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感謝

2016年10月 2日 (日)

感謝

ローマ 8章28節
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
   感謝する、これは旧約から新約に至るまで、実に頻出する言葉であり、信仰の具体的な現れそのものです。神を信じていながら、どんなことにも例外なく、悪いこと、悲しいことでも、感謝することができないのであれば、その方は今日のみ言葉「すべてを益に変える」神への全幅の信頼を神に置いていないのであって、信仰が非常に弱いのです。肉的なクリスチャンに留まっているのでしょう。
 
例えば皆さんの中に「神様の声が聞きたい」と熱望される方がいらっしゃるかも知れませんが、その方に申し上げます、今聞けないことを心から感謝しておられるでしょうう?もし感謝しておられないなら、それこそまだ、なのです。なぜでしょうか?
ではもし神の声があった、聞けたといたしましょう。その方は先ずもって「聞き従い」が求められます。神からと確認の上ですが、「家を出よ、彼の地へ行け」でしたら出て行かなければなりません。ヨナのように、たとえその地が、自分が忌避してきた地であったとしても、です。また多くの預言者は、時の権力者に殺されました。たとえ死が待っていたとしても、聞き従い、預けられた言葉は語らなければなりません。もちろん今聞く者がすべて死ぬわけではありませんが、少なくとも自分に死ななければならないのは、神の声を聞く者の現実です。
あなたは今その覚悟と献身ができていて、それで神の声を聞きたいと願っておられるのでしょうか。ただ羨ましくて願っているのでしょうか。ですから何にせよ今、聞けないということは、その準備の段階にあるのであって、感謝して神の訓練、信仰を増し加えられるよう祈って参りましょう。神は全知であり、私たちひとりひとりの心の中をすべてご存知なのです。
ですから、今も、これからも、神が最善を為してくださることを心から感謝しようではありませんか。
 
感謝することは神さまから私たちへの命令です。それはエペソ5:20、コロサイ3:15-16、42などにあります。同時に祈りにも感謝が土台であることがわかります。今日この感謝を調べていて、ピリピ4章6節に
 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい
とのみ言葉が非常に私の心に入って来ました。祈りは「あらゆる場合に、感謝を持ってささげる」ものなのです。まず感謝して、それから祈る、みなさん、祈りにおける感謝を心からできるよう徹底いたしましょう。感謝を通して神は私たちの願い事、その強さ、思いを、とくと知ってくださるのですから。

2016年2月28日 (日)

喜びなさい

ピリピ 4章4節

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

 「喜びなさい」とは私たちへの神さまからのオファーです。これに対し、「できません」という理由を私たちはつけることはできません。たとえ体が動かせなくても、まぶたさえ動かせればできるのです。たとえ他の人にはわからなくても、天には伝わっています。私たちは天のお父様の前で「喜んでいなかった」というどんな弁解や申し開きもできないのです。       ではどうしたら、いつもどんな時でも喜んでいられるようになるのでしょう。先週神学校の「感謝と賛美のメッセージ集」の「Joy in God」ではマーリンさんはこう言っていました。

 「するとわかってきたのです。神さまが私に示そうとされていたのは、どんな原因からの理由であれ、どんな困難であれ、私が喜びと平安から遠ざかってしまっていることを、神様は喜んでおられないということでした。イエス様が私のために死んでくださるために来られた時、それは私のすべての咎、すべての病、すべての嘆きを取り除かれるために来られたからです。 ~中略~ それゆえ聖霊様が私に、喜びや平安を与えてくださるのを、私が許していなかったのです。」


 マーリンさんが気づいたように、「喜び」というのは与えられるものではなく、喜ぶべき事実に気づき、喜びを常に十字架の事実から取り戻す作業なのです。それで私は、三日前に起きたアクシデント、右膝の「内側側副靱帯損傷(ないそくそくふく)」を喜びたいと思います。神さま、これにはすばらしい計画があることを感謝します。このように感謝をしていると、このけがを通して、主が私に教えようとされていることがあることに気づきました。

 靱帯損傷の診断を受け、病院から帰った私は、痛みで一人では歩けない状態でした。それで翌朝早速、松葉杖を借りに病院に行った時のことです。最初に対応をしてくださったベテランの看護師さんが、私に「一生松葉杖をつかなければならない人もいるんですから・・・・」と言われたのです。どうしてそんなことを言われたのか、私は後に気づきました。
 それは、今回のことを通して体を弱くされた人のことを思いやりなさい、という示しでした。単なる思索や推量だけでは心が入らない、上辺だけのもので留まってしまうことが多い。しかし実際に、たとえ短期でも体験をすることには、大きな違いがあります。

 もし私たちが真にイエス・キリストの十字架の恵みに実際あずかっていたのであるなら、喜びや平安を失うことはあり得ません。神が与えてくださるのです。すべては神から与えられたのですから、直らない、たといそれが現状の姿であったとしても、感謝します。それが御心です。このことの背後には神さまの御心があります。「どんな原因からの理由であれ、困難であれ、喜びと平安から遠ざかってはならない」のです。体の大切さをこのけがから教えられました。今私はこの痛んだ体が急速に癒やされてきているのを感じます。御心を受け取り、聞き従えば速やかにいやされるのです。みなさん、神は生きておられます!

 

2015年4月 5日 (日)

感謝と聞き従いと信仰

1テサロニケ 5章16~18節 
 本日は「感謝」がテーマですが、群れで語られている信仰の概説を二つの図にし、さらに私なりの図を三つ目に表してみました。こうしてみますと「感謝」とは「信仰」Photoを使う、働かせる、用いるといった実際的な運用であり、その中身であることがわかります。聞き従うという判断がまずあり、それを受けてすべてについて感謝する行いをするのです。

 聖書の人々、アベルは信仰の行為をして不当にも殺されました。ノアはどんな嘲りや屈辱にも耐え て箱舟を作りました。アブラハムは行き先を知らずに旅に出て、海の砂、空の星ほどに一つの国民を与えると約束されました。しかし世で神から与えられたのは、妻を葬るためのマクペラの洞窟だけでした。イサクもヤコブも同様でした。長い奴隷生活をはさんで約束の成就の時が来るまで、彼らが得ていたものとは、神の言葉だけでした。彼らは世においては寄留者であって、輝かしい永遠の神の都の一員である彼らには、この世はふさわしいところではなかった(ヘブル11:38)のです。彼らは信仰の人として世を終えて死んだのです。

 この原則は今も変わりません。地上は私たちにふさわしい所ではなPhoto_2いのです。この地上で命があるのは、神の計画があり、託された使命があるからです。どんな使命であろうと命ある限り、いつも喜び、絶えず祈り、ますます「すべてのことを感謝する」証し人として一層立って行きましょう。この「すべてのことを感謝する」のは、私たちが世に属するものではない、いわば天に帰る存在であることの証明です。信仰が無い人は世のことしか見えず、悪いことを感謝できません。

 しかしこうした感謝の結果、世において祝福されること、報われることも起こってくるでしょう。しかしこれは第一義ではなく、副次的なもの、添えてPhoto_3与えられるもの(マタイ6:33)なのです。世での報いを求めて感謝することは、本末転倒です。神は必ず答えてくださいますが、それは神様の方法であって、人間の想像を超えた最善の計画であることを知るべきです。もう一度言いますが、まず聞き従いという判断があって、感謝という行いがあります。結果は、神の御心次第なのです。

 これからリバイバルの時代が始まって行きますが、それはあらゆる天変地異や戦争が起こり、人類の半分が死んでいく恐るべき時代を背景に、全世界を救う神の栄光が現れるのです。ですから感謝がなければ信仰を保ってはいけないだろうと言われているのです。みなさん、すべてを心から感謝いたしましょ

2014年12月28日 (日)

すべてが益になる

ローマ  8章28節
 初めにこの御言葉では「知っています」とありますが、単に知っているというより、「体験して確かに知っている」のような意味があります。以前は全クリスチャンのことであると私は思っていたのですが、これは少し違うようです。例えば臨終の間際に信じたり、またお腹の中で流産して生まれることができなかったら、益にされるという、神の働きの時間も余地もないわけです。それはそれで別の祝福がありますが、この聖句で指している事柄には該当しません。ですからこれは、すべてのクリスチャンにではなく、「神の計画を実際に進めていくために、聖霊によって特別に選ばれ、召された特別な人たち」なのです。この召しの人たちは、すべてが益にされる道程、つまり困難を通されるのです。

 聖書では特別な苦難の道を通される人たちのオンパレードなのです。アブラハムやヤコブ、ヨセフやモーセ、特にダビデも皆、苦難の道を通された人たちです。そこで私は申し上げたい。みなさんを選び召してくださった神に感謝し、苦難を喜んでください。

 エペソ5:20に「いつでも、すべてのことについて…神に感謝しなさい」コロサイ3:16-17「…感謝にあふれて心から…神に感謝しなさい」とあります。1テサロニケ5:18には「すべての事について、感謝しなさい」とあるように、感謝は繰り返しての神の命令です。つぎにみなさんに与えられた苦しみというものは、子とされるための懲らしめの訓練です。これを私はヘブル12:5から言うことができます。容易には懲らしめられないような継子(ままこ=非血縁の子)でもババ孫でもなく、あなた方は神の実の子なのです。

 ここで今困難にある方に、先に14年にわたる懲らしめを受けた者としてアドバイスさせていただきたいことがあります。なぜ長引いているのですか?その理由は受けている私たちにあります。頑なで、自らの非を悔い改めないので長引いているのではありませんか。
 考えてもみてください。肉の親ですら、子が心から悔いていることを知れば、ただちに抱擁し喜ぶことでしょう。しかし悔い改めないなら、叱責は続きます。天の父も同じです。

 ここで私は今日の御言葉でみなさんに申し上げたいことがあります。「すべてを益に」の、益とは自分のことだと思ってはいませんかと。この益とはあなたのためではなく、神様の「益」のことです。なぜなら私たちは、神の計画を実現していくために召された、ただのしもべであり、時至って、子にしていただく存在ではなのです 思い間違いをしているので、懲らしめがなかなか止まないのではないでしょうか?
  みなさん、悔い改めましょう。かくまで自己中心な自らを、心から悔い改めましょう。どうか天のお父様の御心だけがなるように。これが神のみ心です。私たちはキリストが十字架の上で従順でられたように、キリストに似た者とされることが目標なのです。

2014年8月24日 (日)

そべてのことを感謝する

テサロニケ人への手紙Ⅰ 5章18節

 神を心から信じる、ということは、殉教覚悟であるということです。そのような信仰は、人の熱心さや努力で成るものではありません。成長させてくださる神の御手があるのです。ですから自分には信仰が無いと、今の自分を見てあきらめることは短慮です。神の最前の計画が自分にあることを信じるべきなのです。

 さてその神の御手ですが、あなたを故(ゆえ)無く襲ってきたかのような試練、困難がこれにあたります。神を信じる者は、すでに所有がサタンから神に移っており、ヨブのように神の許しなしには、何もあなたに手出しすることはできません。ですからこれらは、信じがたいことでしょうが、神が許されたことなのです。なぜでしょうか?

 それは試練や困難なしに、私たちが自分の傲慢さ、自己中心性、愛のなさ、特に罪を深く認識することができないからです。その結果、自分を義とすることが完全破壊され、十字架における神の愛、そのあわれみが腹の底からわかるのです。もはや生きるのは自分のためではなく、神のために生きるようになるのです。信じる者とされたのです。人の親にはできませんが、全能の神だからこそ、つまり最後はあなたを守ることがおできになるので、サタンに許されるのです。

 こうして見ますと、クリスチャンで試練や困難のただ中にある人は、神から愛されているしるしでもあります。その背後には、素晴らしい神の計画の成就があります。ですから悪いことを悪いこととして見たり、自分の考えや希望から現状に失望してしまうことは、これら最前の結果を受け取れないことになってしまいます。クリスチャンが試練、困難を感謝するのは、それが過程においても、結果においてもベストなのです。またもし、過去において感謝できない対応をしてしまったとしても、心から悔い改めれば、神はあわれみ深いので次の機会が与えられ、最終的には祝福を逃すことはないことでしょう。

 「アンと花子」でも、大事な一人息子が夭折しました。私も妻をとり上げられました。不幸なことに見えますが、世で大切なものを失うことで、それ以上に大切なものがわかった———本当に神を信じることができた———のです。福音書の「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」とは、このことか!と理解するのです。確かに全世界、自分のいのちも優る素晴らしい祝福でした。皆さん、すべてを、どんな悪いことであろうとも、感謝です。