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イエス キリスト

2021年2月21日 (日)

神様はこのようなお方

ヨハネ 6章35節   2017新改訳

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

一般に、神様と言うと崇高で近寄り難く感じられ、よくわからない存在だと思われています。ところがキリスト教の場合、神が人の形になり、メシアとして、地上に現れてくださったのです。生誕と復活、この二つが最大の奇蹟ですが、その間、さまざまなわざをされ、預言の成就という流れで、ご自分が神の子であることを明らかにされました。それを七つのしるしと申します。
 さらに弟子たちを教える機会の中で、神ご自身のことを「わたし(というもの)は〇〇です」と直に語っておられます。(私流にこれを「七つの I am」とよんでいます)他の福音書にはないこの「七つの I am」ほど、神様が分かるのに適したものはありません。神ご自身が、平易なことばと分かり易い喩えで以て自己紹介をしてくださったようなものだからです。

 そしてこの二つの「七つのしるし」「七つのI am」がすべてヨハネ福音書にあることも見落とせません。なぜなら、最後に書かれたこの福音書は、最もイエスに愛され、おそらく最後の一人になっていた使徒ヨハネによるものだからです。この時、すでにエルサレムは預言通り灰燼に帰し、神殿を失い、亡国の民となったユダヤ人。クリスチャンとしてはネロ帝の大迫害を乗り越え、迫害がまだ止まぬとしてもエペソの大監督としてのヨハネ・・・しかしこの時、すでにキリスト教最大の難敵にして今後も繰り返されるだろう危機・・・をヨハネは見ていました。それは聖霊による新生が伴わない、形骸化した信仰だったはずです。

今日取り上げます「七つのI am」は先ず第一に神はパンであると言っています。これはシナイの荒野での天からのパンでもありますが、基本、主食の意味のパンです。私たちはパンに代表される食物を常に食べ続けることで、命を養っています。食べなければ死ぬのです。その意味で、神からの滋養を受け続けなければ、最後のぶどうの木とその枝のたとえのように、枯れる、死ぬのです。何が死ぬのですか? 内住しておられる主の霊、神との交わりとその信仰、実らぬ実のままの私という枝、それらが霊的に死ぬのです。イエス様という方から、交わり、絶えずいのちを受け続けなければ、私たちは死んだも同然なのです。そのことを光、門、良き羊飼い、よみがえり、道だと少しずつ角度を変えながら説き明かしてくださっているのです。
 私の考えでは、これらの恵みを受けるためには、悔い崩れる深い改めが前提です。神は高ぶるものに道を閉ざされるからです。サウル王と同じように、神の栄光を、やがて自分のものにしてしまう恐れのある者は祝福されず、ダビデのようにたとえ罪を犯そうと、悔い改める者を神は末代まで祝福されます。自分の罪深さを決して忘れない者、それは命をも落とされそうな試練を受けた者だけの特権です。そしてカリスマの教会とは、たとえ少数であっても、そのような方たちの教会なのです。ハレルヤ!

2019年4月14日 (日)

神のかたち

コロサイ 1章15節  【新改訳2017】
御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
      
聖書のかなりの部分を受け入れながら、キリストが三位一体の神であることを信じられない人たちがいます。しかしこのコロサイ1章15では、イエスは神のかたちであって、目に見える神であると言っています。またイエスの裁判で、肯定すれば「冒神罪」で死刑を免れないシーンで、「わたしはそれ(神の子)です」(ルカ22:70)とイエス様は肯定されました。
3年半、朝な夕な身近に接して来た筆頭弟子のペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」(マタ16:16)と告白しました。当時のユダヤ社会を考えるなら、この告白は相当な覚悟を伴ったものです。イエス様の復活という超奇跡は「五百人以上の兄弟たちに、同時に現れ」(1コリ15:6)ました。これも驚くべきことです。

神が肉体を伴って世に現れる、驚天動地のこの目的はいったい何でしょうか。それは神は高き御位に座して良しとされず、地に降りて神のすがたを現し、人々に神を信じさせるためでした。それは十字架上で人間のすべての罪を贖って、信じる者には永遠のいのちが与えられること、復活によってその確かさを明らかにするためでした。
それまでイスラエルを通し、律法が与えられていましたが、その律法によっては人は救われないことがハッキリした、まさにその時にイエス・キリストが世に来られたのです。この神の受肉と身代わりの贖罪を一言で言えば、神の「愛(Agape)」です。イエス・キリストは神の子であり、同時に神そのものでした。このイエスのうちに、神のすがた、神の愛の本質が溢れているのです。

では少しだけ具体的に聖書を見ていきましょう。まずイエス様ご自身がご自分のことを「七つのI am」(資料1)として語っておられます。イエス様の愛を端的に示すものとして「十字架上の七つの言葉」(資料2)があります。
私自身で言えば、マタイ伝5~7章で語られている公生涯最初のメッセージを読んだ時の衝撃を思い出します。「心の貧しい者は幸いです」、「情欲を抱いて女を見るものはだれでも、心の中ですでに姦淫を犯した」、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」「まず神の国と神の義を求めなさい」。平易なことばであっても、まさに一刀両断のように私を捉えました。これは人が語ろうとしても語れるものではない、語った人、この人は人間の姿をしていても神だ!と思ったのです。