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救い

2016年4月17日 (日)

すくい (罪意識の問題)

ロ-マ 5章18節
こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が 罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。
 東京神学校の HPに「なぜクリスチャンになる人は少いのか」が載っていました。クリスチャンと言えるのは、イエス・キリストの実在やそれをただ信じるだけでは不十分で、「十字架のイエスの死が、自分の罪の身代わりなのだということがわからなければならない」とありました。「パッション」という映画がありましたが、あの映画ではキリストがむち打たれるむごいシーンがありました。後で聞くと、映画館で気絶した人まで出たそうです。真のクリスチャンならそうなると思います。クリスチャンにとっては、あのむちの痛みは本来、自分が受けなければならなかったことなのですから。

自分がどれほど罪深く、自分の力では脱出不可能な罪の底に沈殿している認識が必須です。そうでなければ、救われなければならない自分はありません。聖書も十字架も神も、必要ないのです。神を信じない人はみな同じです。ちょうど、病人が病院へ行くときのことを考えてみればよく分ると思う。自分が病人であるということを認めなければ、病院へ行くことはないだろう。自分が病気であるということが分るまでは、頑固に病院行きを拒んでいるように、自分が罪人だということが本当に分らなければ、キリストの十字架上の死が私の罪の身代りの死であることを認めることはできない。
 しかし一方、人間的などんな努力をしようと、「このままでは自分は地獄行きだ」と自覚した者にとっては、十字架は神の力であり、救いです。神ご自身がその人の一切の罪の身代わりとなって引き受けてくださったからです。ただし注意してください。神が身代わりという代価を払って買い戻された神の所有物、それがあなたであり、あなたは神の奴隷なのです。奴隷というのは、すべて主人の意のままに動かなければなりません。ですから神に聞き従わない奴隷は、天国には行けてもご褒美というか、天の宝に差があると思われます。
 ところで新生と言うことについて、みなさんはどのように体験していますか。カトリックや正教、英国国教会は洗礼と同時に新生するというドグマ(教義)です。しかし多くのプロテスタント教会では、そうは受け取っていません。形式である儀式そのものに力があるのではなく、回心という個人的な体験を通し、新生が神から賦与されるとしています。
  さらにカリスマ派やペンテコステ派は一歩進めて、聖霊のバプテスマを受けることによって新生し、神と交わり、神のオーダーが分かり、神に聞き従う人生をスタートさせることができるとしている。この派の人たちの見方(つまり私たち主の十字架)では、バプテスマに水のバプテスマと聖霊のバプテスマの二つがあり、新生は後者のことを指すとなっています。つまり神に聞き従う人生とは、新生した者の特徴なのです。

2016年3月27日 (日)

家族への伝道・私たちは死なない

Ⅰコリント 15章51節
 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。

 皆さんは、人間は死んだら終わりで、もう何もないとお思いでしょうか?「死んだらお終い」ではありません。私はみなさんと同じく「肉体はなくなろうとも、人の霊は生きている」と信じています。重要な問題は、霊の世界が二つあり、肉体から離れた霊は、天国と地獄のどちらかに行くことです。まちがってもゲヘナという地獄に行ってはいけないのです。
 
(マタイ伝16章)この「金持ちとラザロ」のお話。Photo
 ラザロ(=エレアザル「神が助け」の短縮形)は全身のおできのために、働くこともできず、今で言う福祉、人々の善意を頼りにするしかない身の上でした。当時、金持ちは神から祝福されていた人と考えられていましたので、ラザロは「生きている間、悪い物を受けていた」、弱く貧しく、不幸な人でした。
しかしラザロは名前の通り、このような病にかかり、周囲から見捨てられても信仰を持ち続けました。最後まで主に信頼して信仰を貫いたが故に、地上の生活とは逆転して、栄光の座に迎い入れられました。
 それに対し世で祝福された存在の金持ちは、王様並みの豊かさでした。金持ちであることが悪いのではなく、有り余る豊かさを分け合う、あわれみの欠片こそ示さなかった、それは隣人を愛しなさいという教え(申命記15:7・箴言14:31)に従う信仰がなかったことが問題でした。
 
 ラザロは願った残飯も与えられず、犬しか慰めてくれない中飢えて死んだと思われます。一方、あわれみのない者に対しては、あわれみのないさばき(ヤコブの手紙2:13)でした。金持ちも死んで、盛大に葬られました。しかし酬いとして、ハデスに落とされ、永遠の炎熱の苦しみを受けることになったのです。見上げるとはるかかなたの上の方に、天国を見つけ、ラザロとアブラハムを見ました。そこでラザロを使って自分が慰められたいと願いますが、却下されます。この二つの国は大きな淵のため行き来ができないのです。次に金持ちはアブラハムに、地上の兄弟たちにゲヘナに来ないよう、ラザロをよみがえらせての派遣を願います。
  しかしアブラハムは、たとえラザロが生き返って現れ、たとえ金持ちの兄弟が驚いたとしても、聖書を信じない者が「聞き入れはしない」と断じます。これは非常に大切なポイントで、これからの終末の時代、いろいろな不思議や奇跡が起こされて行くでしょう。しかしそれだけで多くの人が信じるようになるとは、考えが甘いのです。不思議な出来事に目を奪われるのではなく、聖書の神を信じ受け入れる、これがポイントです。リバイバルが始まった今、御言葉をさらに熱心に求め、より神に聞き従い、賜物の運用を聖書的に用いることがいっそう重要です。
 
 私たちはこの世では寄留者であり旅人です。天の故郷に帰るその日まで、「愛する人々をゲヘナに行かせない」よう、聖霊の力によって福音を語り続けましょう。

2014年11月16日 (日)

彼らに弁明の余地はない

ローマ 1章20節
 現代は正しい者の正しさが通りません。のけ者にされ、迫害される時代です。しかしこれは、別に現代に限ったことではなく、ノアの時代にも、ヨセフやダビデの時代にも常にあり、そして現在も同じなのです。その代表が我らの主、イエス・キリストの受難であります。

  来月に封切られる映画「God's not dead」を試写会で観ました。実話に基づいた映画化だと言うことでした。映画では「God’s is dead(神は死んだ)」と言う前提から哲学の講義を始めようとする教授が、受講する学生全員にそれを書かせようとします。しかし学生は、神が生きて働いておられることを教授相手に勇敢に論証し、結果として勝利した驚くべき内容でした。

 パウロはアテネという、当時の知識世界の最高峰、アレオパゴスの丘において、次のように言いました。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はない(ローマ1:20)」と。

  映画とは異なりますが、私の「God’s not dead」を申し上げましょう。どんなに「神は居ない」とか「神は死んだ」などと叫んでも、それは無理なのです。その第一の証拠はクリスチャンの存在です。逆に言えば、神を信じない者らの希望のなさ、罪に罪を重ねる行いであります。彼らは腐り果て、その中で苦しんでいます。しかしクリスチャンは、罪がわかり、自分が神の国にふさわしくないことを知っております。ですから自分の力でなく、神の子の十字架を信じ、その贖いによって罪赦され、天へ行ける信仰を持っているのです。十字架だけが、聖なる神の国に入れる唯一の道なのです。

  次に宇宙の存在であり、その運行の秩序であります。神が造られた命あるもの、そのすべての被造物によってです。パウロがこれを「被造物によって(万物を創造された唯一の神がおられることは)知られ、明らか」であると言ったのです。私はは学生運動に挫折した時、これによって神を信じました。

 次に、聖書の、数々の預言とその成就、また数千年の時を越えて守られて来た存在そのものがあります。聖書をありのままに読めば、恵み豊かな人格的な唯一の神が永遠から現在に、そして未来永劫に渡っておられることがわかります。そして聖書自体も、数千年の時を経ても全くと言っていいほど本文が変わってはいないどころか、その預言、イスラエルの建国など、今まさに成就しつつあるのを見るのです。

 私たちは揺るがされないで、神は死んだ、とか居ないとかいう言葉をどれほど聞かされようとも、固く信仰を保って行くのです。そしてこの世でパウロのように、どれほどの困難、辛苦をなめようと、たとえこの世では報われないとしても、最後には天の御国という栄冠を得るのです。

2014年6月 8日 (日)

希望について説明を

1ペテロ3章15節

 私たち神を信じるクリスチャンには、この世での先に大きな希望があり、それを命以上に価値のあるものと思っています。世の何ものも奪うことのできない希望です。聖書(1ペテロ3:15)ではいつでも、誰にでもそれが証しできるようにと用意をしておくようにとあります。

 このペテロの勧めはペテロ自身も殉教したと言われるネロ帝による大迫害が始まる直前のものです。つまり歴史的な大迫害の始まる前から、基本的にクリスチャンは不可解な人々であって、多くの人々からの攻撃があったのでしょう。現在においてもクリスチャンは酒、ギャンブル、たばこをたしなまないばかりか、品行方正でどんな小さな嘘も言うことができないのですから、不思議に思われ、その「説明」が求められる事が多々あります。さらに日曜日に礼拝を捧げ、特にどんな最悪な状況下でも喜んで感謝するなど、理解不能な行いは絶好の証しの機会でもあります。説明とか証しなどの備えを怠りなく準備しておくことは大切でしょう。

 では聖書を手引きにし、証しの土台となるものを読んでまいりましょう。(1ペテロ 1:3)に「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて生ける望みを持つようにしてくださいました」とあり、(1ペテロ 1:14節)には「朽ちることも汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐように」と、私たちに「天に貯えられている」ものがあると言われています。

 ここで言う「新しく生まれさせて」「天に貯えられている」とは何でしょうか?「新しく生まれ」とは悔い改め、別人間としてキリストにあっての新生を意味します。この世での生を終え死んだクリスチャンは、神の国においてはどのようにして神に仕えるのでしょうか?

 金はなかなか朽ちるものではありませんが、それでも時には朽ちて行く「金」よりも尊い、「天に貯えられている」ものとはなんでしょうか?それは新しい魂・霊にふさわしい、新しい体、み霊の体です。これは一般に信じられている、実体なき幽霊とはまったく異なるものです。先例があります。

 それは十字架の死からよみがえられた、キリストの体です。疑い深い弟子のトマスは、本当にキリストなのかと、指を釘の傷の穴の中にまで入れて確かめようとしました。また弟子たちの面前で焼いた魚を食べてもみられました(ルカ24:43)。これらは幽霊ではできないことです。しかしドアを通り抜け(ヨハネ20:26)られたり、オリーブ山から天に引き上げられたり(使徒1:9)するなど、今の血肉の体とはまったく異なるものであります。クリスチャンは、この滅ぶことのないみ霊の体となって、永遠の神の御前で礼拝し、仕えることが究極の希望です。ですからクリスチャンの死は、希望にあふれたいわば天への凱旋であります。

 これに対し、神を信じないで死んだ人々には、希望がありません。世には「お迎えの来たとき」と言う長寿を願う言葉があります。「米寿(88)で御迎えの来たときは、もう少し米を食べてからと云え!」など・・・この世に執着し、生き続けることしか希望がないのです。この人々の死後は、永遠の苦しみを受け続けなければならないのです。つまり考えるだけでも恐い世界なのです。

 ハレルヤ!私たちはできるだけ多くの人に、この希望について説明し、一人でも多く救われるよう証しを怠りなく備えましょう。世に生かされている使命でもあるのです。

2014年5月18日 (日)

悔い改めの恵み 

†  テトス 3章5~7節

 《セウォル号事件》
 一ヶ月前の4月16日8時48分、韓国の珍島沖でフェリーボートが沈没し、死者281人不明者23人の犠牲者を出しました。痛ましいことは、300名以上にのぼる若き高校生たちの命は、救えたはずの死であったことです。船長が「不作為の殺人罪」で起訴されていますが、避難をしないような放送をしながら、船長をはじめ乗組員が真っ先に逃げたという、恐るべき人災でありました。実はこの事件には、このような行いをする背景、特定の宗教がありました。

 この船会社のオーナーは兪(ユ)ビョンオンという、韓国では「キリスト教福音浸礼会」、日本では「喜びのニュース、グッドニュース宣教会」とか称している教祖です。このオーナーによる各会社の幹部クラス、もちろんあの船長も皆信者です。韓国の新興宗教の一つであり、ウィキペデアによると、名前はキリスト教そのものですが、キリスト教の名を語る異端だとされ、以下のような教えを持っています。
⚪︎本当の救いは、救いを悟ることによってのみ得られる。
⚪︎天国へ行くためには「私は義人だ」と告白すればよい。
⚪︎悔い改めるのは救われていない証拠であるから、悔い改めるクリスチャンは地獄へ行く。
⚪︎自分たちは救われているので悔い改める必要はなく、罪を犯してもすべて許される・・・・・殺人など、どんな罪を犯しても天国へ行けるとしています。
なるほど、このような教えをもっていれば、職務を放棄して304人を見殺しにしてもかまわないわけです。看板も偽りですが、その教えはまったく聖書に反しています。どうしてそうなのかを、今日の聖書箇所から見て行きましょう。

義としてくださるのは、ただ神によってのみ
  本日の聖書箇所で、このテトスはテモテとともに、パウロの片腕の一人でした。パウロはテトスを時にはクレタに残して残務整理をさせたり、ふたたびそばに呼ぶために代理の者を送ったりしています。若いテモテに比べ、おそらくパウロが最も信頼していた片腕でした。テトスに対してはテモテのように教え諭すのではなく、確認するような内容であるのも、それを裏付けます。特にこの5節において「義」と認められるのは行いによらず、ただ神のあわれみ(愛)による書いてあります。自分で自分を義とするなどとは、神を畏れぬ高慢であります。それだけではなく聖書は私たち一人一人に聖霊のバプテスマと新生、悔い改める謙遜を、聖霊によって与えてくださいます。これは私たちを真に神の国の世嗣としてくださるためなのです。自分の力ではなく、神のあわれみという愛が、聖霊を通して注いでくださるのです。ですから「自分を義人だ」告白すれば良いなどとは、とんでもない誤りですし、特に「悔い改めるのは救われていいない証拠だ」いうのは、聖書も神も何もわかっていないことを自ら暴露していることを明らかにしましょう。

真のクリスチャンには守るべき自分と言うものがない
 真のクリスチャンというものは、再々悔い改めをします。ここが真の神を知らない人にとっては理解できないところです。私も三十年、普通の正統的なプロテスタント教会員として歩んでいても、実のところよくわからない、つまりあまり悔い改めの必要を感じていなかったという経験があります。

 その理由には、実際の神を体験していないので、「神の聖さがわかっていない」という点があります。神のあわれみによって、神ご自身が触れてくださった者には、いかに神が聖であり、自分が汚辱と罪にまみれているのかが対比的にわかります。イエス様のたとえ話に、畑で宝を見つけた者は、全財産を売り払ってでもその畑を買い取るという話しがあります。神を体験しその聖に触れたならば、つまり聖霊のバプテスマや新生した人というものは、これまでの自分の価値観がまったく変わってしまいます。塵芥(ちりあくた)のごとく、それまで後生大事に思っていたもの一切が色あせて価値を失い、代わってそれを神に見出すのです。クリスチャンには守るべき自分、プライドというものがなくなります。謙遜になるとは、このことを指します。

 問題はこの点であり、次に明らかになるのは、このような醜い肉の自分を十字架にかかってまで愛してくださった神への「愛の応答」です。よくクリスチャンが証ししたりブログにおいては、過去の自分の恥ずかしい罪や失敗を喜んで述べていますが、別にサディスティックになっているわけではありません。ただ、ほむべき神の栄光を明らかにしているだけなのです。ひたすら神を恋い焦がれて待ち望むようになり、求めるようになります。その臨在にあっては、圧倒的な神の聖さの前に、ただ己を悔い改めるしかありません。栄光は神のもの、私たちはただひれ伏して神を拝し頌(たた)えるのです。

 悔い改めないクリスチャンは、自分を義としているわけで謙遜もなく、神のあわれみの内に留まってはいません。悔い改め続けることは、神の前にある者にとってふさわしいことであり、またそれゆえ、神が私たちを愛してくださるのです。真に神を知る者、その恵みにあずかる者は、悔い改めることの絶大な恵み・・・‥子として神の国を相続できることを知っているのです。ましてそれを「地獄に行く」などとうそぶく方こそ、本当にお気の毒な人なのです。さあ、神に心から悔い改められる恵みを神様に感謝しましょう。

2014年5月11日 (日)

もしかすると・・・悔い改めて

Ⅱテモテ 2章24〜26節

 今回のG・Wで信州に行って、親族との楽しい交わりができました。唯一残念だったのは、いつものことではありますが、またも親族への伝道が不首尾に終わったことです。つくづく人の救いは人にあるのではなく、神の御手の内にあることを強く感じさせられました。

 本日の聖書箇所で「悪魔にとらえられて思うままにされている人々」とありますが、ここでいう「捕らえられて」とは、信仰に入ることを妨げるあらゆる人間の思念、状況を指します。霊的に理解するなら、サタンが人を神から遠ざけ、信じないようにさせるあらゆる策略であり、人はそれがどれほど恐ろしい結果を招くことになるか、何もわからなくされているという意味です。
 私も同じ長男でしたのでよくわかるのですが、「長男」という縛りがあります。家、財産、菩提寺など家督を守らなければならない責任のことです。次に先祖たちの救いはどうなるのか?という問題があります。しかし一番大きな問題は、これは万人に言えることなのですが、自分が人生の主役なのではなく、主役は神であると言う点です。今回もこれが突破できなかった理由でした。

 「十字架に架かってまで私たちを愛してくださった神を信じ、神に聞き従う人生こそ・・・・」と言いますと、「それじゃあいけねえだ。自分で自分の人生を切り開いて行かなくてどうする」と。その通りです、がしかし、その通りではありません。この越えられない溝、これを突破し、信じない者から信じる者へと変えてくださるのは、人の力ではなく、神の力であることをあらためて強く意識させられるのです。なぜならそのように自分を信じ、努力し、自分の力で切り開いて行くと言う考えは、世の大勢を占める価値観です。それに比べクリスチャンの考えは、どうしてもマイナーなのです。

 ところで私たちはどういう経緯で、自分の人生を神に明け渡したのでしょうか?この点について私は自分の体験からはっきりと、神の御手が私に及んで働いたからだとわかっています。人生最悪な挫折と絶望の中、神が私に触れてくださり、深刻な悔い改めをした結果なのです。それはちょうどキリストの十字架は、サタンの大勝利かと思われた瞬間、大逆転し神の大勝利へと変わったようなものでした。私たちの危機的、絶望的な困難こそ神を信じ、絶大な神に触れ自分を明け渡す大逆転の勝利となったのです。

 箴言5:23に「彼は懲らしめがないために死に」とあります。困難や挫折という、懲らしめられることこそ私たちへの神の愛のあらわれです。自分に希望を見失って初めて、神を信じ受け入れることができました。信じてみてはじめて、これは永遠の祝福であり、いのちに優る宝物だとわかりました。あまりにもそれがすばらしいので、これまで自分が大切だと思っていたあらゆるものが光を失いました。自分の命すら問題ではないことがわかったのです。ですからクリスチャンというものは、強制されてではなく、よろこんで自分から神に、自分自身を明け渡すのです。

 こうしてみると、神を信じるためには「懲らしめられる」祝福が大きな働きをしていることがわかります。まさか困難が起こるようにと祈ることはできませんが、真に神を信じ、自分を捧げたくて仕方がないほど神を愛する親族になってほしい、そう忍耐をもって祈り続けたいと強く思わされました。私たちにその力はありませんが、神にはその力があります。神は栄光を私たちを通してあらわしてくださるのです。ハレルヤ!

2014年3月16日 (日)

死んだら終わりですか

ヨハネ 14章6節

 東日本大震災からまる三年が経ちました。震災の12月はじめ、被災地の閖上地区を訪れた時のことです。家々が軒並み押しつぶされ流された廃墟の中、ひときわ目立って閖上中学校だけがポツンと立っておりました。校門から入って玄関に向かうと、そこに生徒机が三つ並んでいて、その一つに次のような言葉がマジックで書かれてありました。Yurityu

「死んだら終わりですか?」 この問いかけが私の心に響いたのです。そんなことは決してないのです。
 聖書は「イエス・キリストを信じるならば、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがない(ヨハネ5:24)」と言っています。つまり死んだら終わりなのではなく、死ぬまでに信じたことによって、その人は永遠に生き続けると言っているのです。
 何が生き続けるのでしょうか?私達には肉体の命があり、魂や霊の命があるのです。この世で肉体の命がなくなったとしても、霊魂はその後も生き続けます。平均80年、長くて100年程度しかない肉体の命のある間の、一人一人の選択によって、霊魂が住む永遠の行き先を決めてしまうのです。

 聖書は口で言うことの出来る体の命のある間に、十字架は自分の罪の為だと信じ告白しなければ
神の国に入ることは出来ないと言っています。そういう意味で「生き残った私達に出来る事」とは、信じる事なのです。生き残った人達が信じてこそ、先に亡くなられた方たちの死も、大きな意義を持ってくるのです。

 神は御子イエス・キリストをこの世に送ってくださり、私達全人類の罪の身代わりとして十字架で処刑されました。ここに神の愛があり、福音があります。ただイエス・キリストが自分の罪の身代わりとして死んでくださったと信じるだけで良いのです。多くの人は、十字架によって救われなければならないほど、自分に罪があることに気づきません。神を求めようとせず、必要としないのです。必要とするのは人生の落語者、弱い者、罪深い者、希望を失った者です。世での成功者、誇るものがある人は、かえってこの絶大な神の祝福から遠く、神の国に入れる人は、ラクダが針の穴を通るより困難だと言われるほどです。

 私達は罪深い者ですが、十字架を信じる事ですべての罪が赦され、あたかも最初から全く罪を犯さなかった者のようになります。神の国とは罪のない、聖く義しい人の行くところですから、人間にとって、十字架以外の道は決してありえないのです。信じ告白した人は、確かに神の国に入るのです。
 このことは「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、誰ひとり父なる神のみもとに来ることはありません(ヨハネ14:6)」とある通りです。誰が天国に行けるのでしょうか?自分の罪を告白し、主イエス・キリストを主であると告白した人です。生きている間に、これを為さなければなりません。

2014年3月 9日 (日)

渇く者よ飲め

ヨハネ 7章37~38節

 3年前に起こった東日本大震災のことが先週からずっと報じられています。そして最大最高の問題と言うものが明らかになってきました。原発問題です。未だに、これからも自分たちの土地に帰れない、経済も何もかものその犠牲の上に今の私達があることを忘れてはいけないと思わされます。

 今日の聖書個所は、仮庵の祭りと呼ばれています。ユダヤ三大祭と言うものがあります。過ぎ越しの祭りと言われるペサハ、五旬節(シャブオット)、それから仮庵の祭り(スコット)です。この三つの祭りはエルサレム神殿に上って神を礼拝するよう律法が命じている者です。この仮庵の祭りは秋に祝われる収穫祭のようなものでした。

 仮庵の祭りの中でイエス様が大声を上げられたこの日はシロアムの池からくみ上げた水を神殿から流す最高潮の日でした。黙示録にある聖所から流れ出る水、それがまさに成就して行っているような日でした。このタイミングでイエス様は大声を上げてお叫びになったのです。「だれでも渇く者は、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われたのです。確かにイエス様ご自身が聖所からの水でした。生ける水の川。聖霊のあふれ出る所なのです。

 東日本大震災では、多くの家族がバラバラになってしまいました。まさに一瞬のことでそうなってしまったのです。TV朝ドラの「ごちそうさん」でも今家族が離ればなれになってしまっています。
 何が一番大切か、多くの人は家族だと思っていたのですが、東日本大震災はその家族を奪ってしまいました。家族もまた、一定のものではなく、こわれるものであり、かえって家族だからこそ、傷つけ合うことがあるのです。家族は大切に思えたものなのですが、空しいものなのです。
 私個人も病気によって家族がバラバラになってしまった経験をしました。その時、どんなにか家族が大切かを骨身に沁みました。しかし二度と家族は回復することなく、かえって傷つけ合うつらいものになりました。家族を失うことを通して、家族すらまた、幸せの絶対的なものではないことを知らされました。絶望し、心が完全に飢え渇いてしまいました。

 聖書にその答えが有ります。本日の聖書箇所です。飢え渇く人、そのような人こそ神が選ばれた器なのです。神があなたを渇かせ呼び求めておられるのです。この水を飲めば渇くことがありません。死すらこれを奪うことが出来ない、いのちに優るものなのです。聖書にある通り、「その人の心の奥底から」喜びが、愛があふれ出てくるのです。どうかイエス・キリストの元に来て、生ける水を飲んでください。教会はあなたを待っています。

2013年5月19日 (日)

聖霊の働き(五職と信徒の連携)

使徒1章8節

 先日、教会で使徒・預言者・伝道者・牧師・教師の五職(エペ4:11)を学びました。この五職は、キリスト教草創期(初めの雨)における聖霊の強い働きと、教会の組織を表しています。これらは唯一、聖書によって公認されたものであり、キリストの御体の中での各部分の働きが位置づけられているのです。

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  「後の雨」と呼ばれるリバイバルが間もなく始まろうとする今、再びこの五職の働きがクローズアップされて来ます。重要なのは、やって来る多くの人々の受け入れ体制です。すべてのクリスチャンは「証人」であり、職場や地域に証の使命を受け持っています。が、信徒の場合「信じようとしている人」を、できるだけ早めに教会に導くことが大切です。教会では神が立てた牧師・教師がおり、訪れた多くの方々に福音を語り、聖書を教えて行く使命を持っています。信徒がこれをしてはいけないというのではありませんが、基本的には五職の働きに位置づけられた、神の定めた秩序の中で進めて行くことがベストでしょう。

 私の事を語りましょう。中学校3年生のクリスマスの日から私は、やっとの思いでキリスト教に触れることができ、熱心に教会に通うものになりました。高校時代はずっと通い、聖書を学びました。やがて大学生活のために故郷を離れようとした時、それまで毎週ずっと導いてくれていた老牧師が、初めて私に洗礼を勧めてくれました。3年以上の教会通いでしたが、後にも先にもこの1回だけが入信の勧めでした。

 結局は私は断ってしまい上京しました。ゴールデンウィークに帰ってみると、驚いたことにその老牧師の葬儀がありました。彼は癌の体をおしてずっと私に、聖書の学びを続けさせてくれていたのでした。それから2年して、学生運動に挫折してクリスチャンになる決心をしたのですが、もしあの時、癌だからとか、長きにわたる指導のお礼のつもりで洗礼を受けていたら、私の信仰は人間的なつきあいの結果となり、今と全く異なっていたことでしょう。

 これと反対に、ある教会では教会に来た人のすべてに、最後に信じる祈りを勧めていました。ですから大勢の人が救いの祈りをしました。ところがその後、教会に続けて来る人は1人もいなかったのでした。これはどういうことでしょうか。

 救いは収穫の神がされるのです。神がすでにご計画によって選んでいらっしゃるのです。ですから神に聞き従い、救われるよう祈り、また御体の働きに委ねましょう。証と取りなしの祈りを捧げながら、熱心に証をし、福音を宣べ伝えるのです。神に時を委ね、神はその熟する時をご存じです。神に聞き従って、五職の働きを全うする中で、神の救いの計画が進み、リバイバルが来るのです。