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使命

2022年2月27日 (日)

私たちの召し

Ⅱテサロニケ 1章11節   2017新改訳    

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

 私たちは母の胎の中にいる時から、神のみ心があり、いのちの使用目的、つまり1人ひとりに使命を与えられ、この世に生まれて来たはずだ。それなのにクリスチャンが自分の使命を知らずして、世での命を終わったのでは如何なものであろうか。やがて再臨された主に天でお会いした時、その人は何と弁明できるのだろうか。これは確実に来る恐るべき事態である。

 それゆえ私たちは、自分の使命を知らなければならない。知らなければ、その使命を果たしようがないではないか。また神から見込まれてその使命を示されても、即座に勇躍、果たそうとしたヨセフやダビデのような者ばかりではない。優柔不断、困ってしまって、神からの励ましや脇役を固めてもらってようやく立ったモーセやギデオンもいる。しかしどうとあれ、神がその人に使命を明確に示す時は、最善の時なのだ。時が良くてもなくても、自分に使命への信仰が不足しているように思えても、単純に信頼し聞き従い、全能の神の敷いたレールを走りきるのみだ。神がすべてを整えて、み心を貫徹してくださる。

 私たちは主からの使命に備え、まず自分を取り扱っていただくことを願い、使命を果たすに足りる者とされることを第一に願い求めるべきではないか。その上で、主は臨在の恵みを持って語ってくださるであろう。またすでに使命を聞き及んでいる者は、常にその使命を果たせるよう、日々神への祈りを欠かすことはできない。頼るべきは自分ではなく、ただ力ある神にのみあるのだから。そうすれば神は御力をもってその栄光を、その人を通して現してくださるにちがいない。

2021年8月 8日 (日)

証人としての力

使徒 1章8節   2017新改訳
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

 今年の夏白馬でのテーマ「証人としての力」で強調されたことは、<神に触れられる><聖霊のバプテスマ>の体験であった。本日はその「証人」の<力>とは如何なるものか、それらを具体的に理解して行きます。12年目の当教会の出発に当たり、それが土台とするべきものだからです。4~5年前ぐらいにハリウッドのスコセッシ監督によって映画「沈黙ーSilent」がリリースされました。この小説が発売された直後、高一でしたが私は読みまして、「殉教をいとわぬほどの信仰が無ければ、かえって躓きになる。だから安易にバプテスマを受けてはいけない」と思い、結局二十歳になるまでバプテスマを受ける決心ができなかったことを思い出します。

 この「沈黙」の主人公はロドリゴという若き司祭ですが、日本の長崎に潜入したものの、密告されて捕縛され、巧みに棄教を迫る奉行によって踏み絵を踏んでしまいます。「あなたが転ばないから、あなたを信じている多くの信者が苦しんでいる」と。耐えかねてロドリゴが踏み絵を踏んだ時、すべてを失った痛みに、キリストがこのために十字架に架かられたのだと気づいた・・・ことで物語は終わっています。これはすぐにわかることですが、神を証しすることと真反対です。棄教を正当化するだけのサタン的なものです。ロドリゴは聖霊に従ってでなく、師のフェレイラが転ぶはずがないという肉的な動機で来たのですから、神は沈黙を守られたのです。

 さらに今回、安利淑(アン・インスク)の「たとえそうでなくても」の動画が8月の東京カリスマ聖会で流されました。利淑姉がどんなに朝鮮の迫害の状況を訴えても、当時の日本のクリスチャンが協力するはずがなかったのです。当時ホーリネス系の教会と牧師に対し、官憲による大弾圧はじまり、百二十あまりの教会と牧師、殉教した牧師九人を出すほどでした。この迫害に対し、なんと当時の日本キリスト教団は、この官憲による逮捕と拷問を歓迎し、幹部が「彼らは手のくだしようもないくらい気違いじみているため、当局において処断されることは、教団にとって幸い」だとか、「こうした不純なものを除去することは、かえって運営上好結果が得られる」と発言したのです。

 その後教団は遺族に謝罪しましたが、根本的な誤りに気付き、悔い改めた訳ではありません。彼らはまたその誤りを繰り返すでしょう。なぜなら神に触れられ、「証人としての力」、すなわち聖霊のバプテスマを受けて神のみ心を行う者との違いに、全く気付いていないからです。結局、終末の時代が来た際には再び聖霊派の教会に対し、繰り返して迫害する役回りを演じることでしょう。彼らにはクリスチャンの裁きが、滞りなく行われるのです。私たちは天に属するものとして、世での命を惜しまず、神に依り頼んでその力を受け、「神の証人」として立たねばなりません。

2020年12月 6日 (日)

教会の使命~滅びゆく人々を獲ち取る教会

✝ローマ 10章 14節   2017新改訳

しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。

 私はキリスト教から隔絶した世界で育ち、一度も伝道されることもなく、ただ一冊の本を読んで<これが神だ>とわかった者ですから、福音宣教とか伝道の必要性にうとい者でした。「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができる(マタイ3:9)」の実例でした。
 しかしバプテスマを受けて帰郷し、そのような社会に住んで感じたことは、身近に接する親類縁者、近所の葬儀は、全て救われていない人の葬儀になります。近郷近在のどんな墓地に行っても、十字架なんてただの一つもありません。みな滅びの国に行っているのです。いえ、この国全体を見ても、大なり小なりで、ほとんど同様です。これでは天国に日本人はほとんど居ません。悔しくもあり、本当に残念で、日本人として、この国を見捨てないでくださいと痛切に祈ってきました。

 この度今世紀最大の伝道者であるラインハルト・ボンケの伝記を読み、次の言葉からチャレンジを受けました。一週間以上にわたって寝ても覚めても脳裏から冷めないのです。
「積極的な伝道なしに、リバイバルが起こったことはありません」、数行後の我流訳で「永遠の滅びに行く人々に手をこまねいて傍観する教会は、すでに滅んでいます」の言葉でした。これは1986年、ボンケが主催したアフリカ中の牧師、伝道者を集めた「炎の大会」の中で語られた言葉です。

 ボンケの集会では実に多くの癒やしと奇跡が起こりました。続いて「誰があなたを癒やしましたか?主イエス・キリストがあなたを癒やされたのです」と徹底的に福音宣教第一にしていました。癒やしも奇蹟もそのためというのが徹底しているのです。先週も「信じること」と「癒やされること」の「どちらが易しいか」と題して語らせていただきましたが、どんな素晴らしい奇跡やワザが起こったとしても、信仰に結びつかないなら、帰ってこなかった9人のように空しいのです。

これから困難な時代に入って行き、その後刈り取りを迎えると思いますが、それゆえに収穫に向けての積極的な伝道が重要になります。ですからこれは確かに神から来たものであり、私たちはチャレンジを受けていると思います。そしてこれに答えて行く決心を致します。
ただ、闇雲に、肉的な力を持っての積極性ではなく、先ずは同胞への愛を深め、お一人お一人が神の愛に満たされ、愛に答えての献身、愛による伝道が前提でもあり、それは「祈り」によって成就して行くのです。神は私たちがこのために祈ることを求めておられるのであり、その中で自分自身を神に捧げ、神の御計画に積極的に応答して行くことに努めて参りたいと思います。

2019年9月29日 (日)

伝道

 

ヨハネ 15章22節   新改訳2017

もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今では、彼らの罪について弁解の余地はありません。

 二十歳でバプテスマを受けた後、当初それがうれしくて、すぐ周囲の友達に福音を伝え回った。ところがテニス部の仲間は、ひとり以外は誰も信じてはくれなかった。その上、そのひとりもしばらくすると統一原理に走って、家族が上京するなど大変なことになった。その後、福音をきちんと伝えようにも、公務員の立場上できなかったため、異端に入られてしまったケースすらある。
 逆に親族の集まりで、最後の機会だとやむにやまれぬ思いで福音を語ったことがあった。関心を持たれた方もいたようだが、特に強硬に反対する人も現れ、結果としてその場はとげとげしいものになった。

 こうしたことから、求めて来られる人は別にして、伝道する場合は、ある程度関係ができ、フォローできる人に対して行うようにしている。聖書(ヨハ15:22)にあるように、福音を聞いてもその人が受け入れなかったなら、ある意味、聞いてしまったが故の審きの道に入らせてしまうことになりかねない。

 これらのことを踏まえるなら、伝道しようとする場合、現在では祈りの上に、神に示されたタイミングでの実践を心がけている。伝道とは自分の人間的な思いや力ですることではなく、神のみこころを行うことである。親子や兄弟であって、どんなに人間的に愛していても、神のみこころならば信じ、みこころならば信じない。救いは神のものであって、人の及ぶ所ではない。しかし神は私たちの祈りを聞いて下さる方でもある。たとえそれが人間的なものであっても、救いを願う祈りは神もまた同様なのだ。恐れずに神に願い求めるべきだ。その上で神に示された伝道は、たとえどのような反応や拒否に会おうとも、決してあきらめてはいけない。

 Photo_20191006024301(ジョージ・ミュラー)

問題は神に示されることである。ジョージ・ミューラーという人は、絶えず神のみこころのみを求め続けた人だが、他の人と異なったのは、神の答えを得るまでは祈り続けた人だった。ところが私たちはほとんどの場合、神の祝福を受けるまで祈り続けないため、未成就の祈りをやたら増やしているのではないだろうか。神に明確にみこころが示されるまで、祈り続けることを決してあきらめない、それを私たちの群れでは「祈りきる」と言う。

2018年12月30日 (日)

死人が神の声を聞く時

ヨハネ5章25節      新改訳2017

まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

「死人」には2種類あります。一つはほとんどの日本人のように、霊と死後の世界を信じないとか、自分の罪がわからず、悔い改める必要を感じない人たちのことです。もう一つは、このユダヤ人のように、律法を守ることで自分を義人だとする人のことです。日本人でも善行とか修行など、行いによって自分を救おうとしている人がいますが、これも同じです。しかしどんなに努力しても、十字架がなかったら罪の赦しがなく、結局は罪がわからない人と同様に滅びのです。

聖書は繰り返し次のように説いています。「自分のいのちを救おうとする者はそれを失い、わたしと福音のために命を失う者はそれを救う」(マタ16:25、マル8:35、ルカ7:33、9:24)

では「わたしと福音のために命を失う」とはどういうことでしょうか。ストレートには「信仰によって殉教する、またその用意ができている」と言うことになりますが、それはキリストに従って、恵としてそのように選ばれた結果です。ですからもっとも大切なことは「キリストのように私たちも神のみこころを求め、キリストのように徹底して聞き従う」ことです。

 わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。・・・中略・・・。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。【ヨハネ5:30 】

三位一体の神と子と聖霊の有りようについて、ヨハネは従順を通し描いています。キリストは神のみこころだけを求められ、死に至るまで忠実でした。ですからキリストに倣う私たちも、自分のために生きるのではなく、神の栄光のために自分の人生を差し出して生きましょう。それは日々神のみこころを求めて祈り、明らかにされた使命に堅く立って歩んで行くことになります。

まとめるとまず第一にみこころがわかるという前提があり、次にみこころに従いきる実践があります。自分ではみこころが分からない方は、牧師のような霊的な指導者に従うことが次善の段階となるでしょう。いずれにせよ一日の一番大切な静まれる時間を捧げ、祈りと聖書の時間を第一とすることが神に自分を捧げ、「わたしと福音のために命を失う」者のしるしです。

2015年11月 8日 (日)

新年度船橋礼拝

ルカ 3章2節・4節

  神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
  主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。


派遣では、年間聖句と関わって再臨と御霊の体のことが多く語られました。どうしてそうなのかと関連を私なりに説明させていただきます。

 先ず「神のことばがザカリヤの子ヨハネに下った」、その言葉とは昨年の5月20日、セントルイスでの「リバイバルが始まりました」です。これは黙示録にある、患難時代七年間の前半で、患難と共に非常に多くの人々がキリストを信じ救われる出来事(リバイバル)が、いよいよ始まった開幕宣言だと言えます。当然ですがリバイバルは神のゴーサインなくしては、始めてはなりません。しかしそれが出たのです。確かにこの始まりはまだ目に見えてのものではないでしょう。しかし始まったのです。忠実に主の召しに従うなら、私たちは必ずその驚くべき収穫を見ることでしょう。この群れと私たちにはこの使命があって立たされているのです。本戦は一瞬でも、実はその前の念入りなお膳立て、状況のセッティングで実際には決まります。目を覚まして参りましょう。

 「主の道の道備えをし、リバイバルへの道をまっすぐにする」ということは、主が来られた時には曲がりくねった道、凸凹道を直し、主が降りてこられた途端に、天の軍団は高速道路を猛スピードでぶっ飛ばすようにし、あっという間に勝利をとるということです。これからその道ぞなえが具体的に示されていくことでしょう。ますます聞き従いを強めて行く必要があります。

 また目的でもある再臨と御霊の体の復活について、今わかっていることだけでもしっかり整理しておきしょう。キリストは二度来られます。一度目は空中で、地上に居るクリスチャン守るためです。ここで携挙される人も多いことでしょうが、残される人もいるのです。残されると後半の大患難時代を迎えなければなりません。これは天から落とされたサタンが荒れ狂う時代であり、反キリストや偽キリストを通して、クリスチャンを根絶やしにしようとし、実際それが許されます。偶像崇拝を強要され、刻印を身に受けない者は売ることも買うこともできなくなります。つまり悔い改めて神に立ち返ったほとんどのクリスチャンは、いろんな形で殉教し神の栄光を現すことになります。自分が弱いことを告白し祈り続け、自分ではなく、神の力に依って行くなら、これはこれで素晴らしい神の勝利となります。

2015年11月 1日 (日)

新年ガリラヤ湖礼拝

            東京アンテオケ教会 パウロ秋元牧師
ルカ  3章:2・:4節                     

   神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
  主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。

 皆さん、天下分け目の戦いと言えば、関ヶ原の戦いですが、たった一日それも実際には数時間で決まったようでいて、実は石田三成派を完全につぶすためにかなり前から周到に始まっていたものでした。先ず上杉征伐に時間をかけて東に行き、留守に乗じて三成が決起して立つのを待っていたのです。同じように、「主の戦い」というものは、再臨の日の一瞬で決まるようでいて、実は相当長い時間をかけて進められているのです。再臨の決定的な審きの前に、神の救いの計画、魂の大リバイバルが周到に計画され、進められているのです。それはこの5月20日に「リバイバルが始まりました」という神の言葉が私たちに下ったことで明らかです。ヨハネは神の言葉があってはじめて、その使命が始まりました。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」は私たちにも同じなのです。

神の言葉があって、神の国は始まりました。ヨハネだけでなく、アブラハムもダビデも、神の言葉があって始まったのです。これまで私たちにも海外宣教、孤児院などすべて、不可能な状況の中に神の言葉が下り、スタートしたものです。目に見える判断ではなく、神の言葉の確かさを私たちはこれまで見ています。
 もっともこれらは類を見ない働きで大きく成長しているにも関わらず、褒められもせず、かえって批判中傷を浴び続けて来ました。そのような人々は「預言」「カリスマ宣言」などで詳しく説明した私たちの聖書的な立場をろくに理解も読みもしようとはせず、ただ自分の主観と思い込みで無責任な攻撃しているだけなのです。しかしこれが実は私たちに益となっています。それはおそらくですが、私たちは「ヨイショ」とか「持ち上げ」に弱く、褒められると神の栄光をとってしまう危うさがあるのだと思います。ですからこれは、かえって守られている、とさえ思われるのです。

 私たちにリバイバルのゴーサイン、神の言葉が下りました。それでここから「主の道を用意し、まっすぐにする」ことで、これから神の栄光を見ていくようになるのです。

2015年9月 6日 (日)

あなたを奉仕者、また証人に任命する

使徒の働き 26章16節
あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。

 最近世の人々と親しく話をする機会が幾度かありました。私は少し証しをしておりましたので、40歳にして平和で理想的な家庭が長い時間の末、結局崩壊し、その後献身して牧師になったことを幾人かはご存知でした。しかしなんかの拍子にある人が突然、「中村さんの程度は、大したことではない」と言われ始め、それを聞いてまたある人が「そんなことはない、大変な道を通られた人だ」と擁護をしてくださって、私はその板挟みになって身の置き所が難しくなりました。
 私の経験はよほど特にというわけではありませんが、「大したことではない」と言われてみると、それもよく理解できません。それで理由を本人に聞いてみました。その方がボツリボツリ言うには「自分は統合失調症の母の元で育って、その辛い境遇から必死に生きてきた」と言われるのです。だから自分のそんな経験に比べれば、私が通らされたような事は「大したことではない」と言われたのでした。
 そこで私は「子ども時代の不幸なら、私だって負けてはいないし、大人になって幸せな結婚をした人がよく言うよ」と思ったのです。が、それを言い始めて私は「はっ」としました。

 私が言い始めそうだった不幸比べの話・・・・そんなことを語ったとて、何の意味があるのでしょうか。聖書ではパウロだって、一見似たような自慢話をしています(Ⅱコリ11:23-30)。しかし注意すると、使徒パウロは単に自慢話をしただけではないこと、パウロの本心は後半29cの言葉にあることが分かります。

「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」

 父は私が29歳の時亡くなりました。その時のことですが、両親が健在な人からの慰めの言葉は、私の耳に入りませんでした。しかし私のように、親を早くから亡くした人の言葉は私の心に響いたのです。
 パウロにとって、言わば命をかけた実が内輪もめしていたり、また対立のために苦しんでいたとすれば、パウロの心はどれほど痛んだことでしょう。「私の心が激しく痛む」と言った言葉には、深い愛があっての痛みなのです。
 私たちが「不幸比べ」を競うなどとは、なんという愚かなことでありましょうか。神を信じる者にとって、どんな痛みであれ、人ごとではなく、同じ痛みを通された者として、共感し支えながらも、神を信じる者にとっては大きな祝福の土台であり、意味があることを証しすることが使命です。もし愛がなければ、聖霊の賜物によってどんなに癒やしや奇跡を行えたとしても、それは空しいのです。

 すべての問題は神によって解決され益となる、その証人が私たちの使命です。