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イエス キリスト

2022年5月15日 (日)

ヨセフの子と考えられていた

ルカ 3章23節   2017新改訳

イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、

 メシアの出現を預言する数ある預言の中でも、<ダビデの家系から生まれる>と<処女から生まれる>は確認しやすい預言です。
先ず<ダビデの家系から生まれる>は二つありますが、いずれもバテ・シェバへの罪を指摘した預言者ナタンのものです。神はダビデはバテ・シェバとの一件で罪を犯し、その子を罰せられましたが、メシアの家系はそのバテ・シェバの子が選ばれました。つまりその子ソロモンを王権の家系とし、ソロモンと同じ兄弟のナタンを祭司系の家系とされました。数十代の時を経てナタンの預言は驚くべき形で成就しました。夫ヨセフがソロモン系、妻マリアがナタン系という末裔同士の結婚です。この夫婦の長子がイエス・キリストです。※預言者ナタンとバテ・シェバの子ナタンは別人

 また身重のマリヤが親族である祭司ゼカリヤに身を寄せましたが、もしマリヤに罪があるのでしたら、ゼカリヤは受け入れなかったと推察します。しかしゼカリヤは少し前、子ヨハネの誕生をめぐる神の取り扱いを受けた夫婦でしたので、マリアの処女懐妊を信じたと推察されます。

 次にメシアが処女から生まれるということですが,これは本当に超自然的な奇跡中の奇跡、空前絶後のことです。信仰が弱い方は、聖書に書かれてあるこの事実を受け入れることができません。神のことばである聖書より、人間である自分の判断を上に置けばそうなります。しかしそれでは全人類の罪の身代わりとして死んだイエスの神性を否定し、罪の贖いは無効となります。こういうわけで全キリスト教徒にとって、処女懐妊は信仰上の踏み絵です。

 上述の傍証として、イエスが私生児として生まれたという記事は、聖書に数箇所見られます。通常ならば「ヨセフの子」であるのに、「マリアの子」(マルコ6:3)としたことや「ヨセフの子と考えられていた」(ルカ3:23)などの箇所からです。特に「考えられて」などの表現は、イエスがヨセフの実の子であれば大変失礼な表現です。これはヨセフが、実の子ではなくとも、少なくても表向きには自分の子、長子として遇していたことを表していると見るのが普通でしょう。

 マリアもイエスが自分の腹を痛めた子には間違いないのですが、親族の結婚式で「ぶどう酒がなくなった」時、イエスに向かって「ぶどう酒がありません」(ヨハネ2:3)と言う不可解なことを要望するのでしょうか?これは母自らが、イエスが普通の人間ではないと認識していたからではないでしょうか。
 このようにイエス・キリスト出生には、処女からの出生であることを伺わせる傍証が多く、神を信じる者には、神にはそれができることを確信するのです。

2021年10月17日 (日)

贖い出される

ガラテヤ 3章13節  新改訳2017

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです

「あがない出される」とはすなわち、犯した罪を代償物を出してつぐなわれ、それで助け出されることです。そこで「あがない出された」者は、当然自分の罪を十分知っており、その代償物をも知っています。もちろんその代償物とはイエス・キリストです。

 しかし自分の罪がわからない人は、あがなわれていることが分からないので、縄目が解かれ、獄を出て行くことができるのに、未だその中に留まっているのです。つまりあがなわれておられないのです。このような方はその血肉の体と共に滅びます。
クリスチャンと称される方であっても、ガラテヤ5章16~21にあるような未だ肉のわざの働きが内心にあれば、未だ獄内ということになるので、裁きの時には外の暗闇に放り出されるおそれがあります。
 ともあれ、真に自分の罪を知っており、十字架の恵みによってあがない出された者は、常に救われた感謝と喜びの中にあります。つまり十字架は祝福の土台なのです。罪のことを申しますと、まるで暗い呪いの中に落とし込むように、これを忌避される方がおられますが、そのような方はご自分の罪がわかっておられないということになります。

 ここで一つ分かりにくい御言葉が、本日の聖書箇所にあります。
ご自分が私たちのために呪われた者となることで、わたしたちを律法の呪いからあがない出して」の≪律法の呪い≫という言葉です。律法の中での最高規範をイエス様は第一に「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして主を愛すること」、第二に「隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:36-40)と語られましたが、本当にそれが文字通りにできて、実際に行っているかどうか、です。皆さん、自分は行っていると言えるのであれば、その人に≪律法の呪い≫はありません。どうでしょうか? もし私のように自信を持って「行えていない」のであれば、律法に呪われています。しかし誉むべきかな、私たちには十字架の赦しがあります。このできない呪い・・・罪を主があがなってくださったのです。
 ハレルヤ!そのことを「律法の呪いからあがない出して」とパウロは語ってくれているのです。そしてあがなわれた私たちに<御子の御霊>を遣わされ、み心を行う者としてくださり、遂には子としてくださるのです(ガラテヤ4:5-7)。感謝します。

2021年5月30日 (日)

神様のお人柄3-御子イエスを通して

ピリピ 2章6~7節   新改訳2017

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。

 本日は神様のお人柄を知るのに、最も適した神=主イエス様を学ぼうとしています。何しろこのお方は神であるのに、その高い御位を捨てられ卑しい人の姿になり、しもべとなってくださった(ピリピ2章6-8節)神であり、その深い御思いは人間の知恵では到底想像すらできないのです。

 未信者の人に私たちが神様を紹介するとしたら、どんな話になるでしょうか? 神聖にして義なるお方、創造主・・・などと通り一遍のことを言っても、おそらく伝わりにくいことでしょう。しかし私たちの神様は、私たちを子としてくださった神です。ですから子があたかも父を語るように、もっと血の通った言葉で語り伝えたた方が良いのではないでしょうか。私たちは養子とはいえ「子」にしていただき、ふだんから父なる神と親しく交わっているからです。ですから時折エピソードを交えながら紹介できるような、そんな風に父なる神をお伝えしたいものです。

 イエス様はこんなお方~地上におられる間、一見私たち人間とおなじように「怒り、悲しみ、嘆き、憤りを覚え、涙を流される」ということをされました。パリサイ人が安息日に手の萎えた人を会堂に連れ来て、イエス様が癒やすかどうかを試したりしましたが、そのパリサイ人のかたくなさをイエス様は怒り、嘆き、悲しまれました。また愛するラザロの死とよみがえりに際しては「霊に憤りを覚え、心を騒がせ~中略~涙まで流された」のです。イエス様は、そういうお方でした。

 イエス様については福音書という手引き書がありますので、公にも上述のことがわかります。しかしこのように感情を表された場合でも、それは人間の持つ感情とは全く異なっていたことに注意しなければなりません。人間の感情とは〜自分がないがしろにされたり、思う通りにならなかったり、妬んだりする~のですが、イエス様の感情はまったく別ものです。
 神がこれらの感情を表される時、常に人間への高い愛に基づいてのものです。そこに人間のような自己愛、自我はないのです。すべて人間への愛の発露であって、神の御性質そのものだからです。救いたい魂と霊がそこにあって、そのための神のみ心があって、イエス様は怒り、悲しみ、嘆かれたのです。一言で申せば、<愛>が感情的な表現の源であることがわかるのです。

 なぜ神様のお人柄を語ろうとするのでしょうか。それはイエス様を通し、神の計画とその人柄を知って、ただ聞き従おうとするだけでなく、私たちがみ心を進んで行おうとすること、神はそれを非常に喜んでくださるからです。受け身的でなく、私たちが能動的に、自ら進んでただ神のみ心のみを行おうとするなら、天の幾千万の天使と御座に連なる一切が歓声を上げてくださいます。私心を捨てみ心を行おうとするなら、神は私たちをあやまたずに護り導いてくださいます。それは子である私たちの特権であり、絶えず父と交わり、お人柄がわかっているからこその、特権です。

2021年2月21日 (日)

神様はこのようなお方

ヨハネ 6章35節   2017新改訳

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

一般に、神様と言うと崇高で近寄り難く感じられ、よくわからない存在だと思われています。ところがキリスト教の場合、神が人の形になり、メシアとして、地上に現れてくださったのです。生誕と復活、この二つが最大の奇蹟ですが、その間、さまざまなわざをされ、預言の成就という流れで、ご自分が神の子であることを明らかにされました。それを七つのしるしと申します。
 さらに弟子たちを教える機会の中で、神ご自身のことを「わたし(というもの)は〇〇です」と直に語っておられます。(私流にこれを「七つの I am」とよんでいます)他の福音書にはないこの「七つの I am」ほど、神様が分かるのに適したものはありません。神ご自身が、平易なことばと分かり易い喩えで以て自己紹介をしてくださったようなものだからです。

 そしてこの二つの「七つのしるし」「七つのI am」がすべてヨハネ福音書にあることも見落とせません。なぜなら、最後に書かれたこの福音書は、最もイエスに愛され、おそらく最後の一人になっていた使徒ヨハネによるものだからです。この時、すでにエルサレムは預言通り灰燼に帰し、神殿を失い、亡国の民となったユダヤ人。クリスチャンとしてはネロ帝の大迫害を乗り越え、迫害がまだ止まぬとしてもエペソの大監督としてのヨハネ・・・しかしこの時、すでにキリスト教最大の難敵にして今後も繰り返されるだろう危機・・・をヨハネは見ていました。それは聖霊による新生が伴わない、形骸化した信仰だったはずです。

今日取り上げます「七つのI am」は先ず第一に神はパンであると言っています。これはシナイの荒野での天からのパンでもありますが、基本、主食の意味のパンです。私たちはパンに代表される食物を常に食べ続けることで、命を養っています。食べなければ死ぬのです。その意味で、神からの滋養を受け続けなければ、最後のぶどうの木とその枝のたとえのように、枯れる、死ぬのです。何が死ぬのですか? 内住しておられる主の霊、神との交わりとその信仰、実らぬ実のままの私という枝、それらが霊的に死ぬのです。イエス様という方から、交わり、絶えずいのちを受け続けなければ、私たちは死んだも同然なのです。そのことを光、門、良き羊飼い、よみがえり、道だと少しずつ角度を変えながら説き明かしてくださっているのです。
 私の考えでは、これらの恵みを受けるためには、悔い崩れる深い改めが前提です。神は高ぶるものに道を閉ざされるからです。サウル王と同じように、神の栄光を、やがて自分のものにしてしまう恐れのある者は祝福されず、ダビデのようにたとえ罪を犯そうと、悔い改める者を神は末代まで祝福されます。自分の罪深さを決して忘れない者、それは命をも落とされそうな試練を受けた者だけの特権です。そしてカリスマの教会とは、たとえ少数であっても、そのような方たちの教会なのです。ハレルヤ!

2019年4月14日 (日)

神のかたち

コロサイ 1章15節  【新改訳2017】
御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
      
聖書のかなりの部分を受け入れながら、キリストが三位一体の神であることを信じられない人たちがいます。しかしこのコロサイ1章15では、イエスは神のかたちであって、目に見える神であると言っています。またイエスの裁判で、肯定すれば「冒神罪」で死刑を免れないシーンで、「わたしはそれ(神の子)です」(ルカ22:70)とイエス様は肯定されました。
3年半、朝な夕な身近に接して来た筆頭弟子のペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」(マタ16:16)と告白しました。当時のユダヤ社会を考えるなら、この告白は相当な覚悟を伴ったものです。イエス様の復活という超奇跡は「五百人以上の兄弟たちに、同時に現れ」(1コリ15:6)ました。これも驚くべきことです。

神が肉体を伴って世に現れる、驚天動地のこの目的はいったい何でしょうか。それは神は高き御位に座して良しとされず、地に降りて神のすがたを現し、人々に神を信じさせるためでした。それは十字架上で人間のすべての罪を贖って、信じる者には永遠のいのちが与えられること、復活によってその確かさを明らかにするためでした。
それまでイスラエルを通し、律法が与えられていましたが、その律法によっては人は救われないことがハッキリした、まさにその時にイエス・キリストが世に来られたのです。この神の受肉と身代わりの贖罪を一言で言えば、神の「愛(Agape)」です。イエス・キリストは神の子であり、同時に神そのものでした。このイエスのうちに、神のすがた、神の愛の本質が溢れているのです。

では少しだけ具体的に聖書を見ていきましょう。まずイエス様ご自身がご自分のことを「七つのI am」(資料1)として語っておられます。イエス様の愛を端的に示すものとして「十字架上の七つの言葉」(資料2)があります。
私自身で言えば、マタイ伝5~7章で語られている公生涯最初のメッセージを読んだ時の衝撃を思い出します。「心の貧しい者は幸いです」、「情欲を抱いて女を見るものはだれでも、心の中ですでに姦淫を犯した」、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」「まず神の国と神の義を求めなさい」。平易なことばであっても、まさに一刀両断のように私を捉えました。これは人が語ろうとしても語れるものではない、語った人、この人は人間の姿をしていても神だ!と思ったのです。