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赦し・悔い改め

2016年9月18日 (日)

あなたの神である主を愛せよ

 マタイ 22章27節
そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

イエス様にこの質問をした律法学者、今で言うとラビですが、ラビの中でもおそらくは最高位のラビだと思われます。いわばイエス様との勝負に一騎打ちの真打ちが登場したと私は見ます。そのラビが出した質問が、おそらくはその当時最も揉めていた問題、613にもふくれあがった律法を整理し、大切なものは何なのか、なのです。そしてこのラビ以降、関ヶ原の合戦の後のように、もう誰もイエス様に論争を挑む人が出るはずもありませんでした。
 
イエス様は心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、つまり全身全霊で神を愛しなさいと言っています。神よりも大切な存在がこの世にないのは当然ですが、人格的な交わりを最も中心に見られる神は、私たちの心を求められます。どれほど神が私たちを愛していてくださるかを知れば、それは当然であり、また、心から感謝することであります。神を愛し、隣人を愛すれば、すべての律法を満たしていると保証されているのです。
 
隣人、ここで私はひっかかります。神を愛する者は、隣人をも自分と同様に愛さなければならない。神を愛する気持ちはあっても、具体的な隣人への愛となると、愛に乏しい自分というものを自覚します。神への愛の具体的な現れ、真価が問われるわけです。そこで自分には愛が乏しい、ほとんど無い、それゆえこれも神に期待し求めることしかない、つまり愛のすべては神から来るという真理に気づくのです。もし幾ばくかの隣人愛に近い行為が自分にできたとしたなら、それは自分ではなく、ただ受けた神の愛を、少しだけ反射しているだけであるとわかるのです。この点について、限りなく人は神に対して謙遜になることができ、すべての栄光を神に帰すことができます。
 
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして愛する」、これはイエス様に自分のすべてをお捧げすることでもあります。聖霊によって自分が新しく生まれることでもあります。そのようになれば、自分で進んで捧げたくてしかたがなくなります。神の愛に喜んで捧げることができます。どうかまだの方は悔い改めて、この絶大な神の恵みに与れますように。祈り求めるならば、それはみ心ですから必ず与えられます。ただしそれは、最善である神の時があります。忍耐して祈り求めてください。

2016年9月 4日 (日)

福音

マタイ 3章2節 
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
       
 私たちはこの体がやがて滅ぶことを知っています。滅ぶものより、滅ばないものに価値があるのは当然です。ですからこの命は、後に来る永遠の霊のいのちと御霊の体を受けるためにあるのです。しかし現実は逆さまで、血肉の命だけしか知らず、その後の最も大切なことを失う人がほとんどなのです。
 
 福音は滅びから救われることのグッドニュースです。しかし自分中心の生き方をしたい人は、福音を受け入れることができません。しかしここにおられる神を信じる方は、どうして福音を受け入れられたのでしょうか。まことに失礼ですが、みなさんには、ある意味、世的には不遇であられて、あまりこの世に希望を持てない人たちではなかったのではないでしょうか。ですから皆さんは神の福音を受け入れられた。神に希望を持ち、十字架の救いを信じ、クリスチャンとなることができたのではありませんか。
 
 もしそうならば、皆さん、これまで「自分の人生にこれさえなかったなら」と思って来たことが、逆に自分を永遠の命に導いた「宝もの」なのではありませんか。つまり欠点や、人生の挫折、こころの傷があったればこそ、信仰を持ったのであれば、それを大切な宝として喜び、感謝しようではありませんか。
 
 宝物をこっそり隠す人もいるでしょうが、たいてい人はそれを自慢したいものです。ですからクリスチャンの自慢は、普通の人なら決して明らかにしない自分の欠点や愚かさです。人前での証に、これでもかというほど、自分の罪や愚かさをはっきり言う人がいますが、まさにこれぞクリスチャンの印です。
 
 さて私自身にも過去、大きな苦しみがありました。それで癒やしを求め、聖霊なる神様を求める絶大な恵みに預かったのです。もちろん感謝していました。ただし、口先だけで、心からとは言えなかったのです。そのことを先だって妻から指摘されまして、「そうだった、心からしていなかった」と悔い改めさせられました。たとえ今は口先だけでも、心から神に祈り求めるなら、これは御心ですから、必ずできるようにしていただけます。これが私たちの信仰です。
 
 皆さん、福音の恵みに預かった私たちは、光の子どもです。影などはないのです。無理に笑顔を作るのではなく、心ににじみ出てくる喜びが溢れるのです。それでこそ福音を伝える器としていただけることでしょう。祈り、求めましょう

2015年7月26日 (日)

主はあなたの中におられる

 イザヤ 12章6節
 罪とは、「的外れ」の意味です。話が違うのですが、クリスチャンが 「神の声を聞けない」 原因の一つに、この「的外れ」があるのではないでしょうか。

「神は語られるし、その声を聞きたい」と願われるのは当然です。ですから一生懸命耳を澄まし、聞こうとしておられるのだとしたら、それはかなり困難なことでしょう。確かに直接神の声を聞いた人がいます。使徒パウロは突然、天からの光が彼を巡り照らし、地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きました。

ケン岡村牧師は自暴自棄になってロスで車をぶっ飛ばしていたら、雷のような「Go to the Church !」の声を聞きました。注意すべきはこれらの人は確かに神の声を聞いたのですが、その時、神との通話回路がなかった人々だったということです。

一人は熱心なユダヤ教徒でクリスチャンの迫害者でしたし、もう一人は信仰を失っていたクリスチャンでした。つまり外部からの、目を覚ますような実際の声かけが必要な人々でした。ところが神が内住されているクリスチャンには、神はもっといろいろな方法で語りかけられることがおできになれます。

 神は外の、どこかにおられるということではなく、実にあなたの中に存在され、あなたの中に神の国を作っておられます。ですから主を求めるのに、自分自身の中に主を求めるのがポイントなのです。

 そのように志向すると、多くの信者の心に<激しいこみ上げてくるもの>が沸いて来るようです。それは「悔い改め」です。昨日も偶然妻がそのようなことを言い出し始めましたし、私に至っては常にそうなのです。考えてみると、これはある当然なのです。主の声を聞こうとするならば、人というものは多くの場合、普段の生活で聞き従いが不十分です。自分の良かれと思うような生活・・・主を主とした歩みではなく・・・をしているわけですから、先ず以て悔い改める必要があるのです。

 バプテスマのヨハネもそのために世に来られました。ダニエルたち預言者も、神に聞く前には深い悔い改めの祈りを捧げています。こころから神の前に悔い改めるならば、私たちに赦されない罪はなく、たとえ一時的にせよ私たちは神と交われるきよい存在としていただけるのです。神は聖ですから、神と交わって聞く者も聖とされなければならないのです。

 「聞く」ことに関して、先ず自分自身の内におられる神に聞こうとすること。悔い改めるというより、悔い改めに導かれること。その深い臨在の中に、優しく静かに語りかけられるあわれみ深い主の声があります。

<祈り>
主よ、どうかあなたが私の思うこと、願うことの中心でありますように。私の肉が望むことではなく、ただあなたの御心を願わせてください。良いしもべがいつも主人の意図に気づき、先回りして行うように、あなたの御心を行う者とならせてください。

2015年3月 1日 (日)

自分の罪を言い表すなら

1ヨハネ 1章8-10節  
 世の中には人間について、二つの大きな考え方の違いがあります。一つは性善説に基づくもので、人間を善と見なし、理想郷を作ろうと推し進めたものが、あの恐ろしい共産党独国家であり、指導者の神格化でした。このような人間を善と見る方々は、神を信じません。なぜなら人間である自分自身が、それぞれ神なのですから。  しかしたとえ性悪説に立てた人でも、すべてではありませんが多く人にとって、神を信じるとは自分の救い、永遠のいのちが欲しいためです。単にクリスチャンという勲章が欲しいだけの人もいます。それが神を知るにつれて、真の祝福は自分を神に明け渡し、自分ではなく、神のみこころを行なうことだとわかるようになれるかどうかが、まず大きな分かれ目です。己れのためにでなく、神に聞き従って生きることこそ真のクリスチャン生活です。言い方を変えれば、己の罪を深く自覚し、神にふさわしくないと思える人、その人こそ神にふさわしい人なのです。

   本日のテーマ「自分の罪を言い表す」という聖書の御言葉ですが、皆の前で罪を表明すること、これは一人で神の前に静まって罪を告白し、悔い改めることと大きな違いがあります。
 第一に、神の前と人の前とを使い分けることをせず、ただ神の前に生きる姿を明らかにしています。これは明らかに神に義とされ、神に喜ばれることです。
 第二に力ある証であることです。日本には謙譲語という敬語の分野がありますが、神へのへりくだりを表すのに、自分の罪を言い表すこと以上の謙譲語はありません。
 三番目に大切なことは、これは己の罪に対して、完全な勝利を取ったことになるのです。なぜなら神の前でどんなに罪を告白し、悔い改めていようとも、それを心の内に秘め続けて人前では涼しい顔をしていたのでは、完全ではありません。サタンがそのギャップにつけ込んでくる恐れがあるからです。それを隠すことなく人前で罪を言い表せば、それはもはや秘密でも何でもなく、もはや人とサタンにつけ込まれる恐れはありません。罪からの完全な勝利を得ることになるのです。

   衆前で自分の恥をさらし、告白する罪の言い表しということは、恥をものともしない勇気が要りますし、公開に当たっては、自分を下敷きにした上での神の栄光を讃える神への愛と信仰がその土台となります。それゆえ、神はこの「自分の罪を言い表す」者に対して特別な祝福をお与えになります。永遠の神の国において、最大級の祝福であることでしょう。