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神のみこころ

2024年5月 5日 (日)

地獄に天国をもたらす

詩篇 32篇1~2節      2017新改訳

幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。
幸いなことよが咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。

 あるSNSを観ていましたら、次のような意見が載っていました。「キリスト教会の牧師の中に、「一度救われたら、(その後はどんな罪を犯しても)天国行きは大丈夫だと教えている。しかしそれは、地獄にたくさんの信徒を送り込む大きな過ちだ」と。要するに洗礼は救いの永久免罪符ではないと。私もその通りと思いましたが、おそらくすごい反論を受けるだろうと想像しました。プロテスタントのほとんどの教会はそのような救い観でしたから。果たして予想した通り、代表的には次のような反論がありました。
 「それは、あなたの考えの中(あなたの世界)に、サタンを存在させる以上、常にサタンはあなたの中に存在します。イエス様が常にご加護をくださっている、にもかかわらずです」と、まるで最初に意見を述べた人は悪霊にとりつかれているかのような内容です。さらに別な人も「サタンという概念を持つこと自体がサタンだ」とさえ指摘されていました。
 反論される方は、一度十字架を信じ、救いを受けた者は、天使のように罪を犯さない存在になったかのようです。勿論そんなことはあり得ません。

 確かにローマ10:9-10には もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる、と。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです とあるように、告白した罪は赦され、その時点では救われています。確かに赦されて義とされた解放の喜びが全身を包んだことでしょう。しかし、人の罪性は根深いのです。自助努力や自己肯定は、そんなに簡単に取り除けるものではありません。もしクリスチャンが、自分は罪とは無縁でキリストのように聖とされる存在になれたと思うなら、それこそ万死に値する高慢の罪を犯しているのです。
 私の経験を言えば、そのような教会にいて三十年間、義とされているはずなのに罪深い自分に苦しみました。考えないようにし、頭から振り払おうとどんなにしても無理だったのです。サタンがクリスチャンである私を、聖を諦めさせ、絶えず支配しようと襲っていたのです。

 このようなクリスチャンの救いについて、聖霊のバプテスマを受けることではっきりわかりました。地獄に天国がもたらされたのです。聖霊が望んだ時、私たちにほんのわずかでも自分を義とするものは無かったのです。聖霊に照らされて私は、自分に全く希望がないことを知りました。私は放蕩息子のように、ボロボロの自分をただ父にあわれんでいただくしかなかったのです。父はボロボロの私だからこそ、本当の息子を取り返したように愛してくださるのです。私の弱さを私以上に神はご存じですし、父の御心を行うことしか生きる意味を感じない私と、聖霊を通し親しく交わってくださいるのです。交わって知る父は100%、愛のお方で助け主です。

ああ、罪がわからない自称クリスチャンと牧師たち、一切あなた方が自分を義とせず、砕けた魂と良心から真に救われるよう心から祈ります。

2024年4月14日 (日)

天に行く確かな歩み

マタイ 7章21節   2017新改訳

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

 マタイ7章21節には、イエス・キリストのことばとして、「主よ、主よと言うものがみな天の御国に入るのではなく、(以下意訳)父のみこころを行なう者だけが天の御国に入る」とあります。つまりクリスチャンがみな天国に行けるのではなく、神のみこころを行なっている者だけが入れると言うことです。これは明らかにカルヴァンの予定説の「一度でも信じた者は全員救われる」(永久保証)を否定しています。つまり、パリサイ人のように律法を形式的に守っていてもアウトになります。神との霊的な交わりを保ち続け、その交わりの中で神のみこころが分かって、それを率先して行なう者だけだと言われているのです。これは非常に重要なことです。今回、態度を保留していた私にも、主ははっきりさせるよう迫られました。信徒に永久保証を説き、油断した信徒が裁きの日に地に落とされたら、牧師はその咎を負わなければならないのです。

 実は最近、祈っている中で、<キリストは人となって来てくださった見える神そのものである>ことから、直に神である<キリストのことばにもっと注力しなければならない>と示されています。ただし聖書はどれかが重要で、他は重要でないということはありません。

 さて肝心の「みこころを行う」とはどういう事でしょうか。「種蒔きのたとえ」から見て行くと、最近になって、岩地も茨も全てクリスチャンと自称する人たちのことであって、永久保証説を否定するものだということに気づかされました。「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入る」ので、これは明らかです。
 ではみこころはいかにして行えるのでしょうか。それは先ず良い地であることと、その上に発芽する‥‥自分に死んで代わりに神の霊(聖霊)が成長していなければなりません。もちろん成長をさせてくださるのは神(1コリント6:6)です。このように発芽という言葉を見た時、<自分に死んで神の霊に生きる、聖霊のバプテスマを指していることがわかります。それなくして神と交わり、みこころを知ることもあり得ません。<みこころを行う>者は既にこの世のもので無く、神の代理人と称する偽預言者や教祖に盲従する(カルトに属する)こともありません。
 しかし幾度も言いますが、自分に死ぬことは自分の力では不可能です。「心の貧しき者は幸い」‥‥自分の高慢と無力さ、罪を徹底的に知らされる者は幸いなのです。自分に絶望し、神のものになる決断は本人の自由意志です。サタンのように神は人を虜にしません。愛しておられ、その決断する自由意志を切望しておられます。神のものとして自分を捨て神に従う者を、神は愛してくださり、交わってくださいます。交われば交わるほど私たちは神を愛する者となり、神のみこころ、計画に預り行おうとします。神の子であり、御国を受け継ぐ嗣子だからです。

2024年4月 7日 (日)

いつも喜びなさい

ピリピ 4章4節   2017新改訳

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
 「いつも喜んでいなさい」。この御言葉通りに私たちはいつも喜んでいるでしょうか。そうでなく、仕事のストレスや家庭の問題、金銭の不足に悩んで、時に苦虫を噛み潰したような顔をしていないでしょうか。無理に笑顔でいようとすれば、頬が引き吊ったりして(笑い)‥‥ですからこれは、なかなか守れない、困難な命令のように感じます。ですがこれは神様からの命令です。では不可能なことを命令されているのでしょうか。それとも私たちに何か問題があるのでしょうか。それとも世にあっては神の期待に応えることのできない、永遠の理想なのでしょうか。

 確かに私たち、この世に生きている限り、財力とか権威、能力、家柄や名誉、学歴、あるいは姿形から全く無関係に生きることはできません。しかしそれと自分の心がとらわれることとは、まったく別なことではないでしょうか。その例を使徒の中の使徒、パウロに見てみましょう。

 パウロは世のそのようなものはdung(直接的には糞、2017では塵)だと言いました。このように言ったパウロは、イスラエル人の誰もが羨むような世の富を持っていた人でした。八日目に割礼を受け血統正しきベニヤミン族出身。律法についてはガマリエル門下でパリサイ人の中のパリサイ人。誰もが羨むこれらを、パウロはdungと言ったのです。こう言えるのは、これらに比べようもない、はるかに素晴らしいものを得ていたからに他なりません。それは霊的な恵みであって、喜びあふれ、尽きない祝福です。世の思いから逃れられず、平安と喜びがないクリスチャンでは、神の御心から外れています。世から解放される信仰のすばらしさ、例えられない喜びを手にしていないのです。ぜひ希望と期待を持って、焦がれて祈り求めてください。

 しかしまた、別な見方もあります。今現在の私たちの信仰の状態です。心の大切なもの(心)は両立ませんし、そこに優先順位が当然あります。肉のものを信仰より優先している自分があったとしたら、それこそ神とキリストから自分を遠ざけ、奪い、妨害する世のものと戦わなければなりません。神と世と両方とも大切にすることはできないのです。両方とも失ってしまいます。次の御言葉がそれをはっきりと教えています。世の楽しみや富、それらに心を奪われているなら、滅びの道がその先に待っています。今その優先順位をはっきりさせなければならないのです。そうすれば、神は私たちの祈りに応えてくださり、私たちが神を愛する者になるよう助けてくださることでしょう。

だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。マタイの福音書 6章24節

2024年1月28日 (日)

神に用いられる

Ⅱテモテ 2章21節  2017新改訳

ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。

 私たち神を信じる者は、まずもって神に愛されていたからです。そして神を愛しています。愛は一方的なものではなく、相互的なものですから、なんとかして私たちも神の愛に応えて行きたいと思うのが自然な感情でしょう。。
 その愛しているので、愛する方の御心を行なおうとします。例えば小さな子どもが親におつかいを頼まれたとします。子どもは親の役に立つことが嬉しく、ちょっと不安もあリマスが誇らしいものです。が、親にとっては心配です。ですから、まず子どもの成長や特性を見定め、実際にできる能力があるかどうか、道のりや金銭感覚、所定のものがわかるかどうかなど、熟慮した上でできることを確信してお使いに出すことでしょう。私たち神の子どもは安心して役目を果たすことができます。人間の親とは異なって神は完全であり、私たちの能力(タラント)を私たち以上に正確にご存知です。ですから5タラントだろうが2タラントだろうが、言いつけに従って言われたことをやれば必ず成功します。しかし、もしかして不首尾に終わるとすれば、1タラントを地中に隠したしもべのように、しもべの側に自分の考えを優先する問題があったからです。

 つまり神の側は完全で誤りがないのですから、私たちの側の行なう決心や意志の方が決定的に重要です。またせっかく全うするための道具として賜物を与えられていても、それをただ地面に埋めて隠し持っていただけでは使命を果たせず、信頼せず不服従の報いを受けることになります。ピアノが弾ける、会計やコンピュータができるなど、世的な賜物の力も、決して偶然と考えてはいけません。神があらかじめ備え、御心に従って用いるためのものであることがほとんどです。実際、この群れでは音楽とか映画というジャンルで多くの証人がいます。これらの世における賜物と合わさって、九つの聖霊の賜物が用いられて行くのです。

 このように神に用いられた人々の実例を見ましょう。そこに一つの共通点があることに気づきます。パウロ、アウグスティヌス、ジョージ・ミューラー、マザー・テレサなどからわかるのは、用いられる器にふさわしく、たとえ信じる前に汚れた過去があったとしても、本人の意思と神の恵みによって<きよめられて>いることです。本日の聖書箇所、だれでもこれらのこと(世的なこと)から自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります(1テモテ2:21)はそのことを示しています。聖霊が住まわれ、人を通して働かれるには、その人の自分に死に、神に明け渡したきよい人であることです。ですから神を愛し、神に応え、御心を行なう器として神に用いられようとするならば、神の聖さにふさわしいきよめを求めましょう。神への愛が、その願いを起こさせ、神がその願いに応え、神の方法できよくしてくださるのです。
 ですからまず祈り求めましょう。「主よ、どうか私を罪の縄目から解放し、汚れた私を洗ってきよくしてください、それによってあなたの御心を行なう者に私を造り変えてください」と。

2024年1月 7日 (日)

聖別~この世のものでは無い

ヨハネ 17章16~17節  2017新改訳

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です
 古来から「諸行無常の響きあり」と、この世の全ては移り変わっていくことは知られていました。人間だって、曾孫の代になれば、ほぼほぼ忘れ去られてしまっているでしょう。世、世界は流転しています。しかし、ただ神のことばだけが永遠に、時を超えて確かに存在し続ける唯一のものです。
 実際、ここにおられる皆さんは、おそらく美しいステンドグラスの光の下、荘厳な礼拝堂に魅せられて来られたわけではなく、また天使のような素晴らしい人に憧れて来られたわけではないかと想像しています。

 そもそもこうした教会と、その真実な信仰を持っていらっしゃることが奇跡です。まず神が人の形をとってこの世に来られた。これは結構神話なんかにありますが、処女から聖霊によってお生まれになったというのは、かなりハードルが高いです。常識ある人は信じないでしょう。そのイエス・キリストという人は、死人を三人も、最後には腐っていたのですが蘇らせ、あらゆる患い病気を癒やされ、海の上を歩き、嵐を鎮め、五つのパンと二匹の魚で数万人の食事を賄われたというのですから、これを信じるには、人間を捨てないと難しいかも知れません。その上、崇められる教祖様が酷い十字架刑で苦しみ抜いて死なれ、三日目に復活し、その後大勢の人の前に現れ、共に食事をしたりした、という極め付けの出来事が、神のことばである聖書に書かれています。これを信じる皆さんとは、本当に自分自身の価値観、在り方を捨てていらっしゃるのです。これは自分の力ではできません。そうです、自分では信じられなくても、皆さんの内に御住みなっていらっしゃるご聖霊様が、助けてくださったのです。

 皆さんはすでに聖別されています。父母の間から生まれて来ましたが、実は天地万物の創造の直前、神の計画によって霊がすでに神の子として生まれていたのです。したがって皆さんはすでにこの世のものではありませんから、世から迫害を受けるのが当然です。多くの苦しみを通して完全なものとされるのは、天に属する者として、ふさわしいことなのです(ヘブル2:11から)。
 ですからみなさん、賜物を持っている人は賜物を用いて感謝しましょう。しかし恐れてはなりません。ハレルヤ!主は十字架ですでに勝利を取っていらっしゃるのです。堅くたってみことばを忠実に守りましょう。(2テサ2:15)

2023年10月22日 (日)

平和をつくる者

マタイ 5章9節  2017新改訳

 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

 「平和をつくる者」、この御言葉が今ほど心に響く事はありませんでした。これまでは3節の「心の貧しい者は幸いです」の印象が主にんっていて、平和は、今いちピンと来なかったのです。平和ボケしていたか、平和がよくわかっていなかったということでしょう。しかし、平和が失われつつある今の世界に、平和の尊さを強く感じるようになりました。

 ロシア軍によるブチャでの犯行とか、今回のハマスの残虐なテロ行為を知ると、憎しみや恐れ、高慢というものが人間の本質であると気付かされます。あらためてすべての人は罪人であり、自己中心的な存在であって、一皮剥けば人殺しなのです。三年以上にわたったコロナ禍や異常気象の猛暑、そして今進行している二つの戦争など、いったいこの先、世界はどうなってしまうのだろうかと思ってしまいます。
 その上に、身近にショックなできごとが二ヶ月前ありました。私たちは一つの御体、天の御国に行っても永遠に続く信仰の兄弟姉妹と思っていた姉妹たちを失ったのです。教会は痛手を受け、後始末に追われました。しかし今、新しい形での礼拝が始まり、ようやく一息ついたところです。

 そうしてみますと分かり始めたことは、失われたことに目を止めるのではなく、未来に目を向け続けることが大切であることでした。イエス様は次のように言っています。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。ー中略ーこれらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」マルコの福音書 7章20~23節
 自己中心というこれら人間の罪に対して、残された道は私たち一人一人が平和を造る者に、神の力によって変えていただくことです。平和をつくる人は、少なくとも自分自身の心に平和を築いていなければなりません。悔い改め、神に立ち返り、神によって生まれ変わること、そして平和の神の御心を行うようになること。確認しますが、これこそが私たちの道であり、依って立つ使命です。

 ヤコブの手紙 1章19節には次のように戒められています。
「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」
ここには二つの戒めが述べられています。

<1>すぐに人を裁かないで、柔和な人になりなさい。
<2>怒るに遅くなりなさい。
 柔和な人とか、すぐに怒らない人は天性のもののように思われていますが、実は神から愛され、神を愛する人は誰でもこれを実行するようになるのです。どうか主が私たちの信仰を増してくださり、この時代にあって「地の塩」「世の光」として用いてください。どうかリバイバルをこの地に起こし、私たちを平和をもたらす者として用いてくださいますように。

2023年7月 2日 (日)

みこころを行う

マタイ 7章21節   2017新改訳

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
 「キリストを信じて信仰告白をすれば、誰でもみな天国に行ける」と多くのクリスチャンは思っているはずですが、そのような人たちは、本日のこの箇所 --「みな」ではない-- をどう読み取るのでしょうか。
 このような不安を払拭できないからでしょうか、この重要な箇所であるにも関わらず、過去においてメッセージにおいて、私は一度も聞いたことがありません。しかしこれを避け、このまま不安を残したまま時を迎えるのであれば、牧会者として大きな問題であります。

 神のみこころを行なわなければ、天の御国に入れない。では<みこころ>とは何か? これは聖書では明確にイエスの言葉として次のように言っている。
第一に神を愛しなさい。」「第二に隣人を愛しなさい」と。さらに「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19−20)という使命も語られています。神のみこころが分からないという人は、これらのはっきりしたみこころを行おうとしていない‥‥つまり本当に救われた神を愛する実が、実際に実っていないのではないか、と私は疑っています。本当に救われていれば、自分ができる、できないではなく、行えるよう神の助けを真剣に祈り求めるはずです。

 次に神のみこころは具体的に個々人にあらわされていきます。自分の努力や働きで霊的な救いを得るということでもありません。それは勿論聖書の範囲内のことであり、聖霊との日々の交わりを通して明らかにされて行きます。神はご自分を愛される者にご自分をあらわされるのです。それは聖霊のバプテスマのような、肉なる心を滅ぼし、聖霊がその人の中で主となり、宮を築いておられる人限定になります。いわば神への献身者を通して神は具体的な指示や慰め、励ましを与え、みこころを行わせて神の計画を前進させられます。
神はみこころのままに、あなた方のうちに働いて志を建てさせ、事を行わせてくださる方です」(ピリピ12:13)
文字は殺し、御霊は生かす」この聖句も(Ⅱコリント3:6)に出てきます。文字とは直接的には十戒のことですが、律法の意味です。律法によっては人は罪を知るばかりです。(使徒13:38−39)が、十字架によって罪から解放された私たちは新たな主、御霊が与えられました。この御霊によって私たちは肉の心から解放され、父と交わる者とされました。世の霊、肉の自分からはじめて自由になりました。それを御心のために用いることによって、<永遠に生きる>存在とされ、自由の意味を知ることになりました。御霊は私たちをそのように教え育て、真に生かすという意味です。

 

 

 

 

 

2023年6月25日 (日)

主は御霊

Ⅱコリント 3章17~18節  2017新改訳

 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。

 三位一体について、直接言及した聖書本文はありませんが、聖書の随所でそのことは明らかにされています。本日の箇所もその一つと言うべきでしょう。御霊なる聖霊は、父なる神、子なる神イエス・キリストであると明言しています。

 次に自由という言葉も、肉的なクリスチャンがよく思うような <好きなことをなんでもして良い>と受け取ってはなりません。大前提として、キリストを信じる者は、キリストが贖ってくださった、買い取られた者です。いわば奴隷市場で、新たなご主人に買われたのです。しかしこのご主人は私たちを奴隷として扱わず、子としてくださる方なのです。ですから子として、保護者である親から養育され、成人するまでは聞き従う必要があります。勘違いしてはいけません。
 では自由とは何の自由でしょうか。強制でも命令でもなく、御心を行える自由です。確かに聖書には命令形の言葉がたくさんあります。「悔い改めなさい」とか「感謝しなさい」のような言葉です。しかしそれは、聞き従って恵を受けるための、父からの戒めであり訓育です。悔い改めない者、感謝しない者に対してのものです。

 しかし子として父を愛する者には自由があります。聖霊によって普段に父と交わり、父がどのような考えをし、対応をしているかを知っていますので、子も進んで父のように行おうとします。すでに何が良いことでいけないことかを知っており、わきまえているので、父もある程度の自由を許して、子に色々な経験を積ませようとするのです。
 それは家庭と同じように、子は父の家の中で安心し、恐れなく、嗣子として自由に振るまいます。神の下にある時、人は罪の縄目から解放され、愛する父の御心を行おうとするので、自由があるのです。

 文字は殺し、御霊は生かす。この聖句も(Ⅱコリント3:6)で出てきます。文字とは直接的には十戒のことですが、律法の意味です。律法によっては人は罪を知るばかりです。(使徒13:38−39)が、十字架によって罪から解放された私たちは新たな主、御霊が与えられました。この御霊によって私たちは肉の心から解放され、父と交わる者とされました。世の霊、肉の自分からはじめて自由になりました。それを御心のために用いることによって、<永遠に生きる>存在とされ、自由の意味を知ることになりました。御霊は私たちをそのように教え育て、真に生かすという意味です。

 

 

 

 

 

2023年3月26日 (日)

聞き従いVS御心を行う

詩篇40篇7~8節  2017新改訳  

7 そのとき私は申し上げました。「今私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。
8 わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。

 本日のテーマをわかりやすい人物で例えるなら、アブラハムとダビデです。アブラハムはモリヤの山で、唯一無二の息子イサクを神に聞き従って捧げようとしました。私ならそれは絶対不可能です。「神様、お気は確かですか?」とか「いくら何でも約束のものを反故にするなんて」と拒絶したでしょう。しかしアブラハムは従ったのです。彼はまさに信仰の人、聞き従いの代表です。

 一方ダビデはみこころを行う人の代表です。彼は今に至ってもイスラエルの象徴とでも言うべきです。キリストはダビデの子孫から出ました。イスラエルの版図を最大限広げたのもダビデです。神殿建築こそ許されませんでしたが、ダビデほどひどく神から愛された人物はいません。たとえ部下を殺してまでその妻を奪おうとも、晩年にも民の数を数えようとも、普通なら断罪されておかしくないケースですが、ダビデは許され、神の祝福は変わることがありませんでした。

 どうしてでしょうか。彼は神を愛していたからです。神もまたダビデを愛しておられました。ダビデがみこころを行う者だったからです。互いの気持ちというものは、それが通じ合うためには一定の期間が必要です。一朝一夕では不可能です。相当期間ふれあい、交わっていなければなりません。ダビデは人の弱さから罪を犯しながら、即座に悔い改める二心のない者でした。そのような存在であったからこそ、神が愛され、いつも交わられていたのです。そしてみこころがわかる者とされたのです。
 そのことがよくわかる例は、契約の箱をエルサレムに迎えた時、その喜びを裸になって踊った姿にあります。彼は王の娘にして妻ミカルの、侮の目を意に介しませんでした。ダビデは人からどう見られようと、ただ神に対していたのです。このような人物を神が愛されないわけがありません。どんな過ちを犯そうとも、悔い改めるダビデを神は赦すのです。ダビデもまた、みこころを行うこと最上の喜びとしました。

 神に「聞き従う」者は祝福されます。しかし「みこころを行う」者は御国入りが確かなだけでなく、愛されて「わたしの兄弟、母」(マルコ3:35)と呼んでくださるのです。両者を分けるものは何でしょう。真に神が人に求めておられるのは、上下関係的なものでなく、対等的なものです。それは交わりが土台となります。交わりとは何でしょう?聖霊によるバプテスマ以降のものです。わたしの経験では、それを遮っているものは、神の都合やタイミングもあるでしょうが、ほとんどの場合、人にあります。私たち人間は自分が一番自分のことをわかっていると思っていますが、そうではありません。あなたを造られた神が一番わかっておられるのです。ですから、神との交わりを遮っているのは、他ならぬその人にあるのです。「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(マタイ3:8)悔い改めるべきことが見当たらないような皆さん、この喫煙や飲酒、それが切れた時、もし不機嫌になるとしたら、その人には軽度の禁断症状が出ているのであり、霊的には世の霊、悪霊に支配されていると言えます。

 実際にはこのようなわかりやすい例だけではありません。不安とかコンプレックス、金銭への執着、いじめに限らず心に受けた傷、そのようなことがいっさいないという方はむしろ少数派でしょう。悪霊が巧妙に隠れて入り込み、その人を、世の中を支配しているのが世の姿です。今年のハリウッドでアカデミーの主要な賞を独占した映画、略称エブエブなど、その典型例です。映画ではマルチバースと聞こえはいいのですが、実際には現実逃避の変身願望と闘争に終始した子供騙しです。
 人が自分自身を、あるがままの姿をそのまま肯定し、自分を喜んで生きることはかなり困難です。欲望に支配されて満足することを知らず、その罪深い自分を、あるがままに受け入れられないのです。サタンはそうやって人間を疲れさせ、真に絶望させようとしています。この解決はただ一つ、十字架のキリストを信じ、キリストの愛によって自分と和解するしかありません。キリストに愛され赦された自分なら、受け入れることができるのです。これ以外に正しく歩める人の道はありません。もともと神は人を、エデンの園でのように、ご自分と親しく交われるために創造されているからです。イブやアダムと同様、罪がそれを妨げているのです。

 どうやって私たちは、愛してくださる神を知り、正しく導いてくださる神の声を聞くことができるのでしょうか?その第一は神のことばである聖書に聞き従うことです。聖書を神のことばと信じるなら、聖書の御ことばに聞き従い、御ことばを行なう者となるはずです。主イエスが命じておられるたった二つの命令とは、「何よりも神を愛すること」「隣人を愛すること」です。神を愛する者は、神を知り、御ことばを通して語りかけてくださる神の御心を行おうとします。ところが悲しいことに多くのクリスチャンは、口先では神を信じると言いながら、実際には信じた実が伴っていません。神を認めることだけなら、悪霊の方がはるかに優っています。そうでなく、信じた御ことばの実が実る者でなければ、真に救われているとは言えないのではないでしょうか。ポイントは聖霊の実です。

 また神は信じる者に直接語られることがあります。これは誰にでも、ではありませんが、聖書の主要な人物、アブラハム・イサク・ヤコブ・モーセなど皆、神の声を聞いています。聖書がある今の時代においても、神は変わらず語ってくださっています。これは御ことばの具体的語りかけであり、もちろんそれは聖書の範囲内で語られていることです。私たちは聖書を土台に吟味して、個人的に語られる神の声を受け取って行くのです。ことに気づけておられるでしょうか。神はあなたの横で、交わりの手を差し伸べ、それを待っておられるのです。

2023年3月 5日 (日)

信仰の戦い

Ⅰテモテ 6章12節  新改訳2017

信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。

 私たちは肉と骨だけでできている存在ではありません。スポーツでもウクライナでの戦いでも実証されているように、正義と意思、心が実際には真のポイントです。人間はその霊・たましいで生きている存在なのです。そしてそれは血肉で表すことができないのと同じように、血肉が消滅しても存在します。ただ別の、二つに別れた永遠の世界に舞台を移して生き続けて行くのです。

 本日皆さんと分かち合いたいと願っていることは、ありのままの姿を確かめ、共に良い選択をし、そしてそれを妨げようとする闇の力に打ち勝って栄冠を得ることです。

 みなさん、自分を受け入れられない、愛せない人がいるのはなぜでしょうか? きっと要求水準が高く、ありのままの自分ではダメなのでしょう。子どもの時から勉強を「がんばれ、がんばれ。現状で満足するな、努力して引き上げろ」と金科玉条のように言われて育ったためでしょうか。しかし私は根本的には、その人たちは、親から愛されていたとしても、自分が愛されていると心から感じる経験が無かったのだと思います。私にも思い当たるので言っていますが、それは本人にとって不幸なことです。
 この愛の欠乏感の解消は、疑いようもなく真に愛されること、それが本人に分かることでしか解消されることはない、そう私は思います。これは肉の両親にとってはその人なりのやり方を大転換するものですから、よほどの指導的オーソリティがついていなければ不可能です。可能であるのは、その絶対的なオーソリティ、つまりその者の創造者、神にしかできないことです。神にはそれができます。神は全知全能であり、すべての人間の肉の親にはるかに優る、真の創造者ですから。神は人間というものが、同じ人間の見方・評価・価値観を基準にしてでしか自分を推し量れなかったのに対し、根本的に異なった目的を持っておられるのです。

 最近、自分の顔をアプリで好きなように変えて楽しむことから、最終的に整形にまで進んでしまうことが流行っているそうです。ありのままの自分を受け入れ、愛することができないようです。神の愛を知らず、自己中心の罪のただ中に居ると、私たちの魂・霊は惨めな状態になります。しかし神の愛、造られた方の意図、愛を知ったならそうではありません。

 神は人を愛し、尊重されるからこそ、自由意志を与え、その中から真の愛に目覚めるよう期待してくださっています。ただそれだけでなく、十字架によってはっきりと愛を示してくださいました。私たちは十字架を我がためと気づき、信じることによって自分自身の罪、自己中心の生き方の誤り、人間基準の見方や価値観から解放され、神に愛されている自分から始めて、その愛に満たされてはじめてありのままの自分を愛せるようになるのです。それは信仰からの平安であり、幸せです。

 

 

 

 

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