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赦し・悔い改め

2023年6月18日 (日)

赦されるために赦す

ルカ 6章37節  2017新改訳

さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。

 聖書で使われる「赦す」ということばですが、これは「水に流す」という意味ではありません。ルカ15章の放蕩息子の話ですが、過ちに気づいた息子はきちんと反省し、過ちを認めその上で、「もう息子ではなく、使用人の一人に」と償いをすることを言い表しています。「水に流す」というような、あったことを無かったことにするとは一言も言っていません。
 一方、赦す側としては、聖書のマタイ6:14-15でもし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。と言っています。これが今日のテーマである<赦されるために赦す>という根拠になっています。

 人はなぜ赦すことができないのでしょうか。口先では赦すと言っても、それは真実ではなく、後々恨み言を呟く人がなんと多いことでしょうか。幼い時に受けた心の傷やいじめ、先ほどの証のように、まったくの誤解をしつこく言いふらされるパワハラ的なことが起こったとして、それを赦すと言うのは、通常は困難です。しかしまず第一に留意したいことは、それらを抱え込んでいる内に、やがて恨み、憎しみとなり、自分が一番じくじくと大きなダメージを受けることです。
 自分を正当化し、晴れない思いにくすぶり続け、時に「仕返し」とかの相手への懲罰を願うということは、自分が裁判官になって相手を断罪するということと同義です。しかしあなたはその時の相手側の事情や起こった背景について正しくは知っていません。ただあなた自身の一方的な被害者意識があるだけで裁いているのであって、決して公正ではありません。そのよりも一番大事なことは、それを神が許されたということです。あなたが神に代わって裁いてはいけません。あなたもその人と同じ、罪人の一人に違いないのです。
重要なポイントは、神がすべてを見ておられ、最終的に裁かれるのです。また赦さなければ赦さなかったことから来ることが、人格や信仰の形成に大きな影響を及ぼしてしまうのです。他者を断罪する大きな罪があるなら、神はその人の罪を赦さないし、聖霊の注ぎかけは困難です。その人にとってこれが最大の損失でありましょう。この地上でのことはやがて過ぎ去り、取るに足りないことになります。私たちは永遠の天に生きる者でありながら、赦さない人の正体は、実はこの滅ぶべき地に属していることを証明しているのではないでしょうか。

 本当に天国に所属する人たちは、イエス・キリストも、ステパノもパウロ三木も、目前の自分を殺そうとする人たち皆に罪を着せなかったのです。今みなさんはおそらく、自分の赦さない罪に気づかれていないかも知れません。これからもし、聖い聖霊様が聖霊のバプテスマとしてみなさんに臨む時、おそらく聖霊様ご自身によってみなさんの罪を改めて教えてくださることでしょう。その時はじめて悔い改め、赦され、一段と完全な者とされて行くことでしょう。

 

 

 

 

2023年1月15日 (日)

悔い改めの恵み

マタイ 4章17節   新改訳2017

この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

 イエス様は公生涯を始めるにあたり、その第一声は「悔い改め」であった。マタイ4:17の御言葉から、悔い改めには「天の御国が近づいた」という時があり、その天の御国に入るためのは悔い改めが前提となっているという風に読み取れる。
 確かに神を信じたので、その神に悔い改めるのだ。その悔い改めは、自分に絶望し、それまでできなかった自分を主に明け渡そうとするものだ。つまり「自分のいのちを憎む」という御言葉のの成就となり、新生し、絶大な神からの霊的な恵みにあずかる者となって行く土台だ。

 <祈り>について、これもクリスチャンの特権だが、多くの場合、自分の願いの実現を求めて祈ることが祈りだと思われている。それは決して否定されるべきではないが、本日は新しい視点で、「祈りとは」を示されたので、それを明らかにしたい。
 それは本来の<祈り>は神との交わりの局面において御心を知る、聞くことが祈りであるという点だ。これには薄々気づいていたが、確かにこのようにはっきりと聞き、確信が湧いても来た。

 祈りは最初、幼く赤児のように要求しかできな段階からスタートする。しかし徐々に父を知り、交わりを深め、訓練と薫陶を受けて成長し、やがては成長した子として、意思や感じていることを聞かれたり、逆に父の考えや意思を知るようになる。それを聖霊のバプテスマ、新生という。子はやがて父の意思を自分の意思とし、それをさらに実現しようと身命を賭するようになる。愛する父がそれを望んでいるからだ。祈りとはこのように父との深い交わりそのものなのだ。
 常に流転し滅ぶべきものと、神の神性、永遠との関係はないように、人間の肉的な求めや祈りに、何ほどの価値があるのだろうか。ただ唯一価値があるのは神の御心でしかない。私たち神の子どもは、神の御心のみに生きるのだから、次のような特徴を持つ。

○「神と親しく交わり、神の声を聞く人」は基本的には世と分離させられている。
○世の権威に従うが、神が世より上なので、従属していない。
○ 外見や権威を重んじない。真の権威は神だけ。神の目から全てを判断しようとする。
○人の評判や風評、悪口に左右されない。それは相対的なものだとわかっているから。
○見せかけの謙遜やへり下りを極度に忌避する。
○どんな失敗をしても、神がそれを神の目的のために、あるいは教え導くために許されたのだとわかる。
○つい、自分を守ためとか、言い訳をする、その人の弱さによる<嘘や弁護>を許されない。
Capha

2022年12月18日 (日)

彼の打ち傷によって

イザヤ 53章5節   新改訳第3版
 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

ことが多いと思われる。しかしキリストへの打ち傷が私たちの癒やしに、どうしてなるのかわからずに祈っている方も多い。<キリストへの懲らしめの鞭、それが私の癒やしになった>意味を、クリスマスまでの数日間をかけ、学んで行きましょう。

 まず天の高き御坐に居られ、多くの天使たちと軍勢に囲まれておられたイエス様が、滅ぶべき被造物の世界に受肉されなければならなかったかについてです。はっきりわかること、これは創造以来の神の計画であり、必然であったことです。神は人を造られましたが、人が罪を犯すことをも予期しておられました。そうでなければ、これだけの広大無辺な宇宙世界の創造は不要でした。
 またアブラハムから始まったイスラエル民族は、キリストの必然性を民族単位で証明するものでした。見えるものしか信じない人間の罪性は、偶像崇拝の罪の土台です。しかしこの偶像崇拝を断ち切るために、イスラエルを打ち、捕囚の民とし、国と神殿を失わせました。信仰の拠り所としての見える神殿を失った反面、民は律法という、救いに至る素晴らしい道に気づかさせられたのです。イスラエルの民は各地におけるシナゴーク(会堂)で律法に聞き従う民となりました。イスラエルの民は偶像崇拝の罪から脱することができたのです。

 ところがイスラエルはまたもやつまずいてしまいました。それも根本的なところでつまずいたのです。律法は福音書でも分かるように<神と隣人への愛>が主題です。しかし律法はその神の御心から離れ、文言を細かく規定し、表面的にそれをなぞるものだけとなったのです。いわゆる形骸化です。ここに至っては神の愛を実際的な形で教えて示し、人間の罪性を神の愛<=罪の身代わり>神ご自身が引き受けられ、赦し、もはや人の力ではなく、神の力(聖霊)で変えられるしかなかったのです。

 従ってこのイザヤ書53章の「打ち傷」による「癒やし」とは、私たち人間が神によって罪が赦され、内住される聖霊様によって御心がわかり、神を心から愛する信仰に至る、つまり神との正しい関係に直されることが<癒やし>であるのです。それが人間にとっての真の癒やしであり、救いなのです。その結果として体の癒やしもあることでしょう。しかし肉体が癒やされても霊と心が癒やされていなくては、その肉体の癒やしはただの時間稼ぎのメリットでしかありません。ここでの<癒やし>とは神を愛する者に変えられるということです。

アーメンでしょうか。

2021年11月 7日 (日)

罪と病

マタイ 9章2節   2017新改訳

すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた

 天上から中風の男が吊り下げられて来た。吊り下げて降ろすといった非常識なことをするこれら男たちは、イエスさまの癒やしを信じ、何としてでもこの中風の男が癒やされることを期待してであった。それに対してイエスさまが「あなたの罪は赦された」と語られた時、その時点では期待された目に見える形で肉体上の癒やしが起こったわけではなかった。しかしこの根源的な癒やし・・・「罪は赦された」のことばは激しい副作用を伴った。その場に居た律法学者たちにとって、自分を神と等しいものとする「冒涜」にしか聞こえず、彼らの怒りを買うものだった。
 それでイエスさまは、「冒涜」に対する反証として、目に見える形での癒やし、中風の癒やしを行われたのだった。

 ここで二つの疑問が湧き起こる。一つは中風の癒やしを求めて来たのに、その答えは「なぜ『罪の赦し』なのか」と言うこと。次に、律法学者たちの「冒涜」視がなかったなら、この場での癒やしが行われなかったのだろうか?という疑問である。

 この中風の男は何を求めていたのか?それは記されていないので確かなことは分からない。しかし私は主を少しだけ存じているので、男が何を求めていたのか、想像することが出来る。それは「罪を悔い改めており、その赦し」だったと。神は頓珍漢なことは決してされない。その人の心の中を完全に見通され、最善をもって応える方である。ならばこの男が吊り下ろされていく時、このように思い、願っていたと私は推察するのである。肉体の癒やしは一時的なものに過ぎない。また少し年を経れば、私たちの肉体は朽ち滅んでいく神から預かった仮初めの宿である。しかし魂の救い、罪の赦しは永続的な、真に価値のあるものである。この男はその良い方を求め、祈っていたはずである。星野富弘さんという方がいる。星野さんも信仰に比べ、肉体の癒やしを望まなかった証人である。

 群衆や律法学者たちは霊的に盲目の人たちであった。もし「罪の赦し」が「病の癒やし」と関わりないことで、この中風の男が癒やされなかったとしたら、彼らはイエスさまがされた根源的な癒やしを悟ることができなかった。それゆえに、「『あなたの罪は赦された』と語られ、言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問われ、続いて「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」と言われながら、この男の中風を癒やされたのだった。癒やしはまさに、主ご自身が明示された<あなたがたが知るために>なのであった。

2021年2月14日 (日)

神に愛される人

ヨハネ 3章3節   2017新改訳

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 イエス・キリストが来られるまでの人物の中で、およそダビデほど神から愛された人はいません。しかし彼はバテ・シェバとの一件だけでなく、私たちと変わらぬ罪人の一人に過ぎませんでした。しかし神は愛され、その約束を違えることはなかったのです。なぜでしょうか? それはダビデは悔い改める人であったからです。
 例えば王として最も晴れがましい瞬間、契約の箱をダビデの町に迎え入れた時、前王の娘ミカルに蔑まれても、「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで、主の民イスラエルの君主に任じられた主の前だ。私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられ、自分の目に卑しくなるだろう」(第二サム6章21~22節)と、ダビデは人の目より、ただ神だけにへりくだって全幅の信頼を置きました。
 つまり、ダビデは何度も罪を犯しましたが、その度に神を信頼し、心から悔い改める人物だったのです。サウル王のように、王としての慢心を持たない人でした。それが神から愛された最大の理由だと私は思います。

 人は罪人ですから、神は裁こうとする人をますます頑なにされ(つまり、そのままにされ)、愛する人には様々に介入され悔い改めに導かれます。そのような人は、神からと思われる指摘や叱責に、かえって喜んで従います。それはたとえ苦い言葉であっても、自分を守り愛されているが故だとわかるからです。ですから悔い改めのバプテスマのヨハネは偉大だったのです。

 本日のテーマである「神に愛された人」とは、「悔い改める人」のことです。真に悔い改めるとは、謙遜というか、自分自身の真の姿、自分がどれだけ罪深く、罪に囚われた惨めな状態であるかという認識がなければなりません。しかし普通の人のように自分を誇る面が少しでも残っているとすれば、それは困難なことでしょう。
 その点から見れば、世の成功者、強者、または自分はひとかどにやり遂げて成しえたと思っている人々が「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しい」(マタイ19章24節)と語られている通りでしょう。口先では信じても、神を主とすることが困難だからです。

 神に愛されている人とは必ず尋常で無い困難、試練を経て、自分に絶望し、真の自分の姿を見た人です。自分に希望がないので、主を主とした人々です。悔い改めるができる人です。そのような人は聖霊のバプテスマを受け、新生した人々であり、永遠のいのちを血肉の命で失うことがありません。それは努力して可能になることではありません。神を愛し、すべてに優って神の愛が大切だという、愛された者の当然な結果なのです。神はこのような者を求めて全世界を造られました。神は愛する者を愛し、ダビデのように決して見捨てず、悔い改めに導いてくださいます。

2021年2月 7日 (日)

中風の人から

ルカ5章23節   2017新改訳

 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

 共観福音書マタイ、マルコ、ルカすべてに載るこの「屋根から吊り下ろされた中風の男の癒やし」は、これまで「あなたの罪は赦された」と宣言されたイエス様の立場から語られてきました。しかし今回、当の本人はどう思っていたのか、それに焦点をあてて見ていきたいと思います。

 キリスト教はどこかのクラブやサークルとは異なります。何が違うのかご存知でしょうか? それは罪赦された者の集まりなのです。クリスチャンになる人は次のような三つの段階を通っている人です。先ず霊魂が不滅であることがわかっていなければなりません。「鬼滅の刃」の鬼は炭次郞に切られると滅んでしまいますから、霊的な存在ではありません。霊は血肉の体と異なって不滅であり、天と地獄のどちらかで永遠に生きるのです。
 次に自分について、罪の故に滅ぶ存在であることを認識していなければなりません。それでこそ悔い改めることができるのです。最後に十字架の贖罪と赦しを受け、人が大きく変えられていなければなりません。そのような人は過去の罪を償いたい思いが強くなり、嘘がつけなくなります。良心が強くなるからです。また不安や恐れから解放され、天国を実感するようになります。その喜びはどうにも押さえようがなく、叫び出すほど心が引き上げられていきます。要するに、人が変わるのです。

 中風の男は、これはあくまで推測にならざるを得ませんが、深く悔い改めていたと思います。中風とは脳の血管の障害によって一部が壊死し、半身不随とか片麻痺、言語障害などが起こる後遺症です。吊り下ろされながら男は、自分の体を過信したこと、不摂生をしたこと、特に高慢であったことを悔い改めていたはずです。イエス様はそのことをご存知でした。それゆえ「あなたの罪は赦された」と言われたのです。この時、癒やされることよりも、はるかに素晴らしいものを男は受けたからです。

 この中風の男と同じように「罪は赦された」と語られたのは、パリサイ人に招かれていたイエス様と、そこに侵入した罪深い女との一件でした。女がイエス様にした一つ一つのことがらに、彼女の深い悔い改めを見ることができます。その上で、罪が赦された、そこにどれほどの喜びが溢れたことでしょうか。中風の男も、もう血肉の体が癒やされることなど、どうでも良くなっていたはずです。肉体のどんな癒やしでも、それは一時のもので、やがて必ず滅びます。しかし罪が赦され解放されることは永遠であり、天の神との交わりが開かれる絶大な恵みです。両者を比較するも愚かなことです。この男が癒やされたのは、パリサイ人などへの証明のためです。群馬県在住の詩画作家「星野富弘」さんも、これとまったく同じようなことを言っておられましたことから、このことは確認できるのです。

2021年1月 3日 (日)

福音は先ず悔い改めから

マルコ1章14-15節   2017新改訳

15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。

 マルコの1章は毎朝の聖書日課の該当箇所ですが、気づきがありました。それは14「ヨハネが捕らえられた後」とありますので、イエス・キリスト様の本格的な宣教活動はバプテスマのヨハネが捕らえられて後、それと入れ替わるように始まったという点と、福音は「悔い改め」た上で信じるものであるという点です。この悔い改めこそバプテスマのヨハネが最も伝えたことですが、旧約の多くの預言者も同じことを言っていました。違っていたのはその仕上げにふさわしく、そのしるしとして水でバプテスマを授けたことです。本来バプテスマという言葉は<浸す>という意味であり、全身を水に沈めることで死を現し、再び引き揚げることによって新しく生まれたことを象徴するものです。
今では教会員になる入会の儀式とか、単に形式だけのように見られやすいバプテスマですが、実は真摯な悔い改めが前提のものでした。悔い改めとは反対方向に向かうこと、または完全に変わることでもあります。ですから「悔い改めた」という単に言葉だけの表明に留まらず、自分という自我が死んで滅び、入れ替わりに福音の主が自分の王座となって新生した・・・・その実質が求められていたはずです。

 このように「悔い改め」は当人の心の一大転換を伴うものでしたが、その悔い改めは、自分の真の姿、何の希望も見出せない罪深さの自覚がなければ不可能です。この世で富める若人や高い地位にあるパリサイ人などは世の霊に支配され、高慢があるので悔い改めることはラクダが針の穴を通るように、狭き門です。また悪霊に憑かれている人は、自分自身の真の姿を偽られてわかりませんから、悔い改めることが困難です。しかしレギオンを宿していたゲラサ人、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリアのように、もし神によって悪霊から解放されるなら、かえって大いなる働き人に変えられる例もあります。

 全くの別人になるほど心から悔い改めるには、人間の力では不可能ですし、そのジャストタイムで神が臨んでくださり、入れ替えて神をお迎えするのでなければ、却って前より悪くなります。太宰や芥川のように自殺するしかない状態になります。ですから神に覚えられ、祈りを知っていた人は幸いです。絶望し悔い改めのあなたに、トントンと扉を叩いて神の方で呼びかけ、語りかけてくださるからです。神は押し入って占領しようとする悪霊と異なって慎み深く、私たちの意思を尊重されるお方なのです。

 私たちはこの神に悔い改めた自分を捧げるのです。悔い改めなければ救われません(ルカ13:3-5,使徒2:38など)。真の悔い改めは、自分の罪の贖いとしての十字架がわかり、喜んで自分を神に差し出し、神のもの、そのしもべとなることに感謝します。そこではじめて、自分がどうにもならない自我から解放され、自由にされたことがわかるのです。よいでしょうか。自我は肉の思いであり、それはサタン・悪霊の領域に属しているのです。妬みや自己主張、肉欲、人を愛せないことなどすべて、その中に自分が居ることを表しています。勿論、即別人になるわけではありませんし、執拗に罪深い性質が残っています。しかし神が愛していてくださっていること、神は愛する子を見捨てられることはされず、神の力によって私たちは変えられ、必ず永遠のいのちを受けて天の御国に行くのです。これが私たちの信仰です。ただ真の悔い改めと、主イエスを主として受け入れ、聖霊様に聞き従い続けましょう。

 

2019年7月 7日 (日)

悔い改めなさい

マタイ 3章2節 
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。   【新改訳2017】

「愛の警告」という興味深いイラストを以前に見つけました。なぜ絵の右の人たちはFalse=間違った受け取りなのでしょう?悔い改めを拒んだから・・・その通りですが、その訳を考えますと、一つの見方として、自己中心な信仰だったと言えます。Photo_20190713231901だからヨハネの愛の警告=悔い改めができなかったのでしょう。
-「主よ」の意味 -
 神は御子の命をもって私たちを買い取ってくださり、信じる者すべての罪を赦してくださいました。ですから、信じた者は購われており、その命も神が所有される存在となりました。ですから私たちはすでに神のしもべ、奴隷ですので、主人に対して「主よ」と言うのです。
 ところが右の絵の人々は、神が自分の主であることを拒否するので、False(間違っている、あるいは偽り)のクリスチャンだとされているのです。
- 恐れるクリスチャン -
 一方で、どうしても不安や恐れに囚われやすいクリスチャンがいます。M・キャロザース師は「恐れと信仰とはまったくの正反対のもの」で、聖書で365回も「恐れるな」と書いてあるとその著「恐れからの解放」(p9ー10)で述べています。恐れるから信仰が無いなどとは言っていません。ではどうしたらよいのでしょうか。これが本日の主題です。
 - 赦され感 -
 十字架を信じた時点で、私たちの罪はすべては赦されていますが、それなのに、恐れの悪霊に立ち向かえない、あるいは受け入れてしまうには原因があります。この原因の一つに、赦されているのにその実感の乏しさ・・・・言わば「赦され感」が薄い所に原因があるのではないかと思います。自分はまだ罪があると感じる所に悪霊がつけ込んで来ると・・・・

「赦され感」の無さの原因をたどっていくと、罪を告白し信じたはずの自分が、実は本当の自分ではなかったとしたらどうでしょうか。それは自我を正しく認識できていない場合に、無意識の内に生じます。異なる自分の罪が赦されても、ピンと来ない、赦された実感がしないのは当然だからです。
 神は全知全能の神です。真実の自分の姿はどんなに罪あるものであっても、神はすべてをご存じであったのです。神の愛を信じましょう。恐れ、隠す必要は全く無いばかりか、隠している方が神を悲しませているのです。本当のあなただけが、恐れを追放します。

2019年6月23日 (日)

恐れとゆるしについて

ガラテヤ 2章19~20節  

私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。   【新改訳2017】

<十字架なかりせば、私は絶対にゲヘナ行き>と確信を持っておられる方、いませんか?自分は絶対に地獄のゲヘナ行きだった、と知っている方は、それゆえに、神の愛とあわれみの大きさを骨身に沁みて知っていると言えます。自分の真の罪深さが分かっているかどうか、これが分岐点です。ですから「つぶれてはらわたが出たゴキブリ」と語られるP牧師を、野つぼの中のウジ虫と思っている者として、親近感と尊敬の念を持っています。

「もはやわたしが生きているのではない」この聖書箇所は本日の中心です。クリスチャンにもし、恐れるということがあるなら、それは神の戦士、証人としてはふさわしくないでしょう。注意深くしたりの小さな恐れではありません。恐れるなら退かされてしまいます。麻薬のように私たちができないことの言い訳と正当化に恐れを理由にします。ですから聖書では多くの箇所で、私たちに「恐れるな」と警告しています。
ただし、恐れたからと言って神が私たちを見捨てたりすることはありませんが、御心ではありません。では恐れる原因は何でしょうか。

このすべての原因に私は、罪の赦しを無力化させるサタンの策略があるとみています。十字架は全てを赦しているのです。それを感じさせず、まだ罪が残っているかのような誤魔化しにあって、罪の恐れに取り残されているのではないかと思うようになりました。

運転している時、パトカーを見つけたとします。違反していない時は全然平気ですよね。「ああ、ご苦労様」って。しかしたまたま違反状態にある時には、見つからないかと恐れがどーっと湧き、ビクビクします。それと同じように、実際は赦され罪から解放されているのに、まるでそうでないかのように感じているからこそ、恐れが湧き、恐れに支配されて行くのです。当然ですが、恐れは神から来ていません。

それではどうしたらよいのでしょうか。自分の真の罪がわかっていなければ、当然ですが、赦しも的外れで力の無いものです。罪の告白も形式的な、中身のないものです。十字架はこの私の罪のためであったと真の告白がポイントです。心から「あーっ、自分はゆるされたぁ。解放された!十字架は私のためでした。神さまぁ、ありがとうございます。本来地獄行きの者ですが、どうぞこれをあなたに献げさせてください。私は死んでこれからは、あなたのくださったいのちに生きます」と告白できます。ですからお勧めします。本当の自分の姿を神さまによって知らされ、悔い改められますよう祈ってください。試練はおそらく、このためにあります。感謝しましょう。

2018年12月 9日 (日)

罪の赦し

詩篇 32篇1-2節     【新改訳2017】
幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。
幸いなことよ【主】が咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。

公生涯に入られてからのイエスの評判は、救いや癒やしを通して大きく広がりました。同時にそれを快く思わない当時の宗教指導者たちがいました。彼らは自分たちの権威への挑戦と受け止め、疑い警戒しました。屋根から病人を吊り下ろす背景には、このような人々がたくさん詰めかけ、本当に癒やしが必要な人がイエスに近づけなくなっていたのです。

 さてイエスは、天上から吊り降ろされた人に対し、中風を直すのでなく「友よ、あなたの罪は赦された」(ルカ5:20)と罪の赦しを宣告されました。これは少し不思議ではないでしょうか。癒やされたいのに、罪の赦しだったのです。なぜでしょうか。実は罪が原因である病があります。最善は完全に癒やされることです。そしてイエスは真の原因である罪を取り除かれたのです。つまり根本からの癒やしが行われたのでした。

 しかしこれを見ていたパリサイ人は、罪を赦すということが冒涜に映りました。彼らが思った「神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか」は正しく、「罪を赦す」ことは、神かまたは神に等しい存在のみが実行可能なことでした。
 ですからイエス様が罪を赦されたことは、自分が神であることを宣言したことになります。パリサイ人たちが「冒涜」と感じたのは、イエスが神であることがもっとも分かるべき彼らが、実は一番鈍くて分からなかったという証明です。これは宗教指導者として失格です。イエスは彼らのためにも、真の原因が罪であった証明として、中風の人への即座の癒やし「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」(5:24)と言われたのです。

 本日は「罪の赦し」がテーマです。この後イエス様が十二弟子を遣わされますが、彼らに与えられた権威は悪霊の追い出しや癒やしでした。しかし罪の赦しは含まれていません。罪の赦しは神だけができることです。もしイエス様が神でなければ十字架も空しく、罪の赦しはあり得ません。教会は極めて初期から、使徒信条で明らかなように、イエスを神としない異端と戦ってきました。 

 繰り返しますが、キリストが神でなければ赦しはありません。また三位一体の神以外に罪の赦しは無く、人であったマリアや司祭相手にどんなに告解しても、それは無駄というものです。私たちは真に神に赦される信仰の教会であり、罪から解放され、癒やされる祝福を感謝しましょう。この祝福は、5節にあるように罪を隠さず、告白するという前提条件があります。ですから真に赦され解放された者として、証しにおいて主に栄光を帰す教会でありますように。

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