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神の国

2019年11月24日 (日)

神の国はあなたのただ中にある

ルカ 17章20-21節   【新改訳2017】
パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

 この「神の国はあなた方のただ中にある」と言う言葉は私がごく若い時から大好きなところでした。ただ頭では理解できていても、実際には意味不明な難解なところでもありました。皆さんでも、<ただ中>ってどこだと思われますか?
 水のバプテスマを受けると、聖霊が内住されることはわかります。しかしながら「神の国は、この中のどこのにあるんだ?」と自問自答が残るんですね。頭の中?いやハート??の中?とか。何となく漠然とした理解、把握のままではないでしょうか。

 ところで今回、そんな風に具体的なところばかりを考えているうちは、絶対にわからない(笑)ことが示されたのです。というか、それで納得したのです。神の国とは聖霊様の居られるところです。私の此所(ここ)、とか、あそこに、ではないのです。では、聖霊様は内住していらっしゃるはずですが、私のどこにいらっしゃるのでしょうか?

 たいせつなことは、聖霊さまはわたしのもの、所有しているものではありません。この罪深い者が罪に気づき、悔い改め、この私を十字架で愛してくださり、罪を赦してくださって聖別された上で、聖霊さまが私の中に入って来て下さります。そしてその方に私は私自身を献げ、私の首座にすわっていただく時はじめて、神の国が私のただ中に現出します。

 つまり私は神の国は、私たちが祈りを通し、神を求める心の中に、その応答として聖霊様との交わるうちにできている、と理解できます。それで神の国を私たちが求めても、なかなか得られないのは、おそらく「本気で求めていない」ためです。

 神さまは神さまの御人格をお持ちです。わたしたちがたとえどんなに幼かろうと、真剣に神を求め、心から呼ばわるなら、神は必ず答えてくださります。しかしその逆に、祈ったとしても、それはただ「自分の望んでいること」だけの答えしか期待していないような祈りとか、ただ習慣と惰性で祈っているならば、それは答えられないのです。心の王座を明け渡していなければ、そのような結果になります

 ですから神の国はどこにあるのか? それは信じる者の心の中にあるのではなく、正しくは現れるものです。自分のもののように理解してはいけません。ですから問題は私たち側にあります。試練や困難を通し、私たちが心からの自分を明け渡し、献げるように導いておられるのは、この恵みの場に招きたいがためなのです。そして私達が心の奥底から求めるなら、神の国は私たちのただ中に、確かに見出されていくでしょう。

2019年11月17日 (日)

永遠のいのち

ヨハネ 12章24-25節  【新改訳2017】
まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

これはある老人施設での利用者たちの会話だそうです。「いろんなことが不自由になった。家では家族に迷惑をかける厄介者だ」「早く死んでしまいたいのに、自殺も出来ないし」。
かつては社会の一線でバリバリ働いておられた方たちでしょうが、この会話が実情です。

私たち人間が、血肉の体だけでなく、霊的な存在でもあること、目に見える結肉の存在が実は霊的な、つまり永遠の世界の前段階に過ぎないことを、もしこの方たちがご存知でしたら、こんな会話には決してならなかったはずです。

実際、世での希望を失いますと、人は普通、光を失い、生けるしかばね状態になります。私も五十代のはじめにそれを体験しました。家族を失い、出世を諦め、介護していた母まで施設に入ってしまうと、「壊れていく」自分がありました。人間は心で生きている、人と人との支え、関わりで生きている、それは失ってみないとわからないものでした。次に来るのは虚しさ、自己破壊の願望です。

しかしほむべきかな、私たちクリスチャンには永遠のいのちへの希望があります。たとえ世での希望や伴侶や親族を失っても、ますます希望が強まり、光り輝くのです。ダニエル書(ダニ12:1-2)を見てみましょう。人はよみがえって、永遠に天国かゲヘナのどちらかの国に行くことを、旧約の人であるダニエルははっきり知っていたのです。

本題に入りましょう。イエス様に、ある富める若人が「先生、何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことが…」と質問したのは当然です。義になる行いだけでは、隣人愛を行う力が無いからです。十字架による愛がなければ、人は自分を救うことも、他者を愛する力も得られないからです。

さて、永遠のいのちはどのようにして得られるのでしょうか?もちろん、主イエス様の十字架を信じることです。しかしそれと同時に、本当に信じていなければなりません。髪の毛の数さえ数えられている神を、人がごまかすことは全く不可能です。本当に信じることとは、代価を払って買い取ってくださった神の愛に、自分の全てを差し出すことです。「一粒の麦、もし死なずば多くの身を結ぶべし」とはこのことです。死ななければ、本当に信じたことにはならないのではないでしょうか?

皆さん、それも自分の力ではできないことです。ですからクリスチャンとは絶えず、そのことを神に祈り求め続ける存在なのです。つまり祈る人、それが私たちの永遠のいのちそのものだと言っても過言ではないはずです。

2019年3月24日 (日)

新しい天と新しい地

黙示録 21章1節      新改訳2017
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 ベストセラー本「天路歴程」のように、何とかして私たちは天国に行くかということに腐心していたと思います。考えてみますと、天国がどんなところかもよく知らずに、ただ「行きたい」「行きたい」では少しおかしくないか、と気づきました。

では天国ってどんな所でしょうか。それは人間の想像を超えた素晴らしい所です。黙示録21章には次のように描かれています。千年王国が終わって後に、最後の審判があることを私たちは知っています。その後、今のエルサレムの上に天から着飾った花嫁のように天のエルサレムが降りてきます。一辺が2200kmある広大な都市、十二の門があるたとえようもなく美しい都です。この地上はもはや太陽も月もなく、夜がありません。なぜなら都には神の栄光が満ち、子羊キリストが明かりだからです Photo_1thumb2 。都には一切の陰、闇も無いと私は想像しています。

なぜなら「神は私たちの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」(黙21:4)とあるからです。これはどういうことかと申しますと、サタンの陰、一切の罪が無い世界であり、それにふさわしい暗い所はないのです。24時間、永遠に明るく、住まいにも暗い所はありません。あるとしたらそこは地獄という火の池でしょう。

なぜ無いのかというと、まず第一に私たちが変えられた御霊の体は朽ちないということです。ですから朽ちる体の時のような眠ること、入浴すること、着替えの個室も要らないことになり、従って目隠しするプライベート空間が必要ないことです。次に黙示録から散見される世界、例えば御座の周りが水晶に似たガラスの海のようであったとあります。私たちの知らない素材が天国にはあり、各人が自分の務めを終えて自由に過ごせる家があるとしても、これまでのような照明器具の要らない、光を通す透き通った素材でできており、隠す必要の無い空間であると私は想像するのです。

天国は素晴らしい所です。今のような血肉の体がある時とは全く異なって、血肉の体と共に霊、たましいまでも本来のものに神は造り替えてくださっているのです。わたしは天国のことを思う度に、胸が焦がれるような熱い希望を持ってしまいます。天国は現実の存在なのです。みなさん、命ある限り、天国を目指してひたすら歩きましょう。

2019年2月17日 (日)

罪の奴隷から義の奴隷

ローマ 6章13-14節     【新改訳2017】

13 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。
14 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。

私は祝福されています。感情も霊という心がいつも神によって守られ、平安です。神の愛が私を包んでいるからです。また、私は死ぬことも益であり、天の御国を待ち望んでいます。私は自分の罪とその深さを知らされたからです。いのちに代えてご自分の羊を守ってくださった神のものとなる、これほど幸せなことはないのです。
しかしこの神のものになるということは、神の所有物=奴隷になると言うことです。サタンは強制的に人を縛って虜にしますが、神は決してそうなさいません。徴兵制のサタンに対し、神は志願制だからです。古来しもべとは、奴隷とあまり差がありませんでした。主人に命を捧げてみ心に従うこと、「自分に死ぬ」と言うことは、このことを指しています。

どんなに長くて人生百年もある人は珍しく、私を含めて遅かれ早かれ数十年したらみなさん肉体の命は終わります。そして行くべき先は神の国か、それともゲヘナという地獄のどちらかしかなく、グレイゾーンというか、その中間はありません。どんなに若くても、明日の命が知れないのです。信じる人は今すぐ信じましょう。
さて、神のものとなるのは志願制だと申し上げましたが、志願したくてもなかなか自分の力でできるものではありません。決め手は自分の罪深さを知ったからです。希望を神の国に見出したからです。 自分を守り、価値があると思っている間はできませんでした。
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右の図での「悔い改め」とは、自分を捨て神に自分を捧げることで、右側の人々、神を自分のために使おうとしてはならないのです。
罪がわからないとそのような悔い改めはできません。ですから神に愛されている人には、試練が許されるのです。これは神の愛です。

自分の力でできないからです。その結果、罪がわかる人はなんと幸せな事でしょうか。神を知っていなければ絶望して自殺するしかありませんでした。しかし幸いなことに神とその愛を知っているならば、神に希望を見、神の愛に自分を捧げたくなって仕方がなくなります。これが志願です。自分の命以上に神を愛するからです。なぜなら神は光であり、神には真の自由があり愛、喜び、平安があるからです。神の奴隷となり、神のものとされるということは何という恵みでしょうか。

神を信じている方で、いまだ神のものとされていない方がいるならば、それは惜しい、あまりにももったいない。「at Hand」、すぐそこに恵みがあるのに、未だに罪の奴隷のままであるということです。そのことは自分のと自分の内側を支配するものがなんであるか、ということで明らかです。

悔い改め、ともに神のものとならせていただきましょう。

2018年4月 8日 (日)

私たちは待ち望んでいる

ピリピ 3節20節

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

「私たちは待ち望んでいる」
 創造主が六日間で造られた天地万物は、人までも含め「見よ、それは非常に良かった(創世記1:30)」と言われた世界でした。ライオンや狼など現在の肉食獣もすべて草食でした。あらゆる動物が敵対せず、平和に共に暮らしていたのです。
 ところがアダムたちが罪を犯したために、地はのろわれ(創3:17)、額に汗して働かなければ地は実を結ばず、生き物には弱肉強食の世界になってしまいました。「のろい」という言葉は、日本では「たたり」とか「怨霊」のような意味合いで使いますが、聖書的には「罪の結果、または罪を犯し神の祝福を受けられなくなった」という意味になります。こののろいの世界とは、神の計画では魂を収獲するための暫定的な期間であって、それが今なのです。

 イエス・キリストという最後のアダムが罪というのろいから解放する「生かす御霊」となるため、世に下って来られました(1コリ15:45)。肉は滅びますが、御霊は永遠です。このイエス・キリストの十字架の死と復活によって、御霊が内住し、死は永久に追放されました。この解放は食事に端的に反映されました。当時も今も、ユダヤ教では食べ物に制限がありますが、キリスト教では食べ物のすべてに制限がありません。神がすべて食べて良いと、のろいから解放してくださったのです。

 このように神を信じていても、キリストを信じ受け入れていなければその恵みにあずかれません。三位一体の神を否定する異端は大なり小なり、のろわれた規定を守っています。キリスト以降、最後の審判までは、世は信じる者と信じない者とが混在する世界であり、そののろいが完全になくなるのは、キリストの空中再臨後の神の国であり、完全になくなるのは最後の審判後、地上が神の国になる時からです。

 クリスチャンは神の国を、今か今かと待ち望んでいます。のろわれるものが何もなく(黙22:3)、死も叫びも悲しみもない(黙示21:4)永遠の世界です。神が創造された「非常に良かった」世界の、さらにグレードアップした素晴らしい世界をです。

 この視点から、今私たちがいる罪というのろわれた世界をみたらどうなるでしょうか。確かに血肉の体がある困難な状況ですが、それにも関わらず私たちはのろいから解放される十字架の特別な恵みを受けました。そして罪を犯し続けることもできましたが、その中から神を選んだ故、その選択がなかった天使たちよりも、人である私たちがさらに高い位、神の子とされる特別な恵みを与えられる約束があります。私たちはとんでもない大きな恵みにあずかる約束の中にいると言うことがわかります。これは絶対に、血肉の命に代えても手離してはならないものです。

2018年4月 1日 (日)

神の国は何処に

ルカ 17節21節

『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

 
神の国、天国とも言いますが、それはどこにあるのでしょう。多くの人は天、空の上にあると思っています。現代の空の上には、人工衛星や国際宇宙ステーションが飛び交っているのです。キリストの再臨ではドラえもんの「どこでもドア」のように、エルサレムはオリーブ山の上空の、とある空間がパカッと開いて、そこからイエス様と主の軍が降りて来るのかも知れません。ところが神の国は「ここにある」とイエス様ご自身が明言しておられる所があります。パリサイ人たちが考えもしなかった所、信じる人の心の中にです。これを聖霊の内住と申します。

 クリスチャンなら「聖霊の内住」を誰でも学んでいます。しかし、実際に聖霊のバプテスマの体験や、神の語りかけを受けたことがなければ、内住は単なる知識の一つです。実際、私は福音派に三十年居て、時に神を感じ、霊の躍動を感じはしても、「みこころを行う」「聞き従う」という聖霊の生きて働く信仰など聞き及びもしませんでした。また祈祷会をしても、祈りが答えられるということなど、期待もしないで続けていました。

 イエス様は「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る(マタイ7:21)」とハッキリ語っておられます。ではクリスチャンでもみこころがわからない人は天の御国には入れないのか、と言うことですが、ここでの天の御国とは天のエルサレムのことであって、天国に行けないという意味ではない、最低でも諸国の民にはなると私は思っています。ただ天のエルサレムの門の中に入れるよう、祈り続けて行くことだと思います。

 さてクリスチャンは、聖霊様が内住されているのですが、最初はビギナーズラックというか、すごく語ってくださったり、祈りを聞き届けてくださる段階があります。しかしそれが時間と共に薄れて行って、やがて聞こえなくなったと、がっかりする人を見受けます。しかしそれは、神様がその人を立て上げようとしておられるのです。子どもが少し成長し、ある程度聞き分けられるようになったら、自律できる人間となるために、我慢することや、何よりも聞き分け、従うということが大切です。自分の肉の心を見分け、父のみこころを行いたいという心を、神は試練を通して育ててくださるのです。

 ですから許された試練は、すべてが最終的には益となりますので、私たちはすべてを感謝するのです。教会も会堂が開かれるという段階があり、今現在、会堂をたたむという段階にありますが、これら一つ一つが益に変えられて行き、大きく成長する土台になって行くのです。みなさん、感謝です。

2017年10月15日 (日)

復活・御霊のからだ

Ⅱコリント  3章18節
だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。

「わたしたちはみな」「栄光から栄光へと」「主と同じかたちに姿を変えられ」とこの節はありますが、これを他の言葉で言い換えると「御霊のからだ」「復活のイエス様と同じからだ」ということになります。聖書は私たちの血肉の体が終わったり、または生きながらでも、再臨のキリストとお会いする時にこのようなからだになっていると繰り返し語っています(参照⇒Ⅰコリ15;l20、1コリ15:23、1コリ15:44)。「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされる」のです。
 
つまり私たち自身の中に聖霊なる神の宮があるだけでなく、それは朽ちぬ御霊のからだとなって神の国に永遠に住むと聖書は言っているのです。私たちは実際に神が生きて働いておられることを現実に祈りや神のわざ……・いやし、しるし、奇蹟などを通して体験しています。ですからこの神の約束は、間違いない事実であることを知っているのです。
ところでプロテスタントの諸教会には、私たちのような聖霊さまへの態度と異なって、いやしも奇蹟もまったく信じない教会があります。三位一体の神を信じるという点は同じなのですが、残念ながら聖霊の働きがわかりません。わからないゆえに、私たちを「熱狂的」とか「おかしな教会」だと聖書ではなく自分の目で批判しているのです。私自身が二十年以上、そのような教会に居たのでこれは間違いありません。その私がこのような信仰へと導かれたということに、神の計画と大きな使命を感じさせられています。
 
私たちは血肉の体がある間に、何をしなければならないのか知っております。主に聞き従って、み心を行うことです。私たちが再臨の主にお会いした時、タラントのたとえ話が再現されることでしょう。タラントの額はそれぞれ異なっても、<聞き従って与えられた賜物を用いる>ことで主から同じお褒めにあずかるのです。ですから聞き従う教会である私たちの群れに導かれたということ、これは特別な恵みであると私は考えます。
 
どうかみなさん、御霊のからだで住む天のエルサレムを一緒に祈り求めましょう。天のエルサレムで一緒に神様の元で永遠に暮らしていきましょう。黙示録21-22章で天の御国の素晴らしさが描かれています。この教会にはその恵みにあずかる祝福があるのです。

2016年8月28日 (日)

自分の胸をたたいて

ルカ 18章10~14節
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
 
今の私たちの血肉の体と命には、創造の目的があり、聖書が答えています。永遠のいのちを得る為です。この永遠の命は、御霊の体として存在し、フワフワとおばけや霊のままではありません。復活のキリストと同じです。
 つまり今の老化し、滅ぶ体から滅ばない永遠の体へ。その体は食べ・眠って・運動を普段にしなければならない今の制約から解放されています。壁や遠方などの物理的な制約もありません。滅ばないので男女の性は不要ですし、生存や所属などの社会的欲求からも解放されています。血肉のごく短い命のある中での選択が永遠の行方が定めるのです。
 
 さて、本題のパリサイ人と取税人の祈りに話を戻したいと思います。二人とも天国に行きたい人たちです。パリサイ人は社会的には上位の暮らしをしており、宗教的に熱心で律法を忠実に守り、人々から尊敬され、まっ先に天国へ行ける人だと思われていました。
 取税人は今の税務署の職員とは全く異なります。ローマへの税をプラスαして私服を肥やす、憎きローマの占領支配、そのお先棒を担いだ売国奴であって、道徳心のない罪人だと見られていました。全く対照的な二人でした。
 
 しかし神の目は人と異なります。パリサイ人が取税人を見下したのに対し、その取税人は胸を叩いて罪を悔い、神のあわれみを求めて祈っていました。パリサイ人がどんなに律法を守って行いに励んでいたとしても、それは枝葉末節の部類であって、最も肝心な律法、愛を失い高ぶって裁いていたのは明白です。神はどんな罪人であろうとも、悔い改めてあわれみを求める者に目を留められます。これは聖書(マタ9:13等)にある通りです。神は愛だからです。
 
  今の血肉の体があるのは、この間に私たちが永遠の命を求めるため、得るためです。そして得たのであれば、何よりも神の御心が行うことです。そのためには祈りの人でなければなりません。そのために主は十字架にかかり、罪を赦し、聖霊を私たちにくださいました。血肉の体を持っていたとしても、今や聖霊が私の人生の主なのですから、絶えず祈りによって聖霊様を心の王座にお迎えし、聞き従わなければなりません。さらに聖霊様は力ある方ですから、九つあるその賜物によって、御自身の計画を進めて行かれます。
つまり、血肉の体がある真のクリスチャンは、この世での神の働きを共にする者となります。神の愛を運ぶ器とさせられ、その栄光を現す存在となるのです。
 

2015年10月 4日 (日)

泣いて歯ぎしりしないため

マタイ 24章22節 
もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。

この聖書箇所を読むと、大患難時代が来る前にクリスチャンは携挙て守られる、そう理解できます。教会の中には、携挙を語らない教会があります。これは大きな間違いであり、聖書(Ⅰテサ4:17-18、1コリ15:51-57)では明白にこのことを語っています。私たちはこのことをよく知って、「目を覚まして」備えて置く必要があるのです。

 また携挙のことを語っている教会で、クリスチャン全員が携挙されると説く教会があります。
Ⅰコリ15:51で「私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられ」という<みな変えられ>を根拠にしています。しかしこれは、聖霊の油を切らさないすべてのクリスチャンであって、クリスチャンの皆ではありません。
 なぜでしょうか。それはマタイの24,25章があるからです。ここには三つの喩えが出てきます。その中の一つ「十人の乙女」の喩えですが、十人とも油の灯火は持っていました。つまりかつては聖霊によって輝やいていたクリスチャンでした。しかしそのうちの半分は(実際には割合は不明です)油を切らしてしまい、買いに行っている間に花婿、つまりキリストが来て、灯火を灯していた五人を連れて祝宴に入ってしまいます。これは「携挙」です。Img_7071
 油が切れてしまい、買って戻ってきた五人の娘はどうなったでしょうか? 『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言われ、閉ざされてしまします。つまり携挙されず、残されてこの後に来る大患難時代に信仰の証しをすることになるのです。
 現在は終末は近く、教会単位で携挙されると思いますが、フィラデルフィア教会においてすら全員ではありません。ですから残されて、「外の暗やみで、泣いて歯ぎしり」しないよう、以下の3点を心がけたいと思います。
 マタイ24章後半から、「任された使命を忠実に、裏表なく、誠心誠意仕え、全うするしもべ」となりましょう。与えられた召しを全うしなければなりません。
 次に「聖霊の油を絶やさない」でいた乙女のように、臨在を求め、早天などで常に熱心に祈りましょう。神を愛する者は常に神と交わることを一番にします。聖霊の支配、臨在を常に求めましょう。
 三番目に自分の考え能力ではなく、主に聞き従い、賜物を用いることです。タラントの喩えとは、生来の人の能力や結果だけで評価されないことです。主に聞き従い、主から与えられた賜物を用いて行う聞き従いが重要です。
 携挙されるためのこの三つを、私たちは切に祈り求めるのです。

2014年12月14日 (日)

天国は本当にある

コリント4章18節 
 聖書のここで言う「目に見えるもの」とは、例えば人が最も大切にするご自分の「命」だとしましょう。しかしそれすら、実は滅ぶべき肉体の、一時的なものに過ぎません。しかし目に見えない「霊のいのち」は、滅ばない永遠のものです。滅ぶ血肉の命は、その霊の命を得るための、一度きりの機会として存在します。それゆえ永遠の霊のいのちは、この世の何ものにも勝る、はるかに高い価値があります。

 しかしこれまで神に逆らってきた悪霊は、自分が存在することも、永遠の霊のいのちが在ることすら、巧妙に隠してきました。みなさんが、目に見えるものしか信じないように、死んだ後は無、つまり何もないかのように、騙してきたのです。その結果、かなりは成功することになりました。ですから神を信じる、つまり「霊のいのちを知り、得る」ことは、実際的な戦いの最前線なのです。

 

昨日(14日)から渋谷で公開されています映画に「天国は本当にある」があります。アメリカの牧師「トッド・バーポ」とその4歳前の息子コルトンの実話です。コルトン少年が虫垂炎穿孔(化膿した盲腸に穴があき、腹腔中に膿を拡散)で生死の境をさまよいます。一時的にも死にはしなかったのですが、回復した少年は確かに天国に行ってきたことを家族に話し始めるのです。それは牧師でありながら、幼い息子が語る内容は、それを考えてもみなかった父母にとって衝撃的な内容でありました。
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 一つだけ引用しますが、手術室に運ばれていく愛息コルトンが「パパ!パパ!連れてっちゃ、だめ!」と叫ぶのですが、どうしてやることもできないトッド牧師は、その怒りを神にぶつけます。かろうじて個室に駆け込んで「いったい神はどこにいるのです?これがあなたに仕える牧師への仕打ちですか!あなたに仕えることは、それでもまだ、価値のあることなのか?」と激しくわめき当たり、叫びまくります。だれでもちょっとでもそれを見たら、もう二度とその教会へなど行く気にならないほどに。

 しかし事実は、神の息子イエス様が(本当の父が)、その時コルトンを膝に抱き、牧師の叫びに応えて、「おとうさんの所に返す」ことをされていた時だったのです。少年は天からありのまま見たことを父に伝え、父は仰天します。みなさん、神は生きておられ、私たちの祈りと叫び、そのすべてを見ておられ、聞いておられるのです。これは恐るべきことであり、かつ真実なことです。神は生きておられ、信じて悔い改める者には、永遠のいのちを与えられるのです。アーメン