ヨセフの子と考えられていた
✝ルカ 3章23節 2017新改訳
イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、
メシアの出現を預言する数ある預言の中でも、<ダビデの家系から生まれる>と<処女から生まれる>は確認しやすい預言です。
先ず<ダビデの家系から生まれる>は二つありますが、いずれもバテ・シェバへの罪を指摘した預言者ナタンのものです。神はダビデはバテ・シェバとの一件で罪を犯し、その子を罰せられましたが、メシアの家系はそのバテ・シェバの子が選ばれました。つまりその子ソロモンを王権の家系とし、ソロモンと同じ兄弟のナタンを祭司系の家系とされました。数十代の時を経てナタンの預言は驚くべき形で成就しました。夫ヨセフがソロモン系、妻マリアがナタン系という末裔同士の結婚です。この夫婦の長子がイエス・キリストです。※預言者ナタンとバテ・シェバの子ナタンは別人
また身重のマリヤが親族である祭司ゼカリヤに身を寄せましたが、もしマリヤに罪があるのでしたら、ゼカリヤは受け入れなかったと推察します。しかしゼカリヤは少し前、子ヨハネの誕生をめぐる神の取り扱いを受けた夫婦でしたので、マリアの処女懐妊を信じたと推察されます。
次にメシアが処女から生まれるということですが,これは本当に超自然的な奇跡中の奇跡、空前絶後のことです。信仰が弱い方は、聖書に書かれてあるこの事実を受け入れることができません。神のことばである聖書より、人間である自分の判断を上に置けばそうなります。しかしそれでは全人類の罪の身代わりとして死んだイエスの神性を否定し、罪の贖いは無効となります。こういうわけで全キリスト教徒にとって、処女懐妊は信仰上の踏み絵です。
上述の傍証として、イエスが私生児として生まれたという記事は、聖書に数箇所見られます。通常ならば「ヨセフの子」であるのに、「マリアの子」(マルコ6:3)としたことや「ヨセフの子と考えられていた」(ルカ3:23)などの箇所からです。特に「考えられて」などの表現は、イエスがヨセフの実の子であれば大変失礼な表現です。これはヨセフが、実の子ではなくとも、少なくても表向きには自分の子、長子として遇していたことを表していると見るのが普通でしょう。
マリアもイエスが自分の腹を痛めた子には間違いないのですが、親族の結婚式で「ぶどう酒がなくなった」時、イエスに向かって「ぶどう酒がありません」(ヨハネ2:3)と言う不可解なことを要望するのでしょうか?これは母自らが、イエスが普通の人間ではないと認識していたからではないでしょうか。
このようにイエス・キリスト出生には、処女からの出生であることを伺わせる傍証が多く、神を信じる者には、神にはそれができることを確信するのです。