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伝道

2025年9月14日 (日)

み言葉を宣べ伝えなさい

Ⅱテモテ 4章1~2節   2017新改訳

神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
 昨日は義兄の1周忌があり、その食事会の最後に喪主の長男が「父(を偲んでの歓談に)喜んでくれていると思います」と挨拶し、一同も納得のうなずきをしていました。その場に居合わせた誰もが、死後にも世界があることに疑いを持っていないようでした。これに私は大いに驚きました。「へぇー、皆あると思っているんだ」と。続けてこうも思いました。「それならなぜ、まるでそんな世界が無いかのような生き方をしているんだろう」と。
 生前、義兄は過去に「イエス様を信じる」と信仰告白を導かれたそうですが、その後教会生活はなく、信仰があるかはわかりませんでした。ですから葬儀の場で悔しい思いをしました。聖書では罪を告白し、イエス・キリストを贖い主と告白しなければ永遠に救われないのです。

 血肉の命の間に、神を信じるかどうかで永遠の行き先が決まります。血肉の命はそのための選択の期間です。しかしほとんどすべての人がその逆、血肉の命がすべてのように思い、神を信ぜず体の死とともに永遠のいのちを失って行きます。ですから義兄が私に「中村さん、俺の所に来ないよう、皆に言ってくれ」と苦しみの中から声を絞り出すように言っているように思えて仕方がないのです。

 また天国には日本人がほとんど居ないことも悔しい思いがします。自分自身もそうだったのですが、信仰が自由な国なのにクリスチャンがこれほど少ないのは、江戸時代、世界最大級の殉教者を出したキリシタン迫害の影響が大きいと思わされています。世界最大級の何十万という信者を見せしめに殺したので、恐怖を植え付けるのに成功しているのです。誉むべき栄光の殉教が、この国では恐怖に彩られました。今でもクリスチャンになる時、この国の文化や習慣、家族と伝統から決別しなければならない大きな決断が要るのです。

 私自身もバプテスマを受けるに際し、父から大学の仕送りを止めると脅され、相当な決心が要ったことを思い出します。だからといって私たちクリスチャンが恐れて日陰者のようにクリスチャンであることを隠していて良いのでしょうか。それは生ける神を辱めることにはならないでしょうか。私がクリスチャンになったのは、15歳の時に伝道所に掲示してあった一つの御言葉でした。「汝の少(わか)き日に、汝の造り主を記(おぼ)えよ」(伝道の書12章1節)が、ずっと二十歳になるまで私の脳裏に残っていました。二十歳でバプテスマを受けた時、学生運動に挫折もありましたが、この御言葉が少き日、二十歳になるまでに決心せよ、と後押ししてくれました。

 それで一つ提案します。御言葉を時が良くても悪くても伝えましょう。カードでも、手紙でも、今はSNSでしょうか、なんででも良いのです。イエス様は御言葉には神の力があると、種まきのたとえやヨハネ福音書で再々言及されているではありませんか。

アーメンでしょうか。

2025年9月 7日 (日)

Awesome God (大いなる神)

箴言 5章21節   2017

人の道は【主】の御目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を向けてくださる。

 日本は世界一の超高齢化社会です。長生きすればわかることですが、体は若さを失って加速度的に衰えて行きます。この老化の先には死が迫っていることは、誰しも自覚せざるを得ないはずです。けれども多くの人は健康を心配しても、死後の世界のことを言うと、まるでそれが不吉で悪いことのように避け続け、思考から追い払おうとしています。それはその人が死が恐いからです。それはそうでしょう、このまま命が終われば、恐い所に行くことがわかっているからです。

 先週はアメリカの脳神経外科医から、「死後の世界がある」ことの報告をお知らせしました。これまでの天国での体験的な証の弱点、記憶の客観性の問題とか論理的な証拠の弱さを、エベン医師が専門的な立場から明らかにしたのです。これでも人々が、死後の世界があることを聞こうとしないのなら、もはやその結果を刈り取ってもらうしかない、とすら思えます。とは言っても、私たちは諦めずに、人々に死後に二つの世界があること、そのために神であるイエス・キリストが世に来られ、永遠のいのちの道を開いてくださったことを証し続けなければならないと思います。それはどんな時が良くても悪くても、血肉の命を賭して私たちにある間中、神から使命として託されたことです。

 どうかイエス・キリストの神を信じていない人にお願いします。私たちのような本当のキリスト教会に来て、神を受け入れてください。キリスト教に知識の無い人は、何処が正しく本当のキリスト教会はどこか分からなくて不安だと思われます。言えることは、多くの正統的な教会で用いている聖書は以下の二つです。それは新改訳聖書か共同訳聖書です。この名以外の聖書とか聖書に準じる書物があるならば、それらはすべて正しい教会とは言えません。また本当のキリスト教会なら、マインドコントロールとか献金の強制とかは決してありません。とくに教会への出入りはまったくの自由で、一切束縛はありません。礼拝時間であっても妨害や迷惑行為以外は、好きな時に入り、出て行けば良いのです。また教会にはいろいろな方が来られます。人に対してつまずくのではなく、聖書の御言葉と祈りを中心に見ていただきたいと思います。 

2025年8月31日 (日)

恐れと安息

創世記 2章7節   2017新改訳

神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

 これまで天国に行って帰ってきた人の話の本「天国は本当にある」を2冊読みました。それぞれ仮死状態での体験談でのですから、この世の常識で疑う人たちからは「客観性や証拠に乏しい」「単なる妄想や作り話」という批判には弱かったのです。

 そういうことを神さまは考慮されたのでしょうか、今回はなんと脳神経外科医という、専門家の詳細な体験報告です。脳神経外科医エベン 55歳。本書には医学的な専門用語も出てきていますが、中でも一週間以上脳波測定が、でしょう。活動していずほぼ脳死状態から奇跡的によみがえった人物でもあります。その間の自らの体験を締めくくって言った言葉が「意識は脳とは独立して存在する」ということばです。

 これはつまり、たとえ肉体を司る脳がほぼ死んだ状態であっても、人間の意識、つまり心や感情である霊は別に生きているという意味であると思われます。よくクリスチャンの死に顔は笑顔であると言われますが、からだは死を迎えていても、霊・たましは生きていて、天国に凱旋した喜びが笑顔に出ていると思われます。エベン医師も、脳死状態で神と出会い、喜びに満ちた体験をしたことを著書「プルーフ・オブ・ヘブン」で証しました。死後の世界が存在する実に強力なメッセージでした。
 よく考えてみてください。エベン医師がこの科学を超えたような報告をすることは、彼のキャリアを考えれば非常にハンディがあることです。それでも彼は体験したことを、科学者として考えられる限りの根拠ある言葉で発表しました。死後の世界があることは単なる思い違いや妄想ではない、と。
 このことから私たちには確かに死後の世界があること、その世界は血肉の体がない永遠の世界であること、またその世界は使徒ヨハネ以後これまで何人かの証人かが体験しように、天国とゲヘナに隔てられていることが明らかになっています。その選択は血肉のいのちが有る間に死後の世界の選択が決まり、決して後戻りできないことなのです。

 世でこの天国とゲヘナを語りますと、神を信じようとしない人には<脅し>と受け取られますが、死んでからでは遅いのですから、これを語り伝えることは「そこへ行って欲しくない」という愛から出ているのです。生まれながら人はすべて罪人であって、決して天の国に入ることはできません。神はその罪を帳消しにするために、御子イエス・キリストを世に送ってくださり、悔い改めて十字架を信じる者には天国への道を開いてくださります。信じるために一文のお金は要りません。ただ「十字架は私の罪のため、どうか赦してください」と真に告白するだけで良いのです。その言葉からすべてが変わって行きます。死への不安や恐れが嘘のように消え去り、あなたは神に愛された人に生まれ変わります。

2023年7月30日 (日)

礼拝は最強の伝道

エペソ 1章23節   2017新改訳

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

 私たちは<伝道>というと、外に出て行って、駅前とか大学のキャンパスでトラクトを配ったり、聖会の開催に合わせてやはりトラクトとか、呼び込みをしたりするのが伝道のイメージです。ところがオン・ザ・ウェイのジャック・ヘイフォードさんは違うんです。礼拝こそが最高、最強の伝道だと。伝道というものは非常に霊的なものだと言われるのです。確かに神の霊に触れなければ、神がわからず、本当に信じて救われることはかなり困難です。

 では神に触れられる所とはどこか?ここなんです。霊的な礼拝をしている今この時、この場、そう、教会の礼拝が答えなんです。私たちが霊とまことをもって真に神に礼拝しているなら、この場に聖霊が臨在し、満ちて人々を倒し、魅了し、神を信じる者とされるのです。

 このことがペンテコステの日に起こりました。大きな音がしたわけですが、実際には聖霊が三千人の人々を超自然的に集め、異言やペテロのメッセージに霊感された礼拝によって最初の教会が発足したのです。男性だけで三千人は現在でも大きな人数ですが、昔の狭いエルサレム市街に、過越の祭から居残って人々の三千人というのは、途方もない数のように私は思われます。
 またパウロとバルナバを召して異邦人伝道に向かわせたのも、礼拝中、聖霊の指示によるものです。これは今日に至る世界史的な転回点となった出来事です。このように礼拝における臨在が、霊によって信じる者を起こし、神に聞き従って神の計画、伝道の御業をはじめられた場そのものなのです。

 皆さんの中に、礼拝って毎週同じことばかりを繰り返して、形式的で新味がなく、退屈だと思っている方がおられるかも知れません。牧師にも相当の責任があると思いますが、中には余りにも平安があり過ぎて、メッセージ中に居眠りされる方も。ですが昔から、そして現在に至るまで、逮捕されたり拷問を受けるリスクを冒してまで、クリスチャンは命懸けで礼拝を守ってきました。どうしてでしょうか?

 逆にサタンは何とかして礼拝に行かせまいとし、あらゆる策略を用いて来ました。世人が日曜日にレジャーで楽しむのをうらやましく思わせ、教会の人間的な負の側面から心に傷を負わせたり、などです。また礼拝後の交わりが楽しく、それが教会に行く主目的になってしまうこともあるでしょう。しかしそれらはサタンの罠に縛られているのです。

 そうでなく、教会は神を礼拝し愛し、隣人を兄弟の愛でもって交わるところです。そこには臨在の恵みがあり、あふれる祝福の場となのです。そうなっていないのであればまず第一に悔い改めるべきは牧師です。そして教会全体で主の霊、臨在の恵みを追い求めてください。応えてくださる神を信じましょう。