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感謝

2023年10月 8日 (日)

感謝の心

コロサイ 1章12節   2017新改訳

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。
 感謝の心とはどういうことか。私たちの群れでは「悪いと思えることでも感謝」を特に推奨している。良かったことを感謝をするのは一般的だろうが、悪い出来事、状態を感謝するのは普通のことではない。しかしこれをことさら強調するのは、テサロニケ人への手紙 第一 5章18節にある、「すべてのことにおいて感謝しなさい」の「すべてのこと」の具体的実践であるからだ。つまり、御言葉をそのまま、生きた神のことばとして信じ行おうとする、信仰の現れでもある。
 一例を挙げれば、交通違反の切符を切られてしまって、落ち込んだり、自分の失態を嘆いてしまうより、神に感謝することは、どれほど素晴らしいことであろうか。逆にこれを胡散臭いと感じる向きもあるだろうが、その方は聖書と神の力を知らず、自分中心の力のない信仰に陥っているのかも知れない。

 そうは言っても群れの中には「かか、か、感謝します」と言葉は言っていようと、実態は全然感謝してない者もいるかも知れない。無理にでも感謝しなければいけないからするのであって、言葉だけのものかも知れない。が、それでも不満や悪態を吐くより、はるかに優れた対応である。
 感謝の信仰は優れて聖書的であり、それが真の感謝であったなら素晴らしいと言える。来たる終末の患難時代においては、この感謝の信仰なしには乗り切れないとさえ言われている。私たちはどんな悪いと思える状況にあっても、それは神が許されたことであり、十字架のイエスの死が神の大逆転勝利であったのと同じように、実際には最善な結果になることを信じている。

 本日私が示されていることは、この無理やり感謝する域を脱出することである。悪いと思えることを、私たちは信仰によって感謝する。聖霊(のバプテスマ)を受け、真に神と出会い、新生し、主と交わり続けておられる方々には、価値観のコペルニクス的反転が起こっているはずだ。この世や、今生きていること、今生かされていることなどは、やがて来る天での生活に比べればはるかに劣ることであって、取るに足りないことであることを実感している。

 では真に感謝する心とは何か?それは取るに足りない者とされたことへの感謝である。そこには自分の罪深さを一切弁解できないほどに徹底的に知らされていなかればならない。自分に死に、生まれ変わった者は、神の愛にすべてをささげている。抜き難い高慢、金銭への執着、少しでも自分を高めようとする罪性と常に戦っている。そして私たちには一人ずつに使命が与えられている。私たちのこの世での命は、その使命を果たすために用いられるのであって、自分の計画や願いによるものではない。それゆえ、人間的な思いで一喜一憂することは、たとえしたとしても、ランクが低いはずである。その上で、状況や環境が厳しくなるのであれば、それこそ「神の時」が近づいているしるしであって、私たちは大収穫の時が近づいていること、待ち望んだ使命を果たし、用いられることを喜ぶのである。

2023年9月24日 (日)

真の幸福な人

マタイ 25章34節  2017新改訳

 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 
真に主を信じるクリスチャンは、いつも喜びに満ちています。人間の一番の不幸は淋しさですが、親子、夫婦などどんなに大切な人であっても、人間であればいつかは別れが来ます。しかしクリスチャンは全く異なります。死も無く、変わらない愛と永遠の祝福に生きるのです。

 本日のマタイ25章には三つの裁きのたとえ話集といえます。「十人の乙女の話」「タラントの話」そしてこの「最後の審判」の話です。それぞれポイントがありますが、このたとえには、以下の重要なメッセージが込められています。天国へと祝福される人たちは、自分たちを義とせず、最後の審判まで山羊の群れの中に居ることです。それにつれて、私には思い出されることがあります。

 イスラエルをツアーしていた時の光景です。家畜は普通どちらかの群れになりますが、その時は山羊も羊も混在した群れでした。山羊の中に羊が並んで歩いていたのですが、山羊だけははみ出てついているものが多いのです。私も子供の時山羊を飼っていたのですが、山羊は飼い主に忠実ではありません。

 山羊も羊も飼われているのですから、これは牧会されている集団、つまりこの三つのたとえすべてがクリスチャン、教会員の群れであったことがわかります。主に牧されているはずのクリスチャンにも、全員が無条件に天国に凱旋するのではなく、最後に可否を決める審判があるようです。つまりクリスチャンと自称していても、「もっとも小さい者たちの一人にした」という信仰の実が問われていることです。この隣人への「空腹」「渇き」「旅人のもてなし」「裸や病気の者」への世話は、聖霊のクリスチャンなら当たり前のこととして見返りなしにすることでしょう。

 この「最も小さい者たちの一人にしたこと」が選り分けのポイントになるのですが、ここからいくつかの実際例を見ていきましょう。一番はチョー牧師から聞いた話ですが、ある時「家族を捨てて献身して来ました」という人物が弟子になりたいと来たそうです。彼に対し、チョー牧師は叱りつけたそうです。最も身近で小さき者を捨てる、そんなことはあり得ないのです。

 イエス様は30歳になってから公生涯に入られました。父親が早世したため、大工として一家を背負っておられましたが、その頃には弟のヤコブが家族を十分養える状態でした。
 私が献身したのは55歳の時です。献身するにはかなりの問題がありました。自宅や実家にある先祖代々の墓地や土地や家屋でした。しかし真に召命されたことを確信したのは、なんと主がすべての問題を解決してくださり、後顧の憂なく出発することができ、その際、何かを切り捨て犠牲にしたということはないのです。

 主は人の心を見られます。同じような親切行為であっても、主は見分けられるのです。心から信じて従うならば、地上においても祝福され、真に幸福な道を歩む人になるのです

2023年5月14日 (日)

いつでも感謝

エペソ 3章16節   2017新改訳

いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

 私たちの教会ではマーリンさんから受け継いだ 「感謝」を徹底している。だがそれと同時に感謝での注意点も浮き上がっている。それは以下の3点である。

〈1〉口先だけの感謝  〈2〉感謝に気づかない  〈3〉不純な感謝  
 順に説明していこう。
〈1〉では全然感謝していないのに、瞬間的に「感謝します」と言い替えたり、多分に〈口癖〉で習慣的に呟いているだけの人がいることである。
 例を上げれば、交通違反切符を切られて「頭に来ている」のだが、そばにいる人のために、悔しさを押し隠して「か、感謝しま~す」と言い換えただけの場合などである。

〈2〉では、自分の身に起こった悪い出来事(会社の倒産、罹患して入院など)を感謝しないでいることである。神を信じる人に起こるすべての物事は、すべて主の許しなしには起こり得ない。全ては後に最善な結果になる。それゆえ私たちは神を信頼し、全てにおいて徹底感謝をするのである。感謝なしに、私たちは主が期待される信仰者とは言えない。        

〈3〉不純な動機。これはいうまでもなく、感謝の誤った姿勢である。主イエスの十字架によって私たちの命が贖われているにも関らず、感謝しているからと、神様と取り引きをしているのである。例えば、「今私たちは、この苦しみと混乱のさなかにあって、感謝し、あなたを賛美しましたから、私たちをこの状態から出してください」等と。また

「これだけ感謝したんだから、きっと報われる」と期待することも同様である。

 このような感謝は、全く神へ感謝しているのではなく、ただ功利を求めているだけに過ぎない。そのような方たちは、試練に耐えられず、やがて絵のように信仰からも脱落する。私たちは不純な動機や隠されたたくらみから、己に死に、清められて、真に感謝する者とならなければならない。ダニエルは、命を狙われているはかりごとだと知りながら神に祈り、感謝を捧げることを止めなかった(ダニエル6:7−10)。どんな状況になろうとも、全幅の神への信頼を持って感謝する、これが私たちの感謝である。

いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。(エペソ人への手紙 5章20節)

2022年12月25日 (日)

感謝する

エペソ 5章19~20節   2017新改訳

詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。
いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

 クリスマスは名前からして、救い主イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いする、楽しく喜ばしい日という意味になります。しかしいくつかの理由があって私たちの教会は、キリスト教会であるのにほとんど祝わないのです。

まず12月25日という日、これは聖書の記述から正しくありません。この時期、ベツレヘムの山地に雪が降ることがあるぐらいですから、羊飼いたちが野宿ができるような気候ではありません。5月から10月の間なら可能でしょう。
なぜこの日にかと言うと、冬至が過ぎ、太陽の復活が始まる太陽を崇める異教の祭りの日に因んでいるからです。関連するのはミトラ教、サトゥルナリアです。ひいらぎなどの常緑樹、それへの装飾などがそうです。これには教会が異教徒の取り込みのために、キリストの降誕日が明らかでないのを利用した経緯があります。
キリストが受肉され、世に降臨されたことについて、慎んで感謝する日であるべきです。決してお祭り騒ぎにすべきものではありません。すでに学んだようにイスラエル民族の歴史を通して、キリスト来臨の必然がありました。偶像崇拝から律法遵守へとイスラエルは前進しましたが、それでも肝心の「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神を愛しなさい」は形骸化し、どうあっても神を自分以上に愛することは、人間自身の力では不可能であることが明らかになりました。そこで神ご自身が人間を救うための自己犠牲の愛の決断をされたのです。この後イエス様は十字架への苦難の道を歩まれます。それならば、救い主を送ってくださった神に心から喜び感謝はしても、儀式のように飾ったり、お祭りのように騒ぐのは本筋から外れています。神の愛に感謝する日なのです。

キリストが十字架で死なれたことは、罪と死が滅ぼされた勝利の瞬間になりました。三日後昇天され、天の神の右の座に着かれ、一切をさばかれる大能の君となられたのです。このキリストによって救われた私たちが本当に喜んで良いのは、大患難の中頃のラッパの響きによる空中携挙の時と、最後の審判後、新天新地が降り立った時ではないでしょうか。私たちはその時、心から喜び祝いましょう。今はまだ「全てのことについて、神に賛美し、感謝」しましょう。
その感謝はクリスマスの今日に限らず、朝目が覚めた布団の中で、食事の前に、体調が良きにつけ悪しきにつけ、すべてのことについて、神に心から感謝をしましょう。良かったことを感謝する時よりも、悪かったこと、一例を挙げれば交通違反で青切符をきられても、ステージ4のガンにかかっても、心から感謝するするのです。世で言うクリスマスの今この瞬間から、感謝に溢れる日々を歩んで参りましょう。 

2021年6月27日 (日)

実生の木

ピリピ 2章10~11節   新改訳2017 

それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

 善悪の基準とか、そこに至った動機は決して悪いものではなかったとしても、正々堂々とできず、はばかられる事柄に神に導きを祈る時、すばらしい神の助けがあった事を証しします。このことを通し私は神が信じる者を通し実際に居られ、働いてくださる神であることを証言します。

 私が今のマンションに越してきて7、8年は経つでしょうか、マンションの出入り口から数メートル離れた道路と住宅の境に、腰の高さほどの実生の木が生えていました。小さかったので何の木か当時はわかりませんでしたが、今では写真の通りの4、5mの高さがある、たぶんコナラでしょうか、立派な木に生長しました。

 これは小さいことかも知れませんが、最初はまったく土がない、アスファルトとコンクリートの間に、よくも生えることができたものだと感心していたのですが、ここまで大きくなると「困ったことだ、何とか今のうちに伐採しなければ」と思うようになりました。そこで「誰も何も手をこまねいて、ここまでになったのだから」と私が何とかしなければと思うようになりました。 

 問題はその方法です。私道に生えているのですから、市に依頼するのが筋なのか、あるいは塀のお家の了解を取るべきなのかわかりません。いずれにしても面倒です。そこで目立つ伐採では無く、ネットで調べ、根に近い方に小さな穴を開け、そこに除草剤を流して、徐々に枯らす方法なら、誰にも不審に思われないでできると思ったのです。そしてすぐに決行することに決めました。

 しかしどうにもやり方が正しくないように思えたのですが、妻にも誰にも相談できず、決めたその夜、この木曜日でしたが、神様に祈ったのです。するといつもにない、ある示しが来ました。それは「あなたがするのでなく、私に任せなさい。私なら最善にこれを解決できるのだから」という内容でした。経験上、私が思いつかないことで、これは神から来たと思いましたので、「そうだ、そうだった。これで私は楽になった」と委ねることにしたのです。

 しかし試しはすぐに来ました。なんとその翌日、妻が珍しくホームセンターに行きたい言うのです。そして行きますと、私は「これは除草剤を買うチャンス」と昨夜の祈りも忘れてそのコーナーに行って、安い薬を探しました。三百円ぐらいあるにはあったのですが、それさえも惜しんでいると、昨夜のことを思い出し、「これはまずい」と商品を棚に戻しました。

 さて一夜明けて昨日、つまり土曜日の朝になり、私が仕事を終えて帰ってみると、何とあの実生の木が根元で切り取られているのです。驚いて妻に聞くと、マンションの管理人と隣のご主人が話し合われ、切ることになり、伐採はたまたまマンションの庭の手入れに来ていた業者が行ったとのことでした。繰り返しますが、私があわや伐採しかけていたことなど、私以外には妻さえも、誰も知らないことです。そしてすでに数千日も放っておかれた伐採が、木曜日に祈り、金曜日に試され、土曜日にまったく当事者間で話し合われ、専門の業者によって伐採されたので。

皆さん、これは偶然でしょうか。私は偶然には思えません。小さな事かも知れませんが、信じる者の心を知られる神が行われたことです。神は生きておられ、これは「すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するため」なのです。

2021年4月25日 (日)

主は最善-感謝-

✝Ⅰテサロニケ 5章18節   2017新改訳

すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 感謝についてのみ言葉については、いずれもパウロの言葉でエペソ5:18-20、テサロニケ5:16-18、コロサイ3:15-17の三カ所が重要だと思われます。これらの内容は、表現は多少異なっていても、実質ほとんど同じ内容「感謝の心」を語っています。
 先ず、霊的な面で聖霊やみ言葉の霊に満たされ、詩と賛美と霊の歌によって心からの賛美をし、歌うこと。次にその実践的な面で行いについて、「いつでも」「どこででも」「すべてのことについて」感謝し続けることだとしています。私たちが感謝の心を得るならば、その現れは上述の二面に現れていくとしています。
 それでは泉のように湧く感謝の心の源はどこにあるのでしょうか。それは天より下って注がれるものです。その土台は自分の真の姿~弱く罪深い本当の自分を知り、ただ滅ぶしかない自分が分かった時ではないでしょうか。こんなみじめで滅ぶしかない自分の為に、尊い方が十字架に架かってくださった・・・神の愛が分かるのです。感謝はキリストの十字架の愛が源なのです。

 人はこの神の愛に応えて行こうとし、この神の愛に自分を導いてくれた数々の自分のマイナスが、導いてくれたからこそ逆に宝物なのだと気付くのです。すると見方が一変します。自分の貧しい生い立ち、能力の無さ、劣った容姿、忌み嫌い、不幸な家庭の中で歩み、避け憎んで来たこれら数々のことが、真逆になって自分の宝物に思えて来る大転換を経験します。つまり感謝する心を持つとは、傷もしみも陰もいっさいなく、すべてが喜びに変えられ、光の子にされることなのです。

 例えば私が裕福な家に生まれ、能力に恵まれてたとしたら、必ず貧しい人や劣った能力の人を蔑すむか、または存在しないかのように無視する者になっていたはずです。もし私が容姿端麗であったら、きっと鼻もちならない高慢な人間になっていたことでしょう。仕事であのままエリートコースを歩んでいたら、砕かれて聖霊の恵みにあずかることもなく、献身したとしてもカリスマ派になってはいなかったはずです。
 人の痛みを分かち合うためには、知識だけでは困難です。自分自身が体験しなければ不可能です。心の病、障害を持つ人に対し、自分が身近に接し、共に痛んでいなければ、どうしてそのような人に寄り添っての牧会ができるでしょうか。このように今では経験したすべてのマイナスはプラスに、いいえ、私の宝物になりました。
 私はお勧めします。かつてマイナスに思えていたこれらが一つでも欠けていたら、私は今の私になっていません。ですからすべてを感謝します。神に感謝しましょう。私たちを選び、天へ救い出してくださった神の、計り知れない叡知と愛に。

2020年5月 3日 (日)

9人はどこにいるのか

ルカ 17章11~19節   【新改訳2017】

11 さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。
12 ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、
13 声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。
14 イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。
15 そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。
17 すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。
18 この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」
19 それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」

 本日の聖書箇所は、イエス様が十人のツァラト(重い皮膚病、以前は癩病と訳す)で苦しんでいた人を全員癒やされた記事です。しかし大喜びで神をほめたたえ、感謝しに戻って来たのは、神を知るイスラエル人ではなく、異邦のサマリヤ人でした。イエス様の「(残りの)九人はどこにいるのか」と嘆きが心に響きます。

 この九人はこれまで社会から隔離され、差別され続けた人生でした。十人にとって癒やしは、どんなに喜びであったことでしょうか。しかし九人にとってはそれが信仰に結びつきませんでした。いわば神への忘恩の徒になったのです。どんなに癒やされても、罪が赦され、救われなければ、必ず来る滅びからは免れません。

 私たちの群れの大きな特徴は、1テサ5:18<すべてのことにおいて感謝しなさい>にある通り、どんな悪いことでも感謝する信仰です。ですから交通違反で切符を切られても「か、か、感謝しま~す」、仕事で失敗し上司から注意されても「か、感謝します」と告白します。しかし多くの場合、感謝の喜びではなく、引きつった顔で、ただ口先だけで言っているのではないでしょうか。もちろん、呪いの言葉や腹いせの言葉を吐くよりははるかによいでしょう。しかし神は心を見られます。その神の御前に立ち、失敗であれば先ずそれを悔い改め、その次に「このことが赦されたこと」に対し、その御心を心から感謝する者として、神への信頼と信仰を告白する者でありたいと思います。

 では感謝とはどういうものか、今一度振り返ってみましょう。故マーリンさんの著書「獄中からの賛美」に「サタンは、神の許可を受けなければ、わたしたち(クリスチャン)に対して、指一本触れることができない」(p120)という下りがあります。ただしこれは、神に自分を完全に献げていること、つまり神のものとされている信仰が前提になります。マーリンさんのことばは、聖書のヨブ記やローマ8:28からも正しいのです。つまり世的な基準や、自分の人間的な判断では、どうみても悪いこととしか思えないことであっても、それは神が「良き計画」として許されたことです。それ故にそれを受ける私たちは、どんなに悪いこととであっても、心から感謝できるはずですし、実際、喜び感謝するのです。

 神は人の思いを超えた、はるかに素晴らしい最善しか、おできになれない方です。実際私の体験でも神が許され、なさったことは、何もかもが素晴らしいことでした。ですからどんなことにでも心から感謝し、喜び、また迫害する者のために祈り、その祈りの力を求め、まず自分を無にし差し出すならば、神は最善に変えてくださるのです。

2017年9月17日 (日)

感謝の心を持つ人に

コロサイ人への手紙 3章15節
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい

「少女パレアナ」~この文庫本はTV「愛少女ポリアンナ物語」の原作です。作者はエレナ・ポーター、訳者はなんと村岡花子です。精神病で過度の楽天主義、現実逃避の病をポリアンナ症候群と言うのだそうです。これは神を信じず、従って真の感謝をしらない人が、無理に「良いこと見つけ」をしようとしたためなのでしょう。
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なぜパレアナは感謝するのでしょうか、それは父からのプレゼントだったのです。妻を失い、今また父である自分が召されて行こうとした時、牧師の父が娘に託た最大のプレゼント、それが1テサ5:18「すべてのことについて感謝しなさい」であり、このコロサイ3:15の「感謝の心を持つ人になりなさい」だったのです。ですからこれは、この世での最大最上の、とっても大切なものなのです。
 
みなさんは先ほど、何曲も賛美を歌いましたが、私達がよく知っているマーリンさんは感謝と賛美の器でした。賛美は感謝から生まれてくる実の一つです。感謝のない賛美はある意味、生きていて人の心に響くものとはならないでしょう。また本当に感謝を神にするならば、それを隠すことができません。賛美がそうであるように、口から溢れてくるものがあります。神への感謝と喜び、囚われていた自分からの解放、絶大な恵みの数々が、自分の心から湧き上がって来るのです。賛美となってそれが口から溢れてくるのに時間はかかりません。もはや何も秘密はなく、蓋をしておくことができないのです。
 
そこで一つ押し奨めがあります。それはお一人おひとりが、自分の人生におけるこれまでの、悪かったこと、奥底にしまい込んで忘れていた過去、特に幼かった頃のつらい経験、理不尽だと思えたこと、傷ついたこと、許せなかったこと、恨んだこと・・・・そのすべてをありありと思い出し、許すこと、感謝することです。勿論これは、単に功利的な心でするのではなく、祈り、心から神に願った上で導かれたやっていただきたいのです。これは、お気づきにならなかったでしょうが、皆さんがいつまでもサタンの鉤に引っかけられてしまう原因なのです。放っておけば獅子身中の虫、自分自身をダメにするものなのです。どうか自分自身を神に取り扱っていただきたいと思います。

2017年9月10日 (日)

感謝!

1テサニケ 5章18節
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
 感謝するということは、マーリンさんのこの群れでよく語られることです。よく地方で秋元牧師の移動にあたって、なぜかスピード違反で牧師が捕まりますが、この災いにも「か、かか、感謝しまーす」と告白するわけです。私達は悪い時にも感謝するように教えられています。
 直近の例で、私は横浜にかけての湾岸高速のスピード違反で捕まりました。これまででしたら苦虫を噛みつぶしたような感謝で終わるのですが、なぜか瞬間的に心からの「感謝」が湧きました。捕まって当然だと思いましたし、「ああ、これで事故を起こさなくて済んだ」と心から感謝してパトカーに乗り込みますと、おまわりさんが切符を切りながら「制限速度100kmでの20km違反にします」と言うではありませんか。「あれぇ」と思いました。なぜならパトカーから見える標識は80kmの標識でしたから。計測された所が境目だったかとも思いましたが、20キロ違反か40キロ違反かでは、裁判所行き赤切符になるかならならないかの天地の違いがあります。悔い改め、心からの感謝したので、それがおまわりさんたちの心証を良くし、微妙な判定にあたって実際的にも益にされたのだと私は思いました。感謝の思わぬ恵みです。
 
 今回のスロバキア・ウクライナ派遣で非常に語られたことは、この感謝です。感謝は感謝でも、悪いことを苦い胆汁を出しながら「感謝します」ではなく、本当に心から喜び感謝する感謝です。感謝の実質が問われている意味もあります。
 今回の派遣は新天新地に行きますので、霊の戦いがメインになると思いましたが、実際には集会奉仕と路上賛美という宣教がメインでした。キリスト教国ということもあってか、霊の戦いは一度たりとも行われなかったのです。これには神さまの素晴らしい計画があると感謝しました。
 
 さて短期宣教では各々に与えられた任務を全うするのが重要になります。私は聖会配信とブログ係、用心棒という三つの任務が与えられましたが、自主聖会がなくなり、配信は不要になりました。しかし実際に現地ではもう一つの重要な任務、秋元牧師の鞄持ちと椅子係が必要だったことです。参加メンバーが決まった時からこのことを覚悟していましたが、やるからには秀吉が信長の草履取りをしたように、徹底して感謝して仕えようと思いました。それでまさに移動に際しては、秋元牧師の手放せないリュックのように、いつも私が身近に控えている六日間になりました。
 
 実はこのことが非常に恵みになりました。もし私が荷物持ちを卑下して、俺はリュックじゃないぞ、と呟きながらしていたら、真逆の結果になっていたと思いました。実は派遣の当初はサブリーダーの体が「大丈夫だろうか?」と心配されましたが、使命を果たして行くに連れ、神さまから健康と力を与えられて行っているように見受けられました。
 またウクライナとの国境にあたっては、祈りが聞かれて、極めて短時間に通過することができました。訪れた先々の教会では、相手方の警戒がドアのように次々と開かれ解かれ、場所と時間が100%私たちに提供されていく、数々の主の手を見たのです。
 これらはごく身近に居たことで、単なる一部始終の目撃で終わらず、私の荷物の持ち主が自分の体のことを考えず、どんなに神さまに忠実で、かつ謙遜な人であるかが肌で分かる恵みに与ったのでした。みなさん、心からの感謝は素晴らしい恵みがその先にあるのです。

2017年5月 7日 (日)

感謝がすべてを変える

Ⅰテサロニケ 5章18節
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 神のみ心は私たちがすべてを感謝することです。感謝によっていつも喜び、絶えず神に心を向けて祈ることです。聖書は非常にはっきりと「神があなたがたに臨んでおれること」、つまりこれが神のみ心であると明記しています。聖書でこのように明確に命じられていることを求め行いましょう。「すべてを感謝」ということは良いことだけでなく、どんな悪いことでも・・・・たとえそれが心の深い傷であっても、それが「すべて」の意味なのですから、心から「感謝」いたしましょう。「それはできない」と思うその心が神に背いています。いっさい、すべてを心から感謝できるよう祈っておられるでしょうか。
 
「感謝がなければ、患難時代を乗り越えることは難しいでしょう」と私たちの群れの責任者が語っています。また大きな困難にある牧師が「現状を感謝します。次回は家族そろってここに来ます」と証しされていました。確かに感謝は、これから来る時代を乗り越える力なのです。そのことは個人的な体験からも明らかです。
 
 私は若い頃から聖書が大好きなクリスチャンでした。が、神のみ心や感謝ということを知りませんでした。ですから聞き従うことではなく、逆に神はただ自分を幸せにしてくれるだけの存在だと思っていましたし、悪いことや困難を感謝するなんていう信仰はまったくお思いも及ばぬことでした。
 
 しかし今は違います。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)ことを体験し知っているからです。五十代になって、信仰も教会もほとんど失った人生最悪とも言える状況下、その時見たワカサギ漁のまぼろしで私は、あやうくサタンに釣られそうになりました。このリアリティある仮想体験で初めて自分の深い罪性に気づくことができました。打ちひしがれた私に、神はご自分から姿を現し、どれほど愛してくださっていることを知らせてくださったのです。神の愛にふれ、取るに足りない自分を喜んで神に捧げることが唯一の願いになった瞬間でした。この体験は神を信頼し感謝する者に私を変えました。
 
 最悪はこうして最善の祝福に変えられました。キリストの十字架はサタンの勝利から、一転して神の勝利になったのです。サタンですら決定的に敗北してしまう神の知恵は、その愛される人々に対しても、信仰の感謝を通して超越し圧倒的な勝利を与えるのです。
 
 先ず神に信頼し、肉的な己の目で判断しないで、神を愛し、信頼し、すべてを感謝いたしましょう。実際、人間の思いなど取るに足りないことであって、すべてを感謝する、そのことによって神が重荷を負ってくださり、逆転の解決をしてくださるのです。

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