん中で書かれています。つまり、パウロの第一回伝道旅行が終わって5年ないし10年しか経ていないのに、こういう事態だったのです。

 使徒の働きには当初からクリスチャンには二種類いました。<水のバプテスマ>のクリスチャンと<聖霊のバプテスマ>を受けたクリスチャンです(使徒8:14-17、19:1-7)。聖霊のバプテスマを受けていないと、神と親しく交れませんから、クリスチャンの使命「御霊によって生きる、神の御心を行なう」ことは困難です。そしてパウロは前節までで、<肉のわざ>と<御霊の実>と対比して二種類のクリスチャンの違いを明示しています。

 ところで、「神を本当に信じるとは、どういうことですか?」を質問されたことがあります。「実がつき、実ることです」と私は答えました。これを初歩的な事例で例えば、自分自身の心の内に肉のわざへの誘惑が襲ってきた時、これを古い自分自身が今一度虜にしようとの攻撃であることを直感し、「イエス・キリストの御名によって命じる、お前を縛る。今すぐ私から出て行け!」と戦えるかどうか、なのです。肉のわざを行う者は、神の国を相続できない(21節)のですから、これは非常に重大な問題です。これは全クリスチャンに向けてのメッセージであって、決して看過してはいけないものなのです。

 あなたは22節以降のような実をつけていますか?あなたの心の中は、本当に主の霊によって生き、歩んで おられますでしょうか。私達の髪の毛の数すら数えておられる神は、私達の心の中の全てを、私達が生まれる前から、一切を見ておられるのです。

 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」とパウロは熱心にガラテヤ地方のクリスチャンに奨めています。つまりキリストにつかず、肉のままの自称クリスチャンが程度はわかりませんが、無視できないほど居たということです。この手紙は残されているパウロの手紙で最も初期のものですから、1世紀のほぼ真ん中で書かれています。つまり、パウロの第一回伝道旅行が終わって5年ないし10年しか経ていないのに、こういう事態だったのです。
 使徒の働きには当初からクリスチャンには二種類いました。<水のバプテスマ>のクリスチャンと<聖霊のバプテスマ>を受けたクリスチャンです(使徒8:14-17、19:1-7)。聖霊のバプテスマを受けていないと、神と親しく交れませんから、クリスチャンの使命「御霊によって生きる、神の御心を行なう」ことは困難です。そしてパウロは前節までで、<肉のわざ>と<御霊の実>と対比して二種類のクリスチャンの違いを明示しています。

 ところで、「神を本当に信じるとは、どういうことですか?」を質問されたことがあります。「実がつき、実ることです」と私は答えました。これを初歩的な事例で例えば、自分自身の心の内に肉のわざへの誘惑が襲ってきた時、これを古い自分自身が今一度虜にしようとの攻撃であることを直感し、「イエス・キリストの御名によって命じる、お前を縛る。今すぐ私から出て行け!」と戦えるかどうか、なのです。肉のわざを行う者は、神の国を相続できない(21節)のですから、これは非常に重大な問題です。これは全クリスチャンに向けてのメッセージであって、決して看過してはいけないものなのです。


 あなたは22節以降のような実をつけていますか?あなたの心の中は、本当に主の霊によって生き、歩んで おられますでしょうか。私達の髪の毛の数すら数えておられる神は、私達の心の中の全てを、私達が生まれる前から、一切を見ておられるのです。

2021年12月12日 (日)

神のことばで生きる

マタイ 4章4節   2017新改訳

イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」

「世の中の一番大きな誘惑は、私たちが見たまま、感じたままを話すことです」(J・Meyer)。一見聞いただけでは、反発すら覚えられる言葉です。それも当然。文科省は小学校の教育目標として「自ら判断し行動するために必要な基礎的な力自分の考えや意見を持つ」ことを教育目標にしてさえいます。しかしこれは、キリスト教徒としては、当然のことであり、神を信じていると称している多くの肉のクリスチャンへの警鐘です。

 イエスさまがサタンの誘惑にあった最初は、四十日四十夜という断食直後、空腹を覚えられたタイミングで、サタンが現れ『「あなたが神の子なら石をパンに変えなさい」、それを行って自分が神の子であることを証明しなさい』と言う試みをしました。もしイエス様が己れの空腹に耐えかね、石をパンに変えようものなら、どんなことになったことでしょうか。それは肉欲を神の力で以て満たし、満足したことを意味します。もちろん主はそんなこと、お茶の子さいさいでできたことでしょう。しかしそれでは神が肉の誘惑に負けたことになり、人の創造の根本理由、「人は・・・神のことばで生きる」創造の御業を否定することになるのです。

 人は生物学的には生きていようと、そのままでは罪のままであり、霊的には死んでいる存在であると、聖書ははっきり宣言しています。次に重要なのは、最後の「・・・と書いてある」と言う言葉です。たとえクリスチャンだと称していても、己の肉の欲求ばかりを満たし、神のことばを無視し続けて命を終えるならば、その後、神の御前に立った時、どうやって弁明するのでしょうか。それは極めて困難です。イエスさまは自分の考えではなく、神の言葉、聖書でお答えになりました。まして被造物たる人間が聖書の言葉に立って生きなければなりません。

 私たちは十字架の恵みに与りました。しかし本来、十字架は罪を赦し、聖霊様がお住みになれるようにするためでした。それなのにきれいにお部屋を掃除したままになっていると、出て行った悪霊がさらにたくさんの悪霊を連れてきて、事態はもっと悪くなるのです(マタイ12:42-45)。これは今日の多くのクリスチャンの状態を指して言っています。内住される聖霊様が単に内住されているのではなく、その人の頭として実際に働かれ、指図されていることが決定的に重要です。私たちの主は、私たちの中に生きて働かれる主でなければなりません。これほど申しても、私がなにを語ろうとしているのか、まったく分からないクリスチャンがいます。聖霊の満たし、バプテスマを受けていないからです。どうか先ず、それを求めて頂きたいと思います。その時はじめてその人は、サタンの支配から解放されて神のものとなり、自我から解放されて自由を得るのです。サタンに支配され肉のまま滅びるか、神に自分を明け渡して永遠のいのちと自由を得るか、そのどちらかしかないのです。

2021年9月19日 (日)

エリ、エリ、レマ、サバクタニ

マタイ 27章46節   2017新改訳

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 題名は古代のアラム語であり、意味は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。受肉して人の姿になられ、多くの人々を教え、癒やし、わざを現した神の子が、その結果として考えられないほどの苦しみを受けた挙句、十字架上の今際(いまわ)の際に、どうしてこのように遣わされた神から<見捨てられ>なければならないのか。多くのクリスチャンは理不尽に思い、不可解なことと受け取っているようだ。このような人は当然サタンからも狙われ、信仰が窮地に陥っているケースが多い。

 結論から言えば、それは全人類の罪を背負われた贖いの意図を理解せず、Photo_20211002164601  ペテロがイエスをなだめたような人間的な思考でこのことばを理解しようとした誤りである。処断され見捨てられたのはイエス様ではなく、人類の罪の方である。その罪は最も偽善家であるパリサイ人の代表によって告発され、時の権力によって血肉の命を奪うべく実行された。彼らはイエス様の血肉の死を目的にしたが、その霊に対しては無力である。私たちの罪を私たちの創造者である神ご自身がその責を取り、贖いのわざを果たされたのである。そしてイエスの名によって私たちの罪も十字架の贖いのわざを信じるなら、完全に赦されることになった。神がお見捨てになったのは、繰り返して言うが、人間の罪に対してであった。
 だが、そのイエス様は最後の大声での叫びによって、血肉の使命を全うされた上、ご自身の霊を天の父の元にお戻しになった。人類の罪の全てを神は御子イエスに背負わされたまま葬られたのである。繰り返すが、それゆえ人はイエス・キリストを信じるだけで、その罪が赦されるのである。救いのわざのすべてが十字架によって「完了」したのである。

 こうして真に自分の罪を自覚したクリスチャンにとって、その罪の身代わりとなってくださった十字架のイエス様の血潮は慕わしく、また狂わんばかりに十字架の血が自分の生きるいのちそのものとなっていることを自覚するのである。たとえ神を信じない人々からは「気味悪い」「吸血鬼」とか誤解されようと、私たちは意に介さないのである。この群れでよく賛美されるのが「尊き血潮を流された‥‥十字架の愛(一例8集60、救い主イエス」であるのは以上のような理由による。私たちはこの賛美を、これまで以上に声を大にして歌おうではないか。

2021年8月29日 (日)

狭き門より入れ

マタイ 8章13-14節   2017新改訳

それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。
それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。

 ここで「狭き門」と言われていますが、クリスチャンになった自分はすでに狭い門をくぐっていると思っている節があります。これはまったくの読み誤りでしょう。続く21節の「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのでなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る」とあるからです。広い門も狭い門もみなクリスチャンのことであって、多くのクリスチャンが広い門を選んでしまい、滅ぶと受け取るべきです。

 どうして多くのクリスチャンが広い門、広い道を選ぶのでしょうか。多くの人が行く・・・多くの人の連れがあることで、安心感があることでしょう。広いので世的で妥当な道と見えるのでしょう。しかし21節を見ると、「父のみ心を行う者」とあり、<み心>がポイントです。これは真に神を信じ、聖霊のバプテスマを受け、常に天の父と交わっていなければ御心を知ることができません。そのような人は自分の使命をも知らされています。たとえ聖霊派、カリスマ派の教会員であっても、直接聖霊様と交わって聞き従っている方は少数なのかも知れません。
 狭き門をくぐる聖徒とは、殉教者をはじめ、血肉の命を神に捧げています。肉が死んで新生し、聖霊の実を実らせている方々です。生きながらすでに殉教しているので、携挙されるのはこのような方々です。妬み、肉欲、物欲に日々支配されていて、神のみ心を知ることができないのです。

 ここ半年から数ヶ月、わたしは安利淑著の「たとえそうでなくても」をもう一度読むよう促されてきました。1972年という半世紀近く前の本で、当時一度読んだものの、手元から失われてしまったものでした。促されて再び買おうと探しましたら、あまりにも高価な本になっていました。しかし驚いたことに、今月の東京カリスマ聖会で「たとえそうでなくても」がなぜか上映されたのです。その聖会後の帰り道、同乗されたある方に、相談したら、なんと「あります、貸してあげましょう」と即座に郵送してくださったのです。主の促しはスピーディに、即刻実現するのです。

 この本は76年前までの日本が行った、キリスト教弾圧と迫害の真実な記録です。朝鮮の人々に皇民化政策を推し進め、牧師や信徒たちを捕縛し、拷問し殺しました。これからそのうちの二人の牧師の話を聞いた安姉の記録を読ませていただきます。一人は奇跡を期待した若い牧師、もう一人はそうではなく、十字架の苦しみを負うことを決心した牧師です。それではお聞きください。
 私たちは、広い門を通った日本のキリスト教会がどうなったのか、その結果を知っています。空から降ってきた焼夷弾、硫黄の火で都市は廃墟となりました。少数ですが、狭き門を選び、その栄光をも見た教派もあります。迫害を受けた教会でした。その当座はただ主に従うだけでしたが、神は怠りなく酬いてくださる方であることを見るのです。これは来るべき世への備えです。

2021年7月11日 (日)

みことばを行う人になりなさい

ヤコブ 1章21~22節   2017新改訳

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。

 私たちは聖書の民です。聖書は人類にとって唯一の特別な書であって、神を知ること、その真理も信仰もすべてこの書から来ています。神が与えてくださったこの書によって私たちは生き、養われています。聖書だけがすべての知の土台であって、一切の権威、力の源です。またこの書に付け加えるあらゆるもの、聖母崇拝、使徒権の継承、聖人、秘蹟などを私たちは受け入れません。
 しかしイスラエルの民があのシナイの荒野で日毎マナによって養われても、結局はその信仰が保持されなかったように、宗教改革を経て誕生したプロテスタント教会の多くの現状が、聖書のみ言葉が有り難いお経のようになって、ただ聞き流されて実際の生きる力となっていないのを見るのです。要するにこれは霊的な問題であって、神への「信仰」とその渇きが乏しいからなのです。

ヤコブ書は聖書の中でもっとも早期のものですが、初代教会からしてすでに現在のような傾向がみられていたようです。まだ新訳の多くの文書が出回る前という背景から、ここでの「み言葉」とは兄イエスのことば録と旧約とを指していると思われますが、「福音を聞いても、もし行いが伴わない」なら、信仰に何の意味があるのだろうかと問いかけています。これは信仰による義を否定しているわけではなく、信じた結果、十字架によって赦され新たに生かされた人としての生まれ変わっての「行いのないあなたの信仰をわたしに見せてください(2:18)」と言っているわけです。つまりこれは実の問題でもあります。信じた結果、生き方が変わらない信仰はあり得ず、そのような実の伴わない信仰とは偽りの告白(2コリント5:18-23)になります。
 これには順番があります。先ず福音を信じ、悔い改めること。次に罪から解放され、自分を捨て、聖霊の内住された者として新生すること。そして生まれ変わった者としての新生の実をつけることです。真に信じたなら、肉のままの元の自分でいることはありえません。ヤコブはこの最後の実のことを言っているだけなのです。

 御言葉には力があり、信じて聖霊のバプテスマを受けた人に、それまでの肉の人に戻ることは不可能です。ただ聞くだけの者となるはずがないのです。しかし理想はすべての人が聖霊のバプテスマを受け、新生した人になることですが、もちろん信者であってそれを求め続けている人も多いのです。その場合、ただ一つだけ注意点があります。それは御言葉は神のことばであって、従って霊的なものです。これを正しく理解して受け取ることが重要です。ですから御言葉を聞いても読んでも、それに少しの疑問点も無く、勝手な解釈のままに受け入れないようにしましょう。そのために教会があり、牧師や伝道師が存在しているのです。どうか神の霊が主となってその人に住まうように、共に祈りましょう。

 

2021年7月 4日 (日)

本当の自分に立つ

ヨハネ 14章6節   2017新改訳

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

 真実とは良く言った言葉だと思います。実が本当にあるという字だからです。このことから、イエス様が「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ」と語られたことは次の一つの法則を示しています。つまり神を信じて救い主と告白しても、ただ口にしたことばがその通りに、約束された実を結んで(ガラテヤ5:22-23)こそ、真に神の国人になると言っているわけです。
従ってどんなに教会生活が長く、どんなに教会の重要な役職を奉仕をしていようと、それら目に見えることは、永遠のいのちである天国とは関係ないことです。むしろそれらは、ある意味、さばかれる原因の一つになるかも知れません。

 「真に実を結ぶ」とは、たとえば先ほどの I姉の証しのように、偽りに立たず、「真実」に立って生きることを選ぶということです。神を信じる者には、たとえ当座はつらくても、そのように神が造られた恵みの計画を信じますから可能なのです。そして実際、神は信仰に応じて祝福して下さいます。信仰がなければ神に喜ばれないのと同様、真のクリスチャンは偽りに耐えられません。内住されている神に聞き従うので、真実の上に立つのです。
 問題は自分自身の真の姿、それがわからないクリスチャンがいることです。そのような方にも神は試練や困難を送って,どうにかして気付かせようとされるのです(ヘブル12章5-7節)。しかしどのようにしても、人間的な偽りに気づけない場合、悔い改めて新生し、その人の中に神が住まうことは困難です。私たちは口先のことばではなく、自分の本当の姿から、十字架の神の愛にすべてを委ね、すべての希望を見いだす者となっていきましょう。

2021年6月 6日 (日)

神様のお人柄4-神のみ心

Ⅰテサロニケ 4章3節   新改訳2017

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。

 神様は私たちが「聖なる者となること」がみこころです。しかしこのみことばをそのままに受け取られて、早速聖なる者となろうと願い心がけられる前に、このお話をお聞きください。

この節の前にパウロは「神に喜ばれるために、どのように歩むべきか」をあなた方に教えたと言い、学んだはずだとも言っています。それはどのような内容だったのでしょうか。答えは次の5章14節以降の勧めであって、特に16~18節において命令形で書かれている「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「すべてのことにおいて感謝しなさい」のようです。パウロはこれらを「神があなたがたに望んでおられること」だと念押ししています。

 しかし果たしてこれらパウロの「聖なる」のことが、実際に行えているでしょうか。現実には私をはじめとして、クリアできていないのではないでしょうか? これでは到底、みこころを行っているとは言えませんし、「聖なる者」になることは、はるか遠くの絵空物語です。そして実際に昨夜も、私が「聖なる者」にされるように祈りますと、逆に世の霊、肉欲の霊らの悪霊が、私を激しく攻撃してきました。妻の助けを借りて私は何とか脱出しましたが、聖を求めれば求めるほど、逆に聖からほど遠い現実が私を打ちのめすのです。

 そこで私は気づいたのですが、パウロが勧めている「聖なる者となること」は確かに神のみこころですが、血肉のからだの間に達成できるとは言ってはいないことです。つまり血肉のからだで生きている間は、天的な目標であっても、実現不可能なのです。可能になるのは携挙などを通し、御霊のからだになった時です。これは神が「地上にあっても天への目標を忘れずに、絶えず目指し続けなさい」、そうするならば必ず成就し実現するとの約束のことばなのです。
 逆にもし血肉にあって、「私は聖なる者とされた」などと思うならば、その人はとんでもない偽りと高慢に陥っているかも知れないのです。聖霊が注がれれば注がれるほど、その人の良心が研ぎ澄まされ、自分の罪深さが浮き上がって来ます。それはあたかも、光が強ければその黒い影もはっきりしてくるようなものです。その結果、人はますます謙虚にされるのですから、自分は聖なる者になった、などと自負することとは真逆です。

神のみこころとは、ご自身が愛される者を、一人も残さずに最終的に天に引き上げることです。携挙や再臨において、神の愛を知るものは、その愛とあわれみによって自分の罪がすべて赦されることに疑いを持ちません。なぜなら父との交わりによって神を知り、信頼することができているからです。ですから今が「聖なる者」とされていなくとも、決してあわてません。自分が子とされている現実がゆるぎないからです

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