交わり
✝ヨハネ 21章5節 2017新改訳
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」
「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」
これは復活されたイエス様が、ガリラヤに戻っていた弟子たちにかけられたことばで、愛ある言葉ではないでしょうか。魚が釣れなくては危うく朝食抜きになりそうな弟子たちを救い、この後の主との朝食にどんな会話があったのか、きっとワクワク楽しい交わりだったことでしょう。
福音書でのイエス様を見れば、食事の席での記事が多いことに気づきます。パリサイ人のようなお金持ちに招かれるだけでなく、見下げられていた取税人や罪びと共に食事することをむしろ喜ばれました。一緒に食べることは、人と人とが知り合い、交わる最高の機会です。私たちでも披露宴や葬式だけでなく、お正月、職場の慰労会やパーティなど、ことあるごとに食事しながら交わっています。事情はイスラエルでも全く同じだったのでしょう。特にイエス様と食事の記事では、過ぎ越しの食事(最後の晩餐)や五千人の給食、譬え話での「王の宴会」や「十人の乙女」など、記憶に残る話が多く、食事が重要な意味を持っています。
私も大学を卒業した時、それから30年近く経って福音派からカリスマ派に転向した時など、教会遍歴をいたしました。中には礼拝が終わると、さーっと即、解散する教会もあれば、「皆さん、ご一緒に」とカレーなどの食事が伴う教会があります。礼拝で牧師メッセージがどんなに良くても、食事時にお腹を空かせたまま礼拝者を帰らせるのは、イエス様の御心ではないと私は思います。人間的な交わりを排してただ神さまとだけで良い、そのように思われる方は、礼拝より祈祷院の方が向いています。教会はキリストの御体(みからだ)です。手や足、目など体の肢体の働きに養分が必要であるように、食事が無い教会には二度と足を運ぶ気にはなれません。言い換えれば食事を通しての教会の人々との交わりそのものが、人と人とを結ぶものであって、食事での交わりを通して教会の信仰と伝道スピリットが表れるのです。
また食事が出せなかったとしても、礼拝に来る人は<求め><飢え渇き>があるのです。ご自分が無理なら、牧師室へ、それができなかったらたとえ帰り道すがらでも、交わりは可能です。決して手ぶらで帰られることはないようにしましょう。教会は礼拝が第一ですが、交わりも第二に重要です。この二つがエクレシア(集会)教会の生命線であることを、今一度確認し、祈って行きましょう。
当教会は今は持ち寄っての食事ですが、少し前まで牧師カレーの日がありました。今後また可能な状況になりましたら、是非とも復活させたいことの一つです。