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赦し・悔い改め

2024年5月26日 (日)

赦し

Ⅱ列王 6章21~22節   2017新改訳

イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ち殺しましょうか。私が打ち殺しましょうか。わが父よ。」
エリシャは言った。「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それ以来、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入しなかった。

 本日の聖書はⅡ列王6:21-23です。エリシャの時代、北の隣国アラムはイスラエルを再々略奪しようとしたと聖書には書かれています。これは国単位の侵略行為であり、いつ全面戦争になってもおかしくない状況であったと思われます。エリシャはアラムの待ち伏せ攻撃をあらかじめ王に告げ知らせ、その作戦を妨害します。そこでアラム王は大軍を持ってエリシャの略取しようとしたのですが、神は全てをお見通しであり、アラムの軍をはるかに上回る神の軍勢で囲っていたのです。このように神は、ご自分のしもべに常に知らせ、守られるのです。

 さてエリシャはこのアラムの軍が向かって来たとき、神に敵の目をくらませを願い、見えなくなった軍を首都サマリアまで連れて行き、都の中で目を開かせます。こアラム軍の行列はサマリヤの人々が大勢見物することとなったことでしょう。目が空いたアラムの軍はどれほど驚いたことでしょうか。他国に乗り込んで捕まった略奪者は、イスラエルの王が「私が撃ち殺しましょうか」と言ったように処刑されて当然だっと思われます。しかしエリシャは王に盛大なもてなしをさせて、自分たちの国に帰らせたのです。ちょっと驚きですが、真の成功とは平和をつくることにあります。これ以後、二度とアラムは略奪軍を送ってくることは無くなったのです。

 真の成功とは報復することでなく、平和をつくることです。私たちにはもっと素晴らしい御言葉、真理が与えられています。それがルカ6章にあるような「赦しなさい、そして愛しなさい」と言うことばです。私たちは憎しみや怒りを抱えたままでは、その連鎖が拡大し、傷が広がっていくだけで、やがて自分もおかしくなって行きます。こんな例は、皆さんも体験したはずです。
 平和の神様は私たちが赦すことをお望みです。御子イエス様は十字架上で全ての人を、敵をも赦されました。最初の殉教者ステパノも「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫びました。今、自分を殺そうとしている彼らを許さなければ、彼らは罪に定められ、罪の呪いが彼らを救いから遠ざけてしまうことでしょう。それは御心ではありません。
 ですから赦すことは、ただ単に口先だけのものではありません。受けた一切の損害補償請求権、一切の復讐の権利、恨み・悲しみ・辛さを完全に放棄し、喜ぶことです。その上神様は「敵を愛しなさい」と言われています。皆さん、愛することは簡単ではないとしても、赦すことは、そのよう決心すればできるはずです。
 赦しましょう。真に赦せるように神から力をいただき、自分のためにも赦すのです。

2024年5月12日 (日)

赦されてゆるす

マタイ 6章14~15節   2017新改訳

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 マタイ6章15節には「人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたをおゆるしになりません」とあり、これ以外にも同様な御言葉が随所にあります。私はこれまであまり真剣に受け止めてはいなかったのですが、何度もイエス様自身の言葉で繰り返されているので、これは重大な戒めであることに気づきました。命じておられるイエス・キリスト様が十字架で赦しそのものになられたのです。と言うことは、信じる者が師に背いて人をさばき、赦さなかったとしたら、それはもはやイエスの弟子でも従う者でもないと言うことになります。最近祈ってしばしば示されたり、またつい最近刊行されたマーリンさんの「地獄に天国をもたらす」に追い打ちのように実行を強く示されました。

 前述の本にこうあります。「私たちが人を赦さなければ、自分が苦しむことになります。赦さない心は、私たちから平安や喜び、健康まで奪うからです。神は人間をそのようなものとして創られました。ー中略ー 人間にはどうすることもできない仕組みなのです」(p29)と。ひと昔前の私でしたら不十分な理解だったでしょうが、今は完全に理解できます。アーメン。

 厄介なのは、赦さなければならないことがわかっても、その相手が具体的にわからないことです。それでは恵みはなく、いつまでも消極的な不服従のままだと言えるでしょう。実は最も身近な存在である身内の中に潜んでいる場合があり、あまりにも関係が深く自分の根源的な存在なので、今更気付けないことが多いのです。そのために祈りの中で、気づかないのだけれども自分が許すべき相手というものをイエス様に聞いてみることがポイントになると私は思っています。

 次に赦す行動を実践することが重要です。これについてもイエス様が簡潔に一言で述べておられます。<赦す=愛すること>です。これ以外に真の赦しはありません。どんなに「赦す」と言っても、行いが伴っていなければ口先だけのことで、赦したことになりません。憎んだりさばいたりするのではなく、愛する、このことを「あなたの敵を愛しなさい」とイエス様はおっしゃったのです。どうでしょうか、自分自身にその力はなくても、御心ですから神の力に依るならば可能になります。どうか神を信じ、御心を行って平安と喜びの祝福を受けていただきたと思います。そこに御霊の実が開いて行くのです。

2023年11月 5日 (日)

十字架の愛

マタイ 11章11節   2017新改訳

まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。

今、イスラエルとハマスの戦いが地上戦という形で激化しています。時間が経つにつれ、イスラエルを非難する人が増えています。これまでにないフェイク情報合戦の結果、イスラエルを非難する国や人が増えています。クリスチャンにとってこれは看過できないことです。まずこれは、ハマスが残虐で非道な殺人と拉致から始まった戦いであるということを揺るがせないようにしましょう。その上でテロリストの犠牲となるガザの人々、その命が少しでも守られるように祈りましょう。

 さて本日は「十字架の愛=ゆるす」というテーマです。解決策がどこにあるのだろうか、人間の罪深い争いの中、神はどのように人を見ておられ、どう解決の手を差し伸べられておられるのか、です。

 2000年前キリストが来臨された当時のユダヤ社会は、イスラエル史上最高の信仰的社会でした。今のガザでの紛争とまるで逆です。しかしその結果は、神が看過できないほどパリサイ人やサドカイ人に代表される偽善の世界になっていました。人間の営み、努力では戦いの中はもちろん、非常に宗教的な世界にあっても、人が救われることは不可能であることを実証したのです。このタイミングで神の計画、神の子が地上に人となって来られました。
 人間の絶望的な罪性に対する神の解決策は、神ご自身による贖い、つまり十字架による赦しでした。宇宙の創造者が被造物である人間のために、身代わりの子羊となられたのです。十分に全人類の罪を贖ってあまりある犠牲でした。
 バプテスマのヨハネがイエス様が来られる前備えとして「悔い改めよ」と説きましたが、これは己の救い難い罪を自覚しなさい、そしてメシアに己が罪を告白し、赦されて生きなさいと言う意味です。従って自分を義とする者は罪が分からず、悔い改めることができないので救われません。
 十字架の素晴らしさは、最高の預言者バプテスマのヨハネを凌駕します。それだけでなく、何よりも生きながらに、聖霊の神と共に生きることは、人間の罪性が清められ、根本的に変えられます。十字架の力は偉大です。悔い改める者の罪を拭い、きよめ、一度も罪を犯さなかった者に、天国人にふさわしく変えるからです。
 イスラエルはこれから終末にかけて、一時は和平を楽しむことがあっても、第三神殿を建設しながら、最終的には世界中の軍に囲まれて絶滅の危機に陥ります。その時、悔い改めてメシアがすでに到来していたことに気づくのでしょう。ここに至って初めて十字架の恵みに気付くのです。みなさん、イスラエルのために祈りましょう。神は十字架によって、すべての人を愛しておられ、悔い改めて信じ、罪赦されて平和が訪れることを望んでおられるのです。世界の平和は究極的には今よりもっと悪い患難の時代の後に来ます。信仰によって現実の悪、罪深さに立ち向かいましょう。

2023年10月29日 (日)

私は何をお返ししよう

マタイ 18章26節   2017新改訳

それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。

マタイの18章21~35節で、イエス様がペテロの問い、「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」に対して七十回と答えられましたが、実は回数の問題ではないこと、「ゆるす」ことの真の意味を続けて語られたのです。
 それがこの、王に対し、一万タラントの負債をした家来のことです。家来ですから、当然クリスチャンで、立場としては神から相当の責任を任される牧師とか、会計執事のような人に相当するでしょう。ところがこの家来は主に対して忠実な者ではなく、能力はあっても私腹を肥やすような不正な者でした。数ある教会では、主の声を聞き、従うのではなく、自分が良かれと思う自分の思いと考えで牧会する牧師は多いと思われます。しかしそれは不正なのです。
 この家来の不正な額は、今の相場で言えば6千億円相当になり、途方もないものです。私にとって大金である百万円の何倍でしょうか?六万倍です。これを返すには家を処分し、家族を奴隷に売っても全然足りません。そこで彼は王様に泣きつき、許しを願ったので、あわれみ深い王にゆるされました。神のゆるしは1万タラントに象徴される途方もないゆるしです。

 普通でしたらこの裏切りに対して厳罰が当然です。教会に当てはめれば、神の権威を利用できる立場にある者が、実は自分の栄光や財を蓄積していたようなものでしょうか。しかし、あわれみを求められると、なんと神はゆるされるのです。ですから神のゆるしは、途方もないゆるしであることがわかります。

 しかし重要なことがこの後続きます。ゆるされた家来の帰り道、自分から百万円借りていた者を見つけ、返済を迫って牢屋に入れたのです。百万は王に許してもらった六千億の六万分の一です。あわれみのないこの家来に、王が怒って、先の許しは取り消されました。
 これは私たちが神のあわれみによって、どれほど赦されているか、またその恵みの故に、私たちも同じ罪人を決して恨まず、ゆるし続けなければいけないことを教えています。それどころか主は「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。(ルカ6章27~28節)」とさえ語られたのです。

 これは自分の罪が本当にわかっている人、または主から<わからされている人>なら、心から「アーメン」と言えることです。どうでしょうか皆さん、心の底から「アーメン(真摯にその通り)」と言える人こそ、神から愛され、あわれみが何であるかを体験された恵みの人ではないでしょうか。「主に何をお返ししようか」と思うなら、まず自分を赦された膨大な主の愛、また自分自身を始め、すべてをゆるし、そのただ中で主を賛美しましょう。<私は賛美の声を上げます!>

2023年6月18日 (日)

赦されるために赦す

ルカ 6章37節  2017新改訳

さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。

 聖書で使われる「赦す」ということばですが、これは「水に流す」という意味ではありません。ルカ15章の放蕩息子の話ですが、過ちに気づいた息子はきちんと反省し、過ちを認めその上で、「もう息子ではなく、使用人の一人に」と償いをすることを言い表しています。「水に流す」というような、あったことを無かったことにするとは一言も言っていません。
 一方、赦す側としては、聖書のマタイ6:14-15でもし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。と言っています。これが今日のテーマである<赦されるために赦す>という根拠になっています。

 人はなぜ赦すことができないのでしょうか。口先では赦すと言っても、それは真実ではなく、後々恨み言を呟く人がなんと多いことでしょうか。幼い時に受けた心の傷やいじめ、先ほどの証のように、まったくの誤解をしつこく言いふらされるパワハラ的なことが起こったとして、それを赦すと言うのは、通常は困難です。しかしまず第一に留意したいことは、それらを抱え込んでいる内に、やがて恨み、憎しみとなり、自分が一番じくじくと大きなダメージを受けることです。
 自分を正当化し、晴れない思いにくすぶり続け、時に「仕返し」とかの相手への懲罰を願うということは、自分が裁判官になって相手を断罪するということと同義です。しかしあなたはその時の相手側の事情や起こった背景について正しくは知っていません。ただあなた自身の一方的な被害者意識があるだけで裁いているのであって、決して公正ではありません。そのよりも一番大事なことは、それを神が許されたということです。あなたが神に代わって裁いてはいけません。あなたもその人と同じ、罪人の一人に違いないのです。
重要なポイントは、神がすべてを見ておられ、最終的に裁かれるのです。また赦さなければ赦さなかったことから来ることが、人格や信仰の形成に大きな影響を及ぼしてしまうのです。他者を断罪する大きな罪があるなら、神はその人の罪を赦さないし、聖霊の注ぎかけは困難です。その人にとってこれが最大の損失でありましょう。この地上でのことはやがて過ぎ去り、取るに足りないことになります。私たちは永遠の天に生きる者でありながら、赦さない人の正体は、実はこの滅ぶべき地に属していることを証明しているのではないでしょうか。

 本当に天国に所属する人たちは、イエス・キリストも、ステパノもパウロ三木も、目前の自分を殺そうとする人たち皆に罪を着せなかったのです。今みなさんはおそらく、自分の赦さない罪に気づかれていないかも知れません。これからもし、聖い聖霊様が聖霊のバプテスマとしてみなさんに臨む時、おそらく聖霊様ご自身によってみなさんの罪を改めて教えてくださることでしょう。その時はじめて悔い改め、赦され、一段と完全な者とされて行くことでしょう。

 

 

 

 

2023年1月15日 (日)

悔い改めの恵み

マタイ 4章17節   新改訳2017

この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

 イエス様は公生涯を始めるにあたり、その第一声は「悔い改め」であった。マタイ4:17の御言葉から、悔い改めには「天の御国が近づいた」という時があり、その天の御国に入るためのは悔い改めが前提となっているという風に読み取れる。
 確かに神を信じたので、その神に悔い改めるのだ。その悔い改めは、自分に絶望し、それまでできなかった自分を主に明け渡そうとするものだ。つまり「自分のいのちを憎む」という御言葉のの成就となり、新生し、絶大な神からの霊的な恵みにあずかる者となって行く土台だ。

 <祈り>について、これもクリスチャンの特権だが、多くの場合、自分の願いの実現を求めて祈ることが祈りだと思われている。それは決して否定されるべきではないが、本日は新しい視点で、「祈りとは」を示されたので、それを明らかにしたい。
 それは本来の<祈り>は神との交わりの局面において御心を知る、聞くことが祈りであるという点だ。これには薄々気づいていたが、確かにこのようにはっきりと聞き、確信が湧いても来た。

 祈りは最初、幼く赤児のように要求しかできな段階からスタートする。しかし徐々に父を知り、交わりを深め、訓練と薫陶を受けて成長し、やがては成長した子として、意思や感じていることを聞かれたり、逆に父の考えや意思を知るようになる。それを聖霊のバプテスマ、新生という。子はやがて父の意思を自分の意思とし、それをさらに実現しようと身命を賭するようになる。愛する父がそれを望んでいるからだ。祈りとはこのように父との深い交わりそのものなのだ。
 常に流転し滅ぶべきものと、神の神性、永遠との関係はないように、人間の肉的な求めや祈りに、何ほどの価値があるのだろうか。ただ唯一価値があるのは神の御心でしかない。私たち神の子どもは、神の御心のみに生きるのだから、次のような特徴を持つ。

○「神と親しく交わり、神の声を聞く人」は基本的には世と分離させられている。
○世の権威に従うが、神が世より上なので、従属していない。
○ 外見や権威を重んじない。真の権威は神だけ。神の目から全てを判断しようとする。
○人の評判や風評、悪口に左右されない。それは相対的なものだとわかっているから。
○見せかけの謙遜やへり下りを極度に忌避する。
○どんな失敗をしても、神がそれを神の目的のために、あるいは教え導くために許されたのだとわかる。
○つい、自分を守ためとか、言い訳をする、その人の弱さによる<嘘や弁護>を許されない。
Capha

2022年12月18日 (日)

彼の打ち傷によって

イザヤ 53章5節   新改訳第3版
 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

ことが多いと思われる。しかしキリストへの打ち傷が私たちの癒やしに、どうしてなるのかわからずに祈っている方も多い。<キリストへの懲らしめの鞭、それが私の癒やしになった>意味を、クリスマスまでの数日間をかけ、学んで行きましょう。

 まず天の高き御坐に居られ、多くの天使たちと軍勢に囲まれておられたイエス様が、滅ぶべき被造物の世界に受肉されなければならなかったかについてです。はっきりわかること、これは創造以来の神の計画であり、必然であったことです。神は人を造られましたが、人が罪を犯すことをも予期しておられました。そうでなければ、これだけの広大無辺な宇宙世界の創造は不要でした。
 またアブラハムから始まったイスラエル民族は、キリストの必然性を民族単位で証明するものでした。見えるものしか信じない人間の罪性は、偶像崇拝の罪の土台です。しかしこの偶像崇拝を断ち切るために、イスラエルを打ち、捕囚の民とし、国と神殿を失わせました。信仰の拠り所としての見える神殿を失った反面、民は律法という、救いに至る素晴らしい道に気づかさせられたのです。イスラエルの民は各地におけるシナゴーク(会堂)で律法に聞き従う民となりました。イスラエルの民は偶像崇拝の罪から脱することができたのです。

 ところがイスラエルはまたもやつまずいてしまいました。それも根本的なところでつまずいたのです。律法は福音書でも分かるように<神と隣人への愛>が主題です。しかし律法はその神の御心から離れ、文言を細かく規定し、表面的にそれをなぞるものだけとなったのです。いわゆる形骸化です。ここに至っては神の愛を実際的な形で教えて示し、人間の罪性を神の愛<=罪の身代わり>神ご自身が引き受けられ、赦し、もはや人の力ではなく、神の力(聖霊)で変えられるしかなかったのです。

 従ってこのイザヤ書53章の「打ち傷」による「癒やし」とは、私たち人間が神によって罪が赦され、内住される聖霊様によって御心がわかり、神を心から愛する信仰に至る、つまり神との正しい関係に直されることが<癒やし>であるのです。それが人間にとっての真の癒やしであり、救いなのです。その結果として体の癒やしもあることでしょう。しかし肉体が癒やされても霊と心が癒やされていなくては、その肉体の癒やしはただの時間稼ぎのメリットでしかありません。ここでの<癒やし>とは神を愛する者に変えられるということです。

アーメンでしょうか。

2021年11月 7日 (日)

罪と病

マタイ 9章2節   2017新改訳

すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた

 天上から中風の男が吊り下げられて来た。吊り下げて降ろすといった非常識なことをするこれら男たちは、イエスさまの癒やしを信じ、何としてでもこの中風の男が癒やされることを期待してであった。それに対してイエスさまが「あなたの罪は赦された」と語られた時、その時点では期待された目に見える形で肉体上の癒やしが起こったわけではなかった。しかしこの根源的な癒やし・・・「罪は赦された」のことばは激しい副作用を伴った。その場に居た律法学者たちにとって、自分を神と等しいものとする「冒涜」にしか聞こえず、彼らの怒りを買うものだった。
 それでイエスさまは、「冒涜」に対する反証として、目に見える形での癒やし、中風の癒やしを行われたのだった。

 ここで二つの疑問が湧き起こる。一つは中風の癒やしを求めて来たのに、その答えは「なぜ『罪の赦し』なのか」と言うこと。次に、律法学者たちの「冒涜」視がなかったなら、この場での癒やしが行われなかったのだろうか?という疑問である。

 この中風の男は何を求めていたのか?それは記されていないので確かなことは分からない。しかし私は主を少しだけ存じているので、男が何を求めていたのか、想像することが出来る。それは「罪を悔い改めており、その赦し」だったと。神は頓珍漢なことは決してされない。その人の心の中を完全に見通され、最善をもって応える方である。ならばこの男が吊り下ろされていく時、このように思い、願っていたと私は推察するのである。肉体の癒やしは一時的なものに過ぎない。また少し年を経れば、私たちの肉体は朽ち滅んでいく神から預かった仮初めの宿である。しかし魂の救い、罪の赦しは永続的な、真に価値のあるものである。この男はその良い方を求め、祈っていたはずである。星野富弘さんという方がいる。星野さんも信仰に比べ、肉体の癒やしを望まなかった証人である。

 群衆や律法学者たちは霊的に盲目の人たちであった。もし「罪の赦し」が「病の癒やし」と関わりないことで、この中風の男が癒やされなかったとしたら、彼らはイエスさまがされた根源的な癒やしを悟ることができなかった。それゆえに、「『あなたの罪は赦された』と語られ、言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問われ、続いて「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」と言われながら、この男の中風を癒やされたのだった。癒やしはまさに、主ご自身が明示された<あなたがたが知るために>なのであった。

2021年2月14日 (日)

神に愛される人

ヨハネ 3章3節   2017新改訳

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 イエス・キリストが来られるまでの人物の中で、およそダビデほど神から愛された人はいません。しかし彼はバテ・シェバとの一件だけでなく、私たちと変わらぬ罪人の一人に過ぎませんでした。しかし神は愛され、その約束を違えることはなかったのです。なぜでしょうか? それはダビデは悔い改める人であったからです。
 例えば王として最も晴れがましい瞬間、契約の箱をダビデの町に迎え入れた時、前王の娘ミカルに蔑まれても、「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで、主の民イスラエルの君主に任じられた主の前だ。私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられ、自分の目に卑しくなるだろう」(第二サム6章21~22節)と、ダビデは人の目より、ただ神だけにへりくだって全幅の信頼を置きました。
 つまり、ダビデは何度も罪を犯しましたが、その度に神を信頼し、心から悔い改める人物だったのです。サウル王のように、王としての慢心を持たない人でした。それが神から愛された最大の理由だと私は思います。

 人は罪人ですから、神は裁こうとする人をますます頑なにされ(つまり、そのままにされ)、愛する人には様々に介入され悔い改めに導かれます。そのような人は、神からと思われる指摘や叱責に、かえって喜んで従います。それはたとえ苦い言葉であっても、自分を守り愛されているが故だとわかるからです。ですから悔い改めのバプテスマのヨハネは偉大だったのです。

 本日のテーマである「神に愛された人」とは、「悔い改める人」のことです。真に悔い改めるとは、謙遜というか、自分自身の真の姿、自分がどれだけ罪深く、罪に囚われた惨めな状態であるかという認識がなければなりません。しかし普通の人のように自分を誇る面が少しでも残っているとすれば、それは困難なことでしょう。
 その点から見れば、世の成功者、強者、または自分はひとかどにやり遂げて成しえたと思っている人々が「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しい」(マタイ19章24節)と語られている通りでしょう。口先では信じても、神を主とすることが困難だからです。

 神に愛されている人とは必ず尋常で無い困難、試練を経て、自分に絶望し、真の自分の姿を見た人です。自分に希望がないので、主を主とした人々です。悔い改めるができる人です。そのような人は聖霊のバプテスマを受け、新生した人々であり、永遠のいのちを血肉の命で失うことがありません。それは努力して可能になることではありません。神を愛し、すべてに優って神の愛が大切だという、愛された者の当然な結果なのです。神はこのような者を求めて全世界を造られました。神は愛する者を愛し、ダビデのように決して見捨てず、悔い改めに導いてくださいます。

2021年2月 7日 (日)

中風の人から

ルカ5章23節   2017新改訳

 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

 共観福音書マタイ、マルコ、ルカすべてに載るこの「屋根から吊り下ろされた中風の男の癒やし」は、これまで「あなたの罪は赦された」と宣言されたイエス様の立場から語られてきました。しかし今回、当の本人はどう思っていたのか、それに焦点をあてて見ていきたいと思います。

 キリスト教はどこかのクラブやサークルとは異なります。何が違うのかご存知でしょうか? それは罪赦された者の集まりなのです。クリスチャンになる人は次のような三つの段階を通っている人です。先ず霊魂が不滅であることがわかっていなければなりません。「鬼滅の刃」の鬼は炭次郞に切られると滅んでしまいますから、霊的な存在ではありません。霊は血肉の体と異なって不滅であり、天と地獄のどちらかで永遠に生きるのです。
 次に自分について、罪の故に滅ぶ存在であることを認識していなければなりません。それでこそ悔い改めることができるのです。最後に十字架の贖罪と赦しを受け、人が大きく変えられていなければなりません。そのような人は過去の罪を償いたい思いが強くなり、嘘がつけなくなります。良心が強くなるからです。また不安や恐れから解放され、天国を実感するようになります。その喜びはどうにも押さえようがなく、叫び出すほど心が引き上げられていきます。要するに、人が変わるのです。

 中風の男は、これはあくまで推測にならざるを得ませんが、深く悔い改めていたと思います。中風とは脳の血管の障害によって一部が壊死し、半身不随とか片麻痺、言語障害などが起こる後遺症です。吊り下ろされながら男は、自分の体を過信したこと、不摂生をしたこと、特に高慢であったことを悔い改めていたはずです。イエス様はそのことをご存知でした。それゆえ「あなたの罪は赦された」と言われたのです。この時、癒やされることよりも、はるかに素晴らしいものを男は受けたからです。

 この中風の男と同じように「罪は赦された」と語られたのは、パリサイ人に招かれていたイエス様と、そこに侵入した罪深い女との一件でした。女がイエス様にした一つ一つのことがらに、彼女の深い悔い改めを見ることができます。その上で、罪が赦された、そこにどれほどの喜びが溢れたことでしょうか。中風の男も、もう血肉の体が癒やされることなど、どうでも良くなっていたはずです。肉体のどんな癒やしでも、それは一時のもので、やがて必ず滅びます。しかし罪が赦され解放されることは永遠であり、天の神との交わりが開かれる絶大な恵みです。両者を比較するも愚かなことです。この男が癒やされたのは、パリサイ人などへの証明のためです。群馬県在住の詩画作家「星野富弘」さんも、これとまったく同じようなことを言っておられましたことから、このことは確認できるのです。