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使命

2015年11月 8日 (日)

新年度船橋礼拝

ルカ 3章2節・4節

  神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
  主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。


派遣では、年間聖句と関わって再臨と御霊の体のことが多く語られました。どうしてそうなのかと関連を私なりに説明させていただきます。

 先ず「神のことばがザカリヤの子ヨハネに下った」、その言葉とは昨年の5月20日、セントルイスでの「リバイバルが始まりました」です。これは黙示録にある、患難時代七年間の前半で、患難と共に非常に多くの人々がキリストを信じ救われる出来事(リバイバル)が、いよいよ始まった開幕宣言だと言えます。当然ですがリバイバルは神のゴーサインなくしては、始めてはなりません。しかしそれが出たのです。確かにこの始まりはまだ目に見えてのものではないでしょう。しかし始まったのです。忠実に主の召しに従うなら、私たちは必ずその驚くべき収穫を見ることでしょう。この群れと私たちにはこの使命があって立たされているのです。本戦は一瞬でも、実はその前の念入りなお膳立て、状況のセッティングで実際には決まります。目を覚まして参りましょう。

 「主の道の道備えをし、リバイバルへの道をまっすぐにする」ということは、主が来られた時には曲がりくねった道、凸凹道を直し、主が降りてこられた途端に、天の軍団は高速道路を猛スピードでぶっ飛ばすようにし、あっという間に勝利をとるということです。これからその道ぞなえが具体的に示されていくことでしょう。ますます聞き従いを強めて行く必要があります。

 また目的でもある再臨と御霊の体の復活について、今わかっていることだけでもしっかり整理しておきしょう。キリストは二度来られます。一度目は空中で、地上に居るクリスチャン守るためです。ここで携挙される人も多いことでしょうが、残される人もいるのです。残されると後半の大患難時代を迎えなければなりません。これは天から落とされたサタンが荒れ狂う時代であり、反キリストや偽キリストを通して、クリスチャンを根絶やしにしようとし、実際それが許されます。偶像崇拝を強要され、刻印を身に受けない者は売ることも買うこともできなくなります。つまり悔い改めて神に立ち返ったほとんどのクリスチャンは、いろんな形で殉教し神の栄光を現すことになります。自分が弱いことを告白し祈り続け、自分ではなく、神の力に依って行くなら、これはこれで素晴らしい神の勝利となります。

2015年11月 1日 (日)

新年ガリラヤ湖礼拝

            東京アンテオケ教会 パウロ秋元牧師
ルカ  3章:2・:4節                     

   神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
  主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。

 皆さん、天下分け目の戦いと言えば、関ヶ原の戦いですが、たった一日それも実際には数時間で決まったようでいて、実は石田三成派を完全につぶすためにかなり前から周到に始まっていたものでした。先ず上杉征伐に時間をかけて東に行き、留守に乗じて三成が決起して立つのを待っていたのです。同じように、「主の戦い」というものは、再臨の日の一瞬で決まるようでいて、実は相当長い時間をかけて進められているのです。再臨の決定的な審きの前に、神の救いの計画、魂の大リバイバルが周到に計画され、進められているのです。それはこの5月20日に「リバイバルが始まりました」という神の言葉が私たちに下ったことで明らかです。ヨハネは神の言葉があってはじめて、その使命が始まりました。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」は私たちにも同じなのです。

神の言葉があって、神の国は始まりました。ヨハネだけでなく、アブラハムもダビデも、神の言葉があって始まったのです。これまで私たちにも海外宣教、孤児院などすべて、不可能な状況の中に神の言葉が下り、スタートしたものです。目に見える判断ではなく、神の言葉の確かさを私たちはこれまで見ています。
 もっともこれらは類を見ない働きで大きく成長しているにも関わらず、褒められもせず、かえって批判中傷を浴び続けて来ました。そのような人々は「預言」「カリスマ宣言」などで詳しく説明した私たちの聖書的な立場をろくに理解も読みもしようとはせず、ただ自分の主観と思い込みで無責任な攻撃しているだけなのです。しかしこれが実は私たちに益となっています。それはおそらくですが、私たちは「ヨイショ」とか「持ち上げ」に弱く、褒められると神の栄光をとってしまう危うさがあるのだと思います。ですからこれは、かえって守られている、とさえ思われるのです。

 私たちにリバイバルのゴーサイン、神の言葉が下りました。それでここから「主の道を用意し、まっすぐにする」ことで、これから神の栄光を見ていくようになるのです。

2015年9月 6日 (日)

あなたを奉仕者、また証人に任命する

使徒の働き 26章16節
あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。

 最近世の人々と親しく話をする機会が幾度かありました。私は少し証しをしておりましたので、40歳にして平和で理想的な家庭が長い時間の末、結局崩壊し、その後献身して牧師になったことを幾人かはご存知でした。しかしなんかの拍子にある人が突然、「中村さんの程度は、大したことではない」と言われ始め、それを聞いてまたある人が「そんなことはない、大変な道を通られた人だ」と擁護をしてくださって、私はその板挟みになって身の置き所が難しくなりました。
 私の経験はよほど特にというわけではありませんが、「大したことではない」と言われてみると、それもよく理解できません。それで理由を本人に聞いてみました。その方がボツリボツリ言うには「自分は統合失調症の母の元で育って、その辛い境遇から必死に生きてきた」と言われるのです。だから自分のそんな経験に比べれば、私が通らされたような事は「大したことではない」と言われたのでした。
 そこで私は「子ども時代の不幸なら、私だって負けてはいないし、大人になって幸せな結婚をした人がよく言うよ」と思ったのです。が、それを言い始めて私は「はっ」としました。

 私が言い始めそうだった不幸比べの話・・・・そんなことを語ったとて、何の意味があるのでしょうか。聖書ではパウロだって、一見似たような自慢話をしています(Ⅱコリ11:23-30)。しかし注意すると、使徒パウロは単に自慢話をしただけではないこと、パウロの本心は後半29cの言葉にあることが分かります。

「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」

 父は私が29歳の時亡くなりました。その時のことですが、両親が健在な人からの慰めの言葉は、私の耳に入りませんでした。しかし私のように、親を早くから亡くした人の言葉は私の心に響いたのです。
 パウロにとって、言わば命をかけた実が内輪もめしていたり、また対立のために苦しんでいたとすれば、パウロの心はどれほど痛んだことでしょう。「私の心が激しく痛む」と言った言葉には、深い愛があっての痛みなのです。
 私たちが「不幸比べ」を競うなどとは、なんという愚かなことでありましょうか。神を信じる者にとって、どんな痛みであれ、人ごとではなく、同じ痛みを通された者として、共感し支えながらも、神を信じる者にとっては大きな祝福の土台であり、意味があることを証しすることが使命です。もし愛がなければ、聖霊の賜物によってどんなに癒やしや奇跡を行えたとしても、それは空しいのです。

 すべての問題は神によって解決され益となる、その証人が私たちの使命です。