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神の国

2023年4月 2日 (日)

死んでも生きる

ヨハネ 11章25節  2017新改訳

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。

「死んでも生きる」とは、死後四日経ったラザロをよみがえらせる空前絶後の大奇跡の直前、主イエスがマルタの信仰告白に対して語られたことばです。「死んでも」とは肉体の死を指し、「生きる」とは「御霊のからだ」の意味です。血肉の体をはるかに超える永遠の御霊の体のいのちが待っているのです。「老い」とは血肉の体への希望を断ち切り、この後に来る素晴らしい神の備えを告げ知らせる恵みです。それ故に今、血肉のからだである私たちが、老いを感謝して受け、次への希望に満ちて歩む、その証人でありたいと思うのです。
 折しも本日から「棕櫚の日曜日」が始まります。私たちに十字架によって罪の赦しを与え、死から永遠のいのちを与えるためエルサレムに入場された日に当たる日です。

 当然ですが、血肉の命のある間に、罪がわかり、悔い改めて十字架を受け入れなければ永遠のいのちと御国に入ることは与えられません。老いはこの肉体が永遠ではないことを教えてくれます。若い頃には、永遠に続くと思っていた命だったのですが、そうではないのです。神を信じない人は健康教室に通い、健康食品に気を使い、肉体の維持に涙ぐましい努力をされますが、所詮それは無駄な抵抗です。老化とその先にある死は、時間の長短はあっても、確実に万人に来るのですが、そんな話題は「不吉」として避けようとします。こんな長寿の歌があります。「70歳でお迎えが来た時にゃ、ただ今留守ですと云え。80歳でお迎えが来た時にゃ、まだ早いと追い返せ。」これはほんとど笑い話ですが、神を信じない人々の死への恐れをよく物語っているではありませんか。
 本日の聖句ですが、意外かも知れませんが、主はマルタのこの信仰告白を引き出すために語られたことばです。
「また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」✝ヨハネ11章26~27節
 このように神の聖なる力やわざは、「決して死ぬことがない」、これは血肉の命のことでなく、永遠のいのちへの信仰を表す告白のもとに現されるのです。私たちはクリスチャンと称していますが、もし一般人と変わらないで死を恐れたり、あるいは衰えていく老化に逆らい若さだけにこだわるなら、みこころを損なっていると言えるでしょう。現実だけを見、信じる者に用意されている天の御国を待ち望んでいないからです。クリスチャンとは、リアルに次のことばを信じ、そのように待ち望んで生きています。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」

2023年2月19日 (日)

貧しい人

マタイ 5章3節  2017新改訳

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

 これは私の記憶に残るマザーテレサの言葉です。「カルカッタの街に、八人の子を抱えてお腹を空かしている家族がいたので、お弁当を作ってもって行ったところ、その母親は押し戴いて喜んだ後、すぐどこかへ出て行きました。やがて戻ってきた母親は、『実は隣の家族も、このところ食うや食わずの毎日だったので、半分あげてきました』と言う話です。

 マザーは、この話をしてから、「貧しく飢えを経験した人には、他人の苦しみもわかるので、偉大な愛の存在です」と言われました。豊かな人々は貯め込み、惜しみます。しかし貧しい人は分け合い、惜しみなく与える、受ける喜びを知っているので、はるかに優っているのです。真の豊かさとは、このように、独占するのではなく、他人に与える心をもっている心を指すことに私も同感します。
 ハイディ・ベイカーも「多くの場合、貧しい人は与えてことはすぐに忘れ、受け取ったことは決して忘れない。貧しい人々は、単純に与えることを知っている点で、本当は富んでいる」と言っています。

 イエス様もマタイの5章3節、あの有名な山上の垂訓の冒頭「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」と語られました。
これはBlessed are the poor in spiritという霊的な貧しさ(=飢え渇き)という意味である。私はこの御言葉に接すると、<罪>意識が有るか無いかの大きな違い、それは神の選びと言ってもよいものであることを思う。すなわち、己の罪がわからなければ、救いを求める気持ちにならないし、悔い改めて救いの恵みを受けることができないからである。それゆえに貧しさ(poor in sprit)の幸いは絶大である。

 なまじっか金持ちであると、分け合い、与えることができない。寂しく孤立した人生、そのような意味で同じ<貧しさ>という言葉を使っても、真逆な意味なので明確に区別して受け取らねばならない。私たちが神に触れた体験を持つと、豊かさや財が肉の思い煩いとなり、またそのしがらみとして、天への霊的な妨害となり、敵対するものとしてわかるようになる。だから一刻も早く捨てなければと思うようになる。そして真の豊かさを得ようとするのである。このように貧しい人は、絶大な神の愛によってあらゆる面で実際には富んでいるのである。

2022年11月27日 (日)

素晴らしい天の御国

✝マタイ 6章33節   2017新改訳

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

 クリスチャンは皆、自分は「天国に行ける」と思っています。しかし天国がどんな所かはよく知らないまま、この世の生を終えてしまう人が多いようです。しかしそれは、未知の外国へ飛び込んで行くよりはるかに無謀です。タラントのたとえ話にあるように、天国はこの地上での生活の上に繋がっていますし、そこでの報いは、行った後からではどうすることもできません。地上での準備が必要であり、それにはきちんと知っておかなければなりません。その上で、私たちが行く天の御国がどんなに素晴らしい所なのか、それを知ることがこの世にある私たちにどんなに希望を与え、使命を熱心にさせることでしょうか。天の御国を知ることが私たちを大きく変えるのです。

 天国を知ることは「私は天国へ行った来た」類の本や映画からではなく、100%聖書から知るべきです。その聖書はなんと言っているでしょうか?
 聖書は最後の審判の時、血肉の命を終えた全ての人々は、よみがえらされると教えています。そして全ての人々は、いのちの書に従ってゲヘナと天国のどちらかに分けられます。聖書では「ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません」(マルコ9:48)とあり、死ねない体があるために永遠に苦しみ続けなければなりません。恐ろしい所です。

 しかし、以下に述べるように、天国は真逆です。
○一辺が2200Kmで城壁が宝石で飾られ、美しく広大な天のエルサレム
○太陽や月などの 天体が消え、地形が平に一変する
○聖所からの光りで闇のない世界
○苦しみ悲しみのない世界
○すべての動物は菜食に変わる
○聖所からいのちの川が流れ出て、その両岸には十二の木の実がなる
○御霊のからだとなって、老いず、食べることができ、移動が自由
○神への礼拝と賛美が絶えず、諸国の民は捧げものを持って礼拝しに来る

 天国はこんなに素晴らしい新天新地として聖書に描かれています。地上で使命(タラント)を忠実に用いた者は「よくやった」とほめられる。また住む所はあらかじめ備えられている。元々は罪深い人に過ぎない私たちですが、聖なる主と永遠に交わり続けられる所、そこが天国です。
 如何でしょうか。天国に比べれば、この地上での生活、世での大切なものなど、実に取るに足りないものです。よくクリスチャンの墓碑に「私たちの国籍は天にあり」(ピリピ人3:20)と記されています。確かに私たちの体はこの地上にあろうとも、目を天に上げ、天のために今を生きているのです。常に心がけましょう。そして祈りましょう。私たちは天国人であると。

 

 

 

 

2022年10月16日 (日)

もっと光を

黙示録21章22~26節  2017新改訳

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

 21章22節~25節からわかる事は、天から降った神の都では、神は光そのものであることです。これは私たちが「光の子ども」(エペソ5:8)だとされている裏付けでもあります。 

今週のある日、急いで仕事に行こうとした時、私的には軽い失敗をしました。黒いズボンに黒のソックスを選んだつもりだったのですが、職場に行って気づきました。ソックスのまま仕事をする職場だったのですが、ソックスが黒ではなくて、紺色だったのです。私的にはどうにもチグハグで合わなくて、気に入らないこと甚だしい。家でソックスが入っている棚はちょっと暗くて、紺も黒も同じに見えていたのです。

 暗くてよく見えないと、見誤って判断しがちです。これは信仰の面でも例外ではありません。光が信仰の中心なのです。クリスチャンの子どもたちは、光なので正しくないことを受容できず、世の闇の子どもたちの妬みの反発をかうのです。
 ところで私たちの神は光であり、わたしたちは光の子ども(エペソ人5:8)です。しかしクリスチャンと言いつつ、もし私たちの心に大きな闇があるのであれば、大きな問題です。その人には十字架の光が届いていません。つまり赦されていない罪が大きく残っているのです。サタンはその罪を大きく突いて再び支配しようとします。その多くの場合、肉のクリスチャンだと言ってもいいでしょう。

 ここでの闇とは心の傷であったり、大失敗や封印した過去の思い出したくない出来事だったりします。また、いじめを見ても見ぬふりをしたり、事実を言えば不利益になるため、自分を守ったりした数々のことを指します。そのようなことのすべては裁きの日に明らかにされるのですが、悔い改め、十字架の赦しの特権を行使しないのは不思議です。それは光が当てられず、己が闇で覆われていることにすら気づかさせなくさせられているからです。これは大変重要なことです。

 神を信じる者には聖霊が内住されています。しかし本当に聖霊さまが居られるのなら、その人の内に光が当てられて、闇が照らされ、もはや自分自身には希望がないことから、全ての罪を告白し己を神に燔祭の生贄として、自分を捧げることに戸惑いはないはずです。神はあわれみ深い方で、その献身を必ず受け入れてくださるのです。つまり自分に死ぬ=自身の解放であり、次のようなことが起こってきます。
本当に生かされていること、その喜びが溢れる。キリストの大使としての使命があり、生きる目的があること。これら人生を一変させるこれらのことが起こることを、<新生>といい、全て聖霊さまの働きの結果です。
 さあ、あなたも「もっと光を」受けて、神様の子どもになられませんか。

2022年8月 7日 (日)

永遠のいのち

ヨハネ 20章31節   2017新改訳
 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 ヨハネ伝の20章の最後に、神のことば(聖書)が真理であるとし、その真理は信じる人々がキリストを信じて、(永遠の)いのちを得るためだとしてある。※参照ヨハネ17:17また、御名を信じていのちを得た者は、神が守られるのでだれも滅びないともある。

 では、永遠のいのちとは、どういうものだろうか?少しそれを考えてみたい。
 すでに多くのクリスチャンが理解しているように、人はハイブリッドエンジンのように、肉体の命と霊のいのちの二つのいのちを有している。ただその違いは、肉体の命は死によって終わるが、霊的ないのちは滅びないことにある。滅びない霊のいのちであるが、肉体の命がある間、自分の罪にどう対処したかによって、千年王国の終わり、最後の審判で大きく行く先が異なってしまう。罪が残る者はゲヘナに落とされ、死ぬことも許されない永遠の苦しみにあうことになる。これは身の毛のよだつような苦しみの世界なので、心が滅んでしまう意味で、滅びの世界である。
 
 しかしキリストの十字架を真に信じる者は、十字架によって罪が赦されるので、審かれず、罪の無い人々の神の国で、神とともに永遠に生きることになる。そこにはもはや死も苦しみも悲しみもない。神とともに生きる永遠の喜びの世界である。ゲヘナとは正反対の光の場所であるが、ひとえに十字架の恵み世界である。

 ここに一つ問題がある。それは人の罪深さである。おそらく血肉の命がある間は、<私という罪性>が完全に消滅することは、はなはだ困難だ。しかし神からの試練・困難によって、自分がどれほど罪深い存在であって、神のみこころが結果的にいかに正しく、愛に満ち、信頼すべきものかを思い知るのである。それゆえ、人である自分の考えや思いより、神に聞き従うことが最善で、それを選ぶ者に変わることができる。それ故どんなに肉的な惑わしが来たとしても、神を信じる者は悩み苦しむかも知れないが、最終的には神のみこころを選ぶのだ。

 神は愛する者を訓練される。そして耐えた者は神の愛を知る。いやいやながらではなく、神を愛し、心から神のみこころを行おうとするのだ。これを新生といい、罪の勝利者となる。もちろん、神のみこころがわかるためには、試練や困難を通しての聖霊の注ぎかけ、聖霊のバプテスマを受ける事が前提になる。さあ主にある者は、どんな時でも心から神に感謝しよう。  

2021年9月26日 (日)

まず神の国を求める

マタイ 6章33節   2017新改訳

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

 この世の人々の天国と地獄の理解は、「帰って来たヨッパライ」の歌同様、まったく自分に都合の良いものです。しかし聖書で描かれている神の国(天の新しいエルサレム)とゲヘナが真実なのです。混同しないために下図で示します。ルカの16章では、最初、黄泉の世界は三つの部分に別れていました。その中の地獄的な炎の中で、金持ちが貧しいラザロを哀れまなかったが故に暑さで苦しんでいました。その彼がふと見上げると遠く上の方、天的なアブラハムのふところではあののラザロが居て、慰めを得ていたという話です。この両者の間には、深い淵があって、全く行き来出来ないのでした。しかしキリストの十字架の福音は、信仰によって完全に罪を赦されて行くので、下図のように黄泉が天的な部分である神の国パラダイスとして分離しました。Photo_20211002163001

 こうなると二つの世界は完全に別世界となりました。そしてこの時代十字架の時代の後、最後の審判が行われた後は、それぞれに滅びない体が与えられるのですが、新しいエルサレムでは悲しみも苦しみもない栄光の神の民として、一方ゲヘナでは永遠に苦しみ続けるための体として与えられるのです。ですからこれはまったく正反対です。
 ただし天のエルサレムには臆病な者、不信仰な者、偶像を拝む人などは入ることができず、キリストを信じることを告白していても、火と硫黄のゲヘナに行くことになります。

 さて天のエルサレムとはどんなところでしょうか。それはとにかく素晴らしいところとして主に黙示録21、22章に描かれています。一辺が2,200kmの信じられないほどの巨大な城郭都市で天から降りてきます。太陽や月がなくても、もっと素晴らしい絶えない光が神の御座から光り輝き、街や周辺全体を照らしています。いのちの水の川が中央から流れ出て、その川のほとりには月々に変わる木の実がなっています。
 本日はこのぐらいにしますが、新しい天のエルサレムは素晴らしい所です。どんなことがあろうと、強い願いを持って主に祈り求めて行きましょう。

2019年11月24日 (日)

神の国はあなたのただ中にある

ルカ 17章20-21節   【新改訳2017】
パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

 この「神の国はあなた方のただ中にある」と言う言葉は私がごく若い時から大好きなところでした。ただ頭では理解できていても、実際には意味不明な難解なところでもありました。皆さんでも、<ただ中>ってどこだと思われますか?
 水のバプテスマを受けると、聖霊が内住されることはわかります。しかしながら「神の国は、この中のどこのにあるんだ?」と自問自答が残るんですね。頭の中?いやハート??の中?とか。何となく漠然とした理解、把握のままではないでしょうか。

 ところで今回、そんな風に具体的なところばかりを考えているうちは、絶対にわからない(笑)ことが示されたのです。というか、それで納得したのです。神の国とは聖霊様の居られるところです。私の此所(ここ)、とか、あそこに、ではないのです。では、聖霊様は内住していらっしゃるはずですが、私のどこにいらっしゃるのでしょうか?

 たいせつなことは、聖霊さまはわたしのもの、所有しているものではありません。この罪深い者が罪に気づき、悔い改め、この私を十字架で愛してくださり、罪を赦してくださって聖別された上で、聖霊さまが私の中に入って来て下さります。そしてその方に私は私自身を献げ、私の首座にすわっていただく時はじめて、神の国が私のただ中に現出します。

 つまり私は神の国は、私たちが祈りを通し、神を求める心の中に、その応答として聖霊様との交わるうちにできている、と理解できます。それで神の国を私たちが求めても、なかなか得られないのは、おそらく「本気で求めていない」ためです。

 神さまは神さまの御人格をお持ちです。わたしたちがたとえどんなに幼かろうと、真剣に神を求め、心から呼ばわるなら、神は必ず答えてくださります。しかしその逆に、祈ったとしても、それはただ「自分の望んでいること」だけの答えしか期待していないような祈りとか、ただ習慣と惰性で祈っているならば、それは答えられないのです。心の王座を明け渡していなければ、そのような結果になります

 ですから神の国はどこにあるのか? それは信じる者の心の中にあるのではなく、正しくは現れるものです。自分のもののように理解してはいけません。ですから問題は私たち側にあります。試練や困難を通し、私たちが心からの自分を明け渡し、献げるように導いておられるのは、この恵みの場に招きたいがためなのです。そして私達が心の奥底から求めるなら、神の国は私たちのただ中に、確かに見出されていくでしょう。

2019年11月17日 (日)

永遠のいのち

ヨハネ 12章24-25節  【新改訳2017】
まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

これはある老人施設での利用者たちの会話だそうです。「いろんなことが不自由になった。家では家族に迷惑をかける厄介者だ」「早く死んでしまいたいのに、自殺も出来ないし」。
かつては社会の一線でバリバリ働いておられた方たちでしょうが、この会話が実情です。

私たち人間が、血肉の体だけでなく、霊的な存在でもあること、目に見える結肉の存在が実は霊的な、つまり永遠の世界の前段階に過ぎないことを、もしこの方たちがご存知でしたら、こんな会話には決してならなかったはずです。

実際、世での希望を失いますと、人は普通、光を失い、生けるしかばね状態になります。私も五十代のはじめにそれを体験しました。家族を失い、出世を諦め、介護していた母まで施設に入ってしまうと、「壊れていく」自分がありました。人間は心で生きている、人と人との支え、関わりで生きている、それは失ってみないとわからないものでした。次に来るのは虚しさ、自己破壊の願望です。

しかしほむべきかな、私たちクリスチャンには永遠のいのちへの希望があります。たとえ世での希望や伴侶や親族を失っても、ますます希望が強まり、光り輝くのです。ダニエル書(ダニ12:1-2)を見てみましょう。人はよみがえって、永遠に天国かゲヘナのどちらかの国に行くことを、旧約の人であるダニエルははっきり知っていたのです。

本題に入りましょう。イエス様に、ある富める若人が「先生、何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことが…」と質問したのは当然です。義になる行いだけでは、隣人愛を行う力が無いからです。十字架による愛がなければ、人は自分を救うことも、他者を愛する力も得られないからです。

さて、永遠のいのちはどのようにして得られるのでしょうか?もちろん、主イエス様の十字架を信じることです。しかしそれと同時に、本当に信じていなければなりません。髪の毛の数さえ数えられている神を、人がごまかすことは全く不可能です。本当に信じることとは、代価を払って買い取ってくださった神の愛に、自分の全てを差し出すことです。「一粒の麦、もし死なずば多くの身を結ぶべし」とはこのことです。死ななければ、本当に信じたことにはならないのではないでしょうか?

皆さん、それも自分の力ではできないことです。ですからクリスチャンとは絶えず、そのことを神に祈り求め続ける存在なのです。つまり祈る人、それが私たちの永遠のいのちそのものだと言っても過言ではないはずです。

2019年3月24日 (日)

新しい天と新しい地

黙示録 21章1節      新改訳2017
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 ベストセラー本「天路歴程」のように、何とかして私たちは天国に行くかということに腐心していたと思います。考えてみますと、天国がどんなところかもよく知らずに、ただ「行きたい」「行きたい」では少しおかしくないか、と気づきました。

では天国ってどんな所でしょうか。それは人間の想像を超えた素晴らしい所です。黙示録21章には次のように描かれています。千年王国が終わって後に、最後の審判があることを私たちは知っています。その後、今のエルサレムの上に天から着飾った花嫁のように天のエルサレムが降りてきます。一辺が2200kmある広大な都市、十二の門があるたとえようもなく美しい都です。この地上はもはや太陽も月もなく、夜がありません。なぜなら都には神の栄光が満ち、子羊キリストが明かりだからです Photo_1thumb2 。都には一切の陰、闇も無いと私は想像しています。

なぜなら「神は私たちの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」(黙21:4)とあるからです。これはどういうことかと申しますと、サタンの陰、一切の罪が無い世界であり、それにふさわしい暗い所はないのです。24時間、永遠に明るく、住まいにも暗い所はありません。あるとしたらそこは地獄という火の池でしょう。

なぜ無いのかというと、まず第一に私たちが変えられた御霊の体は朽ちないということです。ですから朽ちる体の時のような眠ること、入浴すること、着替えの個室も要らないことになり、従って目隠しするプライベート空間が必要ないことです。次に黙示録から散見される世界、例えば御座の周りが水晶に似たガラスの海のようであったとあります。私たちの知らない素材が天国にはあり、各人が自分の務めを終えて自由に過ごせる家があるとしても、これまでのような照明器具の要らない、光を通す透き通った素材でできており、隠す必要の無い空間であると私は想像するのです。

天国は素晴らしい所です。今のような血肉の体がある時とは全く異なって、血肉の体と共に霊、たましいまでも本来のものに神は造り替えてくださっているのです。わたしは天国のことを思う度に、胸が焦がれるような熱い希望を持ってしまいます。天国は現実の存在なのです。みなさん、命ある限り、天国を目指してひたすら歩きましょう。

2019年2月17日 (日)

罪の奴隷から義の奴隷

ローマ 6章13-14節     【新改訳2017】

13 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。
14 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。

私は祝福されています。感情も霊という心がいつも神によって守られ、平安です。神の愛が私を包んでいるからです。また、私は死ぬことも益であり、天の御国を待ち望んでいます。私は自分の罪とその深さを知らされたからです。いのちに代えてご自分の羊を守ってくださった神のものとなる、これほど幸せなことはないのです。
しかしこの神のものになるということは、神の所有物=奴隷になると言うことです。サタンは強制的に人を縛って虜にしますが、神は決してそうなさいません。徴兵制のサタンに対し、神は志願制だからです。古来しもべとは、奴隷とあまり差がありませんでした。主人に命を捧げてみ心に従うこと、「自分に死ぬ」と言うことは、このことを指しています。

どんなに長くて人生百年もある人は珍しく、私を含めて遅かれ早かれ数十年したらみなさん肉体の命は終わります。そして行くべき先は神の国か、それともゲヘナという地獄のどちらかしかなく、グレイゾーンというか、その中間はありません。どんなに若くても、明日の命が知れないのです。信じる人は今すぐ信じましょう。
さて、神のものとなるのは志願制だと申し上げましたが、志願したくてもなかなか自分の力でできるものではありません。決め手は自分の罪深さを知ったからです。希望を神の国に見出したからです。 自分を守り、価値があると思っている間はできませんでした。
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右の図での「悔い改め」とは、自分を捨て神に自分を捧げることで、右側の人々、神を自分のために使おうとしてはならないのです。
罪がわからないとそのような悔い改めはできません。ですから神に愛されている人には、試練が許されるのです。これは神の愛です。

自分の力でできないからです。その結果、罪がわかる人はなんと幸せな事でしょうか。神を知っていなければ絶望して自殺するしかありませんでした。しかし幸いなことに神とその愛を知っているならば、神に希望を見、神の愛に自分を捧げたくなって仕方がなくなります。これが志願です。自分の命以上に神を愛するからです。なぜなら神は光であり、神には真の自由があり愛、喜び、平安があるからです。神の奴隷となり、神のものとされるということは何という恵みでしょうか。

神を信じている方で、いまだ神のものとされていない方がいるならば、それは惜しい、あまりにももったいない。「at Hand」、すぐそこに恵みがあるのに、未だに罪の奴隷のままであるということです。そのことは自分のと自分の内側を支配するものがなんであるか、ということで明らかです。

悔い改め、ともに神のものとならせていただきましょう。