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教会

2024年6月 9日 (日)

交わり

ヨハネ 21章5節   2017新改訳

イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」

「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」
 これは復活されたイエス様が、ガリラヤに戻っていた弟子たちにかけられたことばで、愛ある言葉ではないでしょうか。魚が釣れなくては危うく朝食抜きになりそうな弟子たちを救い、この後の主との朝食にどんな会話があったのか、きっとワクワク楽しい交わりだったことでしょう。

 福音書でのイエス様を見れば、食事の席での記事が多いことに気づきます。パリサイ人のようなお金持ちに招かれるだけでなく、見下げられていた取税人や罪びと共に食事することをむしろ喜ばれました。一緒に食べることは、人と人とが知り合い、交わる最高の機会です。私たちでも披露宴や葬式だけでなく、お正月、職場の慰労会やパーティなど、ことあるごとに食事しながら交わっています。事情はイスラエルでも全く同じだったのでしょう。特にイエス様と食事の記事では、過ぎ越しの食事(最後の晩餐)や五千人の給食、譬え話での「王の宴会」や「十人の乙女」など、記憶に残る話が多く、食事が重要な意味を持っています。

 私も大学を卒業した時、それから30年近く経って福音派からカリスマ派に転向した時など、教会遍歴をいたしました。中には礼拝が終わると、さーっと即、解散する教会もあれば、「皆さん、ご一緒に」とカレーなどの食事が伴う教会があります。礼拝で牧師メッセージがどんなに良くても、食事時にお腹を空かせたまま礼拝者を帰らせるのは、イエス様の御心ではないと私は思います。人間的な交わりを排してただ神さまとだけで良い、そのように思われる方は、礼拝より祈祷院の方が向いています。教会はキリストの御体(みからだ)です。手や足、目など体の肢体の働きに養分が必要であるように、食事が無い教会には二度と足を運ぶ気にはなれません。言い換えれば食事を通しての教会の人々との交わりそのものが、人と人とを結ぶものであって、食事での交わりを通して教会の信仰と伝道スピリットが表れるのです。

 また食事が出せなかったとしても、礼拝に来る人は<求め><飢え渇き>があるのです。ご自分が無理なら、牧師室へ、それができなかったらたとえ帰り道すがらでも、交わりは可能です。決して手ぶらで帰られることはないようにしましょう。教会は礼拝が第一ですが、交わりも第二に重要です。この二つがエクレシア(集会)教会の生命線であることを、今一度確認し、祈って行きましょう。
 当教会は今は持ち寄っての食事ですが、少し前まで牧師カレーの日がありました。今後また可能な状況になりましたら、是非とも復活させたいことの一つです。

2023年11月26日 (日)

信仰義認

✝ ローマ 1章17節   2017新改訳

 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 私たちプロテスタントが、カトリックからどういういきさつで別れ出てきたのか、そのことを知らなかったとしたら、自分の正体が不明という由々しき問題です。本日は宗教改革を取り上げます。

 プロテスタントの誕生、いわゆる宗教改革はルターによって、1517年、ヴィッテンベルク城門に95ヶ条の論題を張り出されたことによって始まりました。ルターは親の希望通り、法律家を目指していましたが、ある日雷に打たれて死にそうになり、現世より永遠の世界に目覚めて修道会に入りました。修道士から司祭になっていく中で、救いについて大きな悩みを持つようになりました。裁き主である神の義の前に、人間の罪深さがどこまでキリストによって赦されるのか、と言う疑問です。
 ご存じのとおり、カトリックでは礼拝堂の中に告解室があります。信者は司祭を通して神に罪を告白することよって罪がゆるされるとしていますが、すべてを告解しないと罪が残る訳で、救われて天に行きたい人々にとって、これは重要な課題でした。この罪のゆるしについて、ちょうどこの頃、教皇レオ10世によって贖宥状(免罪符)が販売されました。罪のゆるしを金で買う贖宥状の誤りを、城門に張り出したルターが触れていたため、教皇に逆らう宗教改革が始まったのです。しかしながらルターは、贖宥状自体は主題ではなく、具体的な例でのおまけのようなものでした。

 実際はルターが悩んでいた神の二面性についての答えを啓示によって見い出し、その観点からカトリック信仰の内部改革を目指したものでした。神には裁き主、義なる神という面と、十字架で愛し、罪をとりなし赦す神イエス・キリストの両面があります。神を愛すると言っても、恐れが含まれていれば、真に神を愛したとは言えません。この問題はカトリックだけでなくプロテスタントの多くのクリスチャンが、神の義と聖による裁きの恐れを排除できていないと私は見ています。

 私の見解ではこの時ルターへの啓示とは聖霊の満たし、聖霊のバプテスマを受けて恐れを解決したと思われます。聖霊が己の内に臨在され住まわれる大いなる出来事によって、完全な義が自らの内に存在されたのです。義と聖は自分がつかみ到達するものではなく、神の一方的なプレゼントによって神の内に見い出され実現するのです。そのことを「福音のうちには神の義が啓示されていて‥‥『義人は信仰によって生きる』」(ロマ1:17)とパウロが言ったのです。
 こうしてルターは、罪のゆるしの難問を一気に解決し、カトリック信仰の罪を告解や行いでゆるすという反聖書性を暴いたことが贖宥状批判に結びつき、一気に宗教改革が始まったのです。

2019年5月12日 (日)

教会~召された人々

Ⅰコリント 1章2節     新改訳2017

キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。

 昨日の聖書箇所、へブル2章12節で「会衆」とありますが、別訳で「教会」でした。英語ではアッセンブリーと言い、集まり、集会のことです。一般的なChurchはギリシャ語の エクレシアecclesiaが語源ですが、エクとは~からという意味、レシアとは=呼ぶと言う意味で、アッセンブリーと同様、「(神)から呼び集められた人たち」という意味です。旧約聖書の時代から、教会とは「人々の集まり」という意味だったのです。

 ところが私がキリスト教に接し始めた十代の頃から、私にとって教会とは建物である会堂のことでした。屋根を消失した荘厳なノートル・ダム大聖堂から、森の中の小屋のような教会に至るまで、十字架が掲げてある所、そこが教会だと思っていました。日本では神社仏閣の境内・建物等が信仰の対象になるので、これは日本人の自然な感覚でしょう。しかしこれは拭い取らなければならない認識です。それだけでなく、この教会堂があることによって、実は大きな問題があることをクリスチャン自身ですら気づいていないのです。

 日本では宗教法人法という法律があります。会堂など税金が免除される代わりに、責任を負う3名以上の役員と、財産管理と教会員数などの報告する内部規定が必要です(3章18,25条)。その意味もあって、教会では洗礼証明書とか転会状とかを必要としているのです。特に問題なのが3名以上の教会の根幹とも言える役員会です。私は立派な会堂を持つ大きな教会で役員を二十年しましたが、役員会はまさにこの世そのものであって、信仰とか霊性についての話は皆無でした。仕事の押し付け合い、様々な対立、これが教会だろうかと目を疑う連続でした。

 先週学んだように、教会はイエス様が「(ペテロの告白した)岩の上に」建てると言われたものです。その後、約束通り、十字架の死と復活によって死の力を滅ぼされ、教会はペンテコステの聖霊の注ぎによってスタートしました。聖書的には教会の頭はキリストであり、教会はそのみからだです。教会には設立の当初からキリストの霊が満ちているものなのです。その教会が、聖霊と告白する信仰を失っている例がなんと多いことでしょうか。
 ですから会堂はある意味、わなです。宗教法人法から、あるいは見える教会という物質化から守られています。会堂を持たない私たちは聖書の使徒時代の教会と同じです。本来の信仰オンリーの存在として、純粋で真実な教会です。私たちは恵まれているのです。
 
 何年か前の殉教聖会で「この中で、殉教をも厭わない人、前に出てきてください」との呼びかけに対し、その場の何百人という参加者のほとんどが立ち上がり、前に進み出ました。死を恐れない私たちの信仰こそ、真の教会であるしるしが現されているのです。

2019年5月 5日 (日)

この岩の上に

マタイ 16章15-18節    【新改訳2017】

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

<1>教会は、ペテロが代表して「あなたこそ神の子キリストです」の自発的な信仰告白が土台です。
<2>教会が具体的にスタートしたのはペンテコステでの聖霊の注ぎと働きからですが、教会の頭(かしら)はキリストです。このキリストが言われて居ように、三位一体の助け主、聖霊の働きによって最初は三千人の教会からスタートしました。聖霊の臨在とその働きがなければ、教会はそのいのちを失ったも同然になります。
<3>クリスチャンの使命とはキリストの十字架と復活の全世界での証人です。教会は証人としての働きの土台ですが、キリストの御体そのものであり、世界宣教への母体です。ですからクリスチャンは自分の体である教会を離れては存在出来ず、その肢体の一つとなって恵みを受けて生きることができるのです。
教会には福音宣教を広める以外に、教え育てる、聖礼典を執行するなどがあります。
私たちクリスチャンは御体の一部としての働きを全うしていきましょう。

私はバプテスマを受けた二十歳の時から、教会を中心に生活してきました。日曜日には一家そろって教会へ、そんな私でしたが、教会の恵みを心から思い知らされたのは、皮肉にも自分の教会を失った時でした。
それは前の妻が拒食症を発症したためです。普通の福音派の教会でしたので、医師からは絶望的な宣告をされました。癒やしだけが最後の希望でした。しかし教会には癒やしがありませんでした。初期の時代の溢れるほど載っている癒やしは、聖書が完成した今、もう終わったと言うのです。しかしこれは聖書のどこにも記述がないのです。神の癒やしにしかすがろうとした者にとって、これはいきなり家を追い出され、路頭に迷ったようなものでした。

こうして癒やしと教会を探す十年にわたる放浪が始まりました。本当に辛かったですね。信仰もどんどんレベルダウンしていきました。家族がバラバラになり、生きる目標も失ってもう終わりだという時、神は私の自分の真の姿を教え、悔い改めさせ、ご自分をハッキリとわたしの前に現されました。その日一日中私は神のリアルな存在に圧倒されつつ、「主よ、癒やしを否定し、死んだような教会では無く、どうか私のいける生きたからだ、私の教会を与えてください」と祈りました。

不思議なことにその夜、主はインターネットで、それまで全く知らなかったTELA (旧主の十字架クリスチャンセンター)を教えてくださり、なんと翌日には聖会までセットされている素晴らしいタイミングで導いてくださいました。翌日、私は不安と期待で聖会の会場に着きました。すでに始まっていたらしい会場のそのドアの隙間から漏れる光、わたしはそれだけで自分の教会が「ここだ」という、ついに見つけた喜びに包まれたことを忘れることができません。教会がなかった苦しみを通し、真実の信仰がある教会こそ、本当の教会であることを、皆さんと分かち合って喜びたいと思います。

2014年3月 2日 (日)

私たちは主のもの、教会も主のもの

エペソ1章23節
今週は「私たちだけでなく、教会も主のもの」であることが主題です。
 どんなに福音が伝えられ、救われても、教会につながらなければ空しいものです。教会はキリストのからだであり、キリストの霊が満ちている所です。こ植物にとって芽を出し、根を張る大地のような存在です。

 さてこの世の中にはいろいろな教会があります。私たちの群れでは大きく会衆制・長老制監督制と分けています。私自身は30年近くバプテスト教会に属し、長年執事を務めたので特に会衆制について熟知しています。
 会衆制では教会の権威は、日本国憲法における国民主権のように教会員(エクレシア)にあります。しかしながら実質は長老・執事・役員と各種呼ばれる、教会員によって選ばれた人たちの合議で進められていきます。牧師は期間限定の雇用関係にあり、メッセージや個別の指導を除いて、合議を通さなければ何も決めることができません。選挙でどのような人が選ばれるのかは、人の目に良かれと思われる人物です。家庭があって社会的な地位のある人、成功した人です。世の中に貢献できている人なら、教会にもきっと同じように貢献してくれる、そう思ってのことでしょう。教会はいったい、誰のものなのでしょうか?

 しかしこのような人たちこそ、世的な献身できていない、ある意味で霊的には最悪な人が多いのです。私は嫌というほどこれらのことを体験しました。考えてもみてください。牧師は世の論理で考える役員会の承認を受けなければ、重要なことは何一つ決められないのです。そんな牧師に力ある神の働きがどうしてできるでしょうか?牧師は契約関係という、期間限定の「雇われ牧者」に落とされています。教会は単なる助け合いの互助組合のようです。

 私はこう考えます。牧師とは神から直接、牧師としての召命を受けた人であって、神に導くその地に召命者である牧師が立つ時、神のご意思であり、たとえたった一人でもそこに教会は存するのです。教会は神の意志とご計画によって立ち、御言葉にある通り、キリストの体としてあるのです。教会は神のもの、神が牧される所です。

 そこに遣わされる牧者とはお雇いでなく、羊のために命を捨てることができる牧者でなければなりません。それが誰かは、神がまずお決めになります。逆に言えば、自分を神に捧げた者が選ばれ遣わされるのです。私たちの群れはこの形に近いのです。聖書にある使徒時代と同じように、教会において、霊的な権威と実質的な権威にずれがありません。後の雨の時代、神が私たちを用いて働かれる証拠でもあります。また信徒も同様です。世においては力なく、弱くされた者、まさにそのような人を通して神はご自身の栄光をあらわされるのです。

2013年8月25日 (日)

教会の恵み

1コリント 12:14-27
 教会はキリストのからだと聖書は言っています。ということは教会員一人一人の働きは異なるのですが、それぞれが体の一部として組み合わさって、それで一つの体として機能すると言っているのです。体としては目も頭も手も足もなければ困るのです。
 クリスチャンは教会というみ体をもっているのが通常です。持っていないとすれば、それはきわめて危険な状態であり、正常ではありません。言い方を変えれば、教会というキリストのみ体に属していなければ、信仰を守ることができません。目や耳が自分の体から離れては生きていけないのと同じです。

 私はかつて長い間福音派と呼ばれる教会にいました。が、癒やしの必要から「聖霊」を求めるようになり、その教会の信仰とは異なった道に進み始めました。アブラハムのように、まさに行く道を知らないで踏み出しました。聖霊の信仰を求め、結局、首都圏の某ペンテコステ派の教会の、広島家の教会という、今で言うウェブ会員になりました。しかしテレビを通してのみ体つくりという方向は、私の家族の場合失敗に終りました。本当の生きた体、実際の体を通しての交わりでないと、霊的な成長ができず、決して満足することはできなかったのです。

 このように私には「体」を失って彷徨した時代がありました。みなさん、生きる神、聖霊の臨在なしの信仰とは、空をつかむような、ぼんやりと曇った鏡を見るような信仰であり、力のない信仰なのです。いつまでも幼子のような信仰で、成長がありません。教会がどのような信仰を持っているか、教会というみ体の恵みはとてつもなく大きいものです。ヨハネ15章に、「わたしはまことのぶどうの木」であり、「実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き」とあります。「実」を結ぶためには、まことのぶどうの木に、その枝につながっていなければ、実を結ぶことができないのです。「まことの」とは生きた神の霊が注がれ続けている教会のことなのです。ですからどのような教会に属するかは、実がなるかならないかの分かれ目、決定的に重要なことです。

 残念ながら日本の教会で、聖霊なる神が今も生きて働かれていると信じ、聖書をすべて神のことばとして受け入れている教会は、そう多くはありません。その上、異言だけでなく預言など九つの賜物すべてを用いようとしている教会は本当に一握りなのです。私たちの群れは迫害されてきました。今は少し認められて来て、以前ほど迫害がありません。しかしこの群れには未だに聖霊の賜物が著しく現れているわけではありません。この程度で賞賛の霊にやられてはいけません。実質が現れてくるその日まで期待と祈りを持ち、信仰を堅く守って行きましょう。

2013年7月28日 (日)

わたしたちの教会の使命

Ⅰコリント 14章12節

 フィラデルフィアの教会とは黙示録の七つの教会の一つです。しかし他の教会と異なっている点がありました。
「・・・・ことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう(黙3:10)」
ここでの「全世界に来ようとしている試練の時」とは、この後の七年の患難時代に他なりませんし、「守ろう」とは「携挙」されることなのです。つまりフィラデルフィアの教会だけが唯一携挙される教会なのです。それはなぜかと言うと、「神のことばを守って忍耐し、神の名を否まなかった」からなのです。
 神の言葉とは聖書です。また聖書の枠内にある「預言」でもあります。特に聖書を神の言葉として100%信じる信仰がなければ、死をも恐れずに神の名を称えることはできないことでありましょう。これがフィラデルフィアの教会なのです。この群れだけがそうであると言う訳ではありませんが、確かにこの群れは聖書を原典において神の言葉とする信仰に立っている教会でなのです。

 さて船橋キリスト教会はわが国民同胞を、大勢神の国へ携挙させる特別な使命が与えられています。ところがこの国にはそれを阻む巨大な壁があります。長所とされてきた事物を知的に考えようとし、目に見えないことを容易に信ぜず、あらゆることに主体的に考え判断しようとする、普通は長所である聡明さが問題なのです。これは霊的な見地で言えば、みな「自分教」に冒されているのであり、自分が神という百花繚乱、八百万の多神教徒と言えるのではないでしょうか。一例をあげれば、もし進化論を否定し、聖書的な創造論を真顔で説明すれば、この国では精神病院に送られかねないのです。

 このような人々を打ち砕くのは、死人のよみがえりのような「奇跡」や目に見えての「癒やし」などの力系の賜物でしょう。その上に人々は「預言」に驚嘆し、神が実際に居られることに気づくことでしょう。この国のリバイバルは、日本人の高慢な知性を粉々に打ち砕く神の力によって、大きく開かれていくとわたしはかたく信じているのです。
 わたしたちの教会は聖書を神の言葉と信じる信仰の土台の上に、聖霊のすべての賜物を熱心に求める教会であり、その上にリバイバルに必要な神の力、今現在でも「預言」や「癒やし」などの不思議と奇跡に満ちている教会なのです。ですから聖書の「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい(1コリ14:1)」を文字通り実践し続けているのです。愛する兄弟姉妹の皆さん、退いてはいけません。かたく信仰に立って、さらに時が来るまで熱心にし続けて行きましょう。

2013年6月16日 (日)

教会はキリストのからだ

エペソ 1章20~23
 牧師としてこれまで人から相談を受けたり、時には「祈ってください」とリクエストされることがありました。その中のある方の例ですが、非常に経済的な困難な状況で、ずっと苦しんでいらっしゃるのです。その中でカリスマの信仰も求めておられ、時には東京カリスマ聖会に出席されたりアンテオケのホームページを観ていらっしゃるようです。それである時、こう言われるのです。アンテオケ教会のホームページに絶大な人気の「クリスチャンの寄り道」と言うのがありますが、こう言われるのです。「『クリスチャンの寄り道』にはいっぱい祝福があるのに、どうしてわたしにはないんでしょうか?」と。
 わたしは言葉に詰まって、一瞬「神さまにどう答えたらよいのでしょうか?」と祈ると、「はっきりとその訳を言いなさい」と示されるんです。それで言いにくかったのですが、その方にズバリ、次のように答えました。
「あなたは教会に来ておられないので祝福がないのです。教会はキリストの体ですので、体に伴う実際的な恵みが注がれないんです」と。

 確かにキリストのみ体である教会に属するのと属さないのとでは、大きな違いがあるのです。なぜなら教会とは「キリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ(エペ 1:23)」です。ここに居られるみなさんは、お一人お一人がもはやキリストの体の一部(1コリント6:15)となって教会に属しています。逆に言えばキリストの体の一部とならないことには、霊的にはともかく、実体がない幽霊も同然です。教会に属して信仰の実質が、祝福の実があらわれるのです。

 教会という御体につながることは、十戒の3条を除く十戒の第1条「神は唯一である」から4条の「安息日」までをカバーします。殉教した代々の聖徒たちは、命をかけて教会に集い、礼拝を守ったのです。
 わたし事ですが、信仰がカリスマ派になるに及んで、元の教会に属することができなくなった時期がありました。その時の霊性の落ち様は破滅的なレベルのものでした。教会に属していないで健全な信仰というものは、その時あり得ないことを身を以て体験しました。みなさん、教会に属していない、愛する兄弟姉妹のために祈りましょう。その多くは真の神を見い出せず、自分中心の実のない信仰のままです。また教会の人間関係に躓いたのかも知れませんが、それで教会に行かないというのは、完全に誤った選択です。神様に自分の教会を導いていただく祈りをするべきでした。一度は光を見た愛する兄弟姉妹よ、教会に戻りなさい。その迷える魂を神に委ね、従いなさい。私たちも熱心にとりなしの祈りを捧げましょう。