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証しメッセージ

2024年3月10日 (日)

老いてこそ

使徒の働き 2章17節 2017新改訳
神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

  私の目は見かけは悪くても、性能は良いとばかり思っていた器官でした。ところが、七十歳を過ぎてから、どうもそうではなくなりました。十年前の緑内障の発見から、最近特におかしいのです。
 例えばテニスで、ボールがラケットの芯になかなか当たりません。高速道路でスピードを出すと、側方の景色がまるでコマ落ち動画のようにカクカクになります。もっと困ったことは人が変に見え出したのです。中景にある人物の顔が、雪だるまのように、目と眉を二本の炭で横に置いたように見えるのです。これは不気味でしたので、かかりつけの眼科医に絵でを見せ相談しました。

 眼科医は困ったような顔をして言いました。「中村さん、あなたの歳ではとても自然なことなんですよ」と。そして自覚の足りなさそうな私に向かって、実は私の水晶体はすでに濁ってきており、白内障が出かかっていること。雪だるまに見えることについては、この歳まで10メートル先の瞳が見えていたことの方が優秀であったことを告げてくれました。そうです、眼科医は「老いた」自覚のない私に「老い」を強制認識をさせてくれたのです。

 少しショックでした。が突然、かねて聖書で幾分なりとも不審に思っていた真理がわかりました。それはなぜ老人が主の器として用いられるのかということでした。アブラハムは75で召命を受け、百歳で約束の子を得ました。しかしその子でさえ、神はアブラハムが自分に従うことができるか、究極のテストをされたのです。モーセは80歳からの召命です。エジプトの王子だったモーセですが、自分がイスラエルの民を救えると思い上がってしまい、エジプト人殺しの追っ手を逃れ、遠く辺境の地ミデアンまで逃れてきたお尋ね者でした。それから40年、しがない雇われ羊飼いとして、その生涯はやがて失意のうちに終わるはずでした。彼にはもはや希望というものがなかったのです。
 「老いる」と言うことは、肉の命にもはや希望を持てない事を意味します。この、「希望が無い」と言うことが非常に重要です。神を信じない未信者には老いは呪いでしょうが、神を信じる者には希望そのものです。なぜなら、人の努力や力では不可能な<自分に死ぬ>ことが限りなく近く迫っており、神の器として適切です。肉が残っていれば、結局はサウル王のように聞き従わない罪を犯し、神が悔いるリスクを負うことになるからです。

神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。(使徒の働き 2章17節)
 しかし年をとり、肉体に希望を失った者には、もはや天にしか希望がありません。そして老人はリアルに神の栄光と天を夢見る、神の器として用いられるのです。

2023年6月 4日 (日)

信仰と癒やし

マタイ 11章5節  【新改訳2017】
目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。

 昨日の船橋カリスマ聖会で、秋元牧師は「信仰のない人に癒やしは起こらない」と語られました。確かに聖書を見ると、癒やされた人たちには、イエス様、神様に対する信仰が本人に、あるいは周囲の人たちにあったことは読み取れますし、確かなことです。

 確かに癒やしは信仰者に与えられるものです。私たちの群れではその大きな御わざを見ています。例えばM牧師夫妻においての精神の病が癒やされたりしています。本日私が証したい癒やしの証は「歯の再創造」です。

 51歳で聖霊のバプテスマを受け、続いて牧師へ召命を受けました。何のためらいもなく喜んでその招きに応じたのですが、私には気になる事柄がありました。それは牧師としての使命を果たすのに、<フガフガ歯>で喋りに差し障りがあるということでした。

 50代に入る前に、私は右奥歯大臼歯3本を歯槽膿漏で失ったのですが、その際、どんなに痛み止めの薬を飲んでもまったく効かず、以来歯医者に行くことがトラウマになってしまいました。それで私は、自分にとって都合の良い歯医者に行かなくて済む、自然に歯がまた生え出てくるよう「歯の再創造」を神に祈るようになりました。ただ、客観的に見るならば私の両親は五十代で総入れ歯になっており、おそらく私も同じ轍を踏むことになっていたことでしょう。

 再創造の熱い祈りは二年経っても答えられず、半ば諦めかけていた頃、田舎の小さな学校に転勤していました。毎年この時期には学校では歯科検診があります。その時のことでした。検診を始めた医師は、記録を教師にさせず、連れてきたスタッフにさせた上、少しでも引っかかった児童は、隣室の歯科衛生士からブラッシング指導を受けさせられていました。その時、私の脳裏に「この歯科医に行きなさい」という明確な指示が来たのです。それが断固たるものだったので、トラウマなんぞは言っておれず、聞き従ってその日の夕方には、私はその歯科医院で診察を受けていた。
 その時から私は歯科医院に毎週通うようになり、私の口腔環境は劇的に回復して行ったのです。それから3年が経って、私はインプランの手術を受けられるまでになり、歯の再創造はかないませんでしたが、ほとんどそれと変わらない歯を得ることが出来ました。私は未だに自分の歯で、りんごやピーナッツを齧れている恵みに預かっています。神は私の願った通りではなかったのですが、神から語られたことに恐れず、忠実に聞き従った結果、実に願った以上の恵みを受けることができたのだ。

 

 

 

 

2022年5月 8日 (日)

私の御からだはどこ?

エペソ 5章30節   2017新改訳

私たちはキリストのからだの部分だからです。

 きょうのメッセージは、インターネットラジオ「Ein・Karemのトークルーム」で証しした事がきっかけになりました。それは私が神さまの語りかけを実際に体験した時のできごとです。

 悔いて悔いて曜日の感覚をなくしていたその日の朝、今日が日曜日だということが分かった時、「こんな不浄で罪深い者が、教会などに行ってはいけない」と思いました。クリスチャンになって初めて「教会に行けない」と思った朝でした。しかし心はともかく、長年の習慣だったからでしょうか、思いとは裏腹に体が勝手に私を運転席に座らせ、ハンドルを握らせて車を動かしていたのです。後で考えると、これは神の御手が働いていたのだったとしか思えません。なぜならもしあのまま家で私がくすぶっていたら、この後の人生を一変させた体験はなかったことでしょうから。
 人それぞれに特別な出会いがあるでしょうが、特に神様となると、それは限られた方になると思いますし、それは一層特別であり、また念入りにそれは準備されているようです。半時ばかり運転後、目指す教会が見下ろせる高台まで来た時、とつぜん変なことが起こったのです。運転中の車のダッシュボード上にくるくる回るサイコロのような物がいくつも現れ、やがてその回転が順々に収まって行くと、どうやら一つ一つに文字が読めて来るのです。「ワ・タ・シ・は・あ・な・た・を・ア・イ・シ・テ・イ・ル」と。運転中でもあり、はじめこの奇妙な現象に目を取られて、ナ、ナニ?って感じだったのですが、意味が分かってくると、明らかにこれは自分以外の意思であると分かりました。

 やがて私の心に<どーん>と津波のように襲って来るものがあり、体の震えと涙とで圧倒されて行く自分がいました。ですからやっとのことで車を道路の左端に寄せて停めたのです。自暴自棄になって信仰をほぼ失いそうになり、ほとほと自分自身に愛想が尽きたという状態だったのです。その私にこれは何ということばかけだったのでしょうか。以後省きますが、「この世に神が生きて働かれ、愛を持って語りかけてくださるんだ」と驚きを持って体験しました。まさに人生と価値観を一変させる衝撃的な臨在の出会いでした。

 ちょうどペンテコステの日、弟子たちが変えられたように、私も変えられました。夜、少し落ち着いてみると、一つだけはっきりと分かったことがありました。それは「もう、普通の教会(福音派)には行けない」ということです。普通の教会の信仰・・朝にはそこさえも行けないと思っていたのに、夕には「もうそこにも行けない」という確信でした。私はカリスマになってしまったのです。この信仰では、普通の教会では苦しむだろうし、どこへ行けば良いのか、検討もつきませんでした。

私はその夜、御体を求めて祈り、示された方法、ネットの検索で一回だけ押して見たところ、全く未知のTLCCCが現れ、しかも翌日に広島でその聖会があることがわかりました。その聖会に行くと私が来ることが予告預言されていたのです。全く、神の御手は用意周到です。