感謝の心
✝コロサイ 1章12節 2017新改訳
また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。
感謝の心とはどういうことか。私たちの群れでは「悪いと思えることでも感謝」を特に推奨している。良かったことを感謝をするのは一般的だろうが、悪い出来事、状態を感謝するのは普通のことではない。しかしこれをことさら強調するのは、テサロニケ人への手紙 第一 5章18節にある、「すべてのことにおいて感謝しなさい」の「すべてのこと」の具体的実践であるからだ。つまり、御言葉をそのまま、生きた神のことばとして信じ行おうとする、信仰の現れでもある。
一例を挙げれば、交通違反の切符を切られてしまって、落ち込んだり、自分の失態を嘆いてしまうより、神に感謝することは、どれほど素晴らしいことであろうか。逆にこれを胡散臭いと感じる向きもあるだろうが、その方は聖書と神の力を知らず、自分中心の力のない信仰に陥っているのかも知れない。
そうは言っても群れの中には「かか、か、感謝します」と言葉は言っていようと、実態は全然感謝してない者もいるかも知れない。無理にでも感謝しなければいけないからするのであって、言葉だけのものかも知れない。が、それでも不満や悪態を吐くより、はるかに優れた対応である。
感謝の信仰は優れて聖書的であり、それが真の感謝であったなら素晴らしいと言える。来たる終末の患難時代においては、この感謝の信仰なしには乗り切れないとさえ言われている。私たちはどんな悪いと思える状況にあっても、それは神が許されたことであり、十字架のイエスの死が神の大逆転勝利であったのと同じように、実際には最善な結果になることを信じている。
本日私が示されていることは、この無理やり感謝する域を脱出することである。悪いと思えることを、私たちは信仰によって感謝する。聖霊(のバプテスマ)を受け、真に神と出会い、新生し、主と交わり続けておられる方々には、価値観のコペルニクス的反転が起こっているはずだ。この世や、今生きていること、今生かされていることなどは、やがて来る天での生活に比べればはるかに劣ることであって、取るに足りないことであることを実感している。
では真に感謝する心とは何か?それは取るに足りない者とされたことへの感謝である。そこには自分の罪深さを一切弁解できないほどに徹底的に知らされていなかればならない。自分に死に、生まれ変わった者は、神の愛にすべてをささげている。抜き難い高慢、金銭への執着、少しでも自分を高めようとする罪性と常に戦っている。そして私たちには一人ずつに使命が与えられている。私たちのこの世での命は、その使命を果たすために用いられるのであって、自分の計画や願いによるものではない。それゆえ、人間的な思いで一喜一憂することは、たとえしたとしても、ランクが低いはずである。その上で、状況や環境が厳しくなるのであれば、それこそ「神の時」が近づいているしるしであって、私たちは大収穫の時が近づいていること、待ち望んだ使命を果たし、用いられることを喜ぶのである。