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救い

2023年12月 3日 (日)

罪深さからの救い

コロサイ 3章12節

3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

本日の聖句前半の「神に選ばれた者、聖なる者、選ばれた者」とは、クリスチャンのことです。後の深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容には、個人としてはうなだれるしかありません。

 この二節前には「新しい人を着た」(3章10節)とあるので、聖霊のバプテスマを受けた者に語られていますが、その結果恵、聖なる方を知るにつけ、私は自分をますます罪深く感じ、まず神にあわれみを乞い、その赦しの中で平安を得るようになりました。私に慈愛とか、謙遜、寛容の心は一切なく、それらは全て神のものであることが分かるのでした。

 信仰義認とは一般的に、秘蹟奇跡路線で罪をゆるす儀式宗教カトリックに対して「信仰によってのみ神から義とされる」と理解されています。十字架を信じる信仰によって、自分は赦され義とされるとほとんどのクリスチャンは信じているのです。しかしそのような自分を義とする自得的な信仰では、実は危ういと私は思っています。聖とされ義であるのは、ただ神のみで人ではありません。私に義は無いのです。そのことは「着る」と表現されているように、私はただそれを一時的に着させていただくだけであって、私そのものではないのです。ここを勘違いしてはいけません。簡単に言えば、聖霊のバプテスマによって神と交わるのですが、その結果、いかに自分が救いようのない罪人であるかがますます分かるのです。ですから自分がわずかでも聖化されるとか、義人とされるなどとは決して思えないのです。

 もし他人が見て、あなたに聖と義のかけらがあるように見えたとしたら、着ると言われているように、神からの借り物ですから、神に栄光を完全にお返しするべきです。ほんのわずかでも盗んで自分のものとしてはいけません。それは大きな罪になり、天国行きは閉ざされることでしょう。遠藤周作の作品「沈黙」における神の「沈黙」は、まさにこの故であると私には思えるのです。
 とは言え、これは借用して大いに用いるべきです。一時の住まいであるこの世で「着る」恵みは大きく、寒風から守られ、神の愛の温かさの中で安息できます。もはや飢えや寒さはなく、証しとなります。世への不安や死への恐れなどは全く無いのです。
 これはなんという恵みを着ているのでしょうか。神ご自身のあわれみと恵みからくる守りと解放の奇跡、これが信仰義認です。いささかの高慢や選民意識は無く、信仰義認とは栄光の神の義と力が、何の努力も、何の価値もない私、そして皆さんに現れていることなのです。

2023年10月15日 (日)

罪人の救い

マタイ 9章13節   2017新改訳

『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。

 一週間前、仮庵の祭り最終日から突如として始まった、ハマスの残虐な奇襲攻撃について触れざるを得ません。そのイスラム原理主義のハマスも、反撃しているユダヤ人も、実は私たちと同じ、同じ神を信じている一神教徒です。ハマスは極端なイスラム過激派武闘集団であって、PLOから武力でガザの支配を奪い取っているだけで、ガザの住民はむしろ被害者です。
 そのハマスはアルカイダやISと同じイスラム原理主義ですから、イスラエルと平和に暮らす考えは全くありません。巧みな宣伝工作はしても、目的は宿敵イスラエルを滅ぼし、世界をイスラム原理主義の支配に置くことです。彼らは創始者ムハンマドがジハード(聖戦)を行ってイスラム世界を広げた理念そのままを、今に再現しようとしているのです。

 さてこの度のような、ハマスが何千発ものミサイルなどを同時に打ち上げる大規模な攻撃ができるのは、北のヒズボラと同様に支援するイランがいるからです。つまりこれは、イランとの代理戦争の様相を呈しているのが現状でしょう。イランはシーア派、イスラム原理主義はスンニ派ですので、ちょっと奇異に思いますが、イスラエルや西欧世界は共通の敵なので、支援するのでしょう。
 今後についてはハマス支配下にあるガザの人々を思いを寄せ、地上戦において人々の犠牲が最小限で済むように、そしてイスラエルがイランとの全面戦争にならないように、私たちは祈らなければならないと思います。

 さて本日のテーマの通り、すべての人は罪人です。すべての人が罪を自覚し、悔い改め、聖書が証明する真の神、キリストの救いと平和を信じることが、たとえ不可能とも思えても、唯一の解決の道だと私は信じます。
 もちろんキリスト教においても、これまでに多くの過ちを犯してきました。しかしその原因は、王権を上回るほどに権力化した教会組織や、時の権力者との癒着、腐敗があり、その歴史からプロテスタント教会は一つの真実を学んできました。それは宗教と政治の分離です。歴史は貪欲な王や支配者王たちが宗教を利用してきた過去そのものでした。現在でも北朝鮮などでは、支配者はほぼ神さまになっています。唯一プロテスタント教会だけが当初は難しかったのですが、世俗の権力から分離し、政治非介入の原則を立てるようになりました。ですから政治にすり寄って行った統一原理が国による解散請求に至ったのは当然です。権力に歩み寄るのは世俗化した宗教です。

 私たちは、キリストの平和の成就には神の時と力、そして全世界的なリバイバルがあって実現することを知っています。平和には神の力、信仰による祈りが必要です。決して人間だけの力でしようとしてはいけないのです。ウクライナにしても、ガザにしても、真の神に捧げる聖徒の祈りを、主は用いてくださるのです。

2022年4月 3日 (日)

信じるって・・・どういうこと

Ⅰペテロ 2章24節   2017新改訳

 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

 ここでキリストが十字架に架かってくださったのは<私たちの罪を代わりに負ってくださるため>であり、私たちが<罪を離れ、義のために生きるため>であるとペテロは言っています。つまり私たちが自分の罪がわからなければ悔い改めることはできないし、イエス様の十字架の赦しはありません。罪が赦されず残るなら、どんなに自分はクリスチャンだと言っても滅びます。天国には入れません。口先だけの告白では偽りの告白ということになるわけです。

罪が分かる‥‥私は自分の例を出し、罪が分かって信じるには二つの段階があると思っています。まず<最初>についてですが、20歳の時の私の証です。高校生時代には、私はようやく見つけた伝導所で毎水曜日、聖書研究会に欠かさず通っていたのです。聖書に神のいのちがあると思っていましたし、実際そうでした。高校を卒業しようとした時、牧師から受洗を勧められました。なにしろ熱心に聖書を学ぶ子でしたから、できたら受けたかったのです。すごく心が動いたのですが、結局受けませんでした。
一番の問題は信じたかったけども、それは頭の上だけで実感が持てなかったからです。神が聖書の文字上では存在していても、私の体験としては空をつかむような感じで、神様がリアルに存在している感じがなかったのです。
わたしとは真逆のクリスチャンホームで育ち、自然にクリスチャンになった方からも、最近、同じように30歳になるまで罪が分かっていなかったとお便りがありました。人それぞれですが、学生運動に私が挫折し、自分の愚かさが分かって呆然としていた時、ただ星々の規則正しい動きを見て、自分を含め流転する人というものの浅はかさ、愚かさ に比べ、変わらないもの、規則正しく永遠のように運行するもの、つまり秩序というものがあり、それを造られた神がおられる、そういう風に初めて神の存在が実感でき、信じることができ、その足でクリスチャンになるために教会の門をくぐりました。このようにして、自分の罪を認め、神を信じてクリスチャンになったわけですが、新生していないので肉のクリスチャンであって、世の欲望に支配されて勝つことはできていなかったため、世の人々と変わらぬ心の状態でした。いわゆる福音派の人々も同様だろうと思われます。

次に<第二番目の信じる>についてですが、これはいわゆる聖霊のバプテスマです。聖霊のバプテスマを受け、新生しなければ「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります」(ヨハネ12章25節)の意味がわかりません。神から与えられ愛されることを、命以上に大切だと思うのは、聖霊の神による力そのものです。しかし今回はここまでにしておきたいと思います。

2021年12月26日 (日)

キリストにある者

✝ ローマ 8章1節   2017新改訳

 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

「私たちはイエス・キリストを信じます」と言い、洗礼を受ければクリスチャンとして、聖書にある永遠のいのち などを受けた者として歩んでいます。しかしその根拠とされている聖書であるローマ人への手紙8章を通りいっぺんではなく、きちんと読むなら、そこに限定があることは自明のことです。
つまり、「主(キリスト)にある者」という言葉であり、それはクリスチャンと言っても、「キリストの内にいない者」がいることへの但し書きとして挿入されていることです。これはこの章の続きを読めば、具体的に書かれていることから明らかです。つまり、聖霊が内住し、その人が聖霊を主とし、聖霊に聞き従って歩むなら、その人は「主にある者」なのです。しかしそうでない人、信じる前とほとんど変わらず、相変わらず自我が中心であって、肉の思いを持ち、妬みや欲情、独占願望を抱いている者は、聖霊が内住しているとは言えず罪の中にある、つまり真のクリスチャンであるとは言えないと説いているのです。

肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。ローマ 8章5~6節

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。ローマ8章9~10節

しかしそうは言っても、まだ望みがあります。なぜなら十字架によって、人の魂と霊が救われることだけは少なくとも知っているからです。ですからこれから試練や困難という、自我を滅ぼすチャンスに最も近い位置に立っているからです。神にとっては不可能はありません。主が導かれるならば、明日にでも救いが来ることでしょう。キリストの御体なる教会の恵みは大きいのです。自分が主から「哀れまれるべき存在」であることを心から理解し、告白するならば、どんなに天に大きな喜びが来ることでしょうか。

2021年2月28日 (日)

この世のものでない私たち

ヨハネ 17章14・16節  2017新改訳

わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

 イエス様は世を去って行かれました。どうして去って行かれたのでしょうか? それは「十字架で罪を赦すため」と言うのが大方の見方です。しかし「赦すため」と言うのはある意味、途中の道程に過ぎないのです。地上に降りられた神イエス様は、人間としてでないとできなかったさまざまな事柄・・・・奇蹟や癒やしによってご自分が神であることを証しされ、弟子たちを訓練され、また後に福音書によって後代まで伝えること・・・・を果たされた後、聖霊降臨(ペンテコステ)の為に去って行かれました。なぜなら十字架による罪の赦しは完全であり、これを信じる者には、聖霊なる神が住まわれる条件が整ったからです。
 ですからイエス・キリストをご自分の救い主と信じるなら、聖霊は内住されることでしょう。しかしそれだけでは真に神を主として聞き従うことは、困難なのです。なぜか。水だけのクリスチャンは、まだ自分自身を主としているので、主を自分の主とし、聞き従うことが出来ないのです。かと言って「自分に死ぬ」、これは自分の力では不可能なのです。

 こうして水のバプテスマだけではクリスチャンとしては完全でなく、既に信じていた人たちにも約束のものとして、聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)が必須でした。ペンテコステの日からこれは信仰の前提として、初代教会から幾度も注意深く対応されていたことです。ピリポがサマリヤで大きく用いられましたが、その報告を受けるとエルサレム教会からペテロとヨハネが派遣され、聖霊のバプテスマの祈りと按手(※使徒8章14-18)がされました。サマリヤ人に「聖霊はまだ、彼らのうちのだれにもくだっていなかった」からです。またパウロがエペソに下った時、アポロから信じた弟子たちに聖霊が下っていなかったので、パウロが按手して聖霊のバプテスマを受けさせた(「使徒19章1-7)ました。

 私は水のバプテスマと同時に聖霊のバプテスマが注がれる可能性は排除しませんが、基本、水のバプテスマと聖霊のバプテスマは同じものではないと思っています。私たちは神のことを「主よ」と呼びますが、真に自分の主とし聞き従うことは、聖霊のバプテスマ無しには困難です。「主よ」と呼び求めながら、自分が主であって、神は自分の願いを実現させるためのしもべに過ぎないのが、水のバプテスマの実態です。
 両者に明確な違いがあります。真に信じる者は<この世の者でない>神の国の者となっています。ですから、血肉の死は解放であり、故国、天への凱旋です。殉教はその明確な神のわざです。たとえそうならなくても、神の国の一員として、神の力を身に受け、肉の人でなく聞き従ってみこころを行う者に変えられていることが分かります。「聖霊の宮」を内包する証人として生きています。

2020年9月 6日 (日)

神の救い

エペソ 1章3-5節   新改約2017

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

 クリスチャンになり、永遠のいのちを得ることを「救われる」と称します。神学的な意味での救いの取り扱いを救拯(きゅうじょう・すくい)論と言います。その中心にはカルヴァンに代表される予定説がありますが、これに対してアルミニウス主義というものがあります。両者を誤解を恐れずに言えば、人間はひどく堕落してしまったので、もはやがんばっても救われることはできない、救いはただ神の恵みとあわれみという、無条件の選びによる、というのが予定説です。これに対し、人間側の努力や義の行いも神は考慮してくださるだろうというのがアルミニウス主義の見方です。 

ところがこの両者の対立も、自由主義神学というリベラルな神学が台頭して来たため、結束して立ち向かう必要に迫られて、現在ではかなりうやむやになっているのが現状です。リベラルとは聖書がすべて神の言葉であることを否定し、人間の合理的な知性を解釈に生かすもので、エキュメニカルなグループに多く見られる神学です。救拯を論じるどころではない、聖書への伝統的な信仰が否定される事態になったわけです。

 なお、予定説などは秘蹟を中心とするカトリックや正教では受け入れられていないことは勿論ですが、正統的なキリスト教会にあって、内容面でまったく異なるわけではありません。(信仰によって救われることを説いたルター夫妻)

 さて救いについて聖書を見るなら、エペソ1:5などで「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」とあり、2:5にも「あなたがたが救われたのは恵みによる」とあリます。また預言者エレミヤもエレミヤ1:5で 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた」とあるように、神は私たちが形造られる前の霊の創造の段階ですでに選ばれ、み心の計画と召しを与えられていたと思わなければなりません。

 しかしそれは私たちがロボットのように、意のままに動かされる操り人形としてではなく、アダムのようにいつでも背く自由をも与えられていたことを忘れてはならないでしょう。人間の自主的な聞き従い、そこに人間の意思があり、神の愛が伴って働くのです。ですから救拯論の論争も、神の絶対的恩寵を強調するか、あるいは人間側の意思をも尊重される神の愛を強調するかの違いであって、リベラルな考え方の前に、これは大同小異であったというのが落としどころでは無いでしょうか。
 救いは罪の自覚から来ます。罪が自覚できなければ、あるいはわからなければ、救いは無意味です。神の恵みも存在しません。これがある意味、選びの基礎です。アダムは自由意志を創造者のためではなく、自分のために用いてしまいましたが、これを罪といいます。仮に「より自分を引き上げたい」というつもりで神を信じたのであれば、深刻な悔い改めなくして真に救われることはできません。信仰告白をし洗礼を受けて「天国へ行ける」切符をゲットしたつもりでも、それは偽りの所作になります。その後もまったく世的、肉的な変わらない暮らしを続けているのであれば、それは神をあざむくことになります。なぜなら、十字架においてキリストは私たちを代価を払って買い取ってくださったのであり、キリストを信じた者はもはやキリストのしもべなのです。もはや自分は主人でなく、主人は神です。その神に聞き従っていないとすれば、逃亡奴隷か、偽りの告白をしたことになるのです。

 こんなたとえ話があります。「自分の船の甲板上で、乗組員に殴打されて意識を失った船長が、気付け薬のおかげで生き返り、自分を助けにやって来た他の船の船長の、船の指揮を取ろうという申し出を受け入れる場合、受け入れる船長には何の功績も無い」という話です。これは十字架を信じた私たち一人ひとりのことを適切に表現していると私は思いました。私たちの神の国は、入れるからといって何の功績も私たちにはないのです。ただ神の申し出を受け入れて、打ち負かされていた自分の現状から、真の平和を得ただけなのです。
ハレルヤ!私たちは救いのすべてを神の恵み、栄光としてほめたたえましょう。

2019年10月13日 (日)

天のエルサレム

詩篇 40篇8節  【新改訳2017】

わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。

 「救い」「永遠のいのち」「天のエルサレム」この三つは少しずつ意味が異なります。
「救い」は自分の罪がわかって悔い改め、イエス・キリストを受け入れたことを意味します。「救われた」結果、「永遠のいのち」に至るのですが、十字架による完全な贖いと、その人の内に働く聖霊の働きが見られるのが「永遠のいのち」の特徴です。証し人として永遠のいのちを保ち続け、地上での使命を終えた人が天のエルサレムに行きます。御霊のからだに変えられてから行く、最終形が「天のエルサレム」です。Photo_20191023120801

「天のエルサレム」を確信し、待ち望んでいる人がいます。反対に行けるかどうかの不安や期待が入り交じっている人もいます。この違いは神との交わりの深さによるのです。待ち望んでいる人は、たとえ世に生きてはいても、限られた時間であって、世と天とを両てんびんにかけたりしません。生きながら世に死んでいるのです。大切なことは、助け手である聖霊様と日々交わり、祈ることが大切です。あらゆることでみこころを求める事です。

 神との交わりの中で、神を愛することほどポイントになることはありません。神は愛です。愛には愛を、です。神を慕い求める者を、神は決して裏切られません。人間に感情があるように、人間とは違うレベルのものでしょうが、神もまた、愛という感情があると私は信じています。ところが神の愛を妨げるものが二つあります。一つは偽り、もう一つは高慢です。この二つの土台は「罪」です。罪は罪であることがわからない性質のもので、別な言葉で言えば自己愛です。ただし自己愛に苦しむなら、救いはすぐ側に立っています。

 サタンも神のようになろうと高慢の罪を犯しました。またサタンの特性は嘘、偽りの天才であることはよく知られています。破滅に導くこの罪の恐ろしさに気づき、それへの自分の無力さに苦しみ、解放され救われることから信仰がスタートします。水のバプテスマと聖霊のバプテスマはこの重要な段階であり、ゴールが天のエルサレムです。

 さあ、私たちが使命を終え、この世の体を脱いで新しい体を与えられ、天のエルサレムに入る時のことを想像してください。どんなに歓迎されることか、また都の素晴らしさに息がつまるほど喜びに満たされることか、想像できるでしょうか。

2019年8月11日 (日)

誰が救われるのか

マルコ 10章26節   新改訳2017
弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 

 常に人だかりがあったイエス様の周囲で、ある日突然、誰もが知る立派な服を着た一人の人が皆から跳び出し、イエス様に駆け寄って来たのです。思いあまっての行動に違いありません。誰もが知っていた有名人物、非常に富んだ人、品行方正で評判の良い若き指導者でした。その地方の貴族とか議員のような人だったかも知れません。押さえて置きたいことは、当時のユダヤで豊かさは神から祝福を受けていると思われていたことです。

 その彼がなんとイエス様の前に出て膝まづき、思いあまったように質問をしました。「良い先生、永遠のいのちを得るためには何をしたら良いのでしょうか」と。この青年には真実を見分ける目があり、良質で正しい問題で悩んでいたのです。
 イエス様はこの青年に対し、十戒の第五から第九までを守るように言われました。青年はそれらを皆守っていますと答え、それでも自分には永遠のいのちが得られる感覚がないことを言わずもがな語っているのでした。

 この青年に対し、慈しみながらもイエスは「あなたに欠けたものが一つある」、それは十戒の十番目、隣人愛ですとズバリ指摘されました。そして具体的な解決法、「全財産を貧しい人に施し、その上でわたしに従ってきなさい」とイエスは言われたのです。

 ところが若者は多くの財産があったため、この勧めに従うことができませんでした。青年は世の富を捨ててまで、永遠のいのちを得ようとは思わなかったのです。悲しみながら去っていく青年に対し、イエス様は嘆息して「金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通る方が易しい」と言われたのです。

 栄枯盛衰、世でのどんな富も時間とともに必ず消え失せます。富は死後の世界にまで持って行けないことは皆知っています。また愛する家族が、財産の相続を巡ってどれほど骨肉の争いを繰り返してきたことでしょうか。世の富、財産は、神の国を目指す者にとっては躓きの元となり、足かせとなり、自身を滅びに至らせる呪縛ですらあります。

「らくだが針の穴を通るより・・・」しかしその絶望に対し、「神にはどんなことでもできる」と神は手を差し伸べられています。神の恵みとあわれみは不可能を可能に、奇跡を起こすのです。

 世と富みに依存する心も、悔い改め、神のあわれみにより聖霊のバプテスマを受けるならば、全く価値観が変わってしまいます。それは畑で宝物を見つけた人のように、自分の全財産を売り払ってでも、その畑を手に入れようとすることに似ています。これは神がされる心、たましい、霊の奇跡であって、人には不可能なできごとなのですから。

2018年6月 3日 (日)

信じる者はみな、神から生まれた

1ヨハネ5章20節  
イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。
 

 「罪がわかる幸せ」~救われることを願って、親しい友人や親族の前で福音を語りますと、聞く人は三者三様です。熱心に聞いてくれたり、詳しく知ろうとする人はごく少ないのですが、励まされます。次に聞き流すか、聞きたくない人。霊、魂など見えないもの、現世に関係ないものには関心がないのでしょう。最後に嫌がる、または露骨に怒り出す人がいます。自分を正しいと思っているので、救われなければならないこと、悔い改めなければならないことに抵抗を感じます。まして死後の裁きについて聞くことは、見逃せない不愉快なことなのです。
この違いは、自分の心の中を正しく見ているかどうか、つまり罪意識があるかないかによるものでしょう。その結果、頑なさに違いが生じているのです。

 逆に今礼拝している皆さんは、神に愛され、神の子とされている非常に恵まれた方で、我が国の人口の2%しかいない、つまり五百人に一人という超祝福を受けておられる方なのです。クリスチャン二世を除いて、皆さんの共通項はただ一点、罪が分かったという点なのです。なぜなら、罪が分からなければ悔い改めることができません。罪がわからなければ、悔い改めて救い主、私の罪の身代わりに十字架を受けてくださったイエス・キリストを信じる必要は感じません。ですから、信じる前はどう自覚しておられたとしても、呪われ恐れていた自分の罪深さが、大逆転してクリスチャンには大きな祝福となりました。

 ではどうして自分は罪が分かったのでありましょうか。だいたいは以下の部類に当てはまることでしょう。病の癒やしを求めて。不幸や不条理の理由を探して。自分の能力の低さに解決を求めて。心の傷の空白を埋めたい人、あるいは死を直前にして命を考えさせられた人もいることでしょう。そして神を見出された誰もが、上述した解決を求めて行く中で、自分が、自分がという愚かしさ、罪に気づき、悔い改める心が生じた時に、惨めな自分をも愛してくださった神を知った方が多いと私は思うのです。

 自分の不幸が神を信じ、永遠のいのちがあたえられる幸福を導いてくれました。またそのように、私たちクリスチャンは、本能的に神が父であることが分かるのです。なぜなら、私たちは神の子どもだからです。実の子なら、自分に父が居ることを知っており、たとえ会ったことがなかったとしても、父が父であることが分かるのです。               

 みなさん、父なる神を一層信じ、愛しましょう。小さな子どもが、素直にすべてを父の前で話すように、いつでもどんな時でもお祈りしましょう。父もそれを望んでおられます。そしてそれに答えてくださる、生きたお方が私たちの父なのです。

2016年4月17日 (日)

すくい (罪意識の問題)

ロ-マ 5章18節
こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が 罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。
 東京神学校の HPに「なぜクリスチャンになる人は少いのか」が載っていました。クリスチャンと言えるのは、イエス・キリストの実在やそれをただ信じるだけでは不十分で、「十字架のイエスの死が、自分の罪の身代わりなのだということがわからなければならない」とありました。「パッション」という映画がありましたが、あの映画ではキリストがむち打たれるむごいシーンがありました。後で聞くと、映画館で気絶した人まで出たそうです。真のクリスチャンならそうなると思います。クリスチャンにとっては、あのむちの痛みは本来、自分が受けなければならなかったことなのですから。

自分がどれほど罪深く、自分の力では脱出不可能な罪の底に沈殿している認識が必須です。そうでなければ、救われなければならない自分はありません。聖書も十字架も神も、必要ないのです。神を信じない人はみな同じです。ちょうど、病人が病院へ行くときのことを考えてみればよく分ると思う。自分が病人であるということを認めなければ、病院へ行くことはないだろう。自分が病気であるということが分るまでは、頑固に病院行きを拒んでいるように、自分が罪人だということが本当に分らなければ、キリストの十字架上の死が私の罪の身代りの死であることを認めることはできない。
 しかし一方、人間的などんな努力をしようと、「このままでは自分は地獄行きだ」と自覚した者にとっては、十字架は神の力であり、救いです。神ご自身がその人の一切の罪の身代わりとなって引き受けてくださったからです。ただし注意してください。神が身代わりという代価を払って買い戻された神の所有物、それがあなたであり、あなたは神の奴隷なのです。奴隷というのは、すべて主人の意のままに動かなければなりません。ですから神に聞き従わない奴隷は、天国には行けてもご褒美というか、天の宝に差があると思われます。
 ところで新生と言うことについて、みなさんはどのように体験していますか。カトリックや正教、英国国教会は洗礼と同時に新生するというドグマ(教義)です。しかし多くのプロテスタント教会では、そうは受け取っていません。形式である儀式そのものに力があるのではなく、回心という個人的な体験を通し、新生が神から賦与されるとしています。
  さらにカリスマ派やペンテコステ派は一歩進めて、聖霊のバプテスマを受けることによって新生し、神と交わり、神のオーダーが分かり、神に聞き従う人生をスタートさせることができるとしている。この派の人たちの見方(つまり私たち主の十字架)では、バプテスマに水のバプテスマと聖霊のバプテスマの二つがあり、新生は後者のことを指すとなっています。つまり神に聞き従う人生とは、新生した者の特徴なのです。