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教会

2014年3月 2日 (日)

私たちは主のもの、教会も主のもの

エペソ1章23節
今週は「私たちだけでなく、教会も主のもの」であることが主題です。
 どんなに福音が伝えられ、救われても、教会につながらなければ空しいものです。教会はキリストのからだであり、キリストの霊が満ちている所です。こ植物にとって芽を出し、根を張る大地のような存在です。

 さてこの世の中にはいろいろな教会があります。私たちの群れでは大きく会衆制・長老制監督制と分けています。私自身は30年近くバプテスト教会に属し、長年執事を務めたので特に会衆制について熟知しています。
 会衆制では教会の権威は、日本国憲法における国民主権のように教会員(エクレシア)にあります。しかしながら実質は長老・執事・役員と各種呼ばれる、教会員によって選ばれた人たちの合議で進められていきます。牧師は期間限定の雇用関係にあり、メッセージや個別の指導を除いて、合議を通さなければ何も決めることができません。選挙でどのような人が選ばれるのかは、人の目に良かれと思われる人物です。家庭があって社会的な地位のある人、成功した人です。世の中に貢献できている人なら、教会にもきっと同じように貢献してくれる、そう思ってのことでしょう。教会はいったい、誰のものなのでしょうか?

 しかしこのような人たちこそ、世的な献身できていない、ある意味で霊的には最悪な人が多いのです。私は嫌というほどこれらのことを体験しました。考えてもみてください。牧師は世の論理で考える役員会の承認を受けなければ、重要なことは何一つ決められないのです。そんな牧師に力ある神の働きがどうしてできるでしょうか?牧師は契約関係という、期間限定の「雇われ牧者」に落とされています。教会は単なる助け合いの互助組合のようです。

 私はこう考えます。牧師とは神から直接、牧師としての召命を受けた人であって、神に導くその地に召命者である牧師が立つ時、神のご意思であり、たとえたった一人でもそこに教会は存するのです。教会は神の意志とご計画によって立ち、御言葉にある通り、キリストの体としてあるのです。教会は神のもの、神が牧される所です。

 そこに遣わされる牧者とはお雇いでなく、羊のために命を捨てることができる牧者でなければなりません。それが誰かは、神がまずお決めになります。逆に言えば、自分を神に捧げた者が選ばれ遣わされるのです。私たちの群れはこの形に近いのです。聖書にある使徒時代と同じように、教会において、霊的な権威と実質的な権威にずれがありません。後の雨の時代、神が私たちを用いて働かれる証拠でもあります。また信徒も同様です。世においては力なく、弱くされた者、まさにそのような人を通して神はご自身の栄光をあらわされるのです。

2013年8月25日 (日)

教会の恵み

1コリント 12:14-27
 教会はキリストのからだと聖書は言っています。ということは教会員一人一人の働きは異なるのですが、それぞれが体の一部として組み合わさって、それで一つの体として機能すると言っているのです。体としては目も頭も手も足もなければ困るのです。
 クリスチャンは教会というみ体をもっているのが通常です。持っていないとすれば、それはきわめて危険な状態であり、正常ではありません。言い方を変えれば、教会というキリストのみ体に属していなければ、信仰を守ることができません。目や耳が自分の体から離れては生きていけないのと同じです。

 私はかつて長い間福音派と呼ばれる教会にいました。が、癒やしの必要から「聖霊」を求めるようになり、その教会の信仰とは異なった道に進み始めました。アブラハムのように、まさに行く道を知らないで踏み出しました。聖霊の信仰を求め、結局、首都圏の某ペンテコステ派の教会の、広島家の教会という、今で言うウェブ会員になりました。しかしテレビを通してのみ体つくりという方向は、私の家族の場合失敗に終りました。本当の生きた体、実際の体を通しての交わりでないと、霊的な成長ができず、決して満足することはできなかったのです。

 このように私には「体」を失って彷徨した時代がありました。みなさん、生きる神、聖霊の臨在なしの信仰とは、空をつかむような、ぼんやりと曇った鏡を見るような信仰であり、力のない信仰なのです。いつまでも幼子のような信仰で、成長がありません。教会がどのような信仰を持っているか、教会というみ体の恵みはとてつもなく大きいものです。ヨハネ15章に、「わたしはまことのぶどうの木」であり、「実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き」とあります。「実」を結ぶためには、まことのぶどうの木に、その枝につながっていなければ、実を結ぶことができないのです。「まことの」とは生きた神の霊が注がれ続けている教会のことなのです。ですからどのような教会に属するかは、実がなるかならないかの分かれ目、決定的に重要なことです。

 残念ながら日本の教会で、聖霊なる神が今も生きて働かれていると信じ、聖書をすべて神のことばとして受け入れている教会は、そう多くはありません。その上、異言だけでなく預言など九つの賜物すべてを用いようとしている教会は本当に一握りなのです。私たちの群れは迫害されてきました。今は少し認められて来て、以前ほど迫害がありません。しかしこの群れには未だに聖霊の賜物が著しく現れているわけではありません。この程度で賞賛の霊にやられてはいけません。実質が現れてくるその日まで期待と祈りを持ち、信仰を堅く守って行きましょう。

2013年7月28日 (日)

わたしたちの教会の使命

Ⅰコリント 14章12節

 フィラデルフィアの教会とは黙示録の七つの教会の一つです。しかし他の教会と異なっている点がありました。
「・・・・ことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう(黙3:10)」
ここでの「全世界に来ようとしている試練の時」とは、この後の七年の患難時代に他なりませんし、「守ろう」とは「携挙」されることなのです。つまりフィラデルフィアの教会だけが唯一携挙される教会なのです。それはなぜかと言うと、「神のことばを守って忍耐し、神の名を否まなかった」からなのです。
 神の言葉とは聖書です。また聖書の枠内にある「預言」でもあります。特に聖書を神の言葉として100%信じる信仰がなければ、死をも恐れずに神の名を称えることはできないことでありましょう。これがフィラデルフィアの教会なのです。この群れだけがそうであると言う訳ではありませんが、確かにこの群れは聖書を原典において神の言葉とする信仰に立っている教会でなのです。

 さて船橋キリスト教会はわが国民同胞を、大勢神の国へ携挙させる特別な使命が与えられています。ところがこの国にはそれを阻む巨大な壁があります。長所とされてきた事物を知的に考えようとし、目に見えないことを容易に信ぜず、あらゆることに主体的に考え判断しようとする、普通は長所である聡明さが問題なのです。これは霊的な見地で言えば、みな「自分教」に冒されているのであり、自分が神という百花繚乱、八百万の多神教徒と言えるのではないでしょうか。一例をあげれば、もし進化論を否定し、聖書的な創造論を真顔で説明すれば、この国では精神病院に送られかねないのです。

 このような人々を打ち砕くのは、死人のよみがえりのような「奇跡」や目に見えての「癒やし」などの力系の賜物でしょう。その上に人々は「預言」に驚嘆し、神が実際に居られることに気づくことでしょう。この国のリバイバルは、日本人の高慢な知性を粉々に打ち砕く神の力によって、大きく開かれていくとわたしはかたく信じているのです。
 わたしたちの教会は聖書を神の言葉と信じる信仰の土台の上に、聖霊のすべての賜物を熱心に求める教会であり、その上にリバイバルに必要な神の力、今現在でも「預言」や「癒やし」などの不思議と奇跡に満ちている教会なのです。ですから聖書の「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい(1コリ14:1)」を文字通り実践し続けているのです。愛する兄弟姉妹の皆さん、退いてはいけません。かたく信仰に立って、さらに時が来るまで熱心にし続けて行きましょう。

2013年6月16日 (日)

教会はキリストのからだ

エペソ 1章20~23
 牧師としてこれまで人から相談を受けたり、時には「祈ってください」とリクエストされることがありました。その中のある方の例ですが、非常に経済的な困難な状況で、ずっと苦しんでいらっしゃるのです。その中でカリスマの信仰も求めておられ、時には東京カリスマ聖会に出席されたりアンテオケのホームページを観ていらっしゃるようです。それである時、こう言われるのです。アンテオケ教会のホームページに絶大な人気の「クリスチャンの寄り道」と言うのがありますが、こう言われるのです。「『クリスチャンの寄り道』にはいっぱい祝福があるのに、どうしてわたしにはないんでしょうか?」と。
 わたしは言葉に詰まって、一瞬「神さまにどう答えたらよいのでしょうか?」と祈ると、「はっきりとその訳を言いなさい」と示されるんです。それで言いにくかったのですが、その方にズバリ、次のように答えました。
「あなたは教会に来ておられないので祝福がないのです。教会はキリストの体ですので、体に伴う実際的な恵みが注がれないんです」と。

 確かにキリストのみ体である教会に属するのと属さないのとでは、大きな違いがあるのです。なぜなら教会とは「キリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ(エペ 1:23)」です。ここに居られるみなさんは、お一人お一人がもはやキリストの体の一部(1コリント6:15)となって教会に属しています。逆に言えばキリストの体の一部とならないことには、霊的にはともかく、実体がない幽霊も同然です。教会に属して信仰の実質が、祝福の実があらわれるのです。

 教会という御体につながることは、十戒の3条を除く十戒の第1条「神は唯一である」から4条の「安息日」までをカバーします。殉教した代々の聖徒たちは、命をかけて教会に集い、礼拝を守ったのです。
 わたし事ですが、信仰がカリスマ派になるに及んで、元の教会に属することができなくなった時期がありました。その時の霊性の落ち様は破滅的なレベルのものでした。教会に属していないで健全な信仰というものは、その時あり得ないことを身を以て体験しました。みなさん、教会に属していない、愛する兄弟姉妹のために祈りましょう。その多くは真の神を見い出せず、自分中心の実のない信仰のままです。また教会の人間関係に躓いたのかも知れませんが、それで教会に行かないというのは、完全に誤った選択です。神様に自分の教会を導いていただく祈りをするべきでした。一度は光を見た愛する兄弟姉妹よ、教会に戻りなさい。その迷える魂を神に委ね、従いなさい。私たちも熱心にとりなしの祈りを捧げましょう。