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宣教

2020年4月 5日 (日)

伝道と証し

使徒 1章8節   新改訳2017
   
主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。

 学生運動に挫折し、悔い改めて二十歳でバプテスマを受けた時、その純粋な喜びもありましたが、それと同時に、福音をまだ知らぬ同胞へ伝道する使命をも強く感じたことを覚えています。実際、かなりの長い期間、ついここ数年までそのように思っていました。このことは間違ってはいません。ローマ10:17で「宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」とある通りです。

 ただし、「あれっ」と気づかされることがあります。それが本日の聖書箇所使徒1:8です。ここには「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」とあり、伝道ではなく、<証人witnesses>とあるのです。証人ならば第一に信仰の告白者であり、信仰の実を結び実らせていることを証明する存在なのです。つまり証人になるには、実を結ばせる聖霊の力なくしてはできないことで、それが使命だと言っているのです。

 しかし伝道とは、知的な内容より、神から受けた恵みの事実を証人と証しすると言う核心的な内容であることをこの言葉は意味します。つまり、人が単に生活上のあれこれを神の恵みとして見なすことも良いのですが、それだけではなく、ポイントは神が人と交わり、その人に言葉をもって語られ、人が神を愛し、これに聞き従って歩むことの恵みが証となります。それは人知を超えた恵みであり、まさに生ける神の実際の証しをすることになります。自分の罪性、つまり罪深さ、弱さを語り、これに対する神の愛と驚くべき恵みを語るのです。その意味で預言はもう一つの聞き従う典型的な証しになります。

 つまり伝道とは自分のことを証しするのではなく、神のことを証しするのです。聖霊の実は九つあります。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。その際には自分は死んでいなければなりません。そこにいささかでも誇る自分が含まれないように、心から祈りましょう。

 

 

2019年9月22日 (日)

驚くべき逆説

ヨハネ 12章23~25節   【新改訳2017】 

すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

「驚くべき逆説」
戦後大きく成長した教会は、先の大戦で軍部に抵抗し、牧師級の殉教者を出した教団の流れです。韓国ではもっと犠牲を払っていますから、この言葉は証明されているのです。種は発芽という死によって、一粒の種が何十倍、何百倍と実を結びます。自然のこの驚くべき法則は、信仰にも同じことが確かに言えるのです。

「自分を憎む」とは?      Holyspirit
信仰を持たれたのは、みなさん、ご自分のために良かれと思ってお信じになったはずです。それなのに「憎むなら、永遠のいのちに至る」とはどういうことでしょうか。いったい、自分が一番大切なはずなのに、このことばは一見して理解が困難です。自分の命を失ったら元の木阿弥で、何が得られるというのでしょうか。

○憎むと言う言葉は基本的に使いたくない言葉だと思われますが、聖書では全く違う使い方をしています。それは自分自身の心の内側、その世的な志向、絶えず攻撃し惑わしてくる肉なる思い、それらをまとめるなら自己愛と言うことになるでしょうか。「憎む」とはこのような自分に対して、神の霊によって戦うことを意味するのです。自己愛の死、それはつまり神がその人の主となることであり、みこころの人となることを意味します。(※参照「自分を捨て、自分の十字架を負って」・・・マタイ16:24、マルコ8:34など)

この自分に死ぬことは、決して一度きりで終わるものではなく、血肉のからだがある限り続く、執拗な戦いとなります。常に神に祈り、聖霊の力に依り頼むしかありません。ですから懲りない相手に対し、「憎む」という強い意志をでの表現になっているのです。このように、繰り返されていく戦いの段階に入っていない方にとって、「憎む」意味が理解できないのは当然です。どのようなクリスチャンでも、神の時が来た時にはわかることでもあります。

2014年11月 2日 (日)

新年礼拝

出エジプト 34章10節

 主は仰せられた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。 わたしは、あなたの民すべての前で、地のどこにおいても、また、どの国々のうちにおいても、かつてなされたことのない奇しいことを行おう。あなたとともにいるこの民はみな、【主】のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきものである。

 ここは神がイスラエルの民と互いに契約を結んでいるところです。そしてこれは頑ななイスラエルの民が神に対し「聞き従う」という前提のもとに、神が語られ約束された祝福です。みなさんの中にも、神から語られた約束をいただいている人が居るPhotoと思います。

 しかし同じ従うということでも、アブラハムでもダビデのように、神の声に聞いて従っているかどうかが大きな違いとなっています。また彼らのような祝福を受けるには、聞き従いが前提となっていることが前提なのです。

 私たちの群れには神の大きな聞き従いの祝福が出ています。一例を上げるならコンピュータです。これからの時代はコンピュータなのですが、私自身コンピュータはだめなのですが、聞き従った結果、HP、映像など現在私たちはその最先端を走っていると言えるでしょう。浦上天主堂の壇上に立つというのも同じです。これらは神が語られ、約束されていたことであり、聞き従い続けた結果、時が来たときに成就したのです。

 この群れにもこれからさらに大きな、考えられないような出来事が起こっていくということが語られており、それは聞き従った結果成就していきます。神に期待して行きましょう。

(写真は10月31日に続いて11月1日にガリラヤ湖畔に現れた虹・・・ロンビーチホテルにて)

2014年10月 1日 (水)

2014年9月 台湾派遣

コリント人への手紙Ⅰ 2章3-5節
 今回の台湾派遣の目的は二つありました。一つは黙示録の大リバイバルを共に担う台湾の教会探し、もう一つは主の十字架の台北教会設立のためです。「台湾にチームを派遣します」と語られた途端に、通常の派遣の人数をオーバーしていたのです。しかも讃美隊としてGiftsの全員、映像班も3人のフル、ミッションもアジア担当者を含め3人がそろい、まさに完璧な陣容だったのです。

 今回の台湾派遣は昨秋のチェコのプラハでの関わりから開かれたのですPhotoが、いったん頓挫した後、大重牧師の関わりから再び開かれたのものです。ここに一つの語りかけがありました。それは情報も大切なのですが、人と人との直接の関わりに勝るものはないことです。マタイ伝28章の大宣教命令「あなたがたは行って」という「行く」ということが、当時も、今も全く同じ重さを持っているのです。
 台湾で奉仕した二つの教会、最初は台南におけるエデン(伊甸)基督教会であり、次は新竹の町外れにあった鳳山村教会です。大重牧師はかつてエデン教会の招聘を受け、十年間ほど台湾の地での宣教の働きを担われました。鳳山村教会の牧師夫人は、当時の大重牧師のメンバーでした。
 エデン教会は古くからの大きな町、台南の市街にあり、鳳山村教会は新竹の田舎にありました。しかし集会や礼拝では、両方ともメッセージ以外、ソングリーダーがすべて導くスタイルでした。これからの礼拝は、このようなスタイルになるのは時間の問題でしょう。その時がいつ来ても良いように、備えをしておく必要があると思いました。

 しかし何よりも心に示されたのは、何国人であろうと地上の国籍は関係なく、私たちは天にある神の国の兄弟姉妹であるということでした。台湾のクリスチャンたちの愛にふれたのです。これまで私は、このままでは天国に日本人が少ないことを気にして、残念な思いにとらわれておりました。それで宣教の責任を重く感じていたのですが、それは肉的なものであったと分かりました。神の国では男も女もなく、地上の○○国人ということもないのです。みなさん、海外宣教に特別な使命があるかどうかは別として、是非何度かは行っていただき、同じ兄弟姉妹であるという恵みを体験して欲しいと思います。大宣教命令は遠くの人にも、また、近くの人にも適用されます。しかし遠くの人だけは、行ける時にしか行けないのです。是非祈って、主の時に共に参りましょう。

 (※ このメッセージは10月1日水曜礼拝の内容です)