聖餐
✝ルカ 22章19-20節 2017新改訳
それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。
私たちの教会では礼拝の都度、聖餐式を取り行っています。本日あらためてこの聖餐についてみ言葉から学び、その意義を新たにしたいと思わされました。
先ず、この歴史から見ていきます。その始まりは最後の晩餐とも呼ばれている、主イエスが十字架に架けられる前夜の過越の食事でした。主はこの時が来るのを非常に待ち望んでおられた。これが主の晩餐とも最後の晩餐とも呼ばれ、聖餐式の起源になっています。そしてこの式は、Ⅰコリント11:26でパウロは「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」とうたっています。つまり再臨まで続けられるわけです。そもそもこの式はエレミヤ書31章33節で、次のように述べられていた「わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心に書き記す」預言の成就でした。そのことは本日のみ言葉からも明らかです。
ルカ22章19-20節「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」
ですから聖餐式は、心の中に書き記されるキリストの贖いと赦し、血による永遠のいのちの契約を新たにする厳粛な機会です。そのため聖餐の意味をよく理解しないまま、また受けるにふさわしくないままでこれにあずかってはいけない機会でもあります。
この点カトリックでは過度にこれを偶像化し、聖餐のパンとぶどう酒は、司祭の祈りによって外観は変わらずともキリストの体そのものになったとし、食すること(聖体拝領)でキリストと一つになるとしています。これは儀式で信徒に自覚さえ、形式でキリストとの一体感を得させようとの縛りつけです。形式やその縛り付けで信仰が引き上げられるはずはなく、神が意図された「心に書き記す」新しい契約とはまったく異なるものです。
私たちの信仰は真に聖書に忠実であって、聖餐においても神の御心通りを行なっている教会です。私たちの罪の為に、なんと神ご自身が世に降られ、私たちの罪のために十字架にかかり、贖罪の血を流して死んでくださったこと。そのことを信じる私たちと、永遠のいのちに至る新しい契約を結んでくださったことを常に思い起こすための恵みの機会、これが聖餐式です。ですから本日から私は聖餐式は、信仰が確かな兄弟姉妹との間にもたれることといたします。また病床にある方を除いて、礼拝に与れなかった人から聖餐を求められても致しません。聖餐は恵みですが、それ以下でも以上でもありません。それに何か特別なものがあるわけではないからです。

