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赦し・悔い改め

2019年7月 7日 (日)

悔い改めなさい

マタイ 3章2節 
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。   【新改訳2017】

「愛の警告」という興味深いイラストを以前に見つけました。なぜ絵の右の人たちはFalse=間違った受け取りなのでしょう?悔い改めを拒んだから・・・その通りですが、その訳を考えますと、一つの見方として、自己中心な信仰だったと言えます。Photo_20190713231901だからヨハネの愛の警告=悔い改めができなかったのでしょう。
-「主よ」の意味 -
 神は御子の命をもって私たちを買い取ってくださり、信じる者すべての罪を赦してくださいました。ですから、信じた者は購われており、その命も神が所有される存在となりました。ですから私たちはすでに神のしもべ、奴隷ですので、主人に対して「主よ」と言うのです。
 ところが右の絵の人々は、神が自分の主であることを拒否するので、False(間違っている、あるいは偽り)のクリスチャンだとされているのです。
- 恐れるクリスチャン -
 一方で、どうしても不安や恐れに囚われやすいクリスチャンがいます。M・キャロザース師は「恐れと信仰とはまったくの正反対のもの」で、聖書で365回も「恐れるな」と書いてあるとその著「恐れからの解放」(p9ー10)で述べています。恐れるから信仰が無いなどとは言っていません。ではどうしたらよいのでしょうか。これが本日の主題です。
 - 赦され感 -
 十字架を信じた時点で、私たちの罪はすべては赦されていますが、それなのに、恐れの悪霊に立ち向かえない、あるいは受け入れてしまうには原因があります。この原因の一つに、赦されているのにその実感の乏しさ・・・・言わば「赦され感」が薄い所に原因があるのではないかと思います。自分はまだ罪があると感じる所に悪霊がつけ込んで来ると・・・・

「赦され感」の無さの原因をたどっていくと、罪を告白し信じたはずの自分が、実は本当の自分ではなかったとしたらどうでしょうか。それは自我を正しく認識できていない場合に、無意識の内に生じます。異なる自分の罪が赦されても、ピンと来ない、赦された実感がしないのは当然だからです。
 神は全知全能の神です。真実の自分の姿はどんなに罪あるものであっても、神はすべてをご存じであったのです。神の愛を信じましょう。恐れ、隠す必要は全く無いばかりか、隠している方が神を悲しませているのです。本当のあなただけが、恐れを追放します。

2019年6月23日 (日)

恐れとゆるしについて

ガラテヤ 2章19~20節  

私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。   【新改訳2017】

<十字架なかりせば、私は絶対にゲヘナ行き>と確信を持っておられる方、いませんか?自分は絶対に地獄のゲヘナ行きだった、と知っている方は、それゆえに、神の愛とあわれみの大きさを骨身に沁みて知っていると言えます。自分の真の罪深さが分かっているかどうか、これが分岐点です。ですから「つぶれてはらわたが出たゴキブリ」と語られるP牧師を、野つぼの中のウジ虫と思っている者として、親近感と尊敬の念を持っています。

「もはやわたしが生きているのではない」この聖書箇所は本日の中心です。クリスチャンにもし、恐れるということがあるなら、それは神の戦士、証人としてはふさわしくないでしょう。注意深くしたりの小さな恐れではありません。恐れるなら退かされてしまいます。麻薬のように私たちができないことの言い訳と正当化に恐れを理由にします。ですから聖書では多くの箇所で、私たちに「恐れるな」と警告しています。
ただし、恐れたからと言って神が私たちを見捨てたりすることはありませんが、御心ではありません。では恐れる原因は何でしょうか。

このすべての原因に私は、罪の赦しを無力化させるサタンの策略があるとみています。十字架は全てを赦しているのです。それを感じさせず、まだ罪が残っているかのような誤魔化しにあって、罪の恐れに取り残されているのではないかと思うようになりました。

運転している時、パトカーを見つけたとします。違反していない時は全然平気ですよね。「ああ、ご苦労様」って。しかしたまたま違反状態にある時には、見つからないかと恐れがどーっと湧き、ビクビクします。それと同じように、実際は赦され罪から解放されているのに、まるでそうでないかのように感じているからこそ、恐れが湧き、恐れに支配されて行くのです。当然ですが、恐れは神から来ていません。

それではどうしたらよいのでしょうか。自分の真の罪がわかっていなければ、当然ですが、赦しも的外れで力の無いものです。罪の告白も形式的な、中身のないものです。十字架はこの私の罪のためであったと真の告白がポイントです。心から「あーっ、自分はゆるされたぁ。解放された!十字架は私のためでした。神さまぁ、ありがとうございます。本来地獄行きの者ですが、どうぞこれをあなたに献げさせてください。私は死んでこれからは、あなたのくださったいのちに生きます」と告白できます。ですからお勧めします。本当の自分の姿を神さまによって知らされ、悔い改められますよう祈ってください。試練はおそらく、このためにあります。感謝しましょう。

2018年12月 9日 (日)

罪の赦し

詩篇 32篇1-2節     【新改訳2017】
幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。
幸いなことよ【主】が咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。

公生涯に入られてからのイエスの評判は、救いや癒やしを通して大きく広がりました。同時にそれを快く思わない当時の宗教指導者たちがいました。彼らは自分たちの権威への挑戦と受け止め、疑い警戒しました。屋根から病人を吊り下ろす背景には、このような人々がたくさん詰めかけ、本当に癒やしが必要な人がイエスに近づけなくなっていたのです。

 さてイエスは、天上から吊り降ろされた人に対し、中風を直すのでなく「友よ、あなたの罪は赦された」(ルカ5:20)と罪の赦しを宣告されました。これは少し不思議ではないでしょうか。癒やされたいのに、罪の赦しだったのです。なぜでしょうか。実は罪が原因である病があります。最善は完全に癒やされることです。そしてイエスは真の原因である罪を取り除かれたのです。つまり根本からの癒やしが行われたのでした。

 しかしこれを見ていたパリサイ人は、罪を赦すということが冒涜に映りました。彼らが思った「神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか」は正しく、「罪を赦す」ことは、神かまたは神に等しい存在のみが実行可能なことでした。
 ですからイエス様が罪を赦されたことは、自分が神であることを宣言したことになります。パリサイ人たちが「冒涜」と感じたのは、イエスが神であることがもっとも分かるべき彼らが、実は一番鈍くて分からなかったという証明です。これは宗教指導者として失格です。イエスは彼らのためにも、真の原因が罪であった証明として、中風の人への即座の癒やし「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」(5:24)と言われたのです。

 本日は「罪の赦し」がテーマです。この後イエス様が十二弟子を遣わされますが、彼らに与えられた権威は悪霊の追い出しや癒やしでした。しかし罪の赦しは含まれていません。罪の赦しは神だけができることです。もしイエス様が神でなければ十字架も空しく、罪の赦しはあり得ません。教会は極めて初期から、使徒信条で明らかなように、イエスを神としない異端と戦ってきました。 

 繰り返しますが、キリストが神でなければ赦しはありません。また三位一体の神以外に罪の赦しは無く、人であったマリアや司祭相手にどんなに告解しても、それは無駄というものです。私たちは真に神に赦される信仰の教会であり、罪から解放され、癒やされる祝福を感謝しましょう。この祝福は、5節にあるように罪を隠さず、告白するという前提条件があります。ですから真に赦され解放された者として、証しにおいて主に栄光を帰す教会でありますように。

2018年10月21日 (日)

癒やし

マタイ 4章24節     【新改訳2017】
イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。

 バプテスマのヨハネは、自分がキリストであることを否定し、次のような預言をしました。「その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます」(マタイ3:11)と。
 その預言通り、イエスはヨハネからバプテスマを受けられると、ただちに天から聖霊が下り、公生涯がスタートしました。また「火」とは裁きを表し、次の12節「手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられ……殻を消えない火で焼き尽くされます」の通りです。ですからキリストの地上再臨時の「収獲のための火」と理解してもよさそうです。ヨハネの言った「聖霊」と「火」は、イエス・キリストの公生涯の始まりと福音の時代の終わりを端的に言い表していたとも言っていいでしょう。

今は西暦2018年ですが、A.D.2018と表記します。これはラテン語のanno Domini(主の年に)の略語で、キリスト以前(B.C)と世界の歴史は二分されているといるのです。今の二千年は福音の時代、恵みの時代です。しかしこれが永遠に続くわけではありません。もうすぐその終わりが近づいており、新しい時代に入ることを私たちは知っています。しかしこれまで学んできましたように、どんな時代でも天のエルサレムに入るには「試練」が付きものであり、逆に言えば、試練を受けなければ救いの確信は得られないことでしょう。

 皆さんの中には体や心の病、あるいは障害で苦しまれたり、辛い思いをされている方もおられます。たとえ自分自身でなくとも、家族や境遇というものでも同様です。また、いじめとか挫折、経済の貧しさ、自分の能力の無さに苦しんだ方もおられることでしょう。これらは皆、試練として苦しみを受けましたが、同時に、このような試練なしに神を心から信じられた人は、一人もいないと私は思っています。その苦しみがあったればこそ、葛藤の中で罪が分かり、永遠の目が開れたのです。逆に素晴らしい祝福になったのです。
 反対にこの世の成功者、富、権力がある人が神を信じることは容易ではありません。ラクダが針の穴を通るほどの確率でしかないでしょう。その体現者であるパリサイ人に対し、主はマタイ伝の23章で「わざわいだ」と呼んでいるくらいです。

 イエス・キリストの福音の恵みはまず病ある人に届けられました。最終的には多くの異邦人を含むシリア中の人々がイエス様の元に来て、癒やされたのです。主の癒やしには明確な原則があります。それは肉体上の病も癒やされますが、より根源的な罪を癒やされるということです。体や心の癒やしから真の癒やしに向かうなら何という祝福でしょうか。癒やしが単にそれだけなら死ぬだけです。罪を赦され神を信じるなら永遠のいのちです。私たちはその祝福の恵みに与っている幸せな者なのです。神に感謝しましょう。

2018年4月15日 (日)

渇いているなら

ヨハネ 7章37節
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

 水というものは大切です。空気は地球上ならまんべんなくあっても、水の星であっても飲める淡水は片寄っています。人の体の2/3は水です。動物の命の源は植物ですが、植物こそ光と水で生きる存在です。それゆえ水のない砂漠は死の世界です。
ここで語られている水とは、その命の源の水に例えていますが、単なる水ではありません。「生ける水」と呼んでおられるものです。ではその生ける水とは何でしょうか。

生ける水、この水はどんなに素晴らしくても、渇きがない人にはその価値がわかりません。イギリスのことわざに「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」とある通りです。では「渇き」とは何でしょうか。一言で言えば、それは罪意識です。ありのままの正しい良心と言いましょうか、人と我を比べてではない、幼い頃には皆が持っていた、本当の自分自身を正しく見つめる心です。自分を正当化せず、自分の自己中心性、欲深さ、すぐに高ぶる心、これらをまっすぐに見すえる時、自分の本性がどうしようにもならない罪深さがわかります。血肉のこの命の終わる時、その行く先は恐ろしく、動揺し、心から救いを求める飢え渇きであり、「助けてください」という叫びです。

昨日自転車で街を走っておりましたら、最近流行の個人葬の葬儀場がありまして、その看板に「お葬式…それは人生の卒業式」と大書きしてありました。死が卒業式であれば、いよいよ本番の大切な就職はどこにされるのでしょうか?学ぶだけで後は仕事をしないのであれば、何の為の学校なのでしょう。これは死後、恐ろしい地獄で苦しまなければならない人々を、まるで晴れ舞台の卒業式のようにして、明るく送り出そうという偽わりの看板なのです。

世の多くの人は神を信じないので、死後の世界も信じません。生きているだけがすべてなのです。確かにその通りで、血肉の体が滅ぶとしばらく眠りに着くことでしょう。しかし再び目覚めた時、それは最後の審判の時なのです。イエス・キリストを信じた人以外は審判後、滅びない永遠の体を与えられ、永遠に苦しめられる定めが待っているのです。
しかし神を信じ、イエス・キリストの十字架が自分のためだと受け入れた人は、神の恵みとあわれみを受け、すべてが赦され、天の神の国に引き上げられて救われます。それはその人が何か良いことをしたり、価値があったからではありません。多くの他の人のように信じないこともできましたが、それでも信じたからでした。これはただただ、神があなたを愛し、神のあわれみがその人に注がれた恵みなのです。
あわれみ深い神に、心からの感謝を捧げましょう。神がそれを喜んでくださいます。

2017年5月21日 (日)

悔い改めの恵み

マタイ 1章3・6節
ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ
 
 マタイ伝のしょっぱなイエス・キリストの系図、ルカにはない「○○によって」と女性の名前が四人ある。その中でも特に、人の罪深さ、その悔い改めることの恵みが実に簡潔に記されている箇所が二つある。
 
「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」~聖書の中でも、わずかなことばの中に驚くべき神の計画が込められている箇所である。タマルはユダの妻ではなく、嫁である。常識的に考えれば、これはとんでもない乱れであるのだが…。
 ユダはイスラエル十二部族の長、現イスラエルの中心となる部族の祖である。ユダは心が広く正しい男であったが、兄弟から離れ、みこころではないカナン人の妻をめとったことから神の取り扱いがはじまった。長男と次男の嫁であったタマルに、三男のシェラが成人してもタマルを嫁にしなかったユダは、端的に言えば原因を読み誤っていたのである。息子たちが死んだのはタマルに原因があるのではなく、息子たちに原因があった。ユダのこの過ちは、ユダ自身に手痛い「赤っ恥」という形で神は正された。(詳細は創世記38章)
 
 タマルは実家に帰されていたが、妻を喪った義父ユダが盟友ヒラと一緒に用事で出かける知らせをある人から聞いた。かなりの時間、義父と絶縁状態にあったにも関わらず、その動静を「知らせる人」がいた?遊女の格好で道に出て立っていて、そこを友と通りがかったユダに声をかけられる可能性は?そしてただ一度で双子を与えられる可能性は?しかもちょうど金を持ち合わせていないため、支払いに印形とひも、杖を質代わりに得る可能性は?しかも、大勢の前で、タマルの宿している子をユダがわが子と認めない可能性は?…など、これは次のことを容易に推察することができる。神がユダへの祝福を、初めのカナン人の女を通してでなく、嫁であったタマルの祈りと聞き従う信仰の上に置こうと意図されたことなのである。                  (タマルとは知らないで、道端の女を買うユダ)
 
「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」Photo
 イスラエルの最大の誇りであるダビデ王だが、ユダの比ではない罪人である。ユダは三男の息子を失いたくないばかりに、律法破りをしたが、ダビデは部下の妻を肉欲で寝取り、妊娠すると、その夫で忠実な武将ウリヤを激戦地に送って殺してしまった。(詳細は2サム11章)
 たとえ王といえども神に召されたしもべに、姦淫と殺人は許されない。神は預言者ナタンを送って万死に当たる罪であることを宣告された。するとダビデは即座にただ神の前に悔い改め、伏して許しを請うた。(ダビデ王に神の言葉を伝えるナタン)
 
 結局ユダやダビデはどうなったか? 神が求められるのは、裁くことでなく、己が罪を真摯に悔い改める心である。恥と罪を指摘された二人は心から悔い改め、神に赦された。聖書に恥ずかしい自分の罪が明記されるのは、悔い改めて罪を告白している証拠である。こうして子孫は祝福された。タマルの子は今日に至る栄えあるユダ族の祖先となり、バテ・シェバの子ソロモンはイスラエル全盛期の王となった。お咎めどころか、かえって祝福されたのだ。
 
 聖書は系図でこう語っている。民族の英雄でさえも罪を犯すが、悔い改めるならかえって祝福されること。神は愛であることを現している。決して変わらぬこの神の愛の前に私たちは悔い改め、その恵みを受けよう。

2016年9月18日 (日)

あなたの神である主を愛せよ

 マタイ 22章27節
そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

イエス様にこの質問をした律法学者、今で言うとラビですが、ラビの中でもおそらくは最高位のラビだと思われます。いわばイエス様との勝負に一騎打ちの真打ちが登場したと私は見ます。そのラビが出した質問が、おそらくはその当時最も揉めていた問題、613にもふくれあがった律法を整理し、大切なものは何なのか、なのです。そしてこのラビ以降、関ヶ原の合戦の後のように、もう誰もイエス様に論争を挑む人が出るはずもありませんでした。
 
イエス様は心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、つまり全身全霊で神を愛しなさいと言っています。神よりも大切な存在がこの世にないのは当然ですが、人格的な交わりを最も中心に見られる神は、私たちの心を求められます。どれほど神が私たちを愛していてくださるかを知れば、それは当然であり、また、心から感謝することであります。神を愛し、隣人を愛すれば、すべての律法を満たしていると保証されているのです。
 
隣人、ここで私はひっかかります。神を愛する者は、隣人をも自分と同様に愛さなければならない。神を愛する気持ちはあっても、具体的な隣人への愛となると、愛に乏しい自分というものを自覚します。神への愛の具体的な現れ、真価が問われるわけです。そこで自分には愛が乏しい、ほとんど無い、それゆえこれも神に期待し求めることしかない、つまり愛のすべては神から来るという真理に気づくのです。もし幾ばくかの隣人愛に近い行為が自分にできたとしたなら、それは自分ではなく、ただ受けた神の愛を、少しだけ反射しているだけであるとわかるのです。この点について、限りなく人は神に対して謙遜になることができ、すべての栄光を神に帰すことができます。
 
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして愛する」、これはイエス様に自分のすべてをお捧げすることでもあります。聖霊によって自分が新しく生まれることでもあります。そのようになれば、自分で進んで捧げたくてしかたがなくなります。神の愛に喜んで捧げることができます。どうかまだの方は悔い改めて、この絶大な神の恵みに与れますように。祈り求めるならば、それはみ心ですから必ず与えられます。ただしそれは、最善である神の時があります。忍耐して祈り求めてください。

2016年9月 4日 (日)

福音

マタイ 3章2節 
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
       
 私たちはこの体がやがて滅ぶことを知っています。滅ぶものより、滅ばないものに価値があるのは当然です。ですからこの命は、後に来る永遠の霊のいのちと御霊の体を受けるためにあるのです。しかし現実は逆さまで、血肉の命だけしか知らず、その後の最も大切なことを失う人がほとんどなのです。
 
 福音は滅びから救われることのグッドニュースです。しかし自分中心の生き方をしたい人は、福音を受け入れることができません。しかしここにおられる神を信じる方は、どうして福音を受け入れられたのでしょうか。まことに失礼ですが、みなさんには、ある意味、世的には不遇であられて、あまりこの世に希望を持てない人たちではなかったのではないでしょうか。ですから皆さんは神の福音を受け入れられた。神に希望を持ち、十字架の救いを信じ、クリスチャンとなることができたのではありませんか。
 
 もしそうならば、皆さん、これまで「自分の人生にこれさえなかったなら」と思って来たことが、逆に自分を永遠の命に導いた「宝もの」なのではありませんか。つまり欠点や、人生の挫折、こころの傷があったればこそ、信仰を持ったのであれば、それを大切な宝として喜び、感謝しようではありませんか。
 
 宝物をこっそり隠す人もいるでしょうが、たいてい人はそれを自慢したいものです。ですからクリスチャンの自慢は、普通の人なら決して明らかにしない自分の欠点や愚かさです。人前での証に、これでもかというほど、自分の罪や愚かさをはっきり言う人がいますが、まさにこれぞクリスチャンの印です。
 
 さて私自身にも過去、大きな苦しみがありました。それで癒やしを求め、聖霊なる神様を求める絶大な恵みに預かったのです。もちろん感謝していました。ただし、口先だけで、心からとは言えなかったのです。そのことを先だって妻から指摘されまして、「そうだった、心からしていなかった」と悔い改めさせられました。たとえ今は口先だけでも、心から神に祈り求めるなら、これは御心ですから、必ずできるようにしていただけます。これが私たちの信仰です。
 
 皆さん、福音の恵みに預かった私たちは、光の子どもです。影などはないのです。無理に笑顔を作るのではなく、心ににじみ出てくる喜びが溢れるのです。それでこそ福音を伝える器としていただけることでしょう。祈り、求めましょう

2015年7月26日 (日)

主はあなたの中におられる

 イザヤ 12章6節
 罪とは、「的外れ」の意味です。話が違うのですが、クリスチャンが 「神の声を聞けない」 原因の一つに、この「的外れ」があるのではないでしょうか。

「神は語られるし、その声を聞きたい」と願われるのは当然です。ですから一生懸命耳を澄まし、聞こうとしておられるのだとしたら、それはかなり困難なことでしょう。確かに直接神の声を聞いた人がいます。使徒パウロは突然、天からの光が彼を巡り照らし、地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きました。

ケン岡村牧師は自暴自棄になってロスで車をぶっ飛ばしていたら、雷のような「Go to the Church !」の声を聞きました。注意すべきはこれらの人は確かに神の声を聞いたのですが、その時、神との通話回路がなかった人々だったということです。

一人は熱心なユダヤ教徒でクリスチャンの迫害者でしたし、もう一人は信仰を失っていたクリスチャンでした。つまり外部からの、目を覚ますような実際の声かけが必要な人々でした。ところが神が内住されているクリスチャンには、神はもっといろいろな方法で語りかけられることがおできになれます。

 神は外の、どこかにおられるということではなく、実にあなたの中に存在され、あなたの中に神の国を作っておられます。ですから主を求めるのに、自分自身の中に主を求めるのがポイントなのです。

 そのように志向すると、多くの信者の心に<激しいこみ上げてくるもの>が沸いて来るようです。それは「悔い改め」です。昨日も偶然妻がそのようなことを言い出し始めましたし、私に至っては常にそうなのです。考えてみると、これはある当然なのです。主の声を聞こうとするならば、人というものは多くの場合、普段の生活で聞き従いが不十分です。自分の良かれと思うような生活・・・主を主とした歩みではなく・・・をしているわけですから、先ず以て悔い改める必要があるのです。

 バプテスマのヨハネもそのために世に来られました。ダニエルたち預言者も、神に聞く前には深い悔い改めの祈りを捧げています。こころから神の前に悔い改めるならば、私たちに赦されない罪はなく、たとえ一時的にせよ私たちは神と交われるきよい存在としていただけるのです。神は聖ですから、神と交わって聞く者も聖とされなければならないのです。

 「聞く」ことに関して、先ず自分自身の内におられる神に聞こうとすること。悔い改めるというより、悔い改めに導かれること。その深い臨在の中に、優しく静かに語りかけられるあわれみ深い主の声があります。

<祈り>
主よ、どうかあなたが私の思うこと、願うことの中心でありますように。私の肉が望むことではなく、ただあなたの御心を願わせてください。良いしもべがいつも主人の意図に気づき、先回りして行うように、あなたの御心を行う者とならせてください。

2015年3月 1日 (日)

自分の罪を言い表すなら

1ヨハネ 1章8-10節  
 世の中には人間について、二つの大きな考え方の違いがあります。一つは性善説に基づくもので、人間を善と見なし、理想郷を作ろうと推し進めたものが、あの恐ろしい共産党独国家であり、指導者の神格化でした。このような人間を善と見る方々は、神を信じません。なぜなら人間である自分自身が、それぞれ神なのですから。  しかしたとえ性悪説に立てた人でも、すべてではありませんが多く人にとって、神を信じるとは自分の救い、永遠のいのちが欲しいためです。単にクリスチャンという勲章が欲しいだけの人もいます。それが神を知るにつれて、真の祝福は自分を神に明け渡し、自分ではなく、神のみこころを行なうことだとわかるようになれるかどうかが、まず大きな分かれ目です。己れのためにでなく、神に聞き従って生きることこそ真のクリスチャン生活です。言い方を変えれば、己の罪を深く自覚し、神にふさわしくないと思える人、その人こそ神にふさわしい人なのです。

   本日のテーマ「自分の罪を言い表す」という聖書の御言葉ですが、皆の前で罪を表明すること、これは一人で神の前に静まって罪を告白し、悔い改めることと大きな違いがあります。
 第一に、神の前と人の前とを使い分けることをせず、ただ神の前に生きる姿を明らかにしています。これは明らかに神に義とされ、神に喜ばれることです。
 第二に力ある証であることです。日本には謙譲語という敬語の分野がありますが、神へのへりくだりを表すのに、自分の罪を言い表すこと以上の謙譲語はありません。
 三番目に大切なことは、これは己の罪に対して、完全な勝利を取ったことになるのです。なぜなら神の前でどんなに罪を告白し、悔い改めていようとも、それを心の内に秘め続けて人前では涼しい顔をしていたのでは、完全ではありません。サタンがそのギャップにつけ込んでくる恐れがあるからです。それを隠すことなく人前で罪を言い表せば、それはもはや秘密でも何でもなく、もはや人とサタンにつけ込まれる恐れはありません。罪からの完全な勝利を得ることになるのです。

   衆前で自分の恥をさらし、告白する罪の言い表しということは、恥をものともしない勇気が要りますし、公開に当たっては、自分を下敷きにした上での神の栄光を讃える神への愛と信仰がその土台となります。それゆえ、神はこの「自分の罪を言い表す」者に対して特別な祝福をお与えになります。永遠の神の国において、最大級の祝福であることでしょう。