信仰と癒やし
✝マタイ 11章5節 【新改訳2017】
目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。
昨日の船橋カリスマ聖会で、秋元牧師は「信仰のない人に癒やしは起こらない」と語られました。確かに聖書を見ると、癒やされた人たちには、イエス様、神様に対する信仰が本人に、あるいは周囲の人たちにあったことは読み取れますし、確かなことです。
確かに癒やしは信仰者に与えられるものです。私たちの群れではその大きな御わざを見ています。例えばM牧師夫妻においての精神の病が癒やされたりしています。本日私が証したい癒やしの証は「歯の再創造」です。
51歳で聖霊のバプテスマを受け、続いて牧師へ召命を受けました。何のためらいもなく喜んでその招きに応じたのですが、私には気になる事柄がありました。それは牧師としての使命を果たすのに、<フガフガ歯>で喋りに差し障りがあるということでした。
50代に入る前に、私は右奥歯大臼歯3本を歯槽膿漏で失ったのですが、その際、どんなに痛み止めの薬を飲んでもまったく効かず、以来歯医者に行くことがトラウマになってしまいました。それで私は、自分にとって都合の良い歯医者に行かなくて済む、自然に歯がまた生え出てくるよう「歯の再創造」を神に祈るようになりました。ただ、客観的に見るならば私の両親は五十代で総入れ歯になっており、おそらく私も同じ轍を踏むことになっていたことでしょう。
再創造の熱い祈りは二年経っても答えられず、半ば諦めかけていた頃、田舎の小さな学校に転勤していました。毎年この時期には学校では歯科検診があります。その時のことでした。検診を始めた医師は、記録を教師にさせず、連れてきたスタッフにさせた上、少しでも引っかかった児童は、隣室の歯科衛生士からブラッシング指導を受けさせられていました。その時、私の脳裏に「この歯科医に行きなさい」という明確な指示が来たのです。それが断固たるものだったので、トラウマなんぞは言っておれず、聞き従ってその日の夕方には、私はその歯科医院で診察を受けていた。
その時から私は歯科医院に毎週通うようになり、私の口腔環境は劇的に回復して行ったのです。それから3年が経って、私はインプランの手術を受けられるまでになり、歯の再創造はかないませんでしたが、ほとんどそれと変わらない歯を得ることが出来ました。私は未だに自分の歯で、りんごやピーナッツを齧れている恵みに預かっています。神は私の願った通りではなかったのですが、神から語られたことに恐れず、忠実に聞き従った結果、実に願った以上の恵みを受けることができたのだ。