レマ、サバクタニ
✝マタイ 27章46節 2017新改訳
わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。
本日は復活祭(イースター)の主日です。復活祭はクリスマスよりもはるかに大切な日です。聖書には核心的に書かれ、もし復活がなかったら十字架も不完全なものです。復活によって死への勝利と御霊のからだの希望、永遠のいのちがあるのです。あらためて復活を整理しましょう。
●二千年前、神が受肉されて地上に人となって来られるという、空前絶後のことが起こりました。
●イエスという名のユダヤ人として生まれ、聖書の預言をすべて成就されるにあたって、その数々のされた事柄を通して、神さまを具体的に知ることができるようにしてくだされました。
残された四つの福音書、いわば四つの視点から、私たちは神を立体的にイメージできるのです。聖書を読んでイエス様が神であることが分かるなら、あらかじめ選ばれていた神の子です。
●受肉さらた神の最終的な目的は、人間の罪を身代わりになることでその罪を赦し、聖なる神との交わりを回復させる事でした。聖霊様はその回復後の交わりの役目をになっておられます。
神が人となってこの世に来られたということを疑う、つまりキリストの神性を信じない人たちがキリスト教誕生の初期から数多くいました。使徒信条は最も古く、かつ土台的な信仰告白ですが、キリストの神性について多くが割かれているのはこのためです。しかし疑った人々はことごとく失敗しています。映画にもなったベン・ハーの著者もそうでした。疑った結果、逆に真実であることを知りました。もし真実でなければ、今日でも何十億人も信じる人がいる世界最大の宗教であり続けることは歴史的にも、実際的にもあり得なかったことでしょう。
さてこうして公生涯をでのイエス様を通し、私たちは神様というお方がどのようなお方であるかがわかる恵みを得ました。イエス様はピリポに向かって次のように言われました。
「わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。(ヨハネ14章9節)と、私たちは言われないようにしましょう。
私には神様のお人柄は次のように見えます。まず、自分を「正しい(義)とし、他者を裁く」人や悔い改めようとしない高慢な人たち、例えばパリサイ人や律法学者、祭司長のような宗教的に指導者に対しては厳しく対応されました。その反面、意外と罪や弱さを自覚している人には愛とあわれみで対応をされました。社会的な弱者である貧しい人、差別されている人、病や障害がある人、性的な罪を犯している人などに対しては特にそうでした。
聖書を読んで、イエス様が生ける神であることがわかるなら、なんと祝福でしょうか。私たちを愛してその独り子さえ惜しまれなかった神の愛を信じる方は、復活の恵みをすべて受けるのです。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。(ヨハネ3:18)