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神の国

2018年4月 8日 (日)

私たちは待ち望んでいる

ピリピ 3節20節

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

「私たちは待ち望んでいる」
 創造主が六日間で造られた天地万物は、人までも含め「見よ、それは非常に良かった(創世記1:30)」と言われた世界でした。ライオンや狼など現在の肉食獣もすべて草食でした。あらゆる動物が敵対せず、平和に共に暮らしていたのです。
 ところがアダムたちが罪を犯したために、地はのろわれ(創3:17)、額に汗して働かなければ地は実を結ばず、生き物には弱肉強食の世界になってしまいました。「のろい」という言葉は、日本では「たたり」とか「怨霊」のような意味合いで使いますが、聖書的には「罪の結果、または罪を犯し神の祝福を受けられなくなった」という意味になります。こののろいの世界とは、神の計画では魂を収獲するための暫定的な期間であって、それが今なのです。

 イエス・キリストという最後のアダムが罪というのろいから解放する「生かす御霊」となるため、世に下って来られました(1コリ15:45)。肉は滅びますが、御霊は永遠です。このイエス・キリストの十字架の死と復活によって、御霊が内住し、死は永久に追放されました。この解放は食事に端的に反映されました。当時も今も、ユダヤ教では食べ物に制限がありますが、キリスト教では食べ物のすべてに制限がありません。神がすべて食べて良いと、のろいから解放してくださったのです。

 このように神を信じていても、キリストを信じ受け入れていなければその恵みにあずかれません。三位一体の神を否定する異端は大なり小なり、のろわれた規定を守っています。キリスト以降、最後の審判までは、世は信じる者と信じない者とが混在する世界であり、そののろいが完全になくなるのは、キリストの空中再臨後の神の国であり、完全になくなるのは最後の審判後、地上が神の国になる時からです。

 クリスチャンは神の国を、今か今かと待ち望んでいます。のろわれるものが何もなく(黙22:3)、死も叫びも悲しみもない(黙示21:4)永遠の世界です。神が創造された「非常に良かった」世界の、さらにグレードアップした素晴らしい世界をです。

 この視点から、今私たちがいる罪というのろわれた世界をみたらどうなるでしょうか。確かに血肉の体がある困難な状況ですが、それにも関わらず私たちはのろいから解放される十字架の特別な恵みを受けました。そして罪を犯し続けることもできましたが、その中から神を選んだ故、その選択がなかった天使たちよりも、人である私たちがさらに高い位、神の子とされる特別な恵みを与えられる約束があります。私たちはとんでもない大きな恵みにあずかる約束の中にいると言うことがわかります。これは絶対に、血肉の命に代えても手離してはならないものです。

2018年4月 1日 (日)

神の国は何処に

ルカ 17節21節

『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

 
神の国、天国とも言いますが、それはどこにあるのでしょう。多くの人は天、空の上にあると思っています。現代の空の上には、人工衛星や国際宇宙ステーションが飛び交っているのです。キリストの再臨ではドラえもんの「どこでもドア」のように、エルサレムはオリーブ山の上空の、とある空間がパカッと開いて、そこからイエス様と主の軍が降りて来るのかも知れません。ところが神の国は「ここにある」とイエス様ご自身が明言しておられる所があります。パリサイ人たちが考えもしなかった所、信じる人の心の中にです。これを聖霊の内住と申します。

 クリスチャンなら「聖霊の内住」を誰でも学んでいます。しかし、実際に聖霊のバプテスマの体験や、神の語りかけを受けたことがなければ、内住は単なる知識の一つです。実際、私は福音派に三十年居て、時に神を感じ、霊の躍動を感じはしても、「みこころを行う」「聞き従う」という聖霊の生きて働く信仰など聞き及びもしませんでした。また祈祷会をしても、祈りが答えられるということなど、期待もしないで続けていました。

 イエス様は「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る(マタイ7:21)」とハッキリ語っておられます。ではクリスチャンでもみこころがわからない人は天の御国には入れないのか、と言うことですが、ここでの天の御国とは天のエルサレムのことであって、天国に行けないという意味ではない、最低でも諸国の民にはなると私は思っています。ただ天のエルサレムの門の中に入れるよう、祈り続けて行くことだと思います。

 さてクリスチャンは、聖霊様が内住されているのですが、最初はビギナーズラックというか、すごく語ってくださったり、祈りを聞き届けてくださる段階があります。しかしそれが時間と共に薄れて行って、やがて聞こえなくなったと、がっかりする人を見受けます。しかしそれは、神様がその人を立て上げようとしておられるのです。子どもが少し成長し、ある程度聞き分けられるようになったら、自律できる人間となるために、我慢することや、何よりも聞き分け、従うということが大切です。自分の肉の心を見分け、父のみこころを行いたいという心を、神は試練を通して育ててくださるのです。

 ですから許された試練は、すべてが最終的には益となりますので、私たちはすべてを感謝するのです。教会も会堂が開かれるという段階があり、今現在、会堂をたたむという段階にありますが、これら一つ一つが益に変えられて行き、大きく成長する土台になって行くのです。みなさん、感謝です。

2017年10月15日 (日)

復活・御霊のからだ

Ⅱコリント  3章18節
だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。

「わたしたちはみな」「栄光から栄光へと」「主と同じかたちに姿を変えられ」とこの節はありますが、これを他の言葉で言い換えると「御霊のからだ」「復活のイエス様と同じからだ」ということになります。聖書は私たちの血肉の体が終わったり、または生きながらでも、再臨のキリストとお会いする時にこのようなからだになっていると繰り返し語っています(参照⇒Ⅰコリ15;l20、1コリ15:23、1コリ15:44)。「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされる」のです。
 
つまり私たち自身の中に聖霊なる神の宮があるだけでなく、それは朽ちぬ御霊のからだとなって神の国に永遠に住むと聖書は言っているのです。私たちは実際に神が生きて働いておられることを現実に祈りや神のわざ……・いやし、しるし、奇蹟などを通して体験しています。ですからこの神の約束は、間違いない事実であることを知っているのです。
ところでプロテスタントの諸教会には、私たちのような聖霊さまへの態度と異なって、いやしも奇蹟もまったく信じない教会があります。三位一体の神を信じるという点は同じなのですが、残念ながら聖霊の働きがわかりません。わからないゆえに、私たちを「熱狂的」とか「おかしな教会」だと聖書ではなく自分の目で批判しているのです。私自身が二十年以上、そのような教会に居たのでこれは間違いありません。その私がこのような信仰へと導かれたということに、神の計画と大きな使命を感じさせられています。
 
私たちは血肉の体がある間に、何をしなければならないのか知っております。主に聞き従って、み心を行うことです。私たちが再臨の主にお会いした時、タラントのたとえ話が再現されることでしょう。タラントの額はそれぞれ異なっても、<聞き従って与えられた賜物を用いる>ことで主から同じお褒めにあずかるのです。ですから聞き従う教会である私たちの群れに導かれたということ、これは特別な恵みであると私は考えます。
 
どうかみなさん、御霊のからだで住む天のエルサレムを一緒に祈り求めましょう。天のエルサレムで一緒に神様の元で永遠に暮らしていきましょう。黙示録21-22章で天の御国の素晴らしさが描かれています。この教会にはその恵みにあずかる祝福があるのです。

2016年8月28日 (日)

自分の胸をたたいて

ルカ 18章10~14節
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
 
今の私たちの血肉の体と命には、創造の目的があり、聖書が答えています。永遠のいのちを得る為です。この永遠の命は、御霊の体として存在し、フワフワとおばけや霊のままではありません。復活のキリストと同じです。
 つまり今の老化し、滅ぶ体から滅ばない永遠の体へ。その体は食べ・眠って・運動を普段にしなければならない今の制約から解放されています。壁や遠方などの物理的な制約もありません。滅ばないので男女の性は不要ですし、生存や所属などの社会的欲求からも解放されています。血肉のごく短い命のある中での選択が永遠の行方が定めるのです。
 
 さて、本題のパリサイ人と取税人の祈りに話を戻したいと思います。二人とも天国に行きたい人たちです。パリサイ人は社会的には上位の暮らしをしており、宗教的に熱心で律法を忠実に守り、人々から尊敬され、まっ先に天国へ行ける人だと思われていました。
 取税人は今の税務署の職員とは全く異なります。ローマへの税をプラスαして私服を肥やす、憎きローマの占領支配、そのお先棒を担いだ売国奴であって、道徳心のない罪人だと見られていました。全く対照的な二人でした。
 
 しかし神の目は人と異なります。パリサイ人が取税人を見下したのに対し、その取税人は胸を叩いて罪を悔い、神のあわれみを求めて祈っていました。パリサイ人がどんなに律法を守って行いに励んでいたとしても、それは枝葉末節の部類であって、最も肝心な律法、愛を失い高ぶって裁いていたのは明白です。神はどんな罪人であろうとも、悔い改めてあわれみを求める者に目を留められます。これは聖書(マタ9:13等)にある通りです。神は愛だからです。
 
  今の血肉の体があるのは、この間に私たちが永遠の命を求めるため、得るためです。そして得たのであれば、何よりも神の御心が行うことです。そのためには祈りの人でなければなりません。そのために主は十字架にかかり、罪を赦し、聖霊を私たちにくださいました。血肉の体を持っていたとしても、今や聖霊が私の人生の主なのですから、絶えず祈りによって聖霊様を心の王座にお迎えし、聞き従わなければなりません。さらに聖霊様は力ある方ですから、九つあるその賜物によって、御自身の計画を進めて行かれます。
つまり、血肉の体がある真のクリスチャンは、この世での神の働きを共にする者となります。神の愛を運ぶ器とさせられ、その栄光を現す存在となるのです。
 

2015年10月 4日 (日)

泣いて歯ぎしりしないため

マタイ 24章22節 
もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。

この聖書箇所を読むと、大患難時代が来る前にクリスチャンは携挙て守られる、そう理解できます。教会の中には、携挙を語らない教会があります。これは大きな間違いであり、聖書(Ⅰテサ4:17-18、1コリ15:51-57)では明白にこのことを語っています。私たちはこのことをよく知って、「目を覚まして」備えて置く必要があるのです。

 また携挙のことを語っている教会で、クリスチャン全員が携挙されると説く教会があります。
Ⅰコリ15:51で「私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられ」という<みな変えられ>を根拠にしています。しかしこれは、聖霊の油を切らさないすべてのクリスチャンであって、クリスチャンの皆ではありません。
 なぜでしょうか。それはマタイの24,25章があるからです。ここには三つの喩えが出てきます。その中の一つ「十人の乙女」の喩えですが、十人とも油の灯火は持っていました。つまりかつては聖霊によって輝やいていたクリスチャンでした。しかしそのうちの半分は(実際には割合は不明です)油を切らしてしまい、買いに行っている間に花婿、つまりキリストが来て、灯火を灯していた五人を連れて祝宴に入ってしまいます。これは「携挙」です。Img_7071
 油が切れてしまい、買って戻ってきた五人の娘はどうなったでしょうか? 『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言われ、閉ざされてしまします。つまり携挙されず、残されてこの後に来る大患難時代に信仰の証しをすることになるのです。
 現在は終末は近く、教会単位で携挙されると思いますが、フィラデルフィア教会においてすら全員ではありません。ですから残されて、「外の暗やみで、泣いて歯ぎしり」しないよう、以下の3点を心がけたいと思います。
 マタイ24章後半から、「任された使命を忠実に、裏表なく、誠心誠意仕え、全うするしもべ」となりましょう。与えられた召しを全うしなければなりません。
 次に「聖霊の油を絶やさない」でいた乙女のように、臨在を求め、早天などで常に熱心に祈りましょう。神を愛する者は常に神と交わることを一番にします。聖霊の支配、臨在を常に求めましょう。
 三番目に自分の考え能力ではなく、主に聞き従い、賜物を用いることです。タラントの喩えとは、生来の人の能力や結果だけで評価されないことです。主に聞き従い、主から与えられた賜物を用いて行う聞き従いが重要です。
 携挙されるためのこの三つを、私たちは切に祈り求めるのです。

2014年12月14日 (日)

天国は本当にある

コリント4章18節 
 聖書のここで言う「目に見えるもの」とは、例えば人が最も大切にするご自分の「命」だとしましょう。しかしそれすら、実は滅ぶべき肉体の、一時的なものに過ぎません。しかし目に見えない「霊のいのち」は、滅ばない永遠のものです。滅ぶ血肉の命は、その霊の命を得るための、一度きりの機会として存在します。それゆえ永遠の霊のいのちは、この世の何ものにも勝る、はるかに高い価値があります。

 しかしこれまで神に逆らってきた悪霊は、自分が存在することも、永遠の霊のいのちが在ることすら、巧妙に隠してきました。みなさんが、目に見えるものしか信じないように、死んだ後は無、つまり何もないかのように、騙してきたのです。その結果、かなりは成功することになりました。ですから神を信じる、つまり「霊のいのちを知り、得る」ことは、実際的な戦いの最前線なのです。

 

昨日(14日)から渋谷で公開されています映画に「天国は本当にある」があります。アメリカの牧師「トッド・バーポ」とその4歳前の息子コルトンの実話です。コルトン少年が虫垂炎穿孔(化膿した盲腸に穴があき、腹腔中に膿を拡散)で生死の境をさまよいます。一時的にも死にはしなかったのですが、回復した少年は確かに天国に行ってきたことを家族に話し始めるのです。それは牧師でありながら、幼い息子が語る内容は、それを考えてもみなかった父母にとって衝撃的な内容でありました。
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 一つだけ引用しますが、手術室に運ばれていく愛息コルトンが「パパ!パパ!連れてっちゃ、だめ!」と叫ぶのですが、どうしてやることもできないトッド牧師は、その怒りを神にぶつけます。かろうじて個室に駆け込んで「いったい神はどこにいるのです?これがあなたに仕える牧師への仕打ちですか!あなたに仕えることは、それでもまだ、価値のあることなのか?」と激しくわめき当たり、叫びまくります。だれでもちょっとでもそれを見たら、もう二度とその教会へなど行く気にならないほどに。

 しかし事実は、神の息子イエス様が(本当の父が)、その時コルトンを膝に抱き、牧師の叫びに応えて、「おとうさんの所に返す」ことをされていた時だったのです。少年は天からありのまま見たことを父に伝え、父は仰天します。みなさん、神は生きておられ、私たちの祈りと叫び、そのすべてを見ておられ、聞いておられるのです。これは恐るべきことであり、かつ真実なことです。神は生きておられ、信じて悔い改める者には、永遠のいのちを与えられるのです。アーメン

2014年12月 7日 (日)

ハデスから

Ⅱテサロニケ 1章7~10節

 本日は通称天国と地獄と呼ばれるところからのメッセージです。
 まず言葉の整理をしておきましょう。天国とは新改訳聖書において、地上のエルサレムではなく単に「都」とか「神の国、あるいは神の都」、「天のエルサレム」と呼ばれているところです。地獄とは「ゲヘナ」とか「火の池」と呼ばれるところです。
 これと混同しやすいものに、よみ(黄泉または陰府と表記)と言われている「ハデス」があります。このハデスは天国と地獄が完成するまでの一時待機所のような存在です。ハデスは信者が死後行く「アブラハムのふところ」と、不信者が行く「苦しみのハデス」の二層構造となっており、間に深い淵があって、行き来できないようになっています。苦しみのハデスはまた、「外の暗やみ(マタイ22:13)」とか「火の燃える炉(マタイ13:50)」とも呼ばれています。ハデスは最後の審判が行われると、それぞれ天のエルサレムとゲヘナに移行して、終わりになります。

 さてもう少し具体的に見ていきましょう。ハデスはすでに旧約に在ったところです。ところがイエス・キリストが再び天に戻られた時から、ハデスのアブラハムの懐は天に移行したようです(エペソ4:8、ヨハネ14:2-3、マタイ11:12)。また「苦しみのハデス」の方ですが、こちらはその後も千年王国が終わるまでずっと残り続け、最後の審判によって、ゲヘナへ移行してやっと無くなります。つまり不信者の審きは、一度だけ、最後に行われるのです。そこでは、命の書に名前が記載されていない人すべては、その行いに報われる形での永遠の責め苦、ゲヘナに落とされるのです。ただゲヘナそのものは、キリストの再臨の時にはできておりました。キリストの再臨の時、反キリストと偽メシアの二人がこの時すでに、ゲヘナに投げ込まれたからです。

 さてもう一度整理しておくと、天国はキリストの初臨から始まったこと。御霊の体はキリストの空中再臨からで、この結果天国は、霊体から血肉とは異なった体を持つ段階に入ったこと。この後の地上再臨は、主として信者の居なくなった地上の審きのためのもの。この後の千年王国時代は、それまでのサタンの支配が終わり、神の霊と殉教者たちが王となり、すべての聖徒が支配する時代となること。しかし最後にはサタンが放たれ、残った者すべてが試みを受けるようになること。最後にサタンが再び解き放たれ、その後、最後の審判が来ること。最後の最後に天のエルサレム(天国)が、着飾った花嫁のようにこの地上に降りてくること。

 今生きている私たちは、これらのことを理解した上で、それぞれの使命を果たしつつ、なんとしてでも天の御国に行くことを願い求めましょう。自分の力ではなく、神によってあわれみを受ける者は幸いです。 

2014年11月 9日 (日)

羊と山羊

 ローマ人への手紙  1章20節

 この度、ガリラヤ湖からエリコへ、そしてエルサレムに上る途中、羊と山羊の群れを見る機会がありました。特にエリコで山羊の群れに遭遇した時は、みなさん山羊の行く手の道いっぱいに広がって撮影し、山羊たちの進路妨害をしてしまいました。困った山羊の群れは、最後尾の少年のヒューという合図で、我々の横、すこし崖があったのですが、そこを斜めに降り始めました。山羊の群れは一斉に崖を駆け降りたのですが、降り方は様々でした。勇敢にまっすぐ直下した山羊、できるだけ迂回して安全に降りようとした山羊など。

 この後、バスの車窓から、今度は羊の群れを見ることもできました。羊は山羊とは異なって一列縦隊で、決して列を乱すようなことはありません。そしてそれぞれの判断で行動するということはないようです。山羊の群れでは山羊飼いの少年は最後尾でした。しかし羊では必ず先頭に羊飼いがおり、その羊飼いが止まれば群れは止まり、動けば動くのです。羊は飼い主に忠実であり、山羊は自分で判断で行動するのです。昔からこの地方では、羊も山羊も一緒の群れで飼うことが多いとのことでした。
 31節には「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき」とありますが、これは再臨のキリストのことです。32節によりますと、すべての人たちはキリストの前に集められ、キリストは「羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置き」とあります。

 この再臨の時まで、みな一緒にキリストに従って来ていたように見えたとしても、ここで各々その種類に従って左と右とに分けられるのです。左と右とでは天と地ほどの違いがあります。左は「天の御国を継ぎ」、右は滅びのゲヘナに落とされてしまうからです。その違いとは羊と山羊の違い、つまり神に忠実であったか否かなのです。

 さらにこの忠実さについて、イエス様が説明しておられます。忠実な者とは、最も小さい者の一人にしたことであると。つまり酬いを求めず、良きサマリヤ人のように、親身になって愛を施した者のことであると。その人は当然のことをしただけなので、それで自分が義とされるとは思ってはいなかったのでしす。

 逆に神の目から見れば、たとえ素晴らしい業績をあげ、どんなに目ざましい働きをしたとしても、天にふさわしくない者もいるのです。謙遜を忘れて高ぶり、神に栄光を帰せず、己を義としているからです。ここで天に入れると思っていた人が入れず、入れないと思っていて入れるという、逆転が生じるのです。

 みなさん、ポイントは忠実さです。私たちは羊のごとく神に忠実な者であらねばなりません。自分の人生は自分のものだと、ついぞ思ってはなりません。十字架で身代わりになってくださった神のものです。常に神に聞き従って自分は歩んできたのか、あるいは自分の考えやしたいことに従って歩んでいたのか、吟味し続けなければならないのです。
  神の声に聞き従う羊に徹し、必ず神の御国を受け継ごうではありませんか。

2014年9月14日 (日)

神の国はあなたがたのただ中にあるのです

ルカの福音書 17章21節  
聖書のルカ伝で繰り返し強調されている(=重要な)ことに、「神の国」があります。神の国とはどういう所でしょう?聖書の黙示21章によると、私たちは神の家族のようになる所です。ずっと共に居るだけでなく、住まいまで一緒です。そこでは私たちの目の涙も完全に拭われ、死も悲しみも、叫びも苦しみも無い・・・つまり人間的な煩いから解放された世界です。何と言う素晴らしい所でしょう!一刻も早く行きたい国、所です。

 しかし神の国とは、今の血肉の体ではなく、霊と御霊の体で行くと聖書にあります。そうであれば、すでにこの世において新生したクリスチャンには、霊的には「神の国は、(すでに)あなたがたのただ中にある(ルカ17:21)」と言えるのです。
 さて問題は如何にして神の国行きを実現するか?です。まず必要なのは神の国へのパスポートです。そのパスポートとは十字架と復活です。確かにそれらを信じていれば入国はできますが、入国してから、実際にはその国の通貨やホテルがなければなりません。これはさしずめ天に宝を積むことや、イエス様が用意してくださる住まいであると言えるでしょう。

 ルカ伝でもう一つ繰り返し説かれていることに「謙遜」があります。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされ(14:11,18:14)」、「自分を義人だと自認し(18:9)」、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ(18:15)」などです。  これらの例から、神の国に住む人とは、謙遜という特性を持っている人でもあるようです。天に宝を積む、それはこの世において、例外無く神から厳しい試練を与えられた人です。そうでなければ到底、己の力では望めない特性です。ヨブのような理不尽な試練、これは特別な神の祝福であることがわかるのです。神から愛されるとは、同義語で試練なのです。

 さらに言えば、この謙遜は実は次第に失われ、いつまた高慢への道を歩むかも知れません。謙遜を終世実現させる最大のポイントは、「自分の十字架を負って従って(ルカ9:23—25・14:27)いけるかどうか」です。パウロには三度も神に願ったという、肉体に一つのとげがありました(2コリント12:7-8)。このとげをパウロは、「私が高ぶることのないように、私を打つためのサタンの使い」と言っています。負わされた十字架、それが私たちを滅びから救うのです。こうしてみると、神が為され、許されることに、悪い事は何一つありません。

 自分の罪深さを常に悔い改め、むしろ弱さを誇り、ゆるされた十字架を負い続ける忍耐こそ、神の国での豊かな富と、立派な住まいを保証するものです。このような永遠の国の希望こそ、真にこの世での生きる、私たちの希望であり力です。またそれは、必ず手にする勝利の冠であります。

2014年4月27日 (日)

神の奥義・・・キリスト、栄光の望み

コロサイ 1章25−27節

「神の国の奥義」とは何でしょう。奥義という言葉は日本語では最も奥深い大切な事柄、英語ではMysteryと言っています。ミステリー小説のミステリ−で「隠された」という点は同じです。何が隠されているのでしょう。神の真理が隠されているのです。クリスチャンでありながら「神の国の奥義、Mysteryを知らない」でいるのは、よほど関心が無いのでしょうか。この世のすべてに優る宝ものなのですが、実に勿体ない話です。

 この「奥義」とは具体的には携挙の際に与えられる「み霊の体」です。1コリント15:51−52に、奥義を告げるとして「ラッパが鳴ると(一瞬のうちに)、死者は朽ちない者によみがえり、私たちは変えられる」とあります。これは黙示録10:7における第七のラッパの音と同じものです。
 み霊の体は、携挙の際、天井や屋根を通り抜けるためなどと理解されていますが、実は雲の上で主とお会いするための神から賜る栄光の体です。なぜなら「血肉のからだは神の国を相続できない(同15:8)」からです。神の国を相続する私たちは、み霊の体に変えられる必要があるのです。

 この奥義をより正しく言うならば、私たちが神の民となり、神ご自身と共に永遠にいることです。それは神の国における新しい聖なる都エルサレムが、夫のために着飾られた花嫁のように整えられて、神の御許を出て、天から下って来ます(黙21:1−3)が、まさにそこに住まうことを意味します。これこそ神が秘められていた(Mysterious)神の計画=奥義です。神の栄光がこのエルサレムの光となり、み霊のからだを与えられた者は光の子としてエルサレムに住まうのです。

 では具体的には私たちが携挙されうるような、新生したクリスチャンになれるのでしょうか?この類いのことは徹頭徹尾、神の主権に属するものです。が、時に閃光のように直接神を体験した事例を通し、私たちは新生の一端を知ることができるのです。
 岡村ケン牧師は、140キロの自殺的スピードの中、「Go to the Church!」の大きな声を聞きました。車を止め、直前に通り過ぎた教会の祈祷室に入りました。やがて祈祷室から出てきた彼は、入った時の彼とは全くの別人、神への献身者となりました。パウロもダマスコへの途上で光に打たれ、「あなたが迫害しているイエスである」と神の声を聞いた時、全くの別人、サウロからパウロになりました。これらに共通しているのは、神に敵するものであったのに、神に触れられ、驚き、悔い改めて180°方向を転換し献身者となりました。
 これらは分かり易い例ですが、劇的かどうかというより、大切なのは神を体験し、新しい人として生まれ変わって主のしもべとして生きるようになったという実であり、実質です。「聖霊の証印」とも聖書では言われています。その人生こそ、神の栄光であり、奥義なのです  ケパ

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