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福音

2021年11月21日 (日)

伝道師按手・任命式

Ⅱテモテ 4章1~5節   新改訳2017

1 神の御前、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前、その現れとその御国を思いなが、私は厳かに命じます。
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽く、、絶えず教えなが、責、戒、また勧めなさい。
3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。

本日伝道師の按手を受けられる稲村姉妹について、確かイスラエル派遣の中で姉妹とはじめてお会いしたと思いますが、しばらくして、今日のように深く関わり合うようになるという主の示しがありました。他教会の方ですし、住まいも、家族の状況もありました。ですからこれは「あり得ないし、もし実現したらそれは、神のわざでしかない」とその時は思いました。それで、このことは一旦忘れることにし、できるだけ私は動かないようにすることにしました。
 ただ一度だけ、ご主人の召天後、これも示されてですが、群馬のご自宅に伺ってお片付けや庭掃除のお手伝いをしたことがあります。しかしその後、姉妹は不思議な身辺のいろいろな事があって、私たちの近くの教会に移動されるということがあり、牧師夫人との関わりが増し加えられ、ゆっくりですが、私たちとの距離が近くなって行くのです。これは不思議でした。
 今回の伝道師、その就任に決定的だったことが二つあります。一つは、向こうで引っ越しされてまだ間がないのに、この教会の二階に住む計画に手を上げてくださったことです。ご存知のように、この会堂の二階部分への住み手なくしては、この家を借りることは不可能だったのです。「どうして手を上げたのか自分でも分からない」という本人の言葉でした。コロナ禍の中、私たちの礼拝場所が守られたのは、この姉妹の手を上げられた瞬間から大きく前進したのです。
 二つ目は神学校を卒業されると言うことでした。何しろこの教会に来られた頃は、神学校を続けることを半ば諦めておられました。伝道師への任命・按手に神学校の「卒業」が必須だと言っているわけではありません。しかしそのような示しが来たのです。「卒業して按手・任命を」と。それで学びを再開するよう勧めますと応じてくださり、それから1年以上かかってこの十月、姉妹は卒業に必要な全単位を取得されたのです。
 最後の難関は、姉妹が伝道師になることを承諾してくださることでした。これもはじめは消極的な様子でした。しかしずいぶん祈られたのでしょうか、または神様の強い迫りがあったのか、つい最近、応じても良いという返事をいただき、そこで急きょ按手式を本日することに致しました。
【宣言】
 教会のかしらである主イエス・キリストは牧師・伝道師を立てて、福音を宣べ伝えさせ、ご自身の《血であがないとられた神の教会を牧させ》なさいます。
 TLEA船橋キリスト教会の牧師、ケパ中村は、教会員(アンナと示された)稲村いづみ姉妹を船橋キリスト教会の伝道師として立てることを主から示されていました。これが神から来た吟味のポイントとして、姉妹が神学校を卒業した時点で任命するよう、主から導かれておりました。
 今姉妹は卒業に必要な単位を修得し、私はここに、当教会の伝道師として姉妹を任命いたします。この日以後牧師を補佐し、牧会伝道師に次ぐ霊的な指導者として、教会に深く重荷を持つ働き人・奉仕者として、姉妹を伝道師に按手し任命します。


 

2021年5月 9日 (日)

福音

コリントⅡ5章18-19節  2017新改訳  

これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。
すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。

 福音とは「良い知らせ(good news)」と言う意味です。どういう良い知らせかと言えば、私たちのどんなにがんばっても無理だった天国入国が、ただイエス・キリストを信じるだけでOKになったという知らせです。もう少し詳しく言えば、私たちの罪の身代わりに、神の子キリストを十字架に架けられたので、これを信じさえすれば罪が帳消しにされる、つまりすべて赦されるので、罪を犯さなかった聖なる者となって天国へ入れるという驚くべきものです。イエス・キリストの十字架はまさに人類の歴史を二分する驚天動地出来事であって、実際西暦ではBCとADとに、つまりキリストの誕生以前と以後で、歴史を二分しています。

 今一度強調したいと思います。霊肉共に滅ぶしかなかった私たちでしたが、福音によってどれほどの恵みを、天地がひっくり返るほどでしたが、受けたのかを。私たちは今2021年を生きていますが、キリスト以前の二千年前、つまり四千年前に、アブラハムによって神に聞き従う信仰が始まりました。そして三千年前にモーセによって、「十戒」を頂点とする律法がイスラエルの民に与えられ、この律法を守ることによってイスラエルの民は神の国に入れるはずでした。しかしイスラエルの民はキリストまでの千年にわたって、結局、天国に到達することができませんでした。つまり、イスラエルの民は、人の努力で天国へ行くことはできないお手本となったのでした。
 ではこのアブラハムの子孫、イスラエルの二千年間は無駄な時間だったのでしょうか。いえ、この民の時代があったからこそ福音の必然性が証明されたのです。人は福音無しには天国には行けない、つまり救われないのです。

 同時に福音はいわゆる「御利益信仰」を峻別し、拒否します。神の命をもって買い取られた者、すなわち十字架を信じた者の命は、すでに神のものです。その見返りははるかに莫大なもので、永遠のいのちが与えられているのです。この永遠のいのちをいつまでも実感できない人は、その状態のままでは、自分自身が人生の主人であるという御利益信仰者、または肉のクリスチャンであることを明らかにしています。神によって永遠のいのちを得た者は、すでにこの世の価値観から離れ、心と魂が一新された、新しく生まれた者となっているのです。まさに福音は生きて働く神の力であり、ハレルヤ!これを聞いて信じる者を一変させる力あるものです。

2020年5月10日 (日)

新しい皮袋

ルカ 5章37節  新改訳2017

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。

「新しい皮袋」聖書由来のことわざには「目から鱗」「豚に真珠」と本日のこの「新しい酒は新しい皮袋に」とあります。但し聖書から正しく理解するならば、かなり意味が異なって来ます。
 まずこのたとえは断食についてのパリサイ人の質問から始まりました。パリサイ人たちはイエス様の前に陣取り、カペナウムでの中風の人の癒やし以来つきまとい、このような質問をして様子をうかがっていました。ですからこのたとえの、古い葡萄酒と古い皮袋とは何を指すかがポイントになります。

 パリサイ人らにとって、断食は<施し><祈り>に並ぶ重要な宗教的な行いでした。断食をしないイエス様について、バプテスマのヨハネの弟子たちですら疑問に思っていたのです。これは花婿として来られたイエスのメシア性を理解せず、古い律法の枠内でしか理解できなかった彼らの限界を示しているのです。イエスは十字架の血による新しい葡萄酒であり、律法の縄目を解き開き、天への道を開く預言の成就、花婿たるメシアでした。新しい皮袋、新しい律法としてイエス様の説く福音を受けなければならないのです。

 しかしパリサイ人たちは神のことばをタルムード(口伝律法とその解説)などの人間的な理解に置き換え、これを金科玉条とし、ただ形式的に守ろうとするだけであって、イエスの神性、預言の成就をないがしろにしました。ですから古い酒と古い皮袋とは彼等のことであり、キリストの福音を受け入れられずに滅ぶたとえなのです。

 イエスの到来はメシアの時代の到来、喜びの婚宴の始まりでした。悟れなかったパリサイ人は、この場で何か衝突は起こすことはありませんでした。しかし、一言で言えばこれはイエス様の宣戦布告です。国の権力者たちと、民衆しか後ろ盾がない田舎出の一人のラビとその弟子たちの戦い、その後、すべては神のロードマップ通りに進んで行くのでした。

 新しい葡萄酒は発酵し続けます。今日的な課題として、私たちがいつまでも新しい葡萄酒を受け続け、その入れ物となるためには何が必要でしょうか。神はいつの時代でも不変であり、永遠です。それならば私たちに必要なことは「新生」です。私たちは罪深く、自己中心であって、自分の力で神に自分を捧げたり、聖化にあずかることは出来ません。己の真実を知って悔い改め、また神の絶大な偉大さ、その愛とあわれみを知った時、飢え渇きを持って新生を待ち望むことができます。神によって与えられる新しい霊と、その聖霊が自分の主として従い、愛し、進んで神の御心だけを行う者として、新しい人生を歩む者とされましょう。まだの方は共に節に祈り求めましょう。新しき皮袋へと。