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神のみこころ

2018年4月29日 (日)

私を愛するか

ヨハネ 21節17節
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」
  ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛します か」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。 あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼 に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 本日の聖書箇所、ヨハネ21章でのペテロへ「わたしを愛するか?」の投げかけの真意を探ります。三度繰り返された投げかけは、完全数であり、決定的という意味があります。ということは、どういうことでしょう。
 結婚式の誓約「(夫・妻とすることに)誓いますか?」も、一度の「ハイ」で終わりです。三度も繰り返して要求したら、「相当疑っている?」と思われることでしょう。ではイエス様はそうなのでしょうか。主の意図がこの時ペテロはわからず、心を痛めました。「どうして何度も聞かれるのか?」と。

  私は半世紀近くいろいろな教会の経験があります。それから言えることは、私たちカリスマの教会には聖霊の注ぎが大きく、癒やしや奇蹟が頻繁に起こります。ですからサタンからの攻撃も強いのです。カリスマ教会は信徒を守り、秩序を維持するために、次第に権威・秩序を重んじるようになり、その窮屈さからか、普通の教会に見られる、日曜日は教会に、の大勢の中間的な信徒層が少なくなる傾向があります。

 これから日本にも世界にも、終末のリバイバルが注がれていきます。圧倒的な多数の人々が教会に押し寄せて来ますが、その時人間的な牧会をしていては、せいぜい数十人規模しか牧会できないことでしょう。ペテロに対し、三度の完全をもって「Do you love me ?私を愛するか」と問われたのは、「わたしイエスへの愛をもって、羊たちを愛しなさい。それはわたしを愛すること」でした。
 ご存知のようにペテロは三度も主を見捨てて逃げた群れのリーダーです。その彼に三度も問われたということは、二度・・・・は無いということだと、私は思わされています。果たしてこの後、ペテロの殉教の仕方を主が語られているので、符号が合います。・・・・つまり「本当に、命をかけて私を愛するように、羊たちを愛しなさい」が真意であると私は示されています。

 カリスマの教会牧師が、今ペテロと同じく主への愛を一番に置いているなら、その信徒たちもまた、主を愛することを一番にするはずです。つまり主を愛し、主の愛された者を何よりも一番に愛する」ことが、指導者である牧師の姿勢から全員に感染して広がる「奥義」を、このペテロの再召命の箇所から教えられたのです。

2018年3月25日 (日)

招かれた罪人

ルカ 5篇32節
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。


恵みは罪を知ること
良き君主は支配者でありながら民の声を丁寧に聞き、その訴えに耳を傾けます。しかしこれは、大変面倒で負担を強いられる困難なことです。しばしば私たちは、自分の体の暴君となって、自分の体の訴えを面倒くさがったり、丁寧に取り扱おうとはしません。例えば歯が痛いと訴えているのに、歯科医院は当然ですが、痛いからと遠ざけて、ますますひどくするようなものです。しかも一応の処置が済んでしまったら、その原因について反省せず、結局歯を失う人がなんと多いことでしょう。すべては体の声、訴えに耳を貸さないところから始まっているのです。

心の訴えも同じです。心がつらいとか、もう限界とか言っていることを聞こうとせず、無理な到達点を暴君のように強いているのではありませんか。これは己を高くしようとする高慢さのためです。サタンは自分も神のようになろうとして堕落しました。神によって造られたありのままの自分、本当の自分を受け入れないために起こるのが、心の病になることが多いのです。そんなに高望みをしなくても、私たちの永遠のいのちと国籍は天にあって、この世は単に仮住まいで寄留者に過ぎないのです。この世の価値観や欲望から解放されましょう。これは過ぎ去るものです。

本当の自分とは、愚かで実に罪深い存在です。高慢さがそれを受け入れては、向上できないと偽ります。切磋琢磨して己を磨かないと、自堕落で低いままだよと人をそそのかすのです。特に罪を認めてなったクリスチャンが、それでも真の自分を拒否して愛さないのは、そのように造られた天のお父様を拒むことと等しいことです。イエス様ご自身がこのように仰っておられます。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです。

神はありのまま、罪深く弱い存在の私たち、病の人、力の無い子どもや女性、能力がなく貧しい人、このままで良いのです。この私たちを神は招いていてくださっているのです。罪がわからなければどうして悔い改めることができるでしょうか。それを十字架の愛で赦してくださる神に希望を見出せる私たちこそ、神に愛されその祝福を受ける存在なのです。自分に敵するのでなく、造ってくださった神に感謝し、かえって自分を愛することができることほど喜びはありません。

2018年3月18日 (日)

しもべは聞いております

Ⅰサムエル 3篇10節

そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。

 主の十字架神学校では、60点が合格点です。神を信じるという意味で、クリスチャンは「永遠のいのち」「天のエルサレムに行ける」という合格60点は皆取っています。が、60点だけで、90点とか100点という、世での人生の祝福を受けている人は多くないのです。しかし私たちは100点満点を目指したいものです。もし私たちがこの世において、主の器として栄光を現すならば、「地上でつなぐなら、それは天においてもつながれる(マタイ18:18)」とあるような、天での恵みにもなるでしょう。

 では人生での最高の祝福を受けるクリスチャンと、60点の人との違いはどこにあるのでしょうか。それは神の言葉に聞き従う人生かどうか、という一点に集約されます。神に従う者を通して、神の栄光がその人を通して現されて行くからです。

 しかしどんなに神に従いたくとも、神の声を聞くことができなければ従えないのです。多くのクリスチャンは神の声を聞こうとせず、自分自身の声、つまり肉の心とその声に従って歩んでいます。禁断の実を食べたアダムと同じように、自分の判断で選び歩もうとしています。聖書とその御心を歩まないならば、残念ながら60点の人生となります。

 では、どうやって人は神の声、御心を知るのでしょうか?秋元牧師は次の3点をあげています。
1 吟味してですが預言を通して神の声を聞く受け取る。
2 (神が答えてくださるまで)徹底して祈る。最低日に1時間から2時間以上の習慣。
3 神からの語りかけである聖書の言葉。自分に適用できるものを受け取る。

 私はさらに自分の土台として、「思いを尽くし、心を尽くし、知力を尽くして神を(自分以上に)愛する」をあげたいと思います。神を恐れて従うのも間違いはないのですが、それよりも愛して従う方がどんなにか優っていることでしょうか。
  少年サムエルは神のことばを聞く人物となりました。彼の心には母ハンナを通して、神への感謝と喜びが注がれていたはずです。長年の祈りの結果である初子サムエルをナジル人として神に捧げる、これは想像を絶した愛の行為だからです。

  神はご自分を愛する者をどんなに愛してくださるか、それは大士師となったサムエルのように、人の想像を超えています。ご自分を現し語ってくださり、日々愛の中でその人を養ってくださいます。これは「間違いない!」のです。

2018年3月 4日 (日)

みこころを行う

マルコ 3章35節
神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。

 イエス様が公生涯に入られ、そのうわさがガリラヤ地方で広まるにつれ、心配した母マリヤや兄弟たちが様子を見に来るシーンがあります。そこでイエスは血縁の関係に優って「神のみ心を行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母」と言われました。「みこころを行う」ならば神様の兄弟姉妹なのです。では人は如何にしてみこころを行えるのでしょうか。もちろん神に聞いて、従うことです。しかし聞くことができなければ、どうやってみこころを知って行うことができるのでしょうか。
 イエス様の時代のユダヤ人は、みな神を信じていました。今の私たち日本人とは全く背景が異なります。そのユダヤ人でもみこころを行うことができていなかったようです。今のクリスチャンでも「みこころって、それって何?」とわからない方が多いようです。
さて、聖書では弟子たちがみこころを行おうとイエス様にずっと付き従っていました。現代では神を信じならば聖霊さまが内住されます。しかし内住されてる聖霊に聞こうとしないのであれば、みこころを行えるはずがありません。そこで私は、神が語ってくださると信じ、忍耐してそれを待ち望むことが一つの信仰であると思っています。その結果、聖霊のバプテスマのように神に直接触れられ体験する、すると信仰が揺るぎない事実となり、確信へと変わります。こうした体験による確信は、その人を根本から変え、神に用いられることになります。その一つの例を聖書から見ていきましょう。 
 マルコ伝5章です。イエス様が湖の対岸、ゲラサ人の地に行かれた際、豚二千匹になるほどのたくさんの悪霊を追い出してもらった人が書かれています。この地の人々はそれを見て恐ろしくなり、イエス様を追い出そうとしますが、イエス様は重大な証人をこの異教の地に置かれます。悪霊を追い出してもらった人です。この人がイエス様に「お供をさせてください」と願い出ました。神に触れられ、神の力を体験した人は、このように「みこころを行う」者に大転換するのです。しかしイエス様はそうではなく、次のような大使命を彼に託されました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい」と。
 
 みなさん、神が必ず自分に触れてくださり、自分はみこころを行う者になると信じてください。時が来たなら、神は最善のタイミングでご自分を現してくださり、確信を持って証人となります。信じ、祈り求め、待ち望みましょう。その時は必ず来るのです。

2018年2月25日 (日)

あなたが決めておられるように

詩篇 119篇149節
あなたの恵みによってわたしの声を聞いて下さい。主よ。あなたの決めておられるように、私を生かしてください。
 
「あなたが決めておられる」、このみ言葉は歌集「風のひびき」第三集に載った曲です。作った人に尋ねて、想像したように詩篇119篇のこの「あなたが決めておられる」ということばが曲作りの動機だったことを確認しました。この意味は、「私は自分の思う通りに生きたくありません。そうではなく、神様、あなたの計画に従って私を生かせてください」というもの。これは本当の神様を知らない人にとっては、実に奇異に思えることです。自分の人生を放棄し、他者任せにしたいなどと願う、そんなことはまともな人間のすることではないと思うのが当然です。
 
ここからが本番なのです。人間とは神によって造られた被造物です。造るからにはそれぞれに意図があって造られます。例えば陶器では同じ原料である土から、皿や茶碗、湯飲み、花瓶などに形作られます。みんな同じ一つのものであれば、意味がなくなります。しかし人は「隣の芝生はあおい」と言うように、Gods_plan_3 うらやむものです。それぞれに意図をもって造られた存在なのに、それには満足せず自分の目に良かれと思うものを求めます。しかしお皿がどんなにがんばってもコップのように水を蓄えることはできません。その結果、多くの人は不満の大合唱となっているのです。
 
神を信じた時、それまで出来損ないだと思っていた自分でしたが、そんな自分の為に十字架にまで架かってくださった神の深い愛がわかることで、人を羨み不満に思う心が消えて行きます。「私は神様が最善の意図をもって造ってくださった私」で、それが最善であることがわかったのです。神の愛ではじめて、自分を愛することができるようになるのです。ですから自分が生きたいようにしていたことを悔い改めた上で、自分と和解し、「あなたが決めておられるように、私を生かしてください」と、神に自分を捧げて生きる決心を神に捧げている歌です。と同時にそれが、自分にとって最善の人生であるという信仰の告白を捧げているとも言えるのです。

2018年1月28日 (日)

みそばに居させて下さい

詩篇 46篇1~2節
神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。
 
 私たち人間とは、単独ではなく社会的な存在です。また当然、人間関係が大きな作用を及ぼします。しかし人間の関係というものは一時のもので、永久ではありません。失われるものだことです。
 今年のNHK大河ドラマの西郷も、主君斉彬を失うとか、同志のために自らの命を幾度か断とうとした人物です。身近な例を私も知っております。母を癌で失った悲しみのあまり、生ける屍のようになった婦人の話です。この人は、母親を失って、その喪失感から立ち直れませんでした。私は最初、この人には幼く可愛い子ども達と夫がいましたので、しばらくすれば以前のように元気になるだろうと楽観していたのですが。
 
 ところが、葬儀の後も母の部屋に行っては「早く後を追って母の所に行きたい」と願ってばかりいたのです。日に日に痩せ細り、とうとう自分では立ち上がれなくなるほど衰弱し、病院に入退院を繰り返すようになりました。この後十数年してこの方は亡くなりました。この婦人はクリスチャンではあっても、神さまとの関係が問われるケースです。
 
 大切な人を亡くす、人生で築きあげた全財産を失う、まるで希望がなくなってしまった、そんな人生の大きな危機の時にこそ、信仰の真価が試されます。その人と、神様の関係があらわになります。私はお奨めします。こういう時こそ「神様!助けてェー」と祈り求め、叫んでください。サタンはそうはさせじと、「普段は自己中心なくせに、なんだ、困った時の神頼みか!恥ずかしくないのか」と自尊心に訴えたり、「お前のような者を、神が助けてくれるはずがない、無駄だ」と諦めさせようとします。しかしこれはサタンの策略であり偽りです。あなたを滅びに至らせ道連れにしいだけなのです。
 
 ですからそれを振り切って神に祈り、助けを叫ばなければなりません。プライドを捨て神に助けを求めたならば、神は確かに助けてくださり、あなたは救われるからです。どんなあなたでも愛して下さっているのです。これは私の体験でもあり、同じ証しをP牧師からも聞きました。神に助けを呼び求めること、これも信仰の一つなのです。
 
 次に神の助けを受けた後は、悔い改め、次からはそのようなサタンからの誹りを受けないようにしましょう。これすら自分の力でしようとするのではなく、神の力や助けを受け、忠実でみ心の信仰者となれるように祈るので。実はそのようにあなたがなれるよう、神は先ほどの試練を許されたのです。聖書に親しみ、神の「顔と顔をあわせて仰ぎ見れる」ように、「みそばにいさせてください」と心から願うようになる。そうなればサタンは私たちになかなか近づけなくなるのです。

2017年7月30日 (日)

永遠のいのち

ヨハネ 6章39~40節
 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。


 十字架の神を信じるとは、永遠のいのちが与えられることです。と言うことは<天国人>であり、寄留者としてこの世を生きる選択をしたことになります。それは当然この世から理解できない、異質な者として排斥や迫害を甘んじて受けることでもあります。
 神を信じる者には、血肉の体が世にある限り、戦いが許されます。「風邪なのに便秘の薬を飲んでも治らない」ように、霊的な病には霊的な対応をしなければ治るはずがありません。体や精神の病に対して、その原因が霊的なものであれば、霊的な対応をしなければ治らないのです。もちろんその場合でもあくまで医師や医学の治療にも従い続けておく必要があるのですが。
 
 さて、神のみ心は神がすでに勝利を取っておられるように、私たちも勝利を取ることです。ではその勝利を得るためにはどうすれば良いのでしょうか。もちろんそれは自分の力で推し進めてはなりません。まず第一にサタンの惑わしを見破り、天国人として対応しましょう。彼らサタンはこの世、見える世界、つまり物質世界がすべてのように見せようとしますが、実はその背後に見えない霊的な世界、永遠の広大な世界があるのです(右図)。この見える世界は人のために神が造られた世界であって、目的を達成すれば不要になる滅びの世界です。私たちは天国人として、この見える世界、それも神の許しなしには何もできないサタンの支配を見破って行く必要があります。
 
 次に信仰の大楯の上にイエスさまですら〔四十日四十夜の後の試練の後〕サタンに対してすべてみ言葉で戦われたように、人が神の言葉という剣を用いなければ勝てるはずがありません。あらかじめ神の言葉をいくつか用意し、すぐさま取り出せるよう訓練しておかなければなりません。
 
 最後に私たちには必ずと言っていいほど試練・困難があります。試練・困難はヨブに見るように、すべて神の許しなしにはあり得ません。と言うことは、試練・困難のように見えて、実は次のような目的があるからです。私たちを立て上げて、神の証しの器、み心を行う忠実なしもべになるため、天での祝福を受けさせるためです。ですから試練・困難が来たなら次の御言葉に立ちましょう。第一に私たちが耐えられないような試練は無い(1コリ10:13)のです。次に試練・困難をこの上ない恵みとして喜ぶ(ヤコブ1:2、1ペテ4:12-14)信仰に立つことを神は期待しておられます。最後にフィラデルフィア教会のように、与えられた神の言葉を守る者には、携挙を含め地上においては神の守りがあり、寄留者として、天国人としての自覚を持って歩むようにしましょう。

2017年5月14日 (日)

信仰の核心 神のみこころ

Ⅰヨハネ 5章14節
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

 クリスチャンには、二種類あります。以前の私のような聖霊も何もわからないクリスチャンと、神に触れられ、聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンとです。十字架を信じている両者ともに、永遠のいのちを与えられているのは同じですが、その心に大きな違いがあります。神のみこころを知って、それを行いたいと願うかどうかです。
 
 その分岐点は聖霊の臨在の違いにあります。聖書には「神のみ心は聖霊以外に知り得ない(1コリ2:11)」とありますので、神のみこころをいくら知りたくても、聖霊さまとの親しい交わり、つまり聖霊のバプテスマと聖霊の満たし以外には、人間には他にみこころを知る手立て、方法がないのです。そして三位一体の神さまである聖霊さまを通して、私たちは神さまというものと知ることができ、その愛に触れて、愛に生きる者、つまり何よりも、自分自身の計画やあらゆる願いよりも、神のみこころを行いたいと願う者へと変えられていくのです。これは神を知れば、必然的な変容なのです。
 
 聖書では「主よ、主よと言うものが皆天に入るのではなく、神(父)のみこころを行う者が天に入る(マタイ7:21)」という御言葉があります。つまりクリスチャンにとって<神のみこころを行う、行えるか>ということが決定的に重要なことです。そして、みこころを行う者に対して、キリストは「天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです(マタイ12:50)」とまで言ってくださっているのです。
 
 これらの交わりは昔、エデンの園で人間と日々交わられていたように、何一つ変わることのない神の原則であり、人類の創造の目的の一つであろうと推察されるのです。神の本質は愛であり、私たちはこの神と交わり、神を知ることによって、神の愛に満たされ、溢れて愛を行う者へと、実際変えられて行きます。また多く許された者が多く愛するように、神に愛された者は、神を愛します。それがみこころを行うということなのです。
 
 神との交わりがどれほど素晴らしいものかは、究極の姿を描いている黙示録においてこのように描かれています。
「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く(黙14:4)」「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる(黙21:3-4)

2017年4月30日 (日)

父のみこころ

ヨハネ 6章38~40節
38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。
39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。


 数日前に黙示録の2ー3章を読みました。七つの教会は、すべての時代に存在した教会の信仰の型だと言うのが私たちの見方です。今回この箇所を読んでいて、これまで気がつかなかったあることを見つけました。みなさん、どうしてスミルナとフィラデルフィア教会が良く言われているか、ご存知でしょうか。それはこの二つの教会だけが「悔い改め=罪・過ち」を指摘されていないのです。
 
 さてそれはさて置き、残りの五つの教会をさらに詳しく見ていきますと、P牧師も指摘されている通り、たとえフィラデルフィア教会でも携挙が全員ではなく、五つの教会であっても、悔い改めるならば「いのちの木の実」、「新しい名」などと天の都、新しいエルサレムが約束されています。これはバプテスマのヨハネからヨハネによる黙示録に至るまで、「悔い改め」が天への鍵であること、これが聖書が語る一貫したテーマです。
 
 ですから「悔い改め」を否定的に受け止め、抵抗を感じ、忌避している人は、取り返しのつかない大間違いをしているのです。イブが善悪を知る木の実を食べて以来、全人類は罪の中に居ます。では神は私たちを、地獄の滅びに落とすために造られたのでしょうか。違います。神のみ心が聖書に、はっきりと次のように書かれてあるからです。
マタイ18章12-13節
だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。このようにこの小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなた方の父のみこころではありません
ヨハネ6章40節
事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです
 天の父なる神は、罪から私たちを救うために、尊い独り子イエス・キリスト様を遣わし、人間の罪の身代わりとして十字架で死ぬことをお命じになりました。ここに神の愛があり、信じる者に完全な赦しが与えられます。赦された者は滅びから免れ、御霊の体という滅ばない新しい体と、永遠のいのちを持って神の国の一員となります。
 
 ただし、罪が分からねば悔い改めることができません。罪がわかることは打ちのめされる一面がありますが、十字架によって悔い改める者は赦され、神に祝福される者となっての大逆転の結果になります。悔い改めることは何と素晴らしいことでありましょう。天国へのパスポートです。ハレルヤ! 感謝します。

2017年4月16日 (日)

神のみこころに聞き従う

Ⅰペテロ 4章2・7節
 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。


 キリスト教においては福音を信じる、つまり「救われ」てクリスチャンになることが先ずもって大切なことです。その次、クリスチャンの信仰生活において、もっとも大切なことは「(神の)みこころを行う」ことです。このことは聖書でイエス様ご自身や、12弟子筆頭のペテロやヨハネらが口をそろえて語っています。このみこころを行おうとすれば、それは結果として神に「聞き従う」ことと同じことになるのではないでしょうか。
 
<参考聖書箇所>
主イエス・・・マタイ 6:10/7:21/12:50  パウロ・・・エペソ 5:17   ペテロ・・・1ペテロ 4:2  ヨハネ・・・1ヨハネ 5:14
 
 では、神のみこころとは何でしょうか。そのことも聖書には明確に説かれています。「(先ず教会内から)互いに心から愛し合う」ことです。ただ注意しなければならないことに、私たち人間にはそのような愛がないことです。人間はすべからく罪人で、自己中心な存在なのです。ですが、各自に聖霊に注がれ、神のあわれみとその力に依って内なる世的な肉を滅ぼすなら、可能になります。こうして聖霊を通しての神の愛が各自に満たされ、溢れて行くなら、互いに親切にし合い、仕え合うことができます。自分の今のありさまや、力を見ては不可能ですが、神にあっては不可能はありません。神の栄光はふさわしくなく、愛の力のない者を通して、神の愛が現されるのです。
 
 もう一つ、神のみこころは私たちが「堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かう」ことです。悪霊というものに対して、今は罪赦されて神のものではあっても、私たちの力では弱い存在です。しかし神は、悪霊に対し、私たちが怖じ逃げ惑うのではなく、「立ち向かえ」と仰っているのです。私たちの力は弱いけれども、神をバックにした堅い信仰に立つならば、圧倒的な勝利者となるのです。クリスチャンは神のしもべであって、しもべは主人の威光を帯びているからです。悪霊に対して逃げてはなりません。戦いの場では、その人が本当に神を信じているのか、神からの聖霊の力が注がれ、みこころによって立っているのかが試されます。失敗を恐れる必要はありません。イエス様の時代において、口をきけなくさせ、ひきつけさせる悪霊の追い出しに失敗した弟子たちにしても、多くのことを学ぶことができたからです。
 
 こうして見ればクリスチャン生活とは、聞き従いを通して、己に見られる内面の不従順さ、世的な欲望と戦い、また外から来る悪霊との戦いをし続けることだと言えるようです。天の故郷に帰るまで続くこの戦い、感謝と賛美はこの中で上がる、信仰による勝利の旗だと言えるでしょう