み言葉を宣べ伝えなさい
✝Ⅱテモテ 4章1~2節 2017新改訳
神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
昨日は義兄の1周忌があり、その食事会の最後に喪主の長男が「父(を偲んでの歓談に)喜んでくれていると思います」と挨拶し、一同も納得のうなずきをしていました。その場に居合わせた誰もが、死後にも世界があることに疑いを持っていないようでした。これに私は大いに驚きました。「へぇー、皆あると思っているんだ」と。続けてこうも思いました。「それならなぜ、まるでそんな世界が無いかのような生き方をしているんだろう」と。
生前、義兄は過去に「イエス様を信じる」と信仰告白を導かれたそうですが、その後教会生活はなく、信仰があるかはわかりませんでした。ですから葬儀の場で悔しい思いをしました。聖書では罪を告白し、イエス・キリストを贖い主と告白しなければ永遠に救われないのです。
血肉の命の間に、神を信じるかどうかで永遠の行き先が決まります。血肉の命はそのための選択の期間です。しかしほとんどすべての人がその逆、血肉の命がすべてのように思い、神を信ぜず体の死とともに永遠のいのちを失って行きます。ですから義兄が私に「中村さん、俺の所に来ないよう、皆に言ってくれ」と苦しみの中から声を絞り出すように言っているように思えて仕方がないのです。
また天国には日本人がほとんど居ないことも悔しい思いがします。自分自身もそうだったのですが、信仰が自由な国なのにクリスチャンがこれほど少ないのは、江戸時代、世界最大級の殉教者を出したキリシタン迫害の影響が大きいと思わされています。世界最大級の何十万という信者を見せしめに殺したので、恐怖を植え付けるのに成功しているのです。誉むべき栄光の殉教が、この国では恐怖に彩られました。今でもクリスチャンになる時、この国の文化や習慣、家族と伝統から決別しなければならない大きな決断が要るのです。
私自身もバプテスマを受けるに際し、父から大学の仕送りを止めると脅され、相当な決心が要ったことを思い出します。だからといって私たちクリスチャンが恐れて日陰者のようにクリスチャンであることを隠していて良いのでしょうか。それは生ける神を辱めることにはならないでしょうか。私がクリスチャンになったのは、15歳の時に伝道所に掲示してあった一つの御言葉でした。「汝の少(わか)き日に、汝の造り主を記(おぼ)えよ」(伝道の書12章1節)が、ずっと二十歳になるまで私の脳裏に残っていました。二十歳でバプテスマを受けた時、学生運動に挫折もありましたが、この御言葉が少き日、二十歳になるまでに決心せよ、と後押ししてくれました。
それで一つ提案します。御言葉を時が良くても悪くても伝えましょう。カードでも、手紙でも、今はSNSでしょうか、なんででも良いのです。イエス様は御言葉には神の力があると、種まきのたとえやヨハネ福音書で再々言及されているではありませんか。
アーメンでしょうか。

